梶原敏弘さん / 熊本県 芦北町 告(つげ)
2020年12月に何度目かの再会を果たし、そのときにご自宅でゆっくりと伺ったお話をここに残します。ぜひ、このお茶とともにお楽しみください。(この記事の内容は2020年12月現在の情報にもとづきます)
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「芦北釜炒り茶」の生産者である梶原敏弘さんは昭和35年生まれで、ちょうど私の父親世代。今ではご子息も加わって茶業に勤しんでいます。茶業を始めたのはおじいさんなので、敏弘さんが3代目です。
※釜炒り茶は緑茶の1種です。日本国内に流通する緑茶のほとんどが煎茶で、これは葉を蒸してから揉みながら乾燥させます。一方で釜炒り茶は、蒸す代わりに生葉を鉄釜で炒り、茶葉の酸化酵素のはたらきを止めてから揉みこみと乾燥を行います。大量生産に向かないので担い手は非常に少なく流通量もごくわずか。ざっくり、蒸すか炒るかで分かれるとお考えください。
もともと梶原家が住まう告は芦北町ではお茶の産地で、今でも数軒だけ釜炒り茶を作る家があるのだとか。このあたりでは自家用の茶の樹があり、摘んだ生の葉を梶原さんのところへ運び加工賃を支払って製造してもらう家もたくさんありました。この仕事で工場はてんやわんやの大忙しで、敏弘さんも学生時代から実家の仕事を手伝いました。工場から家の縁側あたりまでは50mほど、ずらりと委託加工のお茶が並んでいました。それはそれは凄まじい加工量です。敏弘さんが20代前半のころは、一番茶期にもなれば地域の人々と協力して3交代を組み、工場はなんと24時間操業!
中学と高校を出た敏弘さんは、すぐに熊本県立農業大学校へと進学。ここの2期生として、茶業課程に所属し、栽培・製造・経営を学びました。ご自身を含む8名の同級生とは今も同窓会をする仲なのだとか。8名の実家は、3名が釜炒りで、5名が煎茶農家でした。敏弘さんを含む4人が現在でもお茶に携わっています。
農業大学の卒業は昭和55年だから、今年で40年が経ったことになります。「そんなになるのかぁ」と敏弘さんも感慨深げ。
家業を継ぐことについて、思い切って質問してみました。「他のことをしてみたかった、という思いは当時なかったのですか」
敏弘さんの答えは、こうでした。「うちは、継ぐのが定めでした。他のことをするなんて、そんな選択肢は思いつきもしないような環境で育ちました」
今でこそ敏弘さんは笑って語ってくれますが、このことは、彼のお茶を愛する人ほどに頭の片隅に置いておきたい言葉だと私は感じました。個人の職業選択は基本的に自由なのが当たり前の時代とはいえ、その自由をある人が謳歌しようとするとき、それが当然ではなかった人もごく一般にいることを踏まえておくべきですし、またこの瞬間にも、その「定め」に従って家業に従事し、ひと一倍の輝きを放ってやまない人がいることは忘れないようにしたいものです。
敏弘さんは今年、年季の入った製茶機械の多くを一新し、昭和最後の年に誕生したご子息へのバトンタッチをすでに視野に入れています。費用も相当に必要なことですし、いかほどの勇気と決断を必要とすることなのか、製茶工場を見たことがある方なら推測ができるかもしれません。
ここからは、敏弘さんの釜炒り茶について見てみましょう。その特徴として最たるものが、とても瑞々しく、釜炒りならではの凛とした香りを大切に、火を入れすぎない清涼感ある仕上げです。
ひと口に釜炒り茶と言っても、まず大量生産に向いていないから、生産者によっていろいろな作り方があります。たとえば、同県の八代市泉町にいる船本繁男さんのお茶は、強度の炒りから来る燻香がとても特徴的です。このようなお茶を熊本弁で「かばしか茶(香ばしい茶)」と言い表し、敏弘さんのおじいさん、そしてお父さんも同じように「香ばしくないと釜炒りではない」との教えを崩さない方々でした。ときにそれは煙たいほどで、京都の炒り番茶にも微かに通ずるものがあります。
敏弘さんが大学を出るころには、釜炒りの流行が変わります。昔ながらの釜炒りとは違って、旨味ののったタイプが好まれるようになり、ここでも一時はそのようなお茶を作っていたといいます。
これは、同県 山都町の小崎孝一さん(倉津和釜炒り茶の生産者)から伺った話にも通じます。生産者のなかには、「旨味と外観重視」の流れと、本来の釜炒り茶らしい姿とのギャップに悩みながらお茶を作り続ける方が少なからずいることが、これまでの聞き取りからもはっきりしています。
一度だけ、私はある年の全国茶品評会の釜炒り茶部門において一等一席、つまり頂点を極めたものを、その生産者のご厚意で飲ませていただいたことがあります。そのお茶についてここでは細かく書きたくはありませんが、そもそも生産者は私がそれを気に入ることは絶対にないだろうと分かった上で、勉強のために飲ませてくれたのです。その取引価格は、はっきり言って常軌を逸していました。
だから、ここで強調しておきたいことがあります。品評会で上位の茶になったり、価格が高かったりしても、あなたはそれを必ずしも美味しいと感じるとは限らない。「ん?」と思ったとしても、ご自身の感覚に素直に従ってもいい。どんな「権威」のあるお茶屋があなたを説き伏せようとしても、最後にそのお茶を口にするのはあなたなのであって、あなた自身の経験の蓄積と感性から、おいしいかどうかを決めればいい。
反面、気をつけたいこともあります。あなたの感性に反するお茶であったとしても、それを生産する人がどのような気持ちでいるかについて、想像を巡らせるべきです。つまり多くの茶農家は、趣味でお茶を作っているのではなく、生業としてお茶と向き合っている。あなたと生産者の間には、往々にして市場という、個人嗜好に合うようカスタムメイドされてはいないフィルターがあります。そして、その市場があるからこそ、あなたの嗜好に合うものがやってきてくれる場合もある。
だから、市場を通したものについて、個人の好き嫌いとは必ずしも合致していなくとも、「嫌い」なんて安易には言うべきではないのです。個人が嫌い(あるいは好き)だと思うものが、なぜ市場にあるのかを考えてみたときに、世の中は多少は優しくなれるのではないかと私は思っています。
話が少し脱線しました(いつものことです)が、梶原家のものを含めてこのあたりのお茶が問屋さんなどを通さずお客さんに直接販売されてきたことは、もちろん苦労は伴いながらもある意味で賢明な判断だったかもしれません。
買い手の感想を直に受け止めるやり方でずっと続けてきた結果、様々な助言者との出会いもあるなかで梶原さんの釜炒り茶が向かった先は、中国緑茶の作り方を基本とした手法でした。炒り葉の段階で釜香(かまか)がつき香ばしく仕上がった従来のものとは違い、釜香がつかないように水分を保ちながらじっくりと火を通して内側の水(芯水 しんみず)を抜いていく。
「今の機械は『いかに効率よく作るか』を考えて設計されています。でも、無理して水を抜こうとすれば上乾き(うわがわき)して表面だけが乾いてしまいます。大切なのは芯水を抜くこと。時間はかかるし、自分が習ってきたのとは真逆のやり方ですが、こうして出来上がるお茶はおいしかったです。それに水がきちんと抜けていると劣化しません」と敏弘さんは言います。
だから、敏弘さんは製茶機械の更新にあたって、炒り葉機や、最後の仕上げを行う丸釜(上の写真で手前に移っている鍋のようなもの)は大切に残しました。古いものを使うことが、梶原さんのお茶の品質に大きく関わっています。
こうして梶原さんの釜炒り茶は、昔ながらのやり方でもなく、市場で売れるお茶でもなく、飲む人の多くがおいしいと言ってくれるお茶に辿り着きました。このことは、国内で釜炒り茶が残っていくためのひとつの道筋を示唆していますが、誰にでも真似できることでもないのだろうと感じます。何しろ、自分で作って、自分で売らなくてはなりません。あるいは、市場がその価値基準を大きく転換してゆけば、光は見えるかもしれませんね。私は小さく「手から手へ」販売していますから、スケールメリットはありません。むしろ、小ささを生かして丁寧に伝えていこうと思っています。
地元では相変わらず火の強めに入った香ばしいお茶が好まれるので、地元の方々と、外の方々の声それぞれを細やかに聞き分けて敏弘さんはお茶づくりをしています。だから、香ばしいお茶だって、やっぱりおいしいのです。それは風土と密接に結びついています。
今年は豪雨で、ご自宅も大切な在来茶園も、被害に遭いました。それでもこうして笑ってくれる敏弘さんの心意気に、誰よりも私自身が勇気づけられた一日です。
「5年分くらい、いろいろ経験した一年でしたね。でも僕はお茶を作っているだけで、あとは何にもしてない。本当に、助けてくれる方々のお陰様だね」と敏弘さんは愛車のトラックをがたごと運転しながらぽつりと言いました。
別れ際は、ずっとこちらに夫婦で手を振ってくださっていました。こういうときは胸が痛みます。
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