2021/10/12

いつも傾いているソフトクリーム

 きょうは臨時休業なので、気ままに過ごしています。妻と駅前の puku puku さんでお昼ごはんをいただいたあと、予定なくぶらぶら。

「高槻にでも、甘いもの食べに行くかな」

「行きたいあてもないし」

「長谷川書店に気になる本が」

「じゃあとりあえず行こうか」

結局、長谷川さんとしゃべったり、際限なく本を物色しているうちに時間がどんどん過ぎました。そうしてすぐ近くに昔から踏ん張っているケーキ屋のコトブキさんがあるので、そこでソフトクリームを買って、ロータリーに腰をおろしてしばらく休みます。


妻は雑誌 TRANSIT のスパイス特集に夢中

人口のわりに水無瀬駅前のロータリ周辺は広々としていて、日々掃除してくださっている方のおかげもあっていつでも割ときれいです。なんとなく座れる場所が駅前にあるのはうれしいですね。

突然ですが、そのコトブキさんで買うソフトクリームは、いつも巻き方が下手っぴです。背格好のくたびれたおっちゃんは本当に下手で、祈るような気持ちで仕上がりを待ちます。手渡されたときにはだいたい全体が傾き、ソフトクリームの命といってもいい頭頂部のとんがりは、まるで数日前に買ってきたナスビの棘みたいに活力がない。嗚呼!

いくらソフトクリームだからといって、そういうところはソフトじゃなくていいのにと思いながら頬張ること数十回。

今日は、恐らく奥様でいらっしゃるおばちゃんが店にいて、巻いてくれました。ほのかな期待を胸に、300円のチョコレートソフトクリームLサイズを注文しました。待つことほんの30秒ほど。絶妙に期待から少しだけ外れた傾き具合の大きなソフトクリームが手渡されました。苦笑。風邪をひいてやる気がないときの私の背筋みたい。

300円払うなら、同じ値段のハーゲンダッツのアイスクリームをコンビニで買うほうがきっとおいしいでしょう。

前のブログ記事で、否定的なレビューを公開するのはよくないと書きました。なのにこんなことを書いているのは、私はコトブキ水無瀬店に愛着があって、巻き方のいまいちなソフトクリームが高級なハーゲンダッツと同じくらい好きだからです。

人の営みを感じるからです。

せっかくならより美味しいものを口にしたいというのは至極あたりまえの感覚。でも、ベロで感じる美味しさだけを求めてしまった結果、私たちは何を食べればよいのかをいちいち人に聞いたり、検索したりしなければならなくなってしまいました。たいてい、すぐ近所に丁度いいものがあるのに。

○○ランキング第一位、お客様口コミ評価○○点、○○金賞受賞…次から次へと更新される、私たち自身の五感とは何の関係もない他者の評価に、自分が今日何を食べるかを委ねてしまってはいないでしょうか。自戒をこめて。

そのようなランキングには、ときに恣意的な順序づけを感じたり、業界の自作自演を見てしまったりすることもままあります。

当然、第三者の評価が正当になされることで、製造者や生産者にとっての励みになることは多々あるでしょう。褒められて嫌だという人はそんなにいないと思います。そういう作る側の気持ちを蔑ろにする意図はまったくありません。

でもそれが行き過ぎたときに、真っ先に無くなるものは心です。「どこそこの○○とは違って、うちの○○は美味しい」と言われても嬉しくない。たとえ美味しくても、なんとなく満たされない部分がある。現代は飽食の時代と言われてもう久しいのに、いつまでも「もっと美味しいもの、もっといいものを」と底のない欲求に引きずられがちです。

不完全なもので満足してはいけないのでしょうか。そもそも完全なものって、そして不完全なものって、どういうものなのでしょうか。

いつも傾いているソフトクリームには「もう、しょうがないんだから」という微笑ましさと憎めなさを感じてしまいます。これからもそのまま駅前の風景であってねと心の中で祈ります。ずっと長年そこで踏ん張ってきた店がまだきちんと毎日開けていて、ふとしたときにアイスもケーキも買える。店主さんたちはいちいち語りませんが、きっと人知れず苦しい思いをしたり、あれこれ工夫したりして日々を積み重ねておられるのでしょう。そんな哀愁すら漂うソフトクリームを出す店が家のすぐそこにあるのは幸運です。

「○○と比べて美味しい」と相対的に比較すればきりがありません。でも、阪急水無瀬駅に昔からあるケーキ屋さんがまだ営業していて、いつまでも背筋が伸びずに傾いたソフトクリームを売っていること。このことは他の何事とも比べられず、ただその事実だけでもってストンと腑に落ちる何かしらの忘れがたい魅力があります。ひょっとしたらそれは、店と自分の間に少なからず縁を感じるからではないでしょうか。

添加物が、残留農薬が、精製された砂糖が…と言い出したらキリがありません。もちろんそのような視点も食品を考えるうえで大切だとは思います。でもどちらかというと私は、自分自身がお茶を扱うようになったきっかけである「縁」の側からものごとを見たい。

隣でスパイス本を読んでいる妻にそういう話をすると、「またブログに書くんでしょ」と心中みごとお察し。

なにはともあれ。私も傾いたソフトクリームみたいに情のあるお茶とともにありたいなという話なのでした。


0 件のコメント:

コメントを投稿