今日は、秋のブログ記事「木の人と風の茶」以来の長い記事です。この文章には、ありったけの気持ちを詰め込んでお届けします。
はたらくことの意味を思い、そして現代の暮らしを問い直すきっかけになることを切に願います。
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令和2年2月1日。新年以来、この地域にしては異常に遅い雪がはじめて降った翌日のことです。誉れ高い「政所茶」の産地である奥永源寺地域(滋賀県東近江市)にお住まいの、川嶋いささんのご自宅で、これまでの長い長い暮らしのお話を伺いました。
ここは臨済宗永源寺派大本山である永源寺よりも山奥へ入ったところにあるため「奥永源寺」と呼ばれ、東近江市の東端です。鈴鹿山脈から流れ出る愛知川(えちがわ)の源流域。
政所は集落全体で農薬と化学肥料を使わず、在来種を多数残している地域です。圧倒的な香りを放つお茶がいまも残ってはいますが、今回はまず、この記事にもつながる長い当地の歴史を簡単に振り返ります。
その先に、今も元気に暮らしておられる、いささんの生活へと話を進めましょう。
ゆっくりでいいから、ついてきてください。
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惟喬親王と木地師
政所の歴史を簡単に紐解きましょう。これを読んでくださっているあなたの「いま」も、これからお話する歴史の先っぽなのですから。
歴史についての内容は、飯田辰彦さんの著書「日本茶の『発生』」(鉱脈社 2015年)をもとにしています。
ここ政所は、お茶だけでなく木地師(きじし)の故郷としても知られ、今も作家が住まうところでもあります。木地師の祖とされているのが、惟喬親王(これたかしんのう。844年生 897年没)です。
藤原氏全盛の当時。親王は55代文徳天皇の第一子でしたが、母は紀氏の静子。天皇は親王を皇太子にしようとしましたが、皇后である藤原明子に惟仁親王が生まれると、権力の力で惟喬親王が皇太子になることは破談となりました。
親王は一流文化人の世評をとりましたが、権力争いに明け暮れる都が嫌になって出家することを決意。今でいう京都市北区に住まっていたところ藤原一族の追求にあい、水無瀬(大阪府島本町)や奈良の渚院などと転々とします。私は島本町に住んでいるので、このことはとても感慨深いお話です。
親王のやがて辿り着いたのが、小椋庄(おぐらのしょう)でした。今でいう政所です。
政所という地名は、平安時代中期以降、各所におかれた親王家や公卿の所領荘園を管理する機関「政所」に由来します。役所の名前がそのまま残っているのですね。
親王はこの地域に落ちのび、この地の人々と生活をともにしました。そして生業のため、地元に豊富にある木材を使った木地づくりを指導したのです。ロクロで木を挽き、日用食器をつくる技術が伝えられました。ロクロ製品はやがて需要が大きくなり、技術習得のため全国から志願者が尋ねてくるまでに。今も木地師たちの住居群がおびただしく残っているといいます。
しかし、やがて用材が枯渇し木地業も衰退。木地師たちは朝廷から諸国の樹木を自由に切る権利を得て、散り散りになりました。
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茶栽培のおこり
こうした木地業の衰退にあわせるようにして、政所で本格的に茶の栽培がはじまっていることがわかっています。
室町時代のこと。永源寺開祖の弟子のひとりで、5代目の住職 越渓秀格禅師という人がいました。越渓さんが政所の谷に薬用として茶を植えたことが、政所茶の起源だとされています。
むやみに植えた訳ではなく、越渓さんはお茶に精通していたと言われるのには理由があります。この地域には川から上がる朝霧が立ち込めることで霜の被害から守られ、また高品質の茶ができる地質があります。さらには急斜面ばかりである政所は排水もよいため、茶栽培には適している土地なのです。
さて、やがて応仁の乱がおこると、京都から寺々の僧が数多く永源寺に身を寄せました。ここで彼らは茶会を開いて政所茶を楽しみ、戦火が収束すると学僧たちは都へ戻りました。こうして京都に政所茶の名声が届けられることになったのです。
また全国の木地師たちが数年に一度、政所の山を訪ねてきます。彼らもまた政所で茶を飲み、それぞれの地方で評判を高めることにもなったのではないかと飯田さんは推察しています。そればかりではなく、彼らが茶の実を政所から地元へ持参することで伝播に関係した可能性までも指摘されています。
その後の戦国時代での政所についてはあまり記録がないらしく、表舞台に登場するのは江戸時代。彦根藩が政所地域を所領に加えていました。
彦根藩は「茶の運上」(雑税)を課そうとします。政所の人々は、かねてより山畑の年貢を納めてきたのだから二重課税は不服として反発します。これを受けて彦根藩は、「今後増殖する茶園には、面積にかかわらず課税しない」ことを約束しました。
これが励みになり、政所では茶の植栽が一気に勢いづいたのです。課税による騒動は、政所茶の名声がさらに高まる時代の幕開けでもありました。
幕末にはお茶が輸出品目の花形となり、やがて絹糸にその座を奪われましたが、第二位の地位を得ます。明治から大正期にかけて政所でも増産が続き、当時を知る人は「山の高いところまで、どこも茶の樹で埋まっていた」と語っています。最盛期には1,000人もの助っ人が三重からやってきて各家に分散し滞在。茶摘みが縁で政所の男性と三重の女性が結ばれることを「茶縁」と呼んだそうです。
山の上まで茶畑…それは、現在の生産量が荒茶で1トン程度の政所からは、とても想像もつかない景色です。
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今日の政所
木地師。永源寺がはじめた茶栽培。江戸末期からの増産。長い長い歴史のその先端に今日も暮らしている川嶋いささんは、どんなことを考えて山での生活を営んでいるのでしょうか。
今回も、この地で政所茶の復興に力を注ぐ山形蓮さんのご縁をたよって、政所茶のファンの方々もご一緒にお話を伺うことになりました。総勢8人の団体で、いささんのお宅にあがらせていただくと…なんと、この日のためにと政所づくしのおかずやぜんざいを、たくさんこしらえておいてくださっていました。
あまりのおいしさに、みなさんいいコメントが出ません。「おいしい…」と、ひたすらに箸を動かします。ストーブを2台も出して、家をぬくぬくと温めておいてくださったのも感激。数え年で90歳になる古老のあざやかなおもてなしに、ただただ喜ぶみなさん。
もちろん、いささんはご自身の茶畑もしっかり管理されています。その煎茶をいただき、塩っ辛いのやら甘いのやら、至福の時を過ごしながら、いささんの語りがはじまりました。
いささんの今昔ばなしです…
生まれたのは昭和6年。黄和田(きわだ)という集落の、百姓の家。お父さんは炭焼きも仕事にしていました。
子どものころ、まず家の片づけから仕事が始まりました。朝、起きるとすでにご両親は畑に出ていたので、まず自分も食事をとり、親の残した食器などもすべて片付け、家を整えてから畑仕事を手伝いました。それから牛を飼っていたので、朝に草を刈って餌をやりました。家では、素直に親のいうことを聞いておけばよかったといいます。
茶摘みの時期には学校も1週間ほど休み。他のところだと田植えで休みになることが多いけど、ここではお茶摘みのため学校が休みになったのです。学校では「開拓の歌」というのを習いました。
戦争の前から、茶畑は芋畑に作り直されることがありました。食糧の確保が大変でした。茶の間に芋を挿して育てたこともあって、雨だとよく根付きよく育つ。蕎麦もつくっていました。黄和田の実家には、戦争のとき大阪や京都から10人くらいが疎開しに来ました。
昔は砂糖もなかった。干し柿を使って甘みをとっていました。塩はあったけれど黒い塩。鯨の缶詰というのがあって、おもしろかった。
やがて、いささんはここ箕川(みのかわ)集落へ嫁いできました。ここでも百姓です。子どもは畑で遊ばせていました 。
お茶摘みは忙しくて、朝の6時から夕方6時まで続きました。草むしりが大変ですが、ずっとお茶は消毒せずにやってきたのです。そうやって続けてこられたのは、気候のおかげ(寒いから虫も少ない)だといいます。
ここのお茶は押しがききます(何煎も淹れられるという意味)。おいしいのは土がいいから。箕川の土は黒い。政所茶といっても、集落によって味が違います。それは、土が違うからです。箕川では、ススキが大きくなったカヤを敷き詰めていました。黄和田のほうでは落ち葉も入れています。
箕川は番茶に定評があって、「箕番」と呼ばれていました。
作り方は今の「平番茶」と少し違っています。2~3日摘みためた茶葉を「お荒神さん」(おくど)で蒸して、あつあつの茶葉を「ネコザ」(写真)という道具の上で揉みます。そしてホイロに柿渋で貼った和紙の上で、お茶を乾かしました。50年前くらいまで、こういうやり方。
※50年前から使っていないネコザを保管していたいささん。ススを取り払って見せてくださいました。博物館級の道具です。
こうして作った箕番は、彦根のお茶屋が現金で買いに来ました。その売り上げで蚕を飼うのです。
飲むのはいつでも番茶ばっかり。夏でも熱中症知らず。煎茶はお客さん用だそうです。
お茶をお金にするのは大変でした…ほったらかすと荒れるのもとても早いのです。地域に茶工場がないから家で作っていました。
いささんは、お茶ほど正直に匂いの出るものはないといいます。昔は鶏糞を使っていたのだそうです。土は増えるし、お茶もよく採れたけれど、匂いがつく。それで、鶏糞はやめて植物性のものだけ使うようになりました。鶏糞を使っていたころのお茶を、いささんは「肥満だった」と表現しています。
数え年で90のいささん。腰は曲がっていても、話しているとき以外はあまり止まっていません。テレビをじっと見ているのも性に合わないようで、一人暮らしの今でも働きっぱなし。元気の長生きについて伺うと、「子どものときから、育ちながら土をなぶって(触って)きた。そのかわり賢くはならん」と少し謙遜して仰います。いささんのようにお百姓として何でもやる人をさしおいて「賢い」とは、いったいどういう人のことを言うのか、私は頭を抱えてしまいます。
なんといささん、毎日地域内を巡回しているバスにのって、実家の黄和田の畑に通っているのです。
「世の中、変やな」と仰る、いささん。こんなに雪のない年は初めてだといいます。本来ならば高い山に雪が降って根雪になり、少しずつ溶けることで水を供給します。雨だと留まることなく流れていくので、今年は水不足が心配。
こうしてお話を続ける間にも、食卓の様子をみながら立ったり座ったりしているいささん。
大勢ですみませんね~…と山形さんが言うと、「座ってテレビを見ているよりずっとええから!こうして若い人らが来てくれると、体は動かせるし健康にいい。動かしてもろてます」という答え。
カメラを構えると、茶目っ気たっぷりにピースサイン!それにつられてみんなピース。
「昔は、『一年よろこび』やった。いまは老い先も短いから『一日よろこび』。一日一日をありがたく、生かしてもろうてます」
いささんは、「動かしてもらっている」「生かしてもらっている」と何度も口にしていました。ずいぶんと長居をしてお話を楽しみ、お土産のおかずもたくさんもらって、私たちはいささんのお宅をあとにしました。
別れ際に握手をして、その手の温かかったこと。
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いささんのような人々の生き方に接していると、色々と思い悩みながら「生きるとは」とか「働くとは」と考えてしまう自分が、なんだか滑稽にすら思えてきます。そんな暇など一日もなかったかのように、いささんを見ていると感じるからです。
でもむしろ、こうした人々の生き様に接して、私は「生きる」「働く」ということを、いちばんはっきりとした形で目の当たりにして、ストンとそれが腑に落ちるのです。ただただ、体と頭を使って山に生きてきた人たち。
一方、都市に暮らす私の暮らしには何でもあるかのように思えますが、政所の視点でいえば何もない(土がない)。人は無数にいるのにも関わらず、政所の人々のように少ない人口で濃密に関わり合っていることも、あまりない。
だけど、それだけではただの田舎礼賛になってしまいます。
今は2020年で、嘆いたところで何にもならない。政所はかつてのような勢いをすでに失っているし、かたや都市の生活にも暗雲はしっかりと見えています。私たちが生きていく環境は、もうずいぶんと変わってしまっているのです。
そして、すべての人が政所の人のように生きればよいかといえば、そうではないと私は思います。政所は政所。だけど、ここには忘れ去られようとしている営みが、今も残っていて、山形さんをはじめとしてそれを残そうと奮闘する人たちがいます。
都市に生きる人間として大切なのは、それを認知することだけではなく、関わろうとすることです。できる形でいいから、例えばSNSで政所のことを書くとか、人に話してくださるとか、お茶を買って一緒に誰かと飲むとか、何でもいいのです。
時代の利器を余すところなく使いましょう。高齢化率50%に迫り、かつてのような勢いはなくなったという政所ですが、いま歴史上いちばんあなたに近いところでリアルに姿を見せてくれる、とってもいい時代に生きています。かつて、そんなことは出来なかったのですから。
飯田さんの著書に「心の過疎」という言葉が登場します。どこかへ出ていてもいつか帰ってくる場所として政所が記憶され、暮らしが営まれ続けることの大切さを説き、地元の方が「心配なのはいわゆる過疎化ではなくて、心の過疎」と言っています。
政所に、心を寄せてください。この地の行く末の、一部になってください。
何はともあれ、ここのお茶を飲んでみませんか。その1杯があなたの前にあることが、どれほどに奇跡的な営みの結果であるのかを、お伝えさせてください。
これからは山形さんのだけではなく、4月以降はいささんの平番茶も取り扱いをさせていただく予定。これまでと形態を変え、小 100g / 大 500gの2種で展開します。パッケージには、古樹番茶のときと同じく北岡七夏さんの木版画が再登場。私もとっても楽しみにしています。
急須で淹れても、水出しでも、やかんでわかしてもいい。お茶漬けにしてもおいしい平番茶。完全無農薬・在来種でカフェインもとっても少ないのでいつでも誰でも美味しく楽しめます。小さな子どものいるご家庭の常備茶に、ぜひ。
売りながら、政所のお話をたくさんの人にしようと思っています。たくさん売れたら、山形さんやいささんに報告をして、それで毎日の励みにしてもらえたらいいなと考えています。
どこへでも売りに行きます。だけど私には店がありません。もし「ぜひ来て話をしてほしい」と仰ってくださる方があれば、お声がけくださったら嬉しいです。売るだけじゃなくて、私に話をする時間をぜひください。
政所のお茶と人の精神の支えに、なりたいのです。