2022/01/08

記憶の再生と先延ばし

 




1月6日。祖母に新年の挨拶をしようと思い「おばあちゃん、あけましておめでとう。夕方ごろ家におるか」と電話をしたら、適当につくるから晩ごはんを食べて帰ればよいとのこと。

18時。妻と子どもたち2人を連れて、高槻市の上牧にある祖母宅へ着いた。祖母は5年前に夫を亡くしてから一人暮らしだが、気丈なものでやることに事欠かない。僕の小さかった30年前と比べて、80歳になった今も外見があまり変わっていない。「あと何年生きられるかわからんよ」と祖母は言えど、10年は堅そうに見えるし、100まで生きても一族郎党のうち誰もきっとびっくりしない。

かつてはこの家に、祖父母、僕の両親と妹に叔父夫妻が集まり、大いに賑わった。テーブルをふたつ並べ、小さな居間で肩を寄せて食事をした。祖父はニッカウイスキーをどんどんあおり、煙草はおきまりのハイライト。酒がすすむと口の悪くなる祖父だったが、酔えば酔うほど孫に甘くなる。僕や妹が大学生になっても酔った祖父は僕らの頭を撫でた。「友よ、友よ、おまえはほんまにかわええ子…」と、べろんべろんの祖父が言った。あの赤ら顔。アルコールのにおい。ステテコと腹巻き…なつかしくて涙がでる。

日本茶はその風景のなかに必ずあった。大きな白磁の急須に赤や緑で絵付けがしてあって、同じような湯呑みが並ぶ。祖母がスーパーで選んできた八女茶や知覧茶がセットしてあり、祖父の横に置いてあるポットからおのおの好きに湯を注いで飲む。茶葉の量なんか目分量で、熱湯しか使わないスタイルだ。僕は今でも常日頃からそうやってお茶をのむ。いろいろ試したけど、結局これが自分には合う。

流石に今はやらないけれど、祖母はお茶が薄くなったら茶葉を入れ替えるのではなく、茶缶から茶葉を追加投入した。急須のなかの金属カゴは茶殻でぱんぱんになっていて、蓋を押し上げようとした。なつかしい。

現在、そんなふうに集まることはほとんどない。悪酔いは考えものだが孫に甘い好々爺は仏壇からこちらを見ている。どこか人間味ある昭和のエアコンもテレビも洗濯機もなくなって、見栄えのする最新家電に置き換わった。変わらないのは瀬戸大橋の色あせたパズルが30年くらい壁にかかったままなのと、祖母のあっけらかんとした性格くらいだ。

祖母は僕らのために鍋を炊き、スーパーの握り寿司を買っておいてくれた。小さいころから食べ慣れた手づくりの茶碗蒸しもあったし、大根の甘い漬物と、ご自慢の煮た黒豆、みかんにアイスクリームと、相変わらず次から次へと食べるものが出てくる。

娘は祖母の黒豆をひとつひとつ無言で食べ続け、息子は大根の漬物をひっつかんでバリバリ噛んでいる。何も言わないが食べ方でよほどうまいのだとわかる。僕も同じような家庭料理を食べさせてもらって育ったから、こういうものの味をどうか覚えておいてほしい。

食後、祖母がお茶を淹れてくれた。ポットはもう無くて、いつの間にかティファールが台所にある。急須はカゴつきのものではなく、注ぎ口に茶こしのついている。こちらのほうがおいしくお茶は入るけれど、かえって昔の道具がなつかしいような気持ちがする。

祖母は滋賀県の日野町出身だ。当店でおなじみの日野町満田家のお茶は、祖母の出身地であることから縁がつながり、今では看板商品になった。祖母にとっては田舎のお茶だから、ときどきプレゼントしている。

祖母のお茶の淹れ方は相変わらずで、手順と細部の所作にこだわる人が見たら卒倒するかもしれない。なにもかもが適当だけど、それだから誰にも真似のできない家庭の風景にちがいない。これこそ日常のお茶のありさまであり、祖母が、雑多だけれども慎ましくてモノを大切にしながら暮らしている空間のなかでこそ引き立つ、ならではのおいしさだ。

祖母にしかあのお茶は淹れられないし、もっと言えば、祖母と僕の間柄に生きている記憶が土台にあってこそのおいしさだ。使うお茶が変わってもその味わいが変わることがない。五感をはたらかせてお茶と向き合っているのではなくて、自分のなかにある記憶を再生し、それを感じているからだ。

もうこの世に居ない人たちも一緒に囲んだテーブルの、その賑わい。ご馳走のにおい、カチャカチャと誰かが洗い物をする音、頬の熱くなる卓上コンロの青い火、アルコールの高揚と煙草の煙、そしてみんなが居るという安心感を、再生する。月日が経ってだんだんと記憶から薄れていこうとするその摂理に抗うようにして、祖母のお茶は、あの頃を忘れてはならぬ、忘れてはならぬと繰り返し訴える。

きっと誰しもに、こうした食材があるのだろう。

いつまで生きられるかわからんでと笑う祖母に「わはは、おばあちゃんなら大丈夫やわ。90は堅いわ」と言葉では返すけれども。

先延ばしにしたい命の限りがこちらを直視するのをなるべく無視しようとして僕は祖母のお茶を飲む。あと何度、このお茶が飲めるだろうか。不安が大きくなろうとする前に僕たちは荷物をまとめて暇乞いをした。氷点下に迫る寒さが邪念を断ち切ってくれるけれど、ぽつねんと一人寝支度をする祖母の姿がぼうっと胸に浮かんでは、わが子が何気なく話しかけてくるたびに消えていく。

このえも言われないさみしさ。祖父母の注いでくれた愛情が、いまこうしてずきずき痛む感傷となって、しっかり生きねばと日々の支えになっているようだ。

自宅に戻って布団に入ると4歳の息子は不安そうにこう言った。

ねえ、お父さんとお母さん、お父さんとお母さんは、おじいちゃんとおばあちゃんにならないでほしいよ お父さんとお母さんが、おじいちゃんとおばあちゃんになった顔を、見たくないよ

大丈夫、大丈夫、そんなんずっとずっと先のことやから、とまた僕は先延ばしをした。