2023/05/06

死んだらみんな同じ 還っていくの


2月ごろ、すぐ近所に住む母方の祖母から電話があった。亡くなった夫、つまり僕の祖父である武田光夫の生まれ故郷、徳島県つるぎ町(旧貞光町)に久しぶりに行きたいという話だった

光夫の生家は長い間放置したままだ。光夫はかなり早くに戦争から帰った父を赤痢で亡くしており、また兄も若くして亡くなっている。そのため光夫は、僕からみれば曾祖母と高祖母(いわゆるひいひいおばあちゃん)と生活していた。地元の仲間たちと京都市で中川工務店という会社を立ち上げる際に離郷し、大工見習いとして働き始めた。それから光夫は亡くなるまで京都市と高槻市で生活を送った。その途中、仕事仲間からの縁談が持ちかけられ、当時の結婚ではごく一般的だったことかもしれないが、2人の意思とはまったく関係のないところで全ての手はずが整えられ、夫婦はある日を境に、同じ家で生活をすることになったのだ。

祖父から望郷の気持ちがなくなることはなく、僕も幼少期からずっと田舎の話を聞かされて育った。もちろんそのなかに故郷のお茶の話も含まれていたし、時たま故郷のお茶が届くと喜んで日々飲んでいたが、それに対して当初、僕は聞いてもなんとも思わなかった。


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5月3日、祖母と父、そして妹一家と僕の子どもたちとで、旅行を兼ねて一泊二日で墓参りと生家の様子見に向かうことになった。現地には曾祖母と高祖母の墓が残されている。



出発前日の昼、床に、手首に着けられるコンパクトな数珠が転がり落ちていた。愛用していたのに1年以上行方不明になっていたものが、たまたまその日に珍しく羽織った上着のポケットから落ちたと思われる。京都の東寺で買ったものだ。光夫一家は僕の母が幼少のころその界隈に暮らしており、1970年前後、東寺の境内は母の遊び場であったという。そのため2016年に母の葬儀を終えてから、僕は母を偲ぶためこれを買い求め、常々どこへでも母を連れてゆくような気持ちで手首に着けてきた。

母にしてみれば父親の故郷帰りに同伴できる身体がないのだから、こうして数珠に何かしらを託して現れたのだと僕は嬉しく理解した。その解釈が科学的には単なるファンタジーであろうとも、僕にとっては筋が通って納得のゆく出来事だ。この文章を書く手も、数珠とともにある。

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鳴門を抜けて徳島自動車道を西へ走り、市町村合併前の貞光町にあたるところで降りる。そこから剣山の方向へ南進すると、祖父の故郷に到着する。山中に突如として開く大きな谷の南側にある家賀(けか)集落は、玄関を開ければ反対側の谷を広く臨み、さらには西方へと果てしなく眺望が続く。視界を遮るものといえば頼りない電線がわずかにあるのみで空が広い。

絶景というツアリズム寄りの言葉よりは人智以上の何か、たとえば神仏と森羅万象に対する畏怖のような気持ち、そして人の生活に対する敬意が、ここでは似合うように思う。見えているものは景色ではなく、何百年とここで命をつないだ人々の姿と山の調和そのものなのだ。

この9年ほどの間に僕は2度、この集落をひとりで訪ねている。そのいずれと比べても家賀を覆う緑は深く感じられ、それは単純に新緑の美しさというよりは、山と人が互いを侵すことなく長年保ってきた調和が崩れつつあることを感じさせた。家賀に残る人口はとても少ないのだ。それでも今なお残っておられる方々が故郷を守っている様は十分にそこかしこに見て取ることができた。自分もここで…奮い立つような思いがする。

ここではかつて、「まずはお茶でも」というときに湯呑みに注がれた酒が出された。光夫も小学生の当時から焼酎を飲んだという。そのような土地柄のせいか、若くして肝臓を傷めて命を落としている人の話がちらほら聞こえてくる。僕が大学生の当時、祖父を連れてここへ来たことがあった。その頃はまだ存命だった親戚筋の方々の何名かは盛大にもてなしてくれ、僕にも父にもさっそくビールを飲ませようとした。僕はそのころまだビールが飲めなかった。父は運転手だった。そのため2人とも断ったところ、「つまらん奴やの」と叱られるという出来事があったのは今では思い出だ。光夫は湯でた蛸のように成り果て、いつものようにブツブツ小言を言うのだった。とても嬉しそうだった。

このときもてなしてくれた人々の中に祖父の従兄弟や遠戚の方がいたが、既にみな亡くなってしまった。

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祖父の生家に到着した。左から納屋、母屋、便所、牛小屋、そして手前には高祖母の寝起きしていた小屋の5つ…があるはずだったが、最も古い小屋は倒壊してしまっていた。数年前の七夕に瓦の自重によって真下にすとんと座り込むようにして潰れたのだと、お隣に今も暮らす見定(けんじょう)夫妻は教えてくれた。

潰れた様子に悲壮感はなく、自然の草木が屋根瓦をつたって上り、やがて風化して山に飲まれるであろう行く末を当然のように受け入れているかのようだった。自然にあったものを素材として当時の人々が組んだものが、いま再びもとあった形へと戻ろうとしている。コンクリートの瓦礫ではなく、それは大げさにいえば大きな循環の一部だとすら言えそうだった。山の長い命からしてみれば、この小屋が建てられ崩れるまでの時間など、一輪の花がぱっと咲いて枯れるようなものなのかもしれない。山の時間でいえば一瞬のことに、人間は永久に通ずるような感慨を抱く心を持っている。命は各人に固有のものではなく山に抱かれ代々継がれる一個のものであるという感覚が自分の内に湧き上がってくる。

苔だらけの瓦をひとつ拾い、持ち帰ることにした。祖母は「そんなもんどうすんねんな」と言った。なぜ欲しいと思ったのかそのときは分からなかったが、代々継がれる永久の命と限りのある肉体の命、そのふたつを象徴するものとして、崩れた瓦を手元に持っておきたかった。

見定夫婦は今なお健在だった。9年前、すでに弱っていた祖父のために僕がひとりでここを訪ねたとき、淡々と、かつ明るく迎えてくれたのだった。ここで飲んだ煎茶が、いまの自分の仕事や、もっと広い人生観に直結している。今回も家のお茶を土産に持たせてくれた。

「なかなか帰る機会も少なく、申し訳ありませんでした」と僕が言うと、おばちゃんはこう答えた。「どこもこないして還っていくんよ。みんな同じ。私らも死んだら、ここは継ぐ者もないから。還るの」僕はそれに対して「…この集落との関わりを断ってはいけないと思っています…」と答えた。ご夫妻は何も言わなかった。

母屋は倒壊とまではいかないが、玄関を開けるとまず見えるのが荒れた居間だった。床が痛み、仏壇や戸棚などで重さのかかっていたところは床が抜けて、家具が散乱している。すでに数年前に祖母が仏壇の魂(こん)を抜いて高槻市の自宅にある仏壇へと移す手続きを済ませているから、この仏壇は空っぽということになる。

なお、荒れた家の公開をご先祖は望まぬと思われるため、内部写真の公開は控えたい。

3つの居室が横に並んでいる簡素な建物で、右の玄関から入り、真ん中の部屋へ、床を踏み抜かないように恐る恐る進む。カーテンを開けて解錠し戸を開けると、小さな縁側がある。そこに腰掛ければ遠く反対側の谷と、はるか彼方が霞むまで西を見渡せる。



本当に、本当に、美しい。これがここに住む人間の日常であったのだ。僕はこの場所がツーリズムの対象であってほしくないと思った。妹は集落の遠景写真を見晴台から撮ろうとしていたが、「写りきらない」ことを嘆いていた。きっとそれは、見えているもの以上に、見えない何かが心に迫るのを感じているからなのだろう。

小さな床の間があって、そこに僕の高祖母の葬儀の際に使ったと思われるモノクロの遺影が置いたままになっていた。それを縁側へ運び、久しぶりの外の空気と景色を高祖母が楽しめる格好にした。そのとき自分にできる精一杯のことであったし、そうすることによってある種自分の慰みにもなった。

母屋の隣には納屋があり、茅が山のように積まれていた。近所の誰かが畑の資材の置き場として使っているのだろう。納屋の中には雑多なものがごろごろ置かれており、屋根裏には農具と思われるものが見える。まだ使えるものも多いのかもしれない。空いた酒瓶が無数に残っており、「酒しか娯楽がなかったのよ」という祖母の話が思い出される。いつから漬かっているのかわからない梅干しの瓶もあった。蓋が固着しており中を確かめることはできなかった。

どこが傷んでいるのかもわからない納屋なので、無理に中に入ることはやめておいた。入り口から手の届くところに小さな木箱があり、何気なくこれを持ち出して中を検めた。

小さな写真がいくつか。電気の検針票。湿布。薬。タウンページ。高祖母が亡くなったときの、祖父を喪主とする喪中はがき。農事を記録するための冊子。倒壊の際に失われないよう、写真をすべて持ち帰ることにした。

なかには祖父が10代後半か20代前半ごろと思われる頃の写真がいくつかあり、そのひとつでは京都で自分たちの興した「中川工務店」のトラックとともに写っていた。もうひとつは会社か地元の仲間たちと思われる若い衆との何気ない写真だった。



60年ほど前のものと思われる写真。中央のわずかに左。色のある上着と白い肌着を着てこちらを見ているのが祖父だ。今の自分より若い祖父の表情と向かい合い、何だか言葉が出ない。

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納屋を後にして母屋の前を通り、車の方へ戻る。ふと目線を下に遣ると、母屋の縁側の下からお茶が慎ましく生えていて新芽を伸ばしている。何かが心に去来するのを期待して、そしてほんの少しでも自分と土地の隙間を埋めたくて、新芽のひとつを摘んで食べた。青く、少しえぐみがあり、かすかな旨味がある。それ以上の何ももたらすことがなく、一体自分はお茶に何を期待しているのだろうと、情けなくなるだけだった。

その後僕たちはお隣の見定さんと別れた。「がんばりや」とおばちゃんは声をかけてくれて、「はい、また必ず来ますから」と答えた。

家賀に残る曾祖母と高祖母のお墓を掃除し、心清らかに僕たちはその日の宿へと向かった。


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連休中ということもあり、事前に宿を探すのは難儀した。どこに電話してもいっぱいで、空いていても驚愕の宿泊料だったりして途方に暮れていた。やけっぱちになって市街ではなく山の中を探していると、どうやら家賀集落から見て山の反対側の集落に農家民泊があるようだ。

「そらの宿 磯貝」というその宿は情報が少なく、どうしたものかと思ったが、あまり整理されていないウェブサイトに僕はかえって好感をもった。電話をするとおばあちゃんが出てくれて、快く9名の宿泊を受け入れてくれることになった。家賀から車で本当にすぐそこにあるその土地は、三木栃(みきとち)という。

「贅沢なものはない。山のものとか、ここの食材しかないよ」とおばあちゃんは言った。それだけで僕は安心した。

到着すると、ご高齢ながらもシャキっとしたご夫妻とその息子さんが3人で出迎えてくださった。とりあえず温泉へ行っておいでと案内いただき、帰ってから夕食となった。

夕食はこの土地のものばかり。米は自家栽培のアワと一緒に炊いたもの。天ぷらには山うど、たけのこ、そしてこれも自家製のこんにゃく。そば雑炊というこの土地独特の汁物には、根菜、かしわ、きのこ、そして自家栽培の蕎麦の実がたくさん入っている。お茶は畑の横に生えている実生在来種を大歩危という地区の製茶工場で揉んでもらったものだという。

心づくしの食事。外食の苦手な祖母もこれには満足げだった。



このときまで僕は知らなかったのだけれども、徳島県の西部で伝統的に行われている「にし阿波の傾斜地農耕システム」は国連食糧農業機関によって世界農業遺産のひとつに認定されているのだという。つるぎ町の各集落、家賀や三木栃もこれに含まれており、祖父がもしこれを知ったならさぞ誇らしく思っただろう。(傾斜地農耕についてはご自身にて調べてみてください)

さて何という偶然の賜物か、磯貝家と祖父の武田家は親戚関係にあった。家賀の見定さんと磯貝のおばちゃんは同じ病院に通っているそうで、世間話のなかで「その泊まりに来る一行は磯貝さんの親戚やぞ」ということが分かったのだそうだ。

要するにこういう話だった。祖父・武田光夫の父である菊雄には何人かのきょうだいがおり、そのうちのひとり、キミコさんが磯貝家のご長男のもとへ嫁いでいた。ご長男もキミコさんも既に亡くなっておられるが、家を継いだ次男さんが今回僕たちを迎え入れてくれたのだ。磯貝さんは仏壇から過去帳を取り出して、16代にもなるという家の系譜のなかに、確かにキミコさんの名があるのを見せてくださった。

点と点が繋がってゆく。偶然ではなく導かれているのだ。はっきりとそう思う。

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磯貝家でも傾斜地農業を今も実践しておられ、野菜に雑穀、お茶など食べ物の多くを自給している。鶏舎もあり、朝食のたまごは家のにわとりが産んだものだ。ご長男の一幸さんは実家の農業を継ぐことを決めておられ、僕の生業であるお茶の話を中心に、ここの生活について詳しく教えてくださった。



ここではお茶を「岸茶」と呼ぶ。傾斜地農業を支える石垣のキワのあたりを「岸」と呼ぶことからその名がついており、岸に生えているものは畑の邪魔にもならないため除去されず大切に扱われてきたのだという。勝手に生えてきたものなので実生在来種ということになり、古いものでは樹齢400年と思われるそうだ。現在はこれをハサミで摘採し、製茶工場で煎茶として加工してもらう。一般的な茶畑と違って背の非常に高いものもあり、梯子を使わなければ刈れない。こうして出来上がる磯貝家のお茶は、きれいな味と香りのお茶だ。商業的な思惑をまったくといって感じさせない透明な味で、何気なく夕食のときに出てきたものを飲んで僕はひっくり返るかと思った。

まもなくだという希少な新茶の仕上がりを待つことにしている。

ここらではいわゆる肥料を入れず、カヤや落ち葉を畑に投入して土を肥やすようにしている。「痩せている土地が向いているという作物でも、やはりそれなりに肥えていなければ収穫できない。畑は肥えているほうがいいから肥料は一切使っておらず、カヤと落ち葉を入れているだけ」とおばちゃんは言う。「肥えているのがいいから肥料を使わない」という話はおそらく世間一般の認識とは真逆であるはずだ。肥料を避けているというよりは、伝統的に土地のものを使ってきたのだから、特にそれを変えてまでして外のものを投入することは今更必要ないということなのだろうか。

そのためお茶にも肥料は与えられていないが、農地がゆるやかに傾斜しているのでカヤや落ち葉の養分は流れてくるのだという。政所のお茶づくりと部分的に似通っているが、積極的に肥料を使わないことなど違いもいろいろとあり、新茶をみるのが本当に楽しみだ。

磯貝家の自給に近い生活は、家賀集落の祖父の生家をどうしようかと悩むばかりの僕にとっては本当にまぶしい姿だった。われわれ夫婦はここ大阪で店をようやく出すことができ、まだ2年目の途中である。それにもかかわらず、僕は店を大切にしつつも、かの集落を自分の生活圏とすることができないのだろうかなどと…夢想をし始めている。



「死んだら同じ 還ってゆくの」と見定さんは言った。どこで、どんなふうにして還ろうか。

なぜ自分の生まれた場所ではない土地が、ここまで強く呼ぶのだろうか。ここまで惹かれてしまうのだろうか。

家賀に立つと、遥かな昔と自らの今が一直線に繋がるのを感じる。たとえ歴史の表舞台に現れるような雅な話ではなくても、粛々と紡がれた生活の糸の先端はここに、教科書や資料館ではなく自分の命として、ここにある。糸は見えずとも手繰れば家賀に繋がっているのだ。

さらに遡ろうとすれば…我々は同じなのだという感覚が、遠い光の点として見えてくるような思いすらする。朝崎郁恵さんの「あはがり」という歌を思う。そこではこんなことが奄美の言葉で歌われている。

「浮世にいつまで留まることができるのかわからないけれど、優しく生きてください。季節や水車が巡るようにして、また会えるでしょう」

優しく生きること。ご先祖にも子どもたちにも優しくある命の繋ぎ方を、旅をするようにして探したい。

11 件のコメント:

  1. 家賀の写真拝見しました。澄み渡る青い空とても癒されますね。ご親戚にやごうはございますか?

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    1. こんにちは。コメントをいただいて3ヶ月も気が付かないままでおり、大変失礼致しました。

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  2. 屋号はもしかしてひびのでしょうか?

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    1. はい。祖父の生家は「ひびの」です。漢字表記はわかりませんが、三木枋の磯貝さんたちは祖父の名字「武田」では伝わらなかったのですが、「ひびの」といえばどこの家なのかが通じました。

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    2. 岡村様…お返事がたいへん遅くなり失礼いたしました。
      昨年の夏前から少し私事でバタバタしてしまい…落ち着いてお返事することができませんでした。
      私は今は鳴門市在住ですが…実家は貞光の家賀になります。
      私が小さい頃よくひびののおば様が我が家によく訪れて来てくださった事を覚えています。父も母もたいへんお世話になりました。いつも気にかけてくださって優しく接してくださっていました。
      父は数年前に他界し、母は今現在認知症を発症して治療うと介護を受けています。
      他界しました父が生前、ひびののおば様の親戚の方を探しておりましたので、昨年身内の者が岡村様のプログを読ませていただいて、もしかしたらひびののおば様の親戚の方では…と思いコメントさせていただきました。
      突然でびっくりなさったことと思います。たいへん失礼いたしました。
      どんどん過疎化が進む家賀集落に思いをはせてくださり、たいへん嬉しく思いました。
      ひびののおば様のお家から見る青く澄んだ空や山々の風景は本当に素晴らしいと思います。

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    3. お返事をありがとうございます。まさか家賀とこのような形で縁のある…というかご出身である方と連絡をとれるとは想像もしておらず本当にびっくり致しました。嬉しく思います。

      家賀は過疎が進む一方で宿泊施設の整備や、藍の栽培など、有志の活動が少しずつ展開されているようですね。それらと私はとくに関わりがあるわけではありませんが、あの地域特有の広い空と山間の風景が存続されることを祈るばかりです。

      はじめてひとりであの集落を訪ねたのは祖父が病気をして帰郷できなくなった、今から10年ほども前のことですが、そのとき見晴台から臨む集落の様子になぜか涙が止まらなくなったことを覚えています。都市に生まれて育った私にも、ここが故郷なのだと思われたのです。

      鳴門にご在住とのこと、いつかお目にかかる機会があれば嬉しいです。鳴門はいつも通過しますから、立ち寄ることも簡単にできると思いますので…家賀の話、また聞かせてもらえることがありますと幸いです。

      岡村友章
      nihonchaokamura@gmail.com

      差し支えなければ、どうぞ今後ともよろしくお願いします。

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  3. 誤字があり失礼いたしました。→治療と介護を受けています。でした。

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  4. 先日は、お読みくださってありがとうございます。私の実家は家賀集落の見晴台の望郷の丘からすぐの所にあります。
    父も亡くなり母も認知症の為詳しい事はわからないのですが、ひびののおば様と父は遠縁にあたるかと思います。
    是非とも実家に来ていただいてと思っておりますが、母の介護を不慣れな兄がしておりますので、今しばらくお出迎えが無理な様子で申し訳ございません。いつの日か望郷の丘で岡本様にお会いできる日を楽しみにしております。

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    1. お返事をありがとうございました。見晴台のすぐそことなれば、行くときには必ず横を通るお家ですね。私達も遠い遠い親戚ということになりますね。このような形でつながることができましたのはテクノロジーのおかげではあれど、一方で技術革新があのような気持ちのよい集落から人を少なくしているのかな…と思うと複雑な思いです。
      ご家族のご事情承知しました。徳島へはなにかにつけて出入りすることが増えそうなので、いつかお目にかかる機会がありますように。私の連絡先、どうぞ控えておいてくださると嬉しいです。
      どうぞ今後ともよろしくお願い致します。

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  5. 岡村様…お名前失礼いたしました。

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  6. おはようございます。いつもお読みいただいてありがとうございます。
    家賀集落に向かう山間を通る道沿いには山桜がたくさんあり…とてもきれいです。また西福寺から上に向かう道にはソメイヨシノと思うのですが、桜並木が続いています。また春にいらっしゃる時には満開の桜をごらんになれますように…。
    生前…父がひびののおば様のご親戚の方にお渡しできてないものをお預かりしておりますので…ご連絡いただければと思います。携帯番号…090-1323-8133です。武林ともうします。お願いいたします。お電話いただいて…出れない場合折返しお電話させていただきます。

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