2022/10/07

玉露というお茶についてどんな印象がありますか?




Instagram ストーリーズでの質問

「玉露というお茶についてどんな印象がありますか?」

回答集と考察


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標記の質問をインスタグラムでフォロワーの皆さまに伺ったところ、 24時間のうちに16ものご回答をいただくことが出来ました。リアクション、どれも嬉しかったです!興味深く拝読しましたよ。どうも有難うございました。

せっかくの情報源。アカウント名は伏せて、そのまま掲載することをお許しください。そのうえで、玉露をどのように紹介し、扱っていくのかを考えてみたいと思います。

あまり知らないけど、ちょっと興味あるな!と思っていただけたら幸いです。お近くのお茶屋さん、あるいは(ぜひ)当店にて杠葉尾の玉露をお試しいただきたい。(まだ販売はしておりません。少しお時間をください)

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回答

① 甘い 

② お高いお茶 

③ お高い!

 お値段が高い

⑤ 淹れる作法が難しそう

⑥ 高級。低温で淹れる。

⑦ 値段が高い、カフェイン多い?特別な日用のお茶というイメージ

⑧ ぽたぽたとじっくり抽出して甘みの変化を楽しむお茶…という印象です

⑨ ぬるいお茶 ⑩ 少量で酔うお酒のようなお茶。脳天にくる感じ。気付け薬のような

⑪ 甘い

⑫ 私は普通の煎茶が好きです。妙なアミノ酸の味のする玉露しか知らないせいかもしれないです。

⑬ 甘い、お茶というよりスープ

⑭ 高級。甘いお茶。淹れるのに温度気にしなきゃいけないお茶。

⑮ 格式高い!?こだわりが強い方が飲んでいる印象があります!

⑯ 甘いけど少しにがい


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考察

「甘い」「高価格/高級」「淹れ方に工夫が必要」というご意見が中心でした。あとは⑩や⑫のようにご個人の感じ方を表現して下さった方も。


ポイント① 「普通のお茶」とは違う

特別なお茶と感じている方が多いようです。確かに玉露は日本茶のなかでも群を抜き高価格のお茶です。参考に、お茶屋さんのオンラインショップなどを覗いてみてください。

市販品には「玉露ブレンド」などと謳うものが時々見られますね。これは玉露が高級品であるというイメージを利用しているのでしょう。しかし、「なぜ普通のお茶ではない高級品なのか」を説明できる人は多くないかもしれません。日本茶の消費が落ち込んでいる現状のなか、高いというイメージだけが取り残されている可能性があります。

他のお茶と何がどのように違うのかを客観的に説明すること。販売者の大切な仕事のひとつと感じます。


ポイント② 「甘い」とは何か

玉露に砂糖は入っていません。特徴的なあの味わいは、各種のアミノ酸が他の緑茶より相当に多く含まれていることによる「旨味」です。

それにも関わらず「甘い」と表現する方が多いのは興味深いです。玉露の旨味は昆布出汁に似ているともいいますが、昆布出汁や、加工食品に使われる旨味調味料のことを「甘い」と表現するのは、一般的ではない思います。

お茶の旨味を「甘い」と表現するのは、お茶に限った独特の味覚表現なのかもしれません。


ポイント③ 高いと知っているが好きとは思っていない

面白かったのは、「高い」「甘い」とは書けども「好き、おいしい」という表現はひとつも見られなかったことです。このことから、「玉露が高いということは知っているが、好きではない/飲んだことがない」方が多いかもしれません。

そうだとすると、やはり玉露が高いという一点だけが独り歩きし、お客さんたちの嗜好と噛み合っていない場合が多いという可能性も。あるいは、玉露というお茶は好きか嫌いかという判断のなかに置くものではないのかもしれません。

いつどのようなときに自分に馴染む可能性があるのか、個々人によって違うと思うのです。

昔から玉露は栽培されていて、それを好んで嗜んできた方々がたくさんいるということは重要な点です。ある種の人にだけ分かる「通なお茶」なのではなく、然るべきシチュエーションが存在する適所の狭いお茶、と考えたほうが健康的な思索に思われます。

そもそもお茶は難しいと感じる方が多い現状。当店にお茶を買いに来てくださる方の多くも同様です。尚更、玉露に対して取っ掛かりのない人がほとんどだというのは頷けることです。

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まずは「高価格=良いもの」という図式を無くすことから始めるのがよさそうです。小さい軽自動車を求める人に、高い車だからという理由でアメリカの「ハマー」を差し上げても、たぶん喜ばれないのと同じで、玉露が喜ばれる場面というものを改めて考えなければならないのでしょう。

とくに現代、油を多様する食生活です。コッテリした食事のあとに玉露が果たして馴染むでしょうか。あの強い旨味と独特の香りを好意的に受け止められる状況とはいったいどういうものでしょうか。

合わせて考えたいのは、昔の玉露と今の玉露は栽培面からして似て非なるものである可能性があること。品種のこと。肥料のこと。「旨味」という大きな特徴が過剰に増幅された栽培になってしまっているのではないかと私は少し感じています。⑫のコメントはそれを現すものではないでしょうか。

玉露というお茶は味わいが独特であり、淹れるにも手間と時間がかかります。つまり飲む方は自分に焦点をあてるのではなく、玉露に自らを同調させようとする柔らかい姿勢をとることができるかどうかを問われているように思われます。

玉露はあくまでも玉露の都合のとおりにしてやらねばならない。そういう「面倒な」お茶であるということ。このことは、2022年を生きる人間にとっては示唆に富んでいるように思えてなりません。

相手を聴くこと。たとえ共感できない場合であっても、理解はできること。そうして世界の境界線を押し広げたり、目の前の小さな物事を見るときの解像度を上げたりできるのかもしれません。

それを教えてくれる精神性のあるお茶が玉露なのだとすると…なんだかおもしろくありませんか?


長くなりましたが、販売者として私の仕事は、

・高級品であることはいったん脇に置くこと

・そもそも日本茶の全体像のなかでどのような位置にあるのか説明すること

・玉露が活躍する場面を一緒に探すこと

・身体に負担をかけない玉露を探すこと(福井さんの「杠葉尾」はそういうお茶です)

これらを通じて、最終的には栽培されている現場へ気持ちを馳せてもらえたらいいなと、今は考えています。

2022/10/03

特別なことをしているとは思わない / 福井肇さん(滋賀県 東近江市 杠葉尾町)

 


この記事は、先入観を疑う / 玉露仕入れの前日譚 の続きです

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2022年10月2日、長引く残暑。鈴鹿山脈のふもとに位置する奥永源寺を再び訪ねた。もうこの地域に来るのはいったい何度目なのか分からない。政所町の山形さん、箕川町の川嶋さん、君ヶ畑町の小椋さん…段々とご縁の広がるなか、更にお茶の縁が豊かにふくらむ機会を得た。

向かったのは、室町時代より続く「政所茶」(まんどころちゃ)ブランドを生産する7集落のひとつ、杠葉尾(ゆずりお)だ。そこで百姓として生活をする福井家の皆さんを訪った。

この日までに奥様の玲子さんやお母様のたか子さんと電話でお話していたから、始めてという気がしない。それでも爽やかで青々しい気分に満ちていたのは、この杠葉尾という地域が、政所や箕川、そして君ヶ畑という比較的狭い谷間にある地域とは違って、愛知川沿いに広く開き日光もさんさんと注ぐ場所だったからかもしれない。

到着すると、玲子さんが出迎えてくださった。まもなく刈り取られる餅米の揺れる田んぼを通り過ぎ、ご自宅のログハウスへ。家具を含め、地元の材木を地元の大工さんたちが使って20年余り前に建てたものだという。隣では茅葺きの家が丁寧な修繕を経て健在であり、琵琶湖のヨシを使った屋根とのこと。

こうしたことから、福井家の人々がどのような価値観のもと生活を営んでいるのかが、言葉にせずともじんわりと伝わってくる。

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肇さんが農作業からお戻りになった。ご挨拶した瞬間、まっすぐ飛び込んできた澄み渡る眼差し。目の光の明るさ。なんという嘘のない目だ!頭の中に「ラブストーリーは突然に」のイントロが鳴り響く(エコーつき)。

肇さんは過去と一直線上に繋がっている今を生きていて、未来のやってくることを明るく受け止めようとしている人だ。過去に対する重責感や義務感も、現状への不満も、未来への不安もない。やりたいことはたくさんある。この土地での生を楽しく謳歌している朗らかな少年のようなお人柄なのだった。

「だって、それが一番ええやろ?」とは仰らないけれど、それがお話の端々から伝わる。「少子高齢化のなかでも伝統を絶やさないように…」とか、そういうやや重た目の表現が聞こえてこないのは爽やかだ。それでいて肇さんが自然体のままに行っているのは、この地域で長い間営まれてきた生活と農業に工夫しながら従うこと、そのものだった。

初対面の方には、たいてい何気なく「何代目にあたられるのですか」等という基礎情報(?)のようなものを得ようと質問をしてしまうことが多い。でも肇さんはそれに対して、「わからないな。あんまり考えたこともないなあ」と答えた。

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福井家では、煎茶と玉露、それに平番茶をつくっている。茶畑は点在しており、この日はそのほとんどをご案内下さった。

ご夫妻は家の農作業を手伝いながら、ともに学校教員として務めてこられた。定年退職のあと本格的に農業に従事するようになり、現在は餅米、コシヒカリ、お茶だけではなく、タラを栽培したりとまさしくお百姓さんである。

「このあたりでは米がとれるので、その分早くからお茶の離農が始まりました」と肇さん。そのなかでも福井家は踏ん張ってお茶を辞めることなく、それどころか今では茶畑を借り受けてかわりに耕作し、活躍の幅を広げておられる。実は箕川町にお住まいの川嶋いささんが遠戚にあたるということもあって、いささんが今年でお辞めになった黄和田町の茶畑管理を行うことにもなっているのだ。黄和田は杠葉尾と隣り合っている。



ここが玉露用の茶葉を栽培している畑のひとつで、今回当店ではここで手摘みされたお茶をお預かりすることになった。一切の農薬を使っておらず、畑に投入するのは、落ち葉、ススキ、発酵油かす、そして炒った米ぬか。お茶は在来種。

鉄柱が立っていること、そしてススキが地面に敷き詰められていることにお気づきいただけると思う。それぞれ具体的にご説明します。



鉄柱が茶畑に立っているのは、茶の収穫時期の少し前から畑全体を菰(こも)で覆って遮光するためだ。遮光することが玉露の栽培には必要不可欠なのはご存知である方も多いかもしれない。

お茶は前のシーズンから溜め込んだ養分をいっせいに使ってその年最初の芽を開き更に枝葉を伸ばしていく。遮光することで旨味成分のテアニンが他の物質へと代謝される反応が鈍り、特徴的な旨味が茶葉に残る。また茶葉は薄く葉緑素が多くなり、葉の柔らかさと濃い緑色のもとにもなっている。

現在一般的には遮光するための資材として化学繊維が使われるけれども、政所茶において現在も玉露を栽培する少ない農家のなかでは菰が主流だ。自作の餅米を収穫したあと、その藁を地道に編んで菰ができる。上の写真は菰を保管している倉庫の様子だ。

菰を編むのは長老たちだ。岡田トシ子さんが中心となり、たか子さんも加わって根気のいる作業にあたっておられる。岡田さんはかつて西陣織に従事していたことがあるというが、持ち前の器用さと根気でもってしても、僅かづつしか作ることはできないという。菰は一年に一度、20日余りしか使うことがないために7年ほどは使える、と肇さん。

市販製品に頼らないという点はもちろんのこと、家に田んぼがあり、藁を編める人がおり、それを茶の栽培で無駄なく活用するということ。今ふうに言えば SDGsという言葉があてはまるのかもしれないけれど、このあたりの人々は、当たり前のようにして環境とともに歩んできたことが伺い知れる。人間は環境の外側に居てそれを利用するのではなく、自身も環境の一部なのだ。



土地にあるものを活用するのは菰だけではない。すすきや山の落ち葉を畑に敷くのもポイントだ。

肇さんは地域内に5箇所ほどの茅場(かやば)を管理しており、ここでススキを刈り取って畑に敷く。これが天然のマルチとなって、草を抑えて冬季の寒さや乾きからお茶を守り、最後にはそのまま朽ちて土に還るというから非の打ち所がない。奥永源寺では他の生産者も同様にススキを使っている。

こうしたひとつひとつのことが、大変な手間であるように思われるかもしれない。確かにそうかもしれないけれど、肇さんはあっけらかんとして、こう言う。「普通にやってるだけですよ。これしか知らんし、特別なことをしているとは思わない。大変とか面倒とか、そういう風にも思わないです。好きなんです」

他のいろいろな茶農家たちのスタイルを見たあとで政所茶の茶栽培を目の当たりにすると、たいていの人は「こんなに手間のかかることを、よくぞ」と思うに違いない。僕はお茶屋だから、その大変さ、手の掛け方を神格化して語りたくもなるというものだが、実際に現地で作業にあたっている人の言葉は淡々として、なおかつ明るい。

そこに販売者としてハッとする瞬間がある。つまり他のお茶との序列で語るべきではないのだ。政所茶を「上げる」ことは、安易に「他を下げる」ことに繋がりかねないし、それは望まない。なぜならどこの茶農家も、自然環境、働き方、生活、すべてがその人独特のものであり、当方はそれらをほとんど享受しているに過ぎない。販売者は、特定の生産者に無闇に肩入れすることがあってはならないのだ。(問屋さんが存在する大きな理由のひとつだと思う)

見たものをそのままに見せ、聞いたことをそのままに語るのは意外とむつかしい。見たいものだけ見て、聞きたいことだけ聞くのはありがちな話だ。人様の物語を飾りにして商売をしてはならない。

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軽トラックで移動する間も、あたりで作業に従事している人々に細やかに肇さんは声をかけてまわる。手早く、かつ温かい会話が生まれていて、信頼関係があることが本当によくわかる。さわやかな風が吹くようだ。これも商品としてのお茶の、見えない構成要素。

お昼をいただくことになった。食後もしばらく談笑したあと、肇さんは次の約束があるために席を立ち、さっと出かけていった。今まで奥永源寺で出会ったベテランたちは、別れ際になんとなく後ろ髪を引かれる感情を残したけれど、この日は違った。

まだまだ初対面。爽やかな肇さんと次にお会いするときにはどんなお話ができるだろうか。重苦しい印象だった玉露に対する印象をがらりと変えてくれたのは、やっぱり人なのだった。

あの目に宿った光を僕はまた少し分けてもらいたくて、杠葉尾へ行くだろう。訪ねたい家がまた増えて、嬉しい。

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玉露「杠葉尾」近日販売開始

 滋賀県東近江市杠葉尾町

 福井たか子さん 肇さん 玲子さん、そして地域の皆さんの共作

 無農薬 有機栽培 / 餅米藁の菰掛け栽培 / 手摘み / 在来種

2022/10/02

先入観を疑う / 玉露仕入れの前日譚


店に立っていると、「甘いお茶はないですか」と頻繁に尋ねられる。経験的に、その「甘い」は「旨味のある」という意味であることがほとんどだ。

それに対し、僕は「低い温度で淹れれば、アミノ酸由来の旨味を感じやすいように引き出すことは出来ます。ただ、ここに並べてあるお茶で旨味重視のお茶はありません」というようにいつも答えている。

僕は旨味の強いお茶、なかでも玉露が、ずっと苦手だった。

話は7年か8年前に遡る。お茶とは無縁の事務職員として仕事をしていた頃。あるとき、祖父の故郷である徳島の山里で作られた煎茶を飲み、その生産者と会う機会があった。これがきっかけで、日本茶とその生産者に興味を持ち、京都のお茶屋さんを何軒か訪ねて回ることから探求を始めた。

行く先々で「これは玉露。最高級のお茶です」「上級の煎茶です」といって販売員さんが丁寧にお茶を淹れてくださった。小さい器にほんの少量だけ、澄んだ液体が注いである。正直に書くと、僕はそれらを美味しいと思うことがほとんどなかった。即席出汁みたいな浮ついた旨味が強烈で、胸焼けを起こすのだった。

どうしてお爺ちゃんの里のお茶(とても安い)はおいしいのに、こんなに高級なお茶の味を理解できないのだろう。自分はお茶に向いていないのだろうか。そもそも高級とは何か。これが分からないのでは始まらないではないか。そんな内心を抱えながらも、様々な案内書やインターネット上の記事で紹介されているお茶を片っ端から取り寄せ、記録し続けた。玉露や高い煎茶はやはり口に合わず、段々と敬遠するようになった。

そうして熊本の船本さんの釜炒り茶や、日野の満田さんの在来煎茶、奈良の羽間さんの番茶などと出会った。こうしたお茶は熱湯で淹れられて香りよく、おいしかった。そして生産者の思想がはっきりと仕上がりに反映されることが徐々に分かり、飲んで、聞きに行く楽しみはますます大きくなった。

でも結局、旨味の強いお茶をうまく掴めないまま、僕は2017年に税務署に届け出を出して起業。

時が過ぎ、2020年の夏のこと。日野の満田さんのところに1ヶ月滞在して仕事をご一緒していたある日、いくつかのお茶のテイスティングをしている満田さんが「どれが一番美味しいと思う」と僕に訊いた。僕が「これです」と指差したのは、旨味が比較的強い「かぶせ茶」で、満田さんは驚きながらも笑ってこう言った。

「これ、岡村君の好みとは違うお茶やと思うけど」そう言ってから満田さんは少し間を置き、考え、納得したような顔をして続けた。「でも、茶はヤッパリ気持ちやな。この茶を作った人は、思いをこめていいものを作った。それね、岡村君が感じたということなんやわ。茶の種類には関係なく、そういうことがあるんよ」

そのときの満田さんは、そのかぶせ茶の生産者の人柄、お茶との向き合い方に気持ちを巡らせ、しみじみとしているように見えた。

このテイスティングは、それまでの自分の思い込みを覆す経験となって、尾をひいた。旨味を強く感じるお茶でも美味しいと思うことがあるのだ。それだけでも僕には衝撃的な出来事だった。

それから2年経って、今年の初夏。君ヶ畑の小椋さんのところで煎茶を仕入れたあと、政所の山形さんの家に寄ってお茶をよばれていたとき。山形さんはご自身の平番茶や煎茶を淹れてくれたあと、「玉露、飲む?」と僕に訊いた。

ものは試し!満田家での出来事があったし、僕はちょっと身構えて、飲みたいと答えた。

「これは政所のじゃなくて、杠葉尾(ゆずりお)の在来」

※「政所茶」は、このお茶を生産する7集落のうち政所の名を冠したもの。広義の「政所」は銘柄であり、狭義のそれは町名だ。杠葉尾はいわゆる政所茶を生産する土地のひとつ。

そうしてゆっくり時間をかけて淹れてくれた玉露は、素直においしいなと感じるお茶だった。「これおいしいな。きつくないし、素朴やな」横に座っていた妻にそう声をかけると、妻も「うん」と言った。

玉露が苦手という先入観は、この日、長い年月をかけた末に完璧に砕けてしまった。エキサイティングな体験に心踊り、先入観が道を塞いでしまうことがあるのだとはっきり理解した。

お茶に興味を持った当初、てんでダメだった玉露と、いま目の前にある玉露は何が違うのか。茶種だけで判別できない根本的な違いがきっとあるはず。満田さんはそれを「人や」と表現する。

山形さんとおいしい玉露のおかげで、「見たい、聞きたい」の気持ちは久しぶりに水を得た。またひとつ世界の境界線をぐぐっと広げられるチャンスが巡ってきたのかもしれない。このわくわく、損得関係なく動くべきときのもの!

それからしばらくして、杠葉尾町の福井さんのもとをお訪ねすることが叶った。どういう風にお茶と向き合っておられるのだろうか。

2022年10月2日、夏みたいな陽気の杠葉尾リポートに続く。

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写真 / 川嶋いささんの畑に茶の花が.

2022/09/22

尺代の水車小屋




地元であり今も暮らしている大阪府島本町の山間部に、尺代という集落がある。水無瀬川を挟んで北側が集落で、反対側はもともと棚田だった。田んぼは全て貸し農園に変わっていて、うちもそこを借りて野菜を作っている。

集落を抜けて川のさらに上流域を歩くと、朽ちた水車小屋の跡がいくつか残っている。大学生のころ、このあたりの写真を撮るのが好きで、時々歩いては水車跡を見て何となく気になりつつも、深く考えることはなかった。

この夏、畑仕事のあと子どもたちと川遊びをするために上流へ歩き、再び水車を見た。いよいよ気になって家にある『島本町史』(昭和50年)を開くと、なんと水車についての短い記載があり、それは『島本村々史』という更に古い文献からの引用だった。

(引用)

尺代の水車

明治初年尺代において杉の葉を乾燥し水車を利用して蚊取線香の原料を製造したことに始まる。線香納屋がたてられ、安住という会社が経営していた。また製粉精米等を営んでいた。
昭和にはいってから、エボナイト(バッテリー)を粉末にして再生するようになり、電池会社の下請として十数件がこれに従事した。現在はエボナイトの粉末はボーリングの球の原料に使われている。
エボナイトを朝うすにいれておくと、水車の力で粉になっているので夕方集めにいけばよい。従ってその間人がついていなくてよいし、動力としては水無瀬川の水を利用するので経費が安くつくので、山間の工業として今日なお続いている。

(引用おわり)

杉の葉線香…気になって調べてみると、現在もなお製造する小さな事業者が全国にいくつか残っており、取り寄せてみたところ素朴で好感を持てる優しい香りだった。余計な香料のにおいがない。

町内には森林保全団体がいくつかある。だから間伐する杉の葉からもう一度線香を作り(あわよくば水車で)、情感たっぷりにふるさとの渓流の記憶を令和に引っ張り出すことはできないのかな、等と想像をたくましくした。しかも水力だけによる工業なんて、時代は熱視線を送るだろう。

どうやって運営していたのだろう?詳しいことが気になってきた。知りたい!聴きたい!見たい!お茶でわくわくするときと似たようなエキサイトが胸に湧く。

尺代には同級生のWちゃんが居たが、連絡先がわからない。思い立ったが吉日ということで、僕は同級生でかつ剣道部で一緒に活動していたKちゃんに電話をかけた。Wちゃんと繋がっていると思ったからだ。

するとKちゃん、「両親が尺代の年配の人と親しいから、その人に話を聞くのがいいのではないか」とナイスな助言。その数分後、Kちゃんの母から電話が鳴り、「Fさんという人に話は伝えてあるから、電話し!」とのことだ。早速電話をかけてみたら、なんとFさんは実家でかつて水車を稼働していたし、色々案内しながら話もできるから是非いらっしゃいと仰った。

そういう訳で、一気に本丸へ突入する格好になった。こういうところが、島本町のまだまだ田舎たる所以かもしれない。Kちゃんありがとう!

そして去る9月20日、待ち合わせをしてFさんと面会が叶った。Fさんは早速「これを渡しておきますわ」と言って、かつて稼働していた水車小屋の一覧と運営者名簿を見せてくださった。これは貴重なものだ。

それによれば往時の尺代では合計8台の水車が稼働し、F家を含む11軒が従事していた。集落の下から上にかけて、だいたい2kmくらいの間に水車は点在していたのだ。

Fさんは水車が稼働していた位置をすべて歩いて案内してくださった。8台のうち3台だけは、朽ち果てるのを待つばかりだが、それでも残骸がある。

Fさんはそもそもどのような仕組みで水車が稼働していたのかを、歩きながら教えてくださった。

水車は川の本流には接しておらず、やや高台を選んで設置された。水車の上部に、上流から引いてきた水を落とし、これがバケットに溜まることで回転が生まれる。回転はシャフトへ伝わり、シャフトに対し垂直に接続された木あるいは鉄の棒が、杵を引っ掛け持ち上げる。棒が外れると杵が石臼に落ちる。これを繰り返す。

水を上流から引き、水車に落とす必要があることから、水車はなだらかな箇所ではなく高低差のある場所にしか設置できなかった。上流から水路やトユを使って水を引くのは大変なことで、雨のあとなどは掃除が必須だったという。Fさんの実家では鉄骨を使って高所にトユを設置していたから、そこへ登って掃除するだけでも恐ろしかったそうだ。


↑ 川から水を引くトユの跡



↑ 水車に接続したシャフト。もともと屋内にあったが建屋はなくなっている。なお基本的に水車を中心としてその左右に小屋があったそうだ。ここでは奥に建物が残っているが、中には入ることができない。



↑ Fさんによれば、これは石臼だという。Fさんの家にも、こうした四角形の臼が置かれていた。


Fさんは小学校から帰ると水車の仕事を手伝ったという。どんな仕事だったかといえば、それを思わせるものが朽ちた水車小屋のあたりにたくさん残ったままになっていた。

それはエボナイトという硬質ゴム素材でできた、バッテリーの外装部分だった。これを水車小屋の杵で粉砕し、加工メーカーへ納めるのだ。粉末は押し固めて再利用される。Fさんによれば潜水艦の建造などに使われたそうだ。作業に従事する人は濡らした衣で口元を覆ったが、それでも真っ黒な粉末で身体がたいへん汚れるし、人によっては肺に黒いシミのようなものが残る場合もあったという。


↑ 今でも水車小屋のあったいくつかの場所に、粉砕されることのなかったエボナイトがそのまま忘れ去られていた。


プラスチックの登場とともにエボナイトの利用は激減し、線香製造や米の脱穀などを経て続いてきた水車小屋の利用はとうとう終わってしまったのだ。Fさんのお話から推測するに、昭和中期ごろではないかと思う。

Fさんのお母さんの証言によれば、最盛期のエボナイト加工は「企業の課長さんくらい」の収入になったそうだ。

しかしいくら稼げるとは言っても、集落から遠い水車だと特に大変な作業だったと思われる。車など通らない未舗装の山道で、恐らく手押し車などを使って原料を運び、さらに加工を終えたものは集落まで運び出さなけれならない。ひたすらに重労働だったはずだ。

Fさんは尺代の生まれ育ちで、昭和の中頃からこの土地の変遷をずっと見てきた人だ。案内の途中、子どものころ川で遊んだ当時の思い出などを鮮明に語って下さる。おおらかでのびのびとした話だったし、僕が小学生の当時に同級生の子たちがやっていた遊びと同じようなものだった。

「もう水車を回すなんて、無理やな」と仰ったが、すぐにではなくとも、小さいものでもいいから何とかならないかな、その光景を見てみたいな、と僕は思った。

時代は一周まわって自然エネルギーに耳目が集まっている。資本主義経済に浸りきった生活を送る僕たちだが、まだ自身の記憶のなかに水車の回っている人々が尺代には暮らしているのだ。

畑で世話になってきた尺代と、これから何かしら新しい関係を築くことができるだろうか。まずは明治の尺代の人々がしたように、線香を作ってみたいなと僕は考えている。

続報があるかどうかは未定。



水車跡の横にお茶が生えているのを見逃さなかった。「好きなことをやれぇ」というメッセージだ、と受け取ることにした。

2022/09/21

早苗の卵どんぶり

 


早苗の卵どんぶり

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父方の祖母は早苗(さなえ)という人で、広島の呉生まれ。すでに鬼籍に入っている。朧気な記憶だが祖母は料理をほとんどしない人だった。

代わりに祖父の喜八が何でも作るタイプの人。小学5,6年生のころ母が病気療養のため長期入院しており、自営業の父も多忙を極めたため僕は長いこと祖父母宅で暮らしていた。昼食夕食は、いつもおじいちゃんの手料理。

祖母は生活にお金をかけない人だった。清貧というよりはむしろ、足るを知っていたのだ。妹が小学生のころ、戦中戦後の生活について祖母にインタビューして学校に提出したことがある。そのなかで祖母はこう語っていた。

「今の人は、何でもあるから幸せです」

祖母は常日頃から昼ごはんにサッポロ塩ラーメンなどを食べていて、「おばあちゃんは、これが楽しみなんよ」とよく僕に言っていた。戦争を、血生臭さではなく経済的困窮として味わった人の言葉として、とても深みがあると思う。祖母は原子爆弾の雲を遠くに見たと言っていた。

そんな祖母には得意料理があり、それは卵どんぶりだった。使う材料はたったの5つで、卵、もみ海苔、米、油、醤油。飽食の時代と言えど、他に何も使ってはならない。

どんぶりに薄く米をよそい、そこにもみ海苔を敷き詰める。そして醤油を全面にたらして、再び米をよそう。そうしたら、フライパンに油をひき、醤油で味付けした溶き卵をやわらかく炒る。それを米が見えなくなるくらいに盛り付けたら出来上がり。

ほとんど料理をしない祖母だったが、誰にでも作れそうな卵どんぶりの美味しさは格別だった。祖父母は僕の実家のすぐ近くに住んでいたので、時々どんぶりを持ってきてくれた。

やがてこの作り方を僕の母が教わって、たまに母が作るようになったので、土日の食卓によく登場した。僕はこれがとても好きだった。

就職して京都市で暮らし始め、祖母が亡くなってからも時々このどんぶりを思い出して作った。もちろん祖母より下手だった。



さらに時が流れ、僕の7歳の娘は最近料理に関心がある。それでは材料も手数も少ない卵どんぶりを作ろうということで、先日一緒になって作った。すると、かなりおいしいどんぶりになった。食の細い息子も、ものすごい速さで完食。

それで僕は思った。ああこれは気持ちだ。この美味しさは気持ち。手数のほとんどない素朴などんぶりは、作った人間の気持ちが丸裸のまま、よそわれているのだ。だからおばあちゃんのあれは最高に美味しかったのだ。おばあちゃんは僕たち親族のことを本当に愛してくれていた。僕は愛をもらっていたのだった。生まれたときから、溺愛というくらい、これでもかと祖父母に可愛がってもらった。そしていま、僕は娘の愛をもらっており、だからどんぶりがおいしい。子どもたちがお茶を淹れてくれたら冗談ぬきでおいしいのと同じなのだ。

娘が作ってやっとわかった、早苗の卵どんぶりのおいしさの秘密。もっとも、みんな肌感覚では何となく分かっていたのかもしれない。祖母は優しかったから。

思い出すのは祖母の顔と声だ。大学生当時、地元公民館の自習室で勉強していたら、たまたま館内に居た祖母がドアを開け、でっかい声で「ともりん!!」と僕を呼んだ。僕はトモアキだから、祖母は愛情こめて僕をトモリンと呼ぶことがあった。

苦笑いで外に出て祖母と話をした。祖母は地域の年配の方々との月に一度の昼食会に来ていたのだ。「これでジュース飲み」といって、500円玉を僕の手にのせた。

トモリンといきなり呼ばれた恥ずかしさ。あの500円玉の重たさ。忘れがたい。

祖母は僕と妻の結婚式の1週間前に亡くなってしまった。式を楽しみにしていた祖母の気持ちに沿うのがよいと親族も言ってくれ、喪中にもかかわらず地元の神社は予定通りに式を執り行ってくれた。

ぐるぐる巡る愛の環、口承伝達の卵どんぶりにのって、どこまでも続くのだろうか。サナエのこともトモリンのことも知らないずっと先の世代になっても、早苗の卵どんぶりが継がれていてほしい。

あの世でおばあちゃんがこの記事を見ててくれたらいいのになと思う。

2022/08/02

煎茶 黄和田 2022

 


(続き)

君ヶ畑町の小椋さんのお宅を後にして、僕は蛭谷町を抜けて箕川町へとたどり着いた。政所茶を構成する7町はそれぞれに「町」の名があるけれど、都市部に暮らす人が想像する町とは全く違う規模で、小さな集落といったところだ。もちろんそれぞれに役場がある訳でもない。

川嶋いささんは黄和田集落がご出身で、ここ箕川町に嫁いでこられた女性だ。今年で90だとか、91だとか、ときによっていろいろと仰るので正確な年齢が分からないのだけれども、少なくとも奥永源寺地域の生活を戦前から目の当たりにし、この地域に根付いている在来のお茶のように根っこをびっしりと張り生きてこられた方だ。

いささんは、山形蓮さんにとっては奥永源寺の祖母のような存在でもある。蓮ちゃん、蓮ちゃん、といっていつも気にかけている様子が伝わってくるし、時折山形さんから送られてくる写真にも、心から親しみをもって接してこられた様子を感じる。

山形さんは市外から転居し、地域おこし協力隊を経て政所町に定住している。いささんは同じ奥永源寺地域の出身とはいえ、黄和田という異なる集落から箕川に嫁いで生活を送ってきた方だ。慣れ親しんだ住処を出て、違う環境で長く奮闘してきた女性という立場から、いささんは山形さんの姿にいつかの自分を重ねていることが、ひょっとしたらあるのかもしれない。

今回いささんを訪ねたのは、もちろん今年のお茶を見たいということもあったけれど、何よりもお元気でいらっしゃるかどうか、お顔を見て話したいなと思ったからだ。というのも、少し前のこと、山形さんからいささんが今年のお茶づくりをもって茶畑を手放されることになったという連絡があった。

それはもう、驚くようなニュースではなかった。いささんの腰は尊厳を感じるほどに折れ曲がっていて、百姓として長い年月をかけ土と対面してきたことが誰にでもわかる背格好をしておられる。野菜づくりの畑はまだ続けておられるけれど、負担の大きな茶畑の管理はいよいよリタイアなさり、ご親戚があとを継ぐことになったとのこと。茶畑はいささんのご出身である黄和田集落にあり、地域を周回するバスで日々通っておられた。

いささんがご自身の手を入れてこられた茶畑からの煎茶はもう最後ということで、それを拝みたかった。

いささんは足腰こそ少ししんどそうな様子こそあれ、達者なおしゃべりはこちらの心配をよそに全くもってご健在。ほっとした。「ほんで、どんくらいお茶をとってくれはるんですかな?」と世間話もそこそこに、いささん、縁側からおもむろにお茶の袋を引張り出して来た。

すでにいささんのペース。この家ではいつも朝に沸かした湯をポットに入れて、いつでもお茶を淹れられるようにしてあるので、すぐ飲ませていただいた。茶渋でいっぱいになったいつもの急須。そこにたっぷり茶葉を淹れて、熱い湯を注いでくださる。いささんは「つ」の字みたいな形になっている。

ここのお茶はどこか奔放で、伸びやか。青草の香りがして気持ちがいい。それはまさしく土の賜物。一朝一夕では仕上がらない土を、政所の人たちは本当に大切に扱ってこられたのだ。それがわかる味。適切な渋さ、滋味がきちんとあり、あと引く健やかな余韻は、さすが政所茶の一員だ。

改めて思う。この地域の煎茶は、特別だ。

いささんのお茶の1/4くらいをお預かりした。これが、いささんから買う最後のお茶なのだ。

そんなことは何も知らない子どもたち。とくに4歳の息子は、仏間だの寝室だの、僕たちが何を言おうとも勝手に走り回って楽しそう。

「人ん家の寝室に入るな!!おい、引き出しを!勝手に開けては!ならん!!…仏壇の前でボールを投げるのもいかん!!!(嘆息)」

「かまへん、かまへん…仏さんもな、おお誰か知らんけど元気な子どもさんたちいらっしゃったな言うて、喜んではるで。あっはっは…」

こういう時候なので、あまり長居するのも褒められないかなと思い、小一時間ほどの滞在でいささんとお別れした。いささんは僕たちが昼ごはんを食べるかなと思ったらしく、赤飯を炊いておいてくださったので、それをパックにつめてお土産にしてくれた。

ご尊顔を記念撮影。今のところ奥永源寺地区で最もチャーミングなおばあちゃんであるいささんは、カメラを向けたら必ずピースサインで応じてくれる。チャーミングさはそのままに、どこか厳かにも思われるその表情。積み上げてこられた苦労がどれほどのものであるか僕には想像するしかないけれど、それでもこうして齢90歳を超えてもお元気であり、笑いを絶やさないところに、この地域の魅力を感じてしまう。

またいつでも来ていいんだと、そう思える大切な場所だ。これからもいささん、お元気で!いささんは元気なのに、ちょっと目頭、火照る感じがする。本当に僕はこの山の人たちが好きだ。

高速道路を走らせて、水無瀬に帰着。雑誌 dancyu で政所茶の特集が組まれているよと山形さんが教えてくれたので、長谷川書店で買い求めた。書店を出てロータリーに停めてある車へ向かう途中、ひぐらしのカナカナ…という声が近くで聞こえてきた。駅前ではちょっと珍しい。

その声、君ヶ畑の客間でご飯をいただいていたとき、山から聞こえてきたのと同じだった。少し暑さのましな夕暮れ、いい風があって。目さえ閉じたら、ひぐらしの一声で90kmかなたの政所へ瞬時に戻ってしまうようだ。それって、心の中の政所だ。いつの間にか政所は僕の心象風景になって、僕がこの世界にさよならをするときまで、消えないのだろう。

...

煎茶 黄和田 2022

川嶋いさ 作

無農薬 無化学肥料 在来種

準備でき次第販売開始します

2022/08/01

煎茶 君ヶ畑 / 小椋武さん

 



「今年のお茶が仕上がりましたので、また上がって来てください。夏やったら川遊びも出来ますから、子どもさんらもぜひどうぞ」と奥永源寺の君ヶ畑に暮らす小椋武さんから心待ちにしていた一報があったのは6月の下旬のことだった。

小椋さんは、「茶縁むすび」主宰である山形蓮さんのご紹介があって出会うことが叶い、2年前のシーズンから煎茶をお預かりしている代々の茶農家だ。君ヶ畑は東近江市の山間部にある政所茶の生産集落として数えられる七町のひとつで、当店では土地の名に敬意をあらわすために「君ヶ畑」の名をそのまま商品名として使わせていただいている。

※政所茶の七町とは、東近江市奥永源寺地域の政所町、君ケ畑町、蛭谷町、箕川町、蓼畑町、黄和田町、杠葉尾町。

8月1日、やっと今年の訪問を果たすことができた。初めてこの辺りに出入りするようになったころ、家からナビの案内がなければ心許なく運転できなかったのを思い出す。

離合のできない道をどんどんと登っていく。政所町、箕川町、蛭谷町、そして君ヶ畑町に入る。玄関の網戸をがらりと開け挨拶をすると、小椋さんはもう朝からそわそわとして待ってましたという感じに出迎えてくださる。玄関から客間、仏間へと、いつお邪魔しても美しく掃き清められているご自宅は、小椋さん達にとっては当たり前の生活の場でありながらも、客という立場の僕には道場然とした清らかさでいっぱいだ。そしてそれを言葉にはなさらないけれど、今日という日のため、心づくしの準備をしてくださったことが身に沁みて感じられる。

優しさが感じられて嬉しい。なおかつ緩みきってはいない空間に、少し緊張もする。仏間にははっきりとご先祖様たちの優しい気配があって、はるかな昔から営まれてきた生活の、いちばん先っちょのところにお邪魔させていただいているのだ。なんたるご縁。気持ちは引き締まる。

「ま、飲んでみてください!」といって小椋さんは説明は少なめに、古い茶箱から今年の手摘み煎茶を取り出して見せてくださる。そして湯と急須、湯のみを出して、「お茶はソムリエに淹れてもらおう」と、去年と同じことをおっしゃった。ああ、それを言われると緊張する!

飲みながら、今年の新茶が出来上がるまでの話を伺う。雪のこと。肥料のこと。茶摘みのこと。政所町にある製茶工場のこと。仕上げ委託をしている日野の満田さんのこと。

僕は今年の製造量のうち、半分をお預かりすることに決めた。萎凋と呼ばれる製茶工程を取り入れて熱心に取り組む小椋さんのお茶は、昔の煎茶がどのようなものであったかを今に伝えるおいしさだ。

「お茶の畑も、見ていってください」と、いつものように一緒に歩いてご自宅から100mほど離れたその一角へと向かう。



この畑は、所有者の方が体力の問題から管理できなくなり長年放任されてきたところ、小椋さんが依頼され耕作することになったものだ。当初はお茶も草も伸び放題であったため、まず台刈りといって地表面近くの高さで茶を刈り込むところから作業ははじまった。

年月はかかったものの、毎年収穫が可能になるところまで畑は再生した。農薬と化学肥料は使用しておらず、茶畑に投入するのは油かすとすすきだけ。すすきは防寒、草抑え、保湿だけでなく、そのまま土に還り養分となる優れもの。

「だいぶん、いい状態にまで回復させられたと思います。持ち主の方には息子さんがあって、いつか帰郷して自分でお茶をされるようになるかもわかりません。そのとき、茶畑が荒れていたらとてもじゃないけどやる気にならんでしょ。だから、荒れていた畑をきれいに戻して、きれいに使わせてもらい、そしてきれいに返すんです」

小椋さんの話にはいつも、終わらせないこと、継いでいくこと、についての思いが込められている。そういうところをこのお茶を手渡すときにうまく伝えられないかなって、いつも腐心している。

茶畑に入ったとき、思わず合掌。何に対してかはっきりわからないけれど、偉大なることへの敬服のようなものだ。横を見ると、小椋さんもまた手を合わせておられる。見えているものだけじゃなく、見えない存在の大きさと尊さを、小椋さんはその立ち振る舞いを通じて教えてくれているようだ。

ご自宅に帰るとおいしいカレーがこしらえてあった。ここでカレーをよばれるのは3回目で、毎回楽しみにしている。「お客さんがあったらカレーって決めてんの!」と奥さん。快活で楽しい人だから、子どもたちもはじめてお会いしたときからよく懐く。「親戚じゃなくても、もうここは君らにとって田舎やねえ。よかったねえ」と僕は子どもたちに言った。そんなことを彼らは全然聞いてなくて、目一杯はしゃいで遊ぶ。

小椋家に来たときの、この緩急が好きだ。

今日はこのあと立ち寄るところも多いことから、昼過ぎにお暇することになった。その前に小椋さん、「みんなで記念写真を撮りましょう」といって、奥からシャツを持ってきて仏間にみんなをあげてくださった。

小椋さんは写真を撮られることがそんなに好きな人じゃないのに、そのように言ってくれるのがとても嬉しい。ご夫婦とうちの家族4人、そしてお仏壇と神棚もしっかり写った。生きて写っている人間は6人で笑顔爆発みたいな写真じゃないのに、なんとなくわいわいとした賑やかさを感じるのはきっと、ご先祖さまたちもこの一日に興味津々ゆえご参集くださった…のならいいけどなあと、勝手な想像をする。

いつものように、車が見えなくなるまで威風堂々と真っ直ぐ立って見送ってくださる小椋さんを、バックミラーのなかに見続けた。預かったお茶は両手で抱えきれるくらいの量だけど、それ以上の見えない何かを気持ちに満載して、山を下る。

それでも僕は、見えるし、しかも食べられる4度目のカレーを、今から楽しみにしている。


❍ 商品情報

萎凋煎茶 君ヶ畑

滋賀県東近江市君ヶ畑町 小椋武 作

無農薬 無化学肥料 在来種 手摘み

¥ 1,400 / 40g (2022年9月現在)


❍ 煎茶 君ヶ畑の茶畑と製茶について

川下、さらには琵琶湖から海へと至る環境を汚すことがあってはならないとの願いから、政所茶の生産者たちは一切の農薬と化学肥料を使用していない。油かすや山野の落ち葉にすすきといった、有機物だけを茶畑に入れてきた。

大多数のお茶は、種から育った在来種の老木だ。一般的な日本茶は、品種改良したお茶を挿し木などの方法により殖やして栽培するが、品種が一般的でなかったころは種から育てたお茶が当たり前だった。一つ一つの種があわらす遺伝形質が違うため、在来種の茶畑はどこか自由奔放な見た目をしている。味や香りの特徴も少しずつ異なるため、仕上がるお茶はいわば天然のブレンドとなり、あっさりとした飲み口。強い個性はなくても、だからこそ毎日飲んでも飽きない日常茶として生活に寄り添う。

小椋さんのお茶は、地域のおばあちゃん方が、長年の経験による正確で素早い手摘みをおこない、これを短時間日光にあて、また屋内で風通しよく一晩を過ごさせ、製茶工場へと持ち込む。摘んでから工場へ持ち込むまでの間に意図的に茶葉が萎れるが、これは「萎凋(いちょう)」と呼ばれる製茶工程のひとつで、茶葉が水分を失うのに沿って茶葉中の酸化酵素がはたらき、爽やかで清い香りが生まれる。この操作は現在では顧みられることが少なく、効率的に製茶ができる現代的な製茶機械が登場する前、時間のかかる昔のお茶づくりのなかでは生きていた手法だ。



自宅の板間でお茶を萎凋させる様子。ムラの起きないように時々撹拌する必要があるので、このときは夜もゆっくり寝ていられない。やがて状態が良くなってくると、他の部屋にいてもすぐにわかるくらいに、家中に豊かな香りが満ちるという。

2022/07/20

確かなことを求めて


「もしもし、岡村さんですか。検査の結果、陽性でしたので。」

単調な電話をかけてきた病院のスタッフ。こういう電話に明け暮れていて多忙だから、何も聞かず大人しく療養してほしい、そんな気迫をいっぱいにして彼は手短に話した。

最初の3日間ほどは高熱と頭痛がつらかったが、やがて症状がなくなると手持ち無沙汰になった。

携帯の画面では、折しも政治家が銃撃されたことで猫も杓子も一様に色めき立っていた。見たくもない凄惨な写真と動画が繰り返し画面上で再生されている。子どもでも簡単にそういう情報にアクセスできることから分かったのは、地味な配慮よりも耳目を集める刺激が優先されるということだった。悲しいかな、世間はそういう騒ぎを求めているかのようにすら見えた。

家に居てそんな話にばかり触れていると、確かなことが何もなくなってくるのを感じた。フワフワする。全部起きていることなのに、まるで実感がなくて覚束ない。仮想的に外の世界とつながればつながるほどに、自分の生活という感じがしない。手元の画面を見ているのに焦点は定まらず、自分の息遣いや脈がどこか遠くで起きているかのようであり、寝ること、食べることが単調な作業になりかかっていた。

..

僕は携帯電話から意図的に離れることにした。物理的にもなるべく遠くに置いて、各種の通知も少なめに。

それで、畑に行くことにした。療養期間中だけど、どうせ山あいの畑で人と至近距離で話すことなんかないし、そのようがよほど健やかだと考えた。

病気してしばらく行けていなかったから、畑は草に埋もれ、野菜の半分くらいは野生動物の奔放なつまみ食いの対象になっていた。

それでも生活が脅かされる感じがしなかったのは、他者の生産物に依存して暮らしているからであり、いくらか自給するために続けている畑も、レジャーの域を出ていないのを感じた。その中途半端さ加減が情けなかった。

それでも僕はそこに居るかぎり、実体感を限りなく自分の近くに手繰り寄せることができた。噴き出す汗と泥が混じる。草を刈る匂い。そのときの音は台所で菜を切るときと同じ。這いつくばって作業すると、ふと土中から現れる正体不明の虫に得も言われぬ連帯感をおぼえた。急に立ち上がるとめまいがして、同時に微風。汗で張り付く肌着が冷えつつも、再び太陽に熱されるまでに数秒もかからない。僕の息も脈も、そこに確かなものとして、あった。何万回も歌われていそうな「生きてるって感じ」って感じだった。

お金にならない、ただ消耗するだけのその時間が、気持ちよかった。出し切って空になるこの時間がずっと続けばいいのにと心から思った。

..

帰って、ハクビシンと猿が情けをかけて手つかずで残したトマトを冷やさずに切って食べた。何を食べても大して美味しくなかった不調は、打ち寄せる波が綺麗にさらったみたいにして突如消え去った。感覚が澄んで霧が晴れ、視野が広がる。そのときに、治ったと直感した。自己判断。3日ほど前。

以後今日まで、畑の世話をしたり、読みたかった本を読んだり、子どもと学校の話をしたりして過ごした。携帯電話には相変わらずなるべく触らないようにして、気持ちよくないと思うことはなるべくやらないようにした。

生活を調節するときが来たと感じた。明後日からまたお店を開くにあたって、これからどうやって生活するのかを考えるのだ。

店が出来て一年と少し。改めて僕は、随分と自分の健康(特に精神の)を顧みない生活をしていたのを思う。たくさん仕入れてたくさん売ることが美徳だと、そんなふうには思っていなかったはずなのに、振り返ってみれば結果的にはそれを目的とする渦の真ん中にずっと居たのだった。

お金稼がなくちゃ、なぜならお金が必要だから。

融資の返済に固定費、学資、年金に健康保険。

??

僕だって人並みに物欲があるし、やりたいことならいくらでもある。ところがここしばらくというもの、心ここに有らず。お金はいくらあっても福を呼び込むとは限らないことは、前職時代に味わったはずだった。

僕はどういうときに、楽しさ、うれしさ、気持ちのゆとりを感じるのだろう。逆にどういうとき、我慢を自分に課していると感じるのだろう。あなたはどうだろうか。充実とは、いったいどういう精神状態を指すのだろうか。現代の多忙はそれを手短に諦めさせる仕組みになってはいないだろうか。

少なくとも確実に言えるのは、より多く稼ぎ出すことを目的にする行動をとった瞬間から、永遠に手の届かない満足を追い、後悔に終始するということだった。自営7年目、やっと気がついたのかよ。もうひとりの自分が鼻で笑う。

自分の身の丈と向き合い、仕事をいま捉え直すときなのだ。

まず僕がやったのは、6年続けた副業を辞めることだった。収入源のひとつでありながら精神を激しく消耗する仕事だったので、思い切って辞めてしまった。その仕事に大いに世話になりながらも、「主」ではなく「副」とついつい呼んでしまう自分のいい加減さも嫌だった。

これで収入源をひとつ断ったが、不安ではなく大きな安心がまずやって来た。それってつまり、その選択がとりあえず正解ということだ。

次に決めたこと。考えだしたらいくつも出てくる。

お茶をたくさん買いすぎないこと。在庫に対する自分の精神のキャパシティを見極めよう。気持ちで抱えきれないほどの物量を預かってはならない。

売上に一喜一憂しないこと。それよりも、誰と会ってどんな話ができたかをこそ、寿ぐ。

勇気をもって、余計なことをせずにいること。

「仕方ない」の萌芽を見逃さないこと。幸せや豊かさを諦めようとする気持ちが芽を出そうとする瞬間を見逃してはならない。幸せと豊かさの形は社会が提示してくるものではなく、内から湧くものを見極めたい。

畑に今までよりも多く通うこと。残渣を畑で活かし、土となし、そのサイクルのたまものである収穫物を口にすること。

音楽を聴き、いい本を読み、子どもの話を聴き、むやみな発信をやめる。

生活を愛でよう。ふわふわした仮想空間よりも、確かな感覚、実感を大切にしよう。

そんなところだと思う。

..

このように考えるひとつの種になっているのは、いつか満田さんが僕に言ったことだった。

「僕は、岡村君にうちの茶ぁをたくさん売って欲しいとは思ってへんの。岡村君が扱ってくれてるというだけで、満足してんのよ。」

確かなことを求めよう。

2022/05/22

新茶製造見学ツアー

 


2022/5/21

九州から帰るや否や、急いでサンプルを何度も試飲した。感情を抜きにして、自分のものさしだけを頼りにお茶を見るのは困難な作業だが、試される時間でもある。

感情と情景が何度も割って入ってこようとする。それは悪いことではないが、流されてはならないと心に決めてお茶をみる。直感を大切に、かつじっくりと。ひとまず納得のいく拝見ができたように思う。

そうして休む間もなく、今度は東へ向かう準備だ。

滋賀・日野の満田さんのところは在来種の摘み取りと新茶製造の最盛期をちょうど迎えている。きのう21日は11名のお客さまをお連れして茶畑と荒茶工場・再製工場の見学ツアーへ。

これだけたくさんの方をお連れするのは初めてのことだった。

「色々とお気遣いなく。邪魔にならないよう見学させていただきます」と言ったものの、そうは問屋が卸さないのが満田流で、案の定きっちりともてなしの用意がなされてあった。(実際、満田製茶は問屋でもある!)

久樹さん、「おおきに」といつものお出迎えをしてくれた。いつも綺麗な工場だが、この日はとりわけ念を入れて掃除をしてくれたのだなと分かる清らかさ。今を生きる日野商人である。

2年前、1ヶ月をここで過ごして一緒に働いたことが思い出される。

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さて応接室と工場を通り抜け、まずは茶畑へ。まだ摘んでいない一角へ皆さんをお連れした。初めてお茶畑を見たという方が多く、皆さん矢継ぎ早の勢いで質問を飛ばしてくださる。未知の世界を少しずつ押しやり、知っている領域が増えていく感じ。みずみずしく新鮮で、皆さんのわくわくが静電気みたいに伝わってくるのだった。



次いで一行は荒茶製造工場へ。蒸し・揉み込み・乾燥を経て、一定の水分が抜けてしばらくは保存ができる荒茶をつくる工程だ。お茶づくりというと優雅なイメージがありがちだが、現実は危険な大型機械がたくさん稼働する現場が主であることを見てもらえるだけでも価値がある。

小休止を挟んで、再製工場へ。ここでは選別と火入れによる仕上げ工程が行われ、ちょうど和歌山から助太刀に来ていた屈強青年N氏が懇切丁寧に、かつダイナミックに説明くださる。

その後は摘採機を実際に持ってみたり、荒茶製造の工程をじっくり見学したりと、好き好きにお茶の最前線を味わっていただいた。気がつけば4時間程度滞在しており、最盛期にも関わらず落ち着いて応対くださった満田家の皆さんには本当に頭が上がらない。

それぞれにきっと、お茶、そして携わる人に対する感慨を持ち帰り、育んでくれるにちがいない。

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いつものように満田さん達、心からの見送りをしてくださる。しかし今回、僕はお客さんと話すのに夢中になり、ずっと動かずこちらを見送ってくれている満田家に気が付かなかった。

同行したHさんが、あとから教えてくれた。「満田さん、ずっと見てくださっていましたよ」

あちゃー、しまったな。振り返るのすら忘れていたな。でも今回は、様々な世代の方を団体で連れて行くことができた。その団体を見つめる満田家の皆さんの胸に、いったいどのような気持ちが残っただろうか。

あなたのお茶のことが好きで、知りたくて、応援したい人がまだまだたくさんいるということ。その一端を感慨という置き土産にできたなら、今回のツアーは成功だったと言っていいと思う。

少なくとも僕は、いつもとは少し違う感情のままに帰路についた。いつもは、寂しくなる。でも今回、希望が、きっと大丈夫だという確信のようなものが、肺のあたりにさわやかに吹いた。

我々にとって現実世界というものは、実感をともなって認知できる限られた範囲だけのものだ。ならば、世界を変えることはきっとできる。お茶を、人を愛する気持ちがその源になると、僕は満田さんのところへ初めて人を連れていった何年か前からずっとそう信じている。

次回、盛夏の草取りツアーを企画している。今度は援農戦力として、大挙して満田製茶へ押し寄せようと思う。

お茶をめぐる旅に終わりはない。

2022/05/18

言葉にならないことのために

 


熊本に滞在するのも9日目、なかでも馬見原の岩永さんの世話になるのは7日目。明日は午前の飛行機だから、帰るばかりとなった。

今日は一番茶のお茶摘みが終わった樹を剪定して、そのあとは乗用型の摘採機を使ったお茶摘み。もちろん僕は操縦なんて出来ないから、サポートに入る。ごっそりと茶葉を共同工場に運びこんでからは、4日前に荒茶となった釜炒り茶の再製加工を見届けた。

今回は共同製茶工場での製茶から仕上げまでを確認するなかで、この共同工場で作られるお茶の特徴をいっそう確かに理解することができたのも大きな収穫だ。

再製加工を進めるなかで、等級別に茶葉を選別する工程がある。この一部が、2年前から「川鶴」としてお預かりしているお茶だ。在来種だけで仕上げるようリクエストしていて、最終的な色彩選別をする前だけれども、夕食どきに皆で試飲してみると「おいしいね〜!」と歓声があがる。岩永さんのお母さんも満足げ。僕も嬉しくて5煎目まで飲んだ。



とても幸せな瞬間だった。なにしろ今回、岩永さんとお茶摘みからずっとご一緒できた。霜にあたらなかったのは何年ぶりか…と岩永さんもしみじみ感じ入り、良質の芽が摘めたのだ。共同工場での加工も首尾よく進んだ。しばらくすれば風味に落ち着きが出て、さらに美味しく楽しめるお茶になるだろう。(出来立てホヤホヤより、少し落ち着かせたほうが美味しい)

仕上がるまでの様々な(本当に様々な!)苦労があるのを見届けたいま、今年からはいっそう「川鶴」のことが可愛くなりそう。さらに昨日摘んだ在来種の紅茶も美味しく仕上がっており、お疲れの岩永さんもこれにはニッコリ。岩永さんの紅茶は引き合いも増えてきているようで、本当によいことだ。



途中、今日も共同工場では「倉津和」の小﨑さんが製茶を進めていた。出荷用の煎茶づくりだ。合間に奥様が小﨑さんの茶畑のなかでも最も大きなところへ案内してくださる。そこは人里から少し離れた丘の上で、雄大な宮崎県の山脈を臨む場所にある。何の物音もしないその場所は、小﨑さんにとっては自分だけの世界に浸れる特別な場所だ。

今回の旅では息子さんとその奥様にお会いすることも叶い、若い世代とのお付き合いが出来ていくのはとても嬉しい。

トップの写真は、今朝いきなりカメラを向けて「はい、笑ってー!」と言ったときの小﨑さん。大阪での教員生活を経て帰郷、百姓をして生きてこられた。共同製茶工場で、なんとなく小﨑さんだけ他の人と違う雰囲気があって、僕はその感じが好きだ。真面目で、あまり口には出さないけれど、きっと心のなかでは人一倍いろいろなことを考えるタイプの人なのだ。

再開を約束して、しばらくのお別れをした。店ではまだ昨年の釜炒り茶が若干あるが、それがなくなり次第、今年の「倉津和」をご紹介できるようにしたい。「サンプル送ります!」と小﨑さんも言ってくださった。



行ってみる? 行く。

食べてみる? 食べる。

見てみる? 見る。

やってみる? やる。

今回の旅では、無遠慮になることを心がけた。遠慮しても何にもいいことはない。だから足かせになろうとも、そのことはひとまず気にせずに機会をとらえて色々とチャレンジしてみた。(失敗して機械を一部故障させ真っ青にもなったけれど…)

折角の機会に、挑戦しなければ足かせにさえなれない。身の程を知った上で、大して役に立てないという自覚のなか、それでもやってみるしかないのだ。僕は農家ではないから、その苦労全てを身をもって我が事のように体感することは出来ないけれど、その間をちょっとでもいいから埋めたい。

それは販売戦略などではなくて、僕がそうしたいから、そうするだけのことだ。「農家から直仕入れ」と店の看板にも書いてあるけれど、それはプロモーションのためではなく、それ以外のやり方を考えられないからだ。ブレンドも自家焙煎ももはや興味はなく、預かった品物の純度を損なわず、ちょっとだけ僕の言葉をのせてあなたに手渡したい。

そして、そのように行動するとき、農家の皆さんとちょっとだけ気持ちを重ね合わせることができるのが、僕はとても嬉しい。こうして誰かと喜びを共有して生きていくことができれば、きっと自分の一生は幸せだと振り返ることが出来るって、そう思える。

「夫は、岡村さんが釜炒り茶に関心をもって来てくれたことに、とても心を打たれた様子でした」と、茶畑案内の帰りに奥さんがぽつりと言ってくださった。

あるいは岩永さんは、夕食を食べて宿の近くまで送ってくれたとき、手を前で組んでぺこりとなさった。その視線、岩永さんの背負っているものの大きさと相まって、撃ち抜かれる。

岩永さんのお母さんは、「もう、あなたは孫のようなものね」と言ってくれる。

そういうときの、なんとも言えない気持ち。ああ、本当に来てよかったな、でもこの気持ち、どうやって伝えたらいいのだろうと思う。

言葉にならないもののために、来ている。言葉にならないこの何かは、僕が手渡すお茶には、きちんとのっかっているのだろうか。よくわからないけれど、これからも僕は一所懸命にしゃべりつつ、伝えきれないもどかしさを抱いて仕事をするだろう。

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最後に、今回の旅でお世話になった皆様をご紹介します。

馬見原の岩永智子さんとお母様の周子さん。旅のコーディネイトに道先案内、そして茶仕事の先生として多くを教えていただきました。そして水俣の松本和也さん。芦北の梶原敏弘さん、康弘さん、優美子さん。菅尾の小﨑孝一さんとご家族の皆さん。日之影の甲斐鉄矢さんと奥さん。延岡の亀長浩蔵さんとご家族の皆さん。五ヶ瀬の坂本健吾さん。そして菅尾共同製茶工場で働くおっちゃん達。みんな僕にとって釜炒り茶の先生です。

そして、智子さんのお父様である博さん。すでに鬼籍に入られていますが、智子さんと作業をする日々のなかで博さんの存在を感じないときはありませんでした。会っていないのに、知っている感じ。

飛行機のテイクオフが明日の朝に迫ります。寂しいです。

2022/05/16

欲のないお茶

 


昨日で九州も5日目の滞在になった。

日曜日早朝から共同製茶工場にて岩永さんの製茶を見学させていただき、ひととおり出来上がった荒茶をご自宅横にある再製工場へ運び込む。

そのあと、東へレンタカーを走らせた。馬見原を出るとすぐに五ヶ瀬川が流れており、これを渡るともう宮崎県だ。五ヶ瀬、高千穂、日之影といった山の町々を通り過ぎ、延岡市北方町にまで到着した。

この町は地域区分に十二支の名を使っており、今日の目的地は「辰」。ここで親子2代にわたり釜炒り茶の製造を続けておられる亀長家を訪問させていただいた。

応対くださったのは亀長浩蔵さん。Googlemapでの案内だと恐らくたどり着けないからと、最寄りの道の駅で待ち合わせることに。

亀長さんのお茶に興味を持ったのは、たまたまSNSのタイムラインに同氏の情報が現れたからだった。釜炒り茶を作っている方だということで、とりいそぎそのお茶を取り寄せて飲んでみた。

新茶が出来上がる直前の時期だったため「少し待ってもらえたら新茶をお届けできますが」とのご案内だったが、僕は一年経った状態のお茶を確かめてみたくて、去年のものでいいので送ってくださいますかとリクエストした。

このときのことを奥様が覚えていて、「お茶がすごく好きな年配の方なんだと思ってたら、めちゃくちゃ若い人でびっくりした!」と仰った。これと同じようなことはしょっちゅうあるけれど、いずれは僕もお茶が好きな年配の方になるのだ。

さてそのお茶は、いかにも釜炒り然とした香りがきちんと立ち昇り、風味は柔和で苦渋味が少なく、人懐っこいお茶だった。がぶ飲みのお茶だ。「これを昔から作っていて飲み慣れているので、今でも古い機械で作っています」と言わんばかり。熱湯歓迎&香り重視で、食事にもってこいのオールドスタイルだ。

風味からしてこのお茶は施肥をかなり絞っており、外観も市場価値とは一線どころか二線三線を画している。ある意味で欲のないお茶を淡々と作っておられるのだというのが、最初の印象だった。あえて似ているお茶を頭の中で探すなら、それはもう廃業された阿蘇の東さんの釜炒り茶だった。

亀長さんのお茶は、初代にあたるお父さんの代からもう40年あまり農薬を使わないで栽培されてきた。時代があとから追いついてきたという形だ。日野の満田さんのところより10年以上転換が早い。そして肥料にしても土を肥やす有機物のみ使用し、それも使用量をかなり限定的にしている。

植わっているお茶は「うんかい」といい、1970年に品種登録された古いものだ。昭和46年に発行された「九州農業研究第33号」によれば、うんかいは釜炒り茶用に宮崎県で開発されたもので、同じく県内で育成された「たかちほ」を母とする。山間部の雲海のようにしてあまねく普及することを祈って名付けられたという。葉は濃い緑色をしており、樹が幅広で勢いがあるように見えた。



亀長家の茶生産量は必ずしも多くない。それではどのようにして継続してきたかといえば、地域の方々が摘む茶葉を預かり、加工賃とひきかえに製茶する委託加工を重要な業務としてきた。しかしそれも近年は激しく落ち込んでいる。ここに限った話ではなく、滋賀でも、熊本でも、委託加工を受けているところではだいたい状況が似ている。さらには工場で加工にあたる茶師たちも高齢の方が本当に多く、日々の1杯が不安定な状況のもと支えられていることを痛感する。(しかしながらこういうところに居る高齢者の方々は、都会の若者より身体の芯に力がある。流線型のスポーツ体型ではなく、いかにも農業者という逞しい身体だ)

こうした状況のなか、お茶の単価を上げて高級志向としたり、栽培面積を増やしたり、あるいは他の作物を並行して育てて営農したり、または廃業したりと、農家の方々はそれぞれの家ならではの背景と地域の自然環境に応じたスタイルをとっている。

先に触れたとおり、亀長さんの作るお茶は明らかに市場では評価されにくいものだと僕は感じた。なぜなら、茶葉は鈍色に光る深緑ではなく、ちょっと白っぽい。形状もガサっとして細く締まっていない。風味に青さがなく、ほとんど評価基準の対極を地で行っているとしか思えないお茶だった。

見る人が見たらこのお茶は異端だし、香味と外観の欠点をいくつも挙げたくなるだろう。しかしまた別な人が見たら「これこそ昔ながらの釜炒り茶だよ」と言うに違いない。その評価で、その人がお茶をどんなふうに捉えているかがおおむね分かることになる。(ただ、「昔ながら」にもいろいろとある。これは個人のノスタルジーと価値観に関わるから、簡単に定義できない)

思わず満田さんの在来煎茶を思い出す。釜炒り茶も煎茶も、茶種は関係なく、昔スタイルを手放さない人のお茶には、その背景を覗いてみたくなる独特の魅力があるのだ。



「うちの決め手です」と亀長さんが指し示した機械。荒茶づくりの最終段階で締め炒りをする「ぐり茶仕上げ機」というもので、静岡県にて何と昭和28年に製造されたという。僕もこの機械は見たことがない。この機械を使って、お茶の芯まできっちりと火を通し水分を抜くのだ。

先ほど仕上がったばかりという、またホカホカの荒茶を見させていただく。いま出入りしている山都町の菅尾製茶工場で作られる釜炒り茶とはまったく違うキャラクターを持っていた。

宮崎は、県をあげて釜炒り茶のブランド化を推進していて、頼もしい。予算も積極的についている印象で、その後押しあって販売力も経営力もある組織を複数見てきた。勢いのあることは素晴らしいメリットで、釜炒り茶の認知に明らかに寄与していると思う。

反面、デメリットもある。僕は以前、税による予算をふんだんに受けた仕事をしていたから少しだけ分かるのだけれども、公的予算は「色」を無視できないのだ。ゴールがある程度定められた予算があるとき、そのなかで創造性を高めることは簡単ではなくなる。

亀長さんの場合、そのお茶づくりに関しては行政と同じ方向を向いているとは思えなかった。だから大規模な予算がついておらず、古い機械を使い続けるという制約があるのだが、制約のあることは何より独自性につながるものだ。

どちらも良し悪しがあるので、その両輪がある宮崎という土地はすごくおもしろいところ。

亀長さんは本当に柔和な方だったが、方法論に関してはそうとう頑固だ。そういうの、僕は好き。きっとこのような方と僕の仕事は相性がいいと、そう考えている。大阪に帰って落ち着いたら、亀長さんのお茶をご紹介する準備をしたい。

別れ際に、亀長さんはこんなことを仰った。

「25年やってきて、きょう初めて人に褒められたような気がしました」

それは僕もすごく励まされる言葉だった。自分の評価基準を受け入れてくれる人たちが居るのだということ、こちらもまた認めてもらえるのだということ、胸がいっぱいになる。

人はひとりでは生きていけない。自分にばかりフォーカスのあたる時代、お茶はどのようにして生きていくべきかを教えてくれる。

ご夫婦は車が見えなくなるところまでずっと見送ってくれて、バックミラーのなかで夫婦が揺れている。同じ光景を何回も見てきた。東近江の君ヶ畑で小椋さんが、政所で山形さんが、日野の満田さんが、いつもバックミラーのなかで小さくなるのを僕は見ていた。

預かったものは、温かくて大きい。

2022/05/14

馬見原 新茶製造のはじまり

 


熊本 4日目。岩永さんのところでは、今日からお茶摘みが始まった。

ここ馬見原は標高が600mほどあり寒冷なため、同県内のほかの地域と比べてもお茶摘みの開始が遅めになる。

たとえば同じ熊本の芦北や水俣、それに宮崎県の日之影といった地域を訪ねたところ、ほとんど1番茶の茶摘みは終了していた。

昨日までの雨が止む予報だったし、雨雲レーダーによれば今朝の時点で熊本県内で雨の降っている場所はなかった。しかし馬見原では霧雨が昼前まで続いた。山間ではよくあることなのだろうか。そのため、雨が止むとまずは濡れているお茶の露を払ってから、3人がかりで運ぶ摘採機を使って茶摘みが始まった。

摘採機は巨大なバリカンのようなもので、「摘む」とは言うものの実際には刈り取っている。刈った葉は風で後ろの袋に送られる仕組みだ。バリカンを畝の両側で持つ人がふたり、そして袋を持つ人がひとり必要な作業。息が合っていないと皆がシンドイ思いをする作業だから、いつやっても緊張する。

摘んでは袋を取り替えて、茶葉の重量を測ってからトラックに満載にして、同町内の菅尾共同製茶工場へ運び込む。すると、昨日の朝ご自宅でお話を伺った小﨑夫妻がお茶の積み下ろしをしており、これから煎茶の製茶をしようとしているところだった。(小﨑さんは釜炒り茶と煎茶の両方を作っている)

小﨑さん、御年70をゆうに過ぎているし、シンドイと口には出しているものの、高いコンテナからひょいと飛び降りたり、重たいものを平気で抱えていたりする。

さて運ばれた岩永さんのお茶は、共同製茶工場での仕事に携わる様々な方々の連携があって荒茶となる。これは滋賀の政所などで見られる製茶と同じような仕組みだ。

※荒茶は水分量をある程度まで抜き、しばらくの保存に耐えられる状態にしたもの。荒茶は再製加工(選別や再乾燥など)を経て仕上げられ、様々な商品となる。

在来種の荒茶は、とても好ましい感じに出来上がっていた。甘涼しく、本当に出来たばかりの荒茶のさわやかなにおいがする。その香りをここでお届けできないのは残念というか、ここに居るものだけの特権というか、いいだろ〜と自慢したくなるというか(ごめんなさい)。岩永さんも、さらなる仕上げに向けて期待を膨らませている様子で、僕も嬉しく思う。



午後にはヤブキタの茶摘みも行われた。この分の製茶は明日の早朝から工場で行われることになっているので、僕も朝早くからその模様を拝見しに向かうことになった。(基本的に手出しできる部分はなく、目で勉強するばかりだ)

一年の収入を大きく左右する作業が連続する。ややピリっとした雰囲気を全身に受け止めつつ、作業から開放されたあと岩永家の皆さんと囲んだ夕食はたいへん美味しかった。

これら全ての作業の、肌感覚、会話、音ににおい。僕にとっては、他には変えられない財産となる。

馬見原の夜は更けゆく。心地よい疲れとともに、作業はまた明日に続く。おやすみなさい。

2022/05/13

芦北

 


九州の旅、2日目の夜。

昨晩は八代市の日奈久(ひなぐ)温泉で疲れを取った。素泊まりだから朝ごはんをどこかで調達しなければと、宿の近くに売店があるのを発見。80歳くらいのオバちゃんがレジに居て、店内はメチャクチャに散らかっていた。その適当加減がたまらない。これでいいんだよね。

ちょっとだけ立ち話をすると、オバちゃん、数十年前に大阪市内に少しだけ住んでいたというので、奇遇だ。だがその話を掘り下げると確実に長くなりそうだったので、聞きたい気持ちを抑え、僕は話題をお茶に変えた。

「僕、お茶屋をしていまして。熊本の農家さんをまわってるんです」

「へえ…テレビなんかで、こだわってお茶仕入れてますとかいう人たち、たまに見ますけど。ホントにこうして来るんですねえ」

「そりゃそうですよ。来んとわからんことが多いですし、何よりおもろいですからね」

「うちに熊本のお茶あったかな…これは…八女…で、あれは…知覧…。熊本の無いね(笑) それで、本業は何ばしよっとですか?」

「え?これが本業ですよ」

「へええ……ほぉ…」

趣味でやっているのだと思われたようだ。おもしろい。と、オバちゃんと話したそうにしているお爺ちゃんが後ろで待っていたので、僕は店を後にした。

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小雨の道路を今日は再び水俣方面へ向かい、途中の芦北ICで降りる。すぐ西に海がほど近いインターチェンジだが、僕は東へどんどんと走り、山を超えて告(つげ)という集落へ入った。



ここで営農しているのは、釜炒り茶を中心としてお茶づくりを長く続けている梶原家だ。僕が起業した当初からお茶を預けてくださっている。訪問するのは今回で4回目。

園主の敏弘さんは3代目。昭和後期から平成にかけて全国的にリーフ茶の消費が下降線をたどる時代だったが、類まれな製茶センスで切り抜けてこられた凄腕だ。だが御本人はいたって謙虚で、「人様のおかげだよね。本当にそうだよ」と、しみじみと言う。どれほどの苦労が伴う日々を送ってこられたのかは、想像するほかない。

今回は、敏弘さんと奥様の優美子さんはもちろんのこと、もう1人お会いして話を伺いたい方がいた。お二人のご子息である康弘さん(33)だ。トップの写真でちょっとはにかんでいる人。

一度だけお会いしたことがある。2017年の5月、僕は梶原家に泊まって新茶製造の様子を見学した。このとき康弘さんも製茶の模様をじっと見つめ、古い炒り葉機の前で背筋を正して静かに座っておられたのが印象的だった。何より僕とほとんど年が変わらない同世代だ。でもこのときはあまり話すこともなかった。

彼が後継者としてこれから頑張ろうとしているのかなと、ずっとそれが気になっていた。なぜなら、その家の方が後継者となるべくして立ち働いているのはそう多いことではないからだ。そうしているうちに敏弘さんは数年前、古くなった製茶機械の多くを一気に入れ替えた。それは要するに、これから先もずっと長く、家業として釜炒り茶を続けていこうとする強い意志そのものだった。

そうした中、康弘さんはどのような気持ちにあるのかを、僕は知りたかった。

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康弘さんにとって、お茶は子どもの頃から当たり前にある、日常そのものだった。高校生になってからはお茶を摘む時期になると手伝うようになった。

その後は鹿児島大学の農学部に学び、社長が敏弘さんとご縁のあった農業法人に就職。そこで大小様々な規模の農業を目の当たりにした。このあとから康弘さんは実家の仕事をするようになったが、当初の担当はお茶ではなく、大葉や米。大葉は康弘さんが始めた取り組みだそうだ。それが近年、徐々にお茶に関わる割合も増え、今年は最初から最後までひとりで製茶の面倒をみるという場面もあった。

「製茶は想像しながらやっています。原料の状態によって、機械の使い方が本当に違う。たとえば雨が降ったあとのお茶というのは水をよく吸っていて、すごく重たいんです。摘んでるときからそれがわかる。反面、摘むのが遅くなった硬めのお茶は乾きやすい。これらを、各工程で乾きすぎないように、徐々に芯の水を抜いていくのが大切なことです。うちは自園のものだけじゃなくて、委託加工のお茶もあるから、色々な原料が見られて勉強になります」

芯水を抜く重要性は、敏弘さんが出会った当初から何度も口にされていることだった。梶原家のお茶は、昔ながらの釜炒り茶のように強い炒り具合からくる香ばしさではなく、原料の瑞々しさがふくよかな味となって感じられる綺麗な味のすることが特徴的だ。

「お父さんと一緒に働くというのは、どんな気持ちがするものなのですか」と僕は尋ねた。自分も実家が自営業だが、父の仕事(電気工事)をちょっとだけ手伝ったことはあっても本格的に関わったことが一度もないから、康弘さんのような立場の方の気持ちに興味があった。

康弘さんは、かなりゆっくりと考えてから、こう答えた。「仕事で父に甘えてしまっているところがあるから、自分自身のモチベーションを保たないといけないなと思います。もちろん、全く頼らないというわけにはいかないんですけど」



康弘さんは、長くここで農業を続けていくための方法を自分なりに描き始めているようだった。「中堅の規模のところと比べても、うちは小さいほうです。きちんと稼ぎをあげて続けていくために、参考になる茶農家もいます。例えば、大量に作って売る商品と、きっちり目配りして品質にこだわった少量生産のものと組み合わせるとか。あとは、工場の稼働率です。こんなに立派な工場があっても、特に緑茶だとうちは一番茶しか作らないから、年に1回しか稼働しないのが本当に勿体ないなと思います」

そうは言いつつも、康弘さんは傾斜のきつい山間部での農業という制約のあるなか、何でもやれる訳ではないということをよくよく承知しておられた。逆に言えば、昔ながらの製茶方法をずっと継承してきたこと、そして地理的な制約があるなか大量生産ではないものづくりをしていることが、今となっては梶原家の独自性を形作っているのだ。

梶原家は、市場価値を高めることだけにこだわらず、自分たちがよいと思うものを手掛けてきた。敏弘さんたち自身のセンスがあってこそだ。あのお人柄があってこそ様々な人たちを惹きつけ、そのなかで技術を磨いたり、一般のお客さんからのフィードバックを得る機会がたくさんあったのだろうと思う。これについては、彼らに一度でも会ったことのある人なら、うん、絶対そうだよねと言ってもらえるに違いない。

環境や技術のさらに上に、人がある。



まだ康弘さんが仕上げた製品はほとんどなさそうだった。しかしこれから彼とも伴走し、その仕事を自分の店で紹介するのは本当に光栄なことだ。貴重な商品。本当に本当に、心して扱わせていただかなくてはならない。

何気なく商品棚にトンと置いてある梶原家の、たった80g入っているだけの袋。秤で測定することなどとてもできない重さと豊かさをあなたに伝えてくれる。

僕にはその用意ができているから、あとはあなたが、着地の手はずさえ整えてくれたなら。


2022/05/12

伊丹 - 熊本空港 - 水俣

 


今から6年前の2016年4月1日。一年間の育児休業がスタートすると同時に、九州の釜炒り茶を知るための旅に出た。妻とまだ0歳だった娘も一緒に。娘にとっては初めての飛行機。僕たちは天草エアラインで熊本空港に降り立って、レンタカーを借りた。熊本では水俣、八代、芦北。宮崎では五ヶ瀬、高千穂、椎葉をまわった。写真はそのときのもので、娘はまだ急須を触ったことがないし、息子はまだこの世に生まれていないし、妻は包子を作っていないころだ。

その旅で僕は圧倒的な「知らないこと」の大洪水に身を任せるほかなくて、自分は本当に何にも知らないのだと思い知った。知らなくても心から好きなら助けてくれる人もたくさんいることも。

それから6年。娘は小学生になったし、まだ熊本を知らない息子は幼稚園に通う。妻は包子を一所懸命つくって今日も店の営業に励む。熊本は合間に何度も訪ねたけれど、今回はまとまった日数で九州を旅する機会に恵まれた。

お茶の旅は、言葉を探す旅。出会うものごとが自分のなかで何を起こして、どんな言葉が首をもたげるのかを探る時間だ。外の世界に向けた冒険をして、自分の内側から何が出てくるかを探求する。



飛行機のジェットエンジンが激しく回転して、背中が座席に押し付けられ、伊丹空港のターミナルビルが後ろへ飛び去っていく。何度経験してもドラマチックで胸に迫る何かがある。旅だぞ、ついにまた始まったぞ。

鈍色をした大阪の都市風景を眼下に見やり、高度を上げた飛行機は雲の上を飛びもう何も見えない。ここ数日は睡眠時間があまりとれなかったから、あっという間に意識を無くして眠ってしまった。

居眠りから覚め、首の筋が痛い。狭いながらも身体を伸ばしていると、再び雲の下に降りた飛行機から見えるのは、大阪のそれとは対象的な若草色と深緑の田園風景だ。畑の間を縫うようにして走る車は蟻のようだから、人や、急須や、茶さじ1杯の茶葉などはいっそうちっぽけな存在として思い出される。絶対的な尺度でものを見ることは難しくて、相対的にしか感じられないのだ。そういう小さなことに情熱を注ぐことができるのもまた、いい感じがする。

身体も疲れているし、宿で休むだけの予定だった。けれどちょっと時間が工面できるぞと思い、せっかくの機会なのだからと水俣の茶農家である松本和也さんに連絡をしてみた。するとぜひおいでと言ってくださり、僕は熊本空港を出ると九州自動車道から一気に水俣まで南下することにした。



松本さんは、農薬と肥料を使わないお茶を生産する茶農家だ。慣行農法から有機を経て、無施肥のお茶へとシフト。一部に、昭和初期に植えられた在来種の茶畑も所有。煎茶も釜炒り茶も紅茶も幅広く作っている。今は店にはないけれど、彼の萎凋をきかした釜炒り茶を以前たくさん預かっていたことがある。

6年前に松本さんのお宅にお邪魔したとき、ご自宅の敷地内にある段差にレンタカーの片側後輪を落っことした。それで松本さんは笑いながらジャッキやら何やらをあたりから集めてきて、あれよあれよと車の位置を元に戻してくれた。このとき僕は、農家ってすげえ、と感嘆した。

松本さんは頼もしい農家だ。彼の目線はお茶そのものというよりも、食をめぐるあれこれに広く配られている。良いものがきちんと評価されるよう、北海道のように遠いところへでも出かけていって、商品開発や流通に積極的に関わっているのだ。彼の話にはあまりにも登場人物が多く、僕は覚えることをあきらめた。かわりに、彼がたったのひとつも悲観的なことを言わないポジティビティを楽しむことにしている。話している間に、何度も電話が鳴ってあれこれ明るく話しておられた。

今年のお茶をご自宅の裏で急ごしらえしたテーブルでいただき、これまた縦横無尽に行ったり来たりする話を楽しみながら、そのままの勢いで水俣市中心部にある海産物中心の和食屋さんで一緒にごはんを食べた。安いのに、ものすごい量の、それもおいしい料理が出てくる店だった。

ごちゃごちゃ言うて細かいことを気にせず、とりあえずやってみいと、そんな気分になる。旅のはじまりは松本さんの行ったり来たり話から。雨模様の熊本だが、幸先よくスタートした。

松本さんは、夜遅くまでカヌーの自主練習をしているという高校生の息子さんを迎えるため、これまた忙しそうに夜の市街へと消えていった。

お土産に、今年の釜炒り茶をお裾分けしてくださった。店に帰ったとき、この記事を読んだよという方がもし居たら、一緒に飲んで松本さんの話をしようと思う。

2022/02/03

船本さん、お元気ですか

 


2月1日の朝。厚みのある普通郵便が開店準備中に届いた。何となくお茶っぽい。開封してみるとそれはやはりお茶で、どう見ても古風な釜炒り緑茶だった。貴重なものにちがいない。差出人は静岡県で茶栽培の研究にあたっておられる知人の方で、「率直な感想を聞かせてください」と書いてあった。

お茶は静岡産ではなく、坂本孝義さんという熊本県人の方がかなり前に作ったものを保管しておられ、物品整理をしていたときにひょっこり出てきたという。坂本さんは熊本県の行政側から茶業の普及に関わっていたようで、茶に関する論文をいくつも執筆しておられる。

面識の無い方だけれども、きっと何か思い入れがあって作られたものに違いないと確信し、営業時間中の暇を見計らって飲むことにした。

茶葉自体からは、すでに古くなって少しツンとしたにおいがしている。

ざっくばらんなかたちで、大小の葉や茎など混じっている。たぶん、ひとつひとつの樹に個性がある在来種。それを若芽で摘まず、適当に伸ばしたところで機械刈りしたもののようだ。ある程度伸びたものだと味がすっきり素朴な感じになる。

製茶工場で作ったものではなく、丸い鉄釜と薪火で手炒りしているように感じられた。お茶の古くなったにおいと並行して、粗野な煙のにおいがハッキリとついているのだった。まったりした旨味が微かに残っているので、それなりに肥が使われた畑から摘まれたのだと思う。

仕上がったお茶には、そのお茶が辿ってきた道筋がはっきりと残っている。ベロと鼻でそれを探るのは、さながら子ども心をくすぐる探検のようだ。

煎がきくし、素朴でとてもおいしいお茶だ。こんな日本茶とは滅多に出会えない。(でも、一般的なお茶の審査基準からいえば、このお茶は減点要素だらけで門前払いかもしれない)

こんなお茶をわざわざ作り、それを他県の茶研究者に送っているところを思うと、坂本さんには並々ならぬ思い入れがあったのだと察することができる。市場価値のあるお茶と生産者個人が思いを馳せるお茶の間には、往々にして溝がある。これまでも何度も確認してきたけれど、今回もまたそれを目の当たりにする。

小ロット生産の釜炒り茶づくりは、その出来栄えが土地と製法に対する生産者の思い入れと真っ直ぐに地続きだ。何を思ってそういうお茶をつくっているのかがわかりやすく、僕は好きだ。坂本さんのお茶を飲んで、改めてその生産者がお茶に込めている気持ちの奥深さと思い入れの強さに感じ入る。

坂本さんのお茶を飲んで、すぐに思い出した人がいる。同じく熊本県は八代市の山中にある泉町(旧泉村)の、船本繁男さんがつくった釜炒り茶だ。



船本さんは、僕が釜炒り茶のおもしろさに取り憑かれるきっかけを最初に与えてくれた人だ。はじめて飲んだ釜炒り茶、それはそれはおいしかった。こんなにおいしい素直なお茶があるのに、どうして今まで知らなかったのだろう?

知りたい。見たい。

それで僕はツテをたどり、何年かの時間をかけ、熊本・宮崎・長崎・奈良・静岡の生産者にお会いした。初めて数えてみたところ、13軒前後の生産者にお会いしている。

13人の農家がいれば13通りのスタイル。誰一人として同じような立場にある人は居なかった。希少性だけが語られがちな釜炒りのお茶のなかにも、当たり前なのだけれど、千差万別な栽培、製茶、そして思想の違いがあることがわかった。「希少」のイメージとは真逆で、それらはとても豊かだった。

船本さんは、工場の老朽化と年齢を理由に、2021年に茶業を終えられた。5回ほどお会いしてご自宅の居間で一緒にお茶を囲み、彼の釜炒り茶に対する気持ちを何度も聞いたこと、そして目の前で昔ながらのお茶を一所懸命につくり、それを全量僕に預けてくれたこと、どれも忘れられない。



繁男さんなら、きっと自分と同じようなお茶をつくった坂本さんのことを知っているだろう。そう思って、久しぶりに繁男さんの声を聴きたくて、電話をかけた。

1回目の電話に出てくれたのはお母さんだった。この人はいつもちょこんと柱にもたれ、足を伸ばして洗濯物を畳んでいた。僕の最初の熊本ご飯は、この人の料理だ。いっぺんに熊本がスキになった。

「お母さん、こんにちは。大阪の岡村です。お久しぶりですけども、お元気ですか?」

「やっと生きとる。ははは」

「なにをなにを。お元気そうやないですか。今日は繁男さんに聞きたいことがあって電話したんですけども、おられますか?」

「出かけよらして、家におらん。いつ戻るかもわからん」

ということで出直すことになったけれども、お母さんの声が聞けてよかった。繁男さんが不在だということはつまり、車でどこかに遊びに行っているということだ。それはそれで健在なのが分かって、よかった。

翌日の電話でようやく繁男さんと話すことができた。※繁男さんの愛すべきコッテリ熊本弁を僕は再現できないので、以下はふつうの話し言葉に置き換える。(次回から録音して文字に起こしたい…)

「繁男さん、ほんまに久しぶりですね!!お元気にしておられましたか。昨日はどっかにお出かけやったみたいですけど、車で、ですか」

「もう84になったな。昨日は車でなあ、ちょっと盆栽友達のとこへ、な」

「泉村は車がないと動けませんもんね。でも運転までして、お元気そうで。よかったです」

「もうなあ、84にもなって、お茶の味がわからんなった。ははは」

「いやいや。そんなことないでしょ!去年から家のお茶づくりは終えられましたけど、今はどういうお茶を飲んでんのですか」

「まだ去年までにつくったやつがあるから、それを飲んでる。釜炒りっていうお茶は、古くなっても飲めるもんね。いい茶だと煎茶より釜炒りのほうが長持ちするもんな。たまに自分がつくった古いやつを冷蔵庫から出してきて飲むけど、10年もんでも、飲まれんことはないな」

「以前、20年くらい前のやつを飲ませてくださったこともありましたね。それもおいしかった」

「釜炒りというのは、肥料っ気がない在来種がいちばんうまいな。香りが違う」

「無肥料・在来種なんて、そういうお茶は本当に少ないですね。たくさん量をつくることもできないし」

「たくさんつくろうと、欲出したらだめなんです。身体のよく動いたときには、釜をいくつか据えていっぺんに作ろうとしたこともある。でも、欲出して量つくろうとすると、だめだ。ひと釜が限界だな。たくさんつくってブレンドするのもむずかしい。お茶っつうのは、良いのと悪いのを合したら(混ぜたら)悪くなるの。1足す1は2というはずなんだけれども、お茶に関しては、1足す1が、1にしかならんということ。悪い茶は、強い」

それからいよいよアクセルが存分にかかって、さっき「お茶の味がわからん」と言った繁男さん、とめどなく釜炒り茶のこだわりについて語りが止まらなくなった。この人、本当に数年前からお茶づくりをやめていたのだろうか。僕はいくつかの熊本弁がわからなくて聞き返しながら、繁男さんがだんだん熱っぽくなってくるさまを楽しく聴くことができた。

繁男さんは盆栽に凝っている。山を背にした小高い斜面のてっぺんにある家の周囲は、盆栽だらけだ。見る人が見たら、すごいコレクションなのかもしれない。

「遠いとこにいる茶農家で会いに行きたい人もいるけど、これ(盆栽)がな…」

繁男さんによれば、盆栽の水やりは一日たりとも欠かせない。家族に任すつもりもなさそうだ。

「また、熊本に来ることがあったら、ここも寄ってな」

「早く行って、お茶を囲んでしゃべりたいですね。いまは世の中がこんなんやから、なかなか動きづらいんですけど、必ず行きますからお達者でいてくださいよ!」

「はいはい。ありがとうね、ありがとうね」


船本さんのお茶はすでに在庫もなく、今後も入荷しません。

現在当店では、以下の方々から釜炒り茶を預かってご紹介していますので、この記事をお読みくださり「なんだろう」とちょっとでも引っかかった方は、ぜひうちに試飲しに来てくださいね。

・熊本県芦北町 梶原敏弘さん「芦北釜炒り茶」

・熊本県山都町 岩永智子さん「川鶴釜炒り茶」

・熊本県山都腸 小﨑孝一さん「倉津和釜炒り茶」

・奈良県山添村 栢下裕規さん「天日干し釜炒り茶」

※ちなみに包子部で扱っている台湾茶「四季春」「古式凍頂」の2種も、製法からいえば釜炒りのお茶です。

どれもこれも違う味です。船本さんのお茶は、このいずれとも違う独特の個性がありましたが、私なりに釜炒り茶全体に通ずる良さをきちんと持っているものを選んでいるつもりです。


坂本さんのお茶を飲んで、久しぶりに船本さんともお話ができ嬉しかった。そんな記事でした。

肝心の船本さんと坂本さんの関係ですが、プライベートなことも含まれるためあえて伏せて書きました。でも、面識はあった。よかった。

2022/01/08

記憶の再生と先延ばし

 




1月6日。祖母に新年の挨拶をしようと思い「おばあちゃん、あけましておめでとう。夕方ごろ家におるか」と電話をしたら、適当につくるから晩ごはんを食べて帰ればよいとのこと。

18時。妻と子どもたち2人を連れて、高槻市の上牧にある祖母宅へ着いた。祖母は5年前に夫を亡くしてから一人暮らしだが、気丈なものでやることに事欠かない。僕の小さかった30年前と比べて、80歳になった今も外見があまり変わっていない。「あと何年生きられるかわからんよ」と祖母は言えど、10年は堅そうに見えるし、100まで生きても一族郎党のうち誰もきっとびっくりしない。

かつてはこの家に、祖父母、僕の両親と妹に叔父夫妻が集まり、大いに賑わった。テーブルをふたつ並べ、小さな居間で肩を寄せて食事をした。祖父はニッカウイスキーをどんどんあおり、煙草はおきまりのハイライト。酒がすすむと口の悪くなる祖父だったが、酔えば酔うほど孫に甘くなる。僕や妹が大学生になっても酔った祖父は僕らの頭を撫でた。「友よ、友よ、おまえはほんまにかわええ子…」と、べろんべろんの祖父が言った。あの赤ら顔。アルコールのにおい。ステテコと腹巻き…なつかしくて涙がでる。

日本茶はその風景のなかに必ずあった。大きな白磁の急須に赤や緑で絵付けがしてあって、同じような湯呑みが並ぶ。祖母がスーパーで選んできた八女茶や知覧茶がセットしてあり、祖父の横に置いてあるポットからおのおの好きに湯を注いで飲む。茶葉の量なんか目分量で、熱湯しか使わないスタイルだ。僕は今でも常日頃からそうやってお茶をのむ。いろいろ試したけど、結局これが自分には合う。

流石に今はやらないけれど、祖母はお茶が薄くなったら茶葉を入れ替えるのではなく、茶缶から茶葉を追加投入した。急須のなかの金属カゴは茶殻でぱんぱんになっていて、蓋を押し上げようとした。なつかしい。

現在、そんなふうに集まることはほとんどない。悪酔いは考えものだが孫に甘い好々爺は仏壇からこちらを見ている。どこか人間味ある昭和のエアコンもテレビも洗濯機もなくなって、見栄えのする最新家電に置き換わった。変わらないのは瀬戸大橋の色あせたパズルが30年くらい壁にかかったままなのと、祖母のあっけらかんとした性格くらいだ。

祖母は僕らのために鍋を炊き、スーパーの握り寿司を買っておいてくれた。小さいころから食べ慣れた手づくりの茶碗蒸しもあったし、大根の甘い漬物と、ご自慢の煮た黒豆、みかんにアイスクリームと、相変わらず次から次へと食べるものが出てくる。

娘は祖母の黒豆をひとつひとつ無言で食べ続け、息子は大根の漬物をひっつかんでバリバリ噛んでいる。何も言わないが食べ方でよほどうまいのだとわかる。僕も同じような家庭料理を食べさせてもらって育ったから、こういうものの味をどうか覚えておいてほしい。

食後、祖母がお茶を淹れてくれた。ポットはもう無くて、いつの間にかティファールが台所にある。急須はカゴつきのものではなく、注ぎ口に茶こしのついている。こちらのほうがおいしくお茶は入るけれど、かえって昔の道具がなつかしいような気持ちがする。

祖母は滋賀県の日野町出身だ。当店でおなじみの日野町満田家のお茶は、祖母の出身地であることから縁がつながり、今では看板商品になった。祖母にとっては田舎のお茶だから、ときどきプレゼントしている。

祖母のお茶の淹れ方は相変わらずで、手順と細部の所作にこだわる人が見たら卒倒するかもしれない。なにもかもが適当だけど、それだから誰にも真似のできない家庭の風景にちがいない。これこそ日常のお茶のありさまであり、祖母が、雑多だけれども慎ましくてモノを大切にしながら暮らしている空間のなかでこそ引き立つ、ならではのおいしさだ。

祖母にしかあのお茶は淹れられないし、もっと言えば、祖母と僕の間柄に生きている記憶が土台にあってこそのおいしさだ。使うお茶が変わってもその味わいが変わることがない。五感をはたらかせてお茶と向き合っているのではなくて、自分のなかにある記憶を再生し、それを感じているからだ。

もうこの世に居ない人たちも一緒に囲んだテーブルの、その賑わい。ご馳走のにおい、カチャカチャと誰かが洗い物をする音、頬の熱くなる卓上コンロの青い火、アルコールの高揚と煙草の煙、そしてみんなが居るという安心感を、再生する。月日が経ってだんだんと記憶から薄れていこうとするその摂理に抗うようにして、祖母のお茶は、あの頃を忘れてはならぬ、忘れてはならぬと繰り返し訴える。

きっと誰しもに、こうした食材があるのだろう。

いつまで生きられるかわからんでと笑う祖母に「わはは、おばあちゃんなら大丈夫やわ。90は堅いわ」と言葉では返すけれども。

先延ばしにしたい命の限りがこちらを直視するのをなるべく無視しようとして僕は祖母のお茶を飲む。あと何度、このお茶が飲めるだろうか。不安が大きくなろうとする前に僕たちは荷物をまとめて暇乞いをした。氷点下に迫る寒さが邪念を断ち切ってくれるけれど、ぽつねんと一人寝支度をする祖母の姿がぼうっと胸に浮かんでは、わが子が何気なく話しかけてくるたびに消えていく。

このえも言われないさみしさ。祖父母の注いでくれた愛情が、いまこうしてずきずき痛む感傷となって、しっかり生きねばと日々の支えになっているようだ。

自宅に戻って布団に入ると4歳の息子は不安そうにこう言った。

ねえ、お父さんとお母さん、お父さんとお母さんは、おじいちゃんとおばあちゃんにならないでほしいよ お父さんとお母さんが、おじいちゃんとおばあちゃんになった顔を、見たくないよ

大丈夫、大丈夫、そんなんずっとずっと先のことやから、とまた僕は先延ばしをした。