九州の旅、2日目の夜。
昨晩は八代市の日奈久(ひなぐ)温泉で疲れを取った。素泊まりだから朝ごはんをどこかで調達しなければと、宿の近くに売店があるのを発見。80歳くらいのオバちゃんがレジに居て、店内はメチャクチャに散らかっていた。その適当加減がたまらない。これでいいんだよね。
ちょっとだけ立ち話をすると、オバちゃん、数十年前に大阪市内に少しだけ住んでいたというので、奇遇だ。だがその話を掘り下げると確実に長くなりそうだったので、聞きたい気持ちを抑え、僕は話題をお茶に変えた。
「僕、お茶屋をしていまして。熊本の農家さんをまわってるんです」
「へえ…テレビなんかで、こだわってお茶仕入れてますとかいう人たち、たまに見ますけど。ホントにこうして来るんですねえ」
「そりゃそうですよ。来んとわからんことが多いですし、何よりおもろいですからね」
「うちに熊本のお茶あったかな…これは…八女…で、あれは…知覧…。熊本の無いね(笑) それで、本業は何ばしよっとですか?」
「え?これが本業ですよ」
「へええ……ほぉ…」
趣味でやっているのだと思われたようだ。おもしろい。と、オバちゃんと話したそうにしているお爺ちゃんが後ろで待っていたので、僕は店を後にした。
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小雨の道路を今日は再び水俣方面へ向かい、途中の芦北ICで降りる。すぐ西に海がほど近いインターチェンジだが、僕は東へどんどんと走り、山を超えて告(つげ)という集落へ入った。
ここで営農しているのは、釜炒り茶を中心としてお茶づくりを長く続けている梶原家だ。僕が起業した当初からお茶を預けてくださっている。訪問するのは今回で4回目。
園主の敏弘さんは3代目。昭和後期から平成にかけて全国的にリーフ茶の消費が下降線をたどる時代だったが、類まれな製茶センスで切り抜けてこられた凄腕だ。だが御本人はいたって謙虚で、「人様のおかげだよね。本当にそうだよ」と、しみじみと言う。どれほどの苦労が伴う日々を送ってこられたのかは、想像するほかない。
今回は、敏弘さんと奥様の優美子さんはもちろんのこと、もう1人お会いして話を伺いたい方がいた。お二人のご子息である康弘さん(33)だ。トップの写真でちょっとはにかんでいる人。
一度だけお会いしたことがある。2017年の5月、僕は梶原家に泊まって新茶製造の様子を見学した。このとき康弘さんも製茶の模様をじっと見つめ、古い炒り葉機の前で背筋を正して静かに座っておられたのが印象的だった。何より僕とほとんど年が変わらない同世代だ。でもこのときはあまり話すこともなかった。
彼が後継者としてこれから頑張ろうとしているのかなと、ずっとそれが気になっていた。なぜなら、その家の方が後継者となるべくして立ち働いているのはそう多いことではないからだ。そうしているうちに敏弘さんは数年前、古くなった製茶機械の多くを一気に入れ替えた。それは要するに、これから先もずっと長く、家業として釜炒り茶を続けていこうとする強い意志そのものだった。
そうした中、康弘さんはどのような気持ちにあるのかを、僕は知りたかった。
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康弘さんにとって、お茶は子どもの頃から当たり前にある、日常そのものだった。高校生になってからはお茶を摘む時期になると手伝うようになった。
その後は鹿児島大学の農学部に学び、社長が敏弘さんとご縁のあった農業法人に就職。そこで大小様々な規模の農業を目の当たりにした。このあとから康弘さんは実家の仕事をするようになったが、当初の担当はお茶ではなく、大葉や米。大葉は康弘さんが始めた取り組みだそうだ。それが近年、徐々にお茶に関わる割合も増え、今年は最初から最後までひとりで製茶の面倒をみるという場面もあった。
「製茶は想像しながらやっています。原料の状態によって、機械の使い方が本当に違う。たとえば雨が降ったあとのお茶というのは水をよく吸っていて、すごく重たいんです。摘んでるときからそれがわかる。反面、摘むのが遅くなった硬めのお茶は乾きやすい。これらを、各工程で乾きすぎないように、徐々に芯の水を抜いていくのが大切なことです。うちは自園のものだけじゃなくて、委託加工のお茶もあるから、色々な原料が見られて勉強になります」
芯水を抜く重要性は、敏弘さんが出会った当初から何度も口にされていることだった。梶原家のお茶は、昔ながらの釜炒り茶のように強い炒り具合からくる香ばしさではなく、原料の瑞々しさがふくよかな味となって感じられる綺麗な味のすることが特徴的だ。
「お父さんと一緒に働くというのは、どんな気持ちがするものなのですか」と僕は尋ねた。自分も実家が自営業だが、父の仕事(電気工事)をちょっとだけ手伝ったことはあっても本格的に関わったことが一度もないから、康弘さんのような立場の方の気持ちに興味があった。
康弘さんは、かなりゆっくりと考えてから、こう答えた。「仕事で父に甘えてしまっているところがあるから、自分自身のモチベーションを保たないといけないなと思います。もちろん、全く頼らないというわけにはいかないんですけど」
康弘さんは、長くここで農業を続けていくための方法を自分なりに描き始めているようだった。「中堅の規模のところと比べても、うちは小さいほうです。きちんと稼ぎをあげて続けていくために、参考になる茶農家もいます。例えば、大量に作って売る商品と、きっちり目配りして品質にこだわった少量生産のものと組み合わせるとか。あとは、工場の稼働率です。こんなに立派な工場があっても、特に緑茶だとうちは一番茶しか作らないから、年に1回しか稼働しないのが本当に勿体ないなと思います」
そうは言いつつも、康弘さんは傾斜のきつい山間部での農業という制約のあるなか、何でもやれる訳ではないということをよくよく承知しておられた。逆に言えば、昔ながらの製茶方法をずっと継承してきたこと、そして地理的な制約があるなか大量生産ではないものづくりをしていることが、今となっては梶原家の独自性を形作っているのだ。
梶原家は、市場価値を高めることだけにこだわらず、自分たちがよいと思うものを手掛けてきた。敏弘さんたち自身のセンスがあってこそだ。あのお人柄があってこそ様々な人たちを惹きつけ、そのなかで技術を磨いたり、一般のお客さんからのフィードバックを得る機会がたくさんあったのだろうと思う。これについては、彼らに一度でも会ったことのある人なら、うん、絶対そうだよねと言ってもらえるに違いない。
環境や技術のさらに上に、人がある。
まだ康弘さんが仕上げた製品はほとんどなさそうだった。しかしこれから彼とも伴走し、その仕事を自分の店で紹介するのは本当に光栄なことだ。貴重な商品。本当に本当に、心して扱わせていただかなくてはならない。
何気なく商品棚にトンと置いてある梶原家の、たった80g入っているだけの袋。秤で測定することなどとてもできない重さと豊かさをあなたに伝えてくれる。
僕にはその用意ができているから、あとはあなたが、着地の手はずさえ整えてくれたなら。
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