2022/05/16

欲のないお茶

 


昨日で九州も5日目の滞在になった。

日曜日早朝から共同製茶工場にて岩永さんの製茶を見学させていただき、ひととおり出来上がった荒茶をご自宅横にある再製工場へ運び込む。

そのあと、東へレンタカーを走らせた。馬見原を出るとすぐに五ヶ瀬川が流れており、これを渡るともう宮崎県だ。五ヶ瀬、高千穂、日之影といった山の町々を通り過ぎ、延岡市北方町にまで到着した。

この町は地域区分に十二支の名を使っており、今日の目的地は「辰」。ここで親子2代にわたり釜炒り茶の製造を続けておられる亀長家を訪問させていただいた。

応対くださったのは亀長浩蔵さん。Googlemapでの案内だと恐らくたどり着けないからと、最寄りの道の駅で待ち合わせることに。

亀長さんのお茶に興味を持ったのは、たまたまSNSのタイムラインに同氏の情報が現れたからだった。釜炒り茶を作っている方だということで、とりいそぎそのお茶を取り寄せて飲んでみた。

新茶が出来上がる直前の時期だったため「少し待ってもらえたら新茶をお届けできますが」とのご案内だったが、僕は一年経った状態のお茶を確かめてみたくて、去年のものでいいので送ってくださいますかとリクエストした。

このときのことを奥様が覚えていて、「お茶がすごく好きな年配の方なんだと思ってたら、めちゃくちゃ若い人でびっくりした!」と仰った。これと同じようなことはしょっちゅうあるけれど、いずれは僕もお茶が好きな年配の方になるのだ。

さてそのお茶は、いかにも釜炒り然とした香りがきちんと立ち昇り、風味は柔和で苦渋味が少なく、人懐っこいお茶だった。がぶ飲みのお茶だ。「これを昔から作っていて飲み慣れているので、今でも古い機械で作っています」と言わんばかり。熱湯歓迎&香り重視で、食事にもってこいのオールドスタイルだ。

風味からしてこのお茶は施肥をかなり絞っており、外観も市場価値とは一線どころか二線三線を画している。ある意味で欲のないお茶を淡々と作っておられるのだというのが、最初の印象だった。あえて似ているお茶を頭の中で探すなら、それはもう廃業された阿蘇の東さんの釜炒り茶だった。

亀長さんのお茶は、初代にあたるお父さんの代からもう40年あまり農薬を使わないで栽培されてきた。時代があとから追いついてきたという形だ。日野の満田さんのところより10年以上転換が早い。そして肥料にしても土を肥やす有機物のみ使用し、それも使用量をかなり限定的にしている。

植わっているお茶は「うんかい」といい、1970年に品種登録された古いものだ。昭和46年に発行された「九州農業研究第33号」によれば、うんかいは釜炒り茶用に宮崎県で開発されたもので、同じく県内で育成された「たかちほ」を母とする。山間部の雲海のようにしてあまねく普及することを祈って名付けられたという。葉は濃い緑色をしており、樹が幅広で勢いがあるように見えた。



亀長家の茶生産量は必ずしも多くない。それではどのようにして継続してきたかといえば、地域の方々が摘む茶葉を預かり、加工賃とひきかえに製茶する委託加工を重要な業務としてきた。しかしそれも近年は激しく落ち込んでいる。ここに限った話ではなく、滋賀でも、熊本でも、委託加工を受けているところではだいたい状況が似ている。さらには工場で加工にあたる茶師たちも高齢の方が本当に多く、日々の1杯が不安定な状況のもと支えられていることを痛感する。(しかしながらこういうところに居る高齢者の方々は、都会の若者より身体の芯に力がある。流線型のスポーツ体型ではなく、いかにも農業者という逞しい身体だ)

こうした状況のなか、お茶の単価を上げて高級志向としたり、栽培面積を増やしたり、あるいは他の作物を並行して育てて営農したり、または廃業したりと、農家の方々はそれぞれの家ならではの背景と地域の自然環境に応じたスタイルをとっている。

先に触れたとおり、亀長さんの作るお茶は明らかに市場では評価されにくいものだと僕は感じた。なぜなら、茶葉は鈍色に光る深緑ではなく、ちょっと白っぽい。形状もガサっとして細く締まっていない。風味に青さがなく、ほとんど評価基準の対極を地で行っているとしか思えないお茶だった。

見る人が見たらこのお茶は異端だし、香味と外観の欠点をいくつも挙げたくなるだろう。しかしまた別な人が見たら「これこそ昔ながらの釜炒り茶だよ」と言うに違いない。その評価で、その人がお茶をどんなふうに捉えているかがおおむね分かることになる。(ただ、「昔ながら」にもいろいろとある。これは個人のノスタルジーと価値観に関わるから、簡単に定義できない)

思わず満田さんの在来煎茶を思い出す。釜炒り茶も煎茶も、茶種は関係なく、昔スタイルを手放さない人のお茶には、その背景を覗いてみたくなる独特の魅力があるのだ。



「うちの決め手です」と亀長さんが指し示した機械。荒茶づくりの最終段階で締め炒りをする「ぐり茶仕上げ機」というもので、静岡県にて何と昭和28年に製造されたという。僕もこの機械は見たことがない。この機械を使って、お茶の芯まできっちりと火を通し水分を抜くのだ。

先ほど仕上がったばかりという、またホカホカの荒茶を見させていただく。いま出入りしている山都町の菅尾製茶工場で作られる釜炒り茶とはまったく違うキャラクターを持っていた。

宮崎は、県をあげて釜炒り茶のブランド化を推進していて、頼もしい。予算も積極的についている印象で、その後押しあって販売力も経営力もある組織を複数見てきた。勢いのあることは素晴らしいメリットで、釜炒り茶の認知に明らかに寄与していると思う。

反面、デメリットもある。僕は以前、税による予算をふんだんに受けた仕事をしていたから少しだけ分かるのだけれども、公的予算は「色」を無視できないのだ。ゴールがある程度定められた予算があるとき、そのなかで創造性を高めることは簡単ではなくなる。

亀長さんの場合、そのお茶づくりに関しては行政と同じ方向を向いているとは思えなかった。だから大規模な予算がついておらず、古い機械を使い続けるという制約があるのだが、制約のあることは何より独自性につながるものだ。

どちらも良し悪しがあるので、その両輪がある宮崎という土地はすごくおもしろいところ。

亀長さんは本当に柔和な方だったが、方法論に関してはそうとう頑固だ。そういうの、僕は好き。きっとこのような方と僕の仕事は相性がいいと、そう考えている。大阪に帰って落ち着いたら、亀長さんのお茶をご紹介する準備をしたい。

別れ際に、亀長さんはこんなことを仰った。

「25年やってきて、きょう初めて人に褒められたような気がしました」

それは僕もすごく励まされる言葉だった。自分の評価基準を受け入れてくれる人たちが居るのだということ、こちらもまた認めてもらえるのだということ、胸がいっぱいになる。

人はひとりでは生きていけない。自分にばかりフォーカスのあたる時代、お茶はどのようにして生きていくべきかを教えてくれる。

ご夫婦は車が見えなくなるところまでずっと見送ってくれて、バックミラーのなかで夫婦が揺れている。同じ光景を何回も見てきた。東近江の君ヶ畑で小椋さんが、政所で山形さんが、日野の満田さんが、いつもバックミラーのなかで小さくなるのを僕は見ていた。

預かったものは、温かくて大きい。

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