2024/02/21

雨は西北から来る // 阿波晩茶(上勝町)

 


「春先のぬくいころなんか、静かなもんじょ」

谷を見下ろす高台に家を構えるその生産者は、縁側に座ってこのようにぽつりと言葉をこぼした。2月の雨風で少し荒れそうな冷たい風景に、記憶のなかの風もない春が温かく覆いかぶさって、何とも言われぬ気持ち良さが心中に満ちた。ああ、本当にそれはそれは素晴らしい眺めで、まるで「日本昔ばなし」みたいな情景なのだろう。というかそういう情景があってこそ、あのアニメのタッチが生まれたのだろう。またこの土地へ来てやっぱり正解だった…。と、話に夢中になるあまり湯呑みのなかでもう冷たくなった晩茶を飲み干しながら、感じ入った。

数年前まで阿波晩茶を預けてくださっていた同町内神田地区の畑中さんが事情あってお茶づくりをお辞めになられてから、上勝町との縁はあまりないままだった。それがあるとき、大阪での催事で阿波晩茶を販売している男性と出会った。百野さんという、どことなく百姓然としてこざっぱりした感じのその人は、自らも晩茶を作りながらも地域内の生産者たちから茶葉を預かり全国へ向けて販売をしているとのことだった。

急がず、また何かが巡ってきたらきっとこの人に連絡をしよう、そう思って何年も経ってから今の店ができて、そろそろまた晩茶をお迎えしたいなと感じ、思い立ったが何とかの法則によって百野さんに連絡をした。やがて徳永さんという、今回ご縁あってお茶をお預かりすることになった生産者さんと引き合わせていただけることになった。

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朝の4時、いつもならそんな時間に目覚まし時計が鳴っても起きたくなくてしばらく粘るところ、お茶の話となれば別なもので熟睡する家族を尻目にさっと起きた。洗面トイレ。米と漬物と目玉焼きとじゃこと味噌と茶を急いでかきこみ、行ってきますも言わずに家を飛び出し車に乗った。

渋滞に巻き込まれず行けるところまで早めに行こうと思ったが、ガソリンの残りが微妙に不安になってスタンドに立ち寄る。そのときタイヤの空気が頼りないような気がしたが、急ぎたかったので無視して高槻ICから新名神高速道路に乗る。何の支障もなくまだ真っ暗な空の下を、とことんCDの音量を上げて走るのは気持ちがよいのだけれども、あるとき急にタイヤのことが気になり始めた。ほんまに大丈夫やろか。途中でペコペコになって大変なことにならんやろか。ああ、近所のスタンドでまじめに空気を確認すればよかった。

道路の凹凸によるひとつひとつの上下が、タイヤの故障によるのではないか、ああこれはさっきのスタンドが人生の帰路だったかも、そもそも心配性なのにどうしてタイヤを無視したのか…と徳島どころではなくなってきたとき、聴いていたCDからとどめのワンフレーズが聞こえてきた。

Call the paramedics, paramedics to carry away this pain

(救命救急士を呼べ この痛みを奪ってくれ)

そうなる前になんとかせよと、御神託と思しきフレーズ。直後、目前に宝塚北サービスエリアの看板。僕は(想像のうえでは満身創痍の)車を、運良く有人ガソリンスタンドに滑り込ませることができた。事務所のドアを叩き、出てきてくれた男性が偉人に見えた。

「すみませんが空気圧の見方がわからないので教えていただけませんか」僕は12年も車に乗っているのに空気圧点検のやり方も知らず生きてきたことに気がついて恥ずかしくなった。およそ午前6時、タイヤのひとつひとつに空気を注入すると、車がほんの少し浮き上がった。もしかしてやばかったのかもしれない。「そんなに抜けてるようには見えませんけどね」とスタッフさんは言った。2024年2月19日午前6時ごろ、宝塚北サービスエリアのエネオスで勤務していた彼が、今回の旅を支えてくれたといっても過言ではないのだった。彼はとくに名乗らなかった。(僕が聞かなかったからだ)

機嫌よく高速道路を進み、順調に神戸を抜け、明石海峡、淡路島、鳴門海峡。そして鳴門ジャンクションで道を誤り、出口へ向かってしまった。どこへ行こうというのかね。料金所で、「間違えましたもう一度高速に乗せてください御免なさい」の旨を申し出ると、野性爆弾のくっきーみたいなお兄さんはインカムで事務所と連絡を取り合った。やがて事務所の人が地下道を通って必要書類を持って現れたが、栄養失調の小松菜みたいな風貌のおじさんが出てきたのは隣の料金窓口の横にある出口からだった。「どーこ行ってんねん!!」と、くっきーは窓を何かしらの書類でばんばん叩いて合図した。小松菜氏が今一度地下に潜って今度こそこちらの窓口に現れるが、いろいろモタモタしている。僕もくっきーが怖くてハラハラしてきた刹那、再びくっきーは雄叫びをあげてエキサイトした。小松菜氏はこれを回避する術を心得ているとみえ、あまり聞いていなかった。僕が道を間違えなければ月曜の早朝からこんな目に遭わなかったというのに、本当に申し訳のないことをした。

「じゃ、また一般道からこっちに戻ってきたら、ETCカードは入れずにインターホン押して呼んでください!」といたって爽やかにクッキーは僕に行った。人間はこのように相手によって態度を変えられる器用な動物なのだと関心したのと、小松菜氏への申し訳なさをともに抱いて、僕は渦巻きの一つをも見ることなく鳴門市に別れを告げた。そういう訳で、無用のエキサイトを避けるためにも、鳴門インターチェンジでは間違っても係員の世話になるような真似はしないよう心がけて頂きたいと思う。

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いつになったら上勝の話になるのかとそろそろ誰しもが怒りを抱きはじめる頃合いだという自覚はあるので、いよいよその話に移ります。(気にならなかったあなたは当店の文章に対する耐性を持ってくださっていると思われます。有難う)

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途中、吉野川を渡る。この川をしばらく遡り、支流である貞光川に沿って山に入れば、祖父のふるさとである家賀集落がある。時々書いていることだけれど、そこでの出来事が日本茶に分け入ってゆくきっかけになった。ぐっとくるものを飲み込みながら、徳島にまた来られた嬉しさとともに今回の目的地へと走る。しばらく西へ向かう。勝浦町を通り過ぎ、少しずつ山間の情景へと変わってゆく。

百野さんと上勝町役場で待ち合わせをしていた。早速徳永さんのご自宅へと向かうことになった。



上勝町生実(いくみ)地区。このような開けた場所だった。急斜面が連続し、谷の風景がずっと先まで続いている。徳島の山らしい風景だと思った。

徳永恵一(とくなが・えいち)さんは、我々の到着を自宅前の谷を臨む高台に体を預けて待っておられた。挨拶もそこそこに縁側に椅子とテーブルを用意して、百野さんの言葉に促されるようにして徳永さんとの語らいが始まった。

昭和13年生まれの85歳。祖父と同い年。長く従事された山仕事を引退なさったあとも、野菜、晩茶、原木椎茸に炭焼きと、やることはいくらでもあるようだ。僕の祖父は7年前に亡くなっているが、その当時の祖父よりも現在の徳永さんのほうがいくらか若く見えた。田舎で忙しく楽しく暮らしておられる方々は往々にして体が丈夫だし、年齢など数字に過ぎないことをその表情で物語っておられる。

徳永さんにとって晩茶は子どものころから当たり前にあるもので、もともとは自家用に作ってきたものを20年ほど前から販売もするようになったという。家の晩茶づくりはいつから続いているのかと尋ねると、徳永さんからみて高祖母の時代に作っていたことは分かるが、それよりも前のご先祖のこととなると、もう分からない。

徳永さんと晩茶の関係は子どもの頃から途切れたことがない。暇があれば山と川で遊んだという徳永さんだが、中学生のころともなれば夏の晩茶づくりを手伝わなければならず遊びに行けなかったので、「嫌だった」と笑う。同じように徳永さんの曾祖母も、自身が子どものころに晩茶づくりを手伝わなければならないのが嫌だったと言っていたらしい。(そのためこの家では少なくとも高祖父母の代からお茶をつくっていると判断しているのだ)

以来、70年以上に渡ってこの土地に暮らし、夏になれば晩茶を作るという生活が続いている。半ば強制的にやらされ「嫌だった」と回想するお茶づくりを今も徳永さんは辞めないでいる。楽しそうに晩茶について語られる表情の前には、どうして辞めないで続けているのですかという質問は無用である。

お茶といっても乳酸発酵した超個性的な阿波晩茶しか徳永さんが知らないわけではない。若い時分に山仕事をしていたころは、山に入る際にそのへんの茶を枝ごと折っておいて、それを食事のときに炙ってやかんに突っ込んで煎じたものがとても美味しかったと回想する。家では食の細かったきょうだいも、このように外でワイルドに用意すると喜びたくさん食べたという。いつか僕もそんな食事をしてみたい。たまたま広い畑を借りているし、地元の山に行けばお茶は生えているので出来なくはないが、そういうことの可能な生活がいまの日本にどのくらい残っているのだろう。

ところで徳永さんにとって煎茶は特殊なものである。日本に暮らす大多数の人にとって、煎茶はあくまでもふつうの、どこにでもある日本茶の代名詞だろう。いわゆる「日本的」なイメージを見せるときにも急須とか緑色の液体が入った湯呑みなどが描かれることが多い。しかしながら徳永さんにとって煎茶はお客様用の上等の茶ということになっており、一方で「苦いので」そもそもあまり飲んだこともないという。

ここに2つのおもしろさがある。ひとつは、来客用の茶として出される高価な煎茶は一般的には苦味より旨味を優先するものが多いにもかかわらず、それを徳永さんが苦いと認識していることである。これは阿波晩茶の製法に由来する可能性がある。というのも、阿波晩茶は煎茶のように蒸すのではなく茶葉をぐつぐつと煮るところから製茶が始まる。晩茶の煮汁を分析した研究によれば、この煮汁に相当量のカフェインとカテキンが含まれており、これらは口に含んだときの苦味と渋味として感じられる成分である。つまり製茶のはじめの段階で苦渋味が相当抜けてしまっているのだ。実際阿波晩茶は多少浸けっぱなしにしていても、煎茶のように苦くて飲めないという事態に陥ることがあまりない。徳永さんにとってはこの晩茶が基準なのだから、世間一般の煎茶は総じて苦い飲み物ということになる。

もうひとつおもしろいのは、特別なものとしての煎茶の認識は、それが少しずつ生活に根付き始めたという1700年代中頃の庶民生活を想像させるという点である。江戸の町中にある茶店では番茶を煎じて提供していたというが、このころからそれよりも上等の茶として煎茶が新たなメニューに加わったと考えられている。茶店から始まり、やがて道具とともに煎茶が各家庭での生活にも入ったとするならば、徳永家はその潮流とは全然違って大昔の日本人のお茶に対する認識をあまり形を変えないで残しているといえるかもしれない。実際、阿波晩茶の生産家にとってはお茶といえば晩茶であることがこれまでの聞き取りからも容易に想像ができるし、このあたり一帯はお茶に関して言えばかなり古い認識を残しているということなのだ。何につけても画一的になった現代、こういう認識そのものに価値があると思う。似たようなお茶観は東近江市の政所でも感じることがあり、両者に共通するのは昔ながらの生活様式を色濃く残しているという点である。



茶畑を案内してもらった。代々自家用として作ったお茶も一部は販売にまわすということで若干の増産を図った徳永さんは、かつて麦などを作っていたという土地をお茶用に転換し利用している。その面積は3アールほど。つまり300平方メートルくらいであり、これは「茶農家」というには程遠い耕作面積であることは想像ができると思う。このあたりの人々にとってお茶は専業するものではなく、何でも作る作物のうちのひとつなのだ。

茶樹が少しの間隔をあけて、ぽつ、ぽつと植わっている。これは徳永さんが山に自生している茶の幼木を植え替えたもので、つまり来歴のわからない実生在来種ということになる。実際、ひとつひとつの茶の様相はまったく違っていた。茶畑という言葉から想起するイメージとはかけ離れた、ちょっとした雑木林のような雰囲気である。

写真からわかるように、どの樹もたくさんの葉をつけて旺盛に見える。しかしこれらは皆、およそ半年前に手で全ての葉をしごきとって丸裸にした茶樹である。摘んだあと単純に放置しているのではなく、肥料を与えて養分を補っておられるにしても、茶がとても丈夫な植物だということが分かる。


除草剤の類は使うことがありますか、と尋ねると「ない」と少し語気を強めてお返事をなさった。「使ったら茶を枯らすぞ。サザンカ(茶の近縁にあたる)が枯れるのを見たことがある。すぐには枯れることがなくても、じわじわ効いていつの間にか…」。使わずに今日までやってこられたのだ。もちろん、茶畑で除草剤を使うのはどちらかといえば一般的だし、むやみに心配しすぎることもよくない場合があるとは思う。たとえ使ったとしても、茶業継続の喜びが、除草剤使用によるある種の「後ろめたさ」を上回って生産家の自尊心を守るようならば、使うほうがいいのではないかと僕は思う。しかし徳永さんのように、山と人が密度の濃い交わりを続けてきた環境で育ち今に至る人々がごく自然に備えている、「ケミカルなものをできるだけ土に入れたくない」という感覚は、何にも増して尊重されるべきだ。

我々は畑を出たのち、徳永さんが炭焼きをしている小屋と、その隣に並んでいる椎茸のほだ木を見学させていただいた。それぞれ自慢のしろものと見え、茶にせよこうした山仕事にせよ、今もこうして忙しく楽しく仕事をしていることで、土地と自らのつながりを代々の先頭で守っているのだという誇りを感じることが出来る。それをわざわざ口にされることはない。しかし谷を見つめる視線は、人と山が本来は分かちがたく存在してきた歴史が、我々の知るよりもずっと長いことを物語っている。

「息子らも、いつかは帰ってきて茶をやるかもわからん。どうやろうか」とぽつりとこぼされる姿には一抹の不安を感じさせたが、その責任は生産家だけが負うべきものではない。僕が、そしてあなたが、もしこのような文化が大切であると少しでも感じるならば、買い物の方法ひとつ変えることから関わり合いをはじめることができる。そしてもっと深く関わろうと思える人には、入口はいくらでも用意されていると思う。「息子さんもやろうと思ってもらえるようにしていくのが僕の仕事です」と百野さんは心強くも答えた。だがこれは百野さんだけの野心に終わることなく、たとえ関わり方が違っていても我々みなが同じように意識しておくべきことなのだ。

生産者とその身近にいる支援者だけに文化の継承を期待できる時代はとうの昔に終わっており、我々は巨大に開かれた経済圏のメリットをうまく享受することで、遠く離れていても関係者となることが簡単にできる素晴らしい時代に生きている、とも考えられるのではないか。あくまでもその道筋で、資本主義の誘惑に魅せられないようにしながら。

谷が白く霞んだ。それは雨が遠目に見えている様子だった。雨は右から左へと動き、視界を少しずつ曇らせてゆく。雨が動いている、と感じたのはこれが初めてだった。「雨はいつも西北から来る」と徳永さんはそれを眺めて言い、土地の気候が今日もその摂理に従っていることを確認した。

古老にはすべてがお見通しなのだ。

(2024.2.21 記録)

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