2022/09/22

尺代の水車小屋




地元であり今も暮らしている大阪府島本町の山間部に、尺代という集落がある。水無瀬川を挟んで北側が集落で、反対側はもともと棚田だった。田んぼは全て貸し農園に変わっていて、うちもそこを借りて野菜を作っている。

集落を抜けて川のさらに上流域を歩くと、朽ちた水車小屋の跡がいくつか残っている。大学生のころ、このあたりの写真を撮るのが好きで、時々歩いては水車跡を見て何となく気になりつつも、深く考えることはなかった。

この夏、畑仕事のあと子どもたちと川遊びをするために上流へ歩き、再び水車を見た。いよいよ気になって家にある『島本町史』(昭和50年)を開くと、なんと水車についての短い記載があり、それは『島本村々史』という更に古い文献からの引用だった。

(引用)

尺代の水車

明治初年尺代において杉の葉を乾燥し水車を利用して蚊取線香の原料を製造したことに始まる。線香納屋がたてられ、安住という会社が経営していた。また製粉精米等を営んでいた。
昭和にはいってから、エボナイト(バッテリー)を粉末にして再生するようになり、電池会社の下請として十数件がこれに従事した。現在はエボナイトの粉末はボーリングの球の原料に使われている。
エボナイトを朝うすにいれておくと、水車の力で粉になっているので夕方集めにいけばよい。従ってその間人がついていなくてよいし、動力としては水無瀬川の水を利用するので経費が安くつくので、山間の工業として今日なお続いている。

(引用おわり)

杉の葉線香…気になって調べてみると、現在もなお製造する小さな事業者が全国にいくつか残っており、取り寄せてみたところ素朴で好感を持てる優しい香りだった。余計な香料のにおいがない。

町内には森林保全団体がいくつかある。だから間伐する杉の葉からもう一度線香を作り(あわよくば水車で)、情感たっぷりにふるさとの渓流の記憶を令和に引っ張り出すことはできないのかな、等と想像をたくましくした。しかも水力だけによる工業なんて、時代は熱視線を送るだろう。

どうやって運営していたのだろう?詳しいことが気になってきた。知りたい!聴きたい!見たい!お茶でわくわくするときと似たようなエキサイトが胸に湧く。

尺代には同級生のWちゃんが居たが、連絡先がわからない。思い立ったが吉日ということで、僕は同級生でかつ剣道部で一緒に活動していたKちゃんに電話をかけた。Wちゃんと繋がっていると思ったからだ。

するとKちゃん、「両親が尺代の年配の人と親しいから、その人に話を聞くのがいいのではないか」とナイスな助言。その数分後、Kちゃんの母から電話が鳴り、「Fさんという人に話は伝えてあるから、電話し!」とのことだ。早速電話をかけてみたら、なんとFさんは実家でかつて水車を稼働していたし、色々案内しながら話もできるから是非いらっしゃいと仰った。

そういう訳で、一気に本丸へ突入する格好になった。こういうところが、島本町のまだまだ田舎たる所以かもしれない。Kちゃんありがとう!

そして去る9月20日、待ち合わせをしてFさんと面会が叶った。Fさんは早速「これを渡しておきますわ」と言って、かつて稼働していた水車小屋の一覧と運営者名簿を見せてくださった。これは貴重なものだ。

それによれば往時の尺代では合計8台の水車が稼働し、F家を含む11軒が従事していた。集落の下から上にかけて、だいたい2kmくらいの間に水車は点在していたのだ。

Fさんは水車が稼働していた位置をすべて歩いて案内してくださった。8台のうち3台だけは、朽ち果てるのを待つばかりだが、それでも残骸がある。

Fさんはそもそもどのような仕組みで水車が稼働していたのかを、歩きながら教えてくださった。

水車は川の本流には接しておらず、やや高台を選んで設置された。水車の上部に、上流から引いてきた水を落とし、これがバケットに溜まることで回転が生まれる。回転はシャフトへ伝わり、シャフトに対し垂直に接続された木あるいは鉄の棒が、杵を引っ掛け持ち上げる。棒が外れると杵が石臼に落ちる。これを繰り返す。

水を上流から引き、水車に落とす必要があることから、水車はなだらかな箇所ではなく高低差のある場所にしか設置できなかった。上流から水路やトユを使って水を引くのは大変なことで、雨のあとなどは掃除が必須だったという。Fさんの実家では鉄骨を使って高所にトユを設置していたから、そこへ登って掃除するだけでも恐ろしかったそうだ。


↑ 川から水を引くトユの跡



↑ 水車に接続したシャフト。もともと屋内にあったが建屋はなくなっている。なお基本的に水車を中心としてその左右に小屋があったそうだ。ここでは奥に建物が残っているが、中には入ることができない。



↑ Fさんによれば、これは石臼だという。Fさんの家にも、こうした四角形の臼が置かれていた。


Fさんは小学校から帰ると水車の仕事を手伝ったという。どんな仕事だったかといえば、それを思わせるものが朽ちた水車小屋のあたりにたくさん残ったままになっていた。

それはエボナイトという硬質ゴム素材でできた、バッテリーの外装部分だった。これを水車小屋の杵で粉砕し、加工メーカーへ納めるのだ。粉末は押し固めて再利用される。Fさんによれば潜水艦の建造などに使われたそうだ。作業に従事する人は濡らした衣で口元を覆ったが、それでも真っ黒な粉末で身体がたいへん汚れるし、人によっては肺に黒いシミのようなものが残る場合もあったという。


↑ 今でも水車小屋のあったいくつかの場所に、粉砕されることのなかったエボナイトがそのまま忘れ去られていた。


プラスチックの登場とともにエボナイトの利用は激減し、線香製造や米の脱穀などを経て続いてきた水車小屋の利用はとうとう終わってしまったのだ。Fさんのお話から推測するに、昭和中期ごろではないかと思う。

Fさんのお母さんの証言によれば、最盛期のエボナイト加工は「企業の課長さんくらい」の収入になったそうだ。

しかしいくら稼げるとは言っても、集落から遠い水車だと特に大変な作業だったと思われる。車など通らない未舗装の山道で、恐らく手押し車などを使って原料を運び、さらに加工を終えたものは集落まで運び出さなけれならない。ひたすらに重労働だったはずだ。

Fさんは尺代の生まれ育ちで、昭和の中頃からこの土地の変遷をずっと見てきた人だ。案内の途中、子どものころ川で遊んだ当時の思い出などを鮮明に語って下さる。おおらかでのびのびとした話だったし、僕が小学生の当時に同級生の子たちがやっていた遊びと同じようなものだった。

「もう水車を回すなんて、無理やな」と仰ったが、すぐにではなくとも、小さいものでもいいから何とかならないかな、その光景を見てみたいな、と僕は思った。

時代は一周まわって自然エネルギーに耳目が集まっている。資本主義経済に浸りきった生活を送る僕たちだが、まだ自身の記憶のなかに水車の回っている人々が尺代には暮らしているのだ。

畑で世話になってきた尺代と、これから何かしら新しい関係を築くことができるだろうか。まずは明治の尺代の人々がしたように、線香を作ってみたいなと僕は考えている。

続報があるかどうかは未定。



水車跡の横にお茶が生えているのを見逃さなかった。「好きなことをやれぇ」というメッセージだ、と受け取ることにした。

2022/09/21

早苗の卵どんぶり

 


早苗の卵どんぶり

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父方の祖母は早苗(さなえ)という人で、広島の呉生まれ。すでに鬼籍に入っている。朧気な記憶だが祖母は料理をほとんどしない人だった。

代わりに祖父の喜八が何でも作るタイプの人。小学5,6年生のころ母が病気療養のため長期入院しており、自営業の父も多忙を極めたため僕は長いこと祖父母宅で暮らしていた。昼食夕食は、いつもおじいちゃんの手料理。

祖母は生活にお金をかけない人だった。清貧というよりはむしろ、足るを知っていたのだ。妹が小学生のころ、戦中戦後の生活について祖母にインタビューして学校に提出したことがある。そのなかで祖母はこう語っていた。

「今の人は、何でもあるから幸せです」

祖母は常日頃から昼ごはんにサッポロ塩ラーメンなどを食べていて、「おばあちゃんは、これが楽しみなんよ」とよく僕に言っていた。戦争を、血生臭さではなく経済的困窮として味わった人の言葉として、とても深みがあると思う。祖母は原子爆弾の雲を遠くに見たと言っていた。

そんな祖母には得意料理があり、それは卵どんぶりだった。使う材料はたったの5つで、卵、もみ海苔、米、油、醤油。飽食の時代と言えど、他に何も使ってはならない。

どんぶりに薄く米をよそい、そこにもみ海苔を敷き詰める。そして醤油を全面にたらして、再び米をよそう。そうしたら、フライパンに油をひき、醤油で味付けした溶き卵をやわらかく炒る。それを米が見えなくなるくらいに盛り付けたら出来上がり。

ほとんど料理をしない祖母だったが、誰にでも作れそうな卵どんぶりの美味しさは格別だった。祖父母は僕の実家のすぐ近くに住んでいたので、時々どんぶりを持ってきてくれた。

やがてこの作り方を僕の母が教わって、たまに母が作るようになったので、土日の食卓によく登場した。僕はこれがとても好きだった。

就職して京都市で暮らし始め、祖母が亡くなってからも時々このどんぶりを思い出して作った。もちろん祖母より下手だった。



さらに時が流れ、僕の7歳の娘は最近料理に関心がある。それでは材料も手数も少ない卵どんぶりを作ろうということで、先日一緒になって作った。すると、かなりおいしいどんぶりになった。食の細い息子も、ものすごい速さで完食。

それで僕は思った。ああこれは気持ちだ。この美味しさは気持ち。手数のほとんどない素朴などんぶりは、作った人間の気持ちが丸裸のまま、よそわれているのだ。だからおばあちゃんのあれは最高に美味しかったのだ。おばあちゃんは僕たち親族のことを本当に愛してくれていた。僕は愛をもらっていたのだった。生まれたときから、溺愛というくらい、これでもかと祖父母に可愛がってもらった。そしていま、僕は娘の愛をもらっており、だからどんぶりがおいしい。子どもたちがお茶を淹れてくれたら冗談ぬきでおいしいのと同じなのだ。

娘が作ってやっとわかった、早苗の卵どんぶりのおいしさの秘密。もっとも、みんな肌感覚では何となく分かっていたのかもしれない。祖母は優しかったから。

思い出すのは祖母の顔と声だ。大学生当時、地元公民館の自習室で勉強していたら、たまたま館内に居た祖母がドアを開け、でっかい声で「ともりん!!」と僕を呼んだ。僕はトモアキだから、祖母は愛情こめて僕をトモリンと呼ぶことがあった。

苦笑いで外に出て祖母と話をした。祖母は地域の年配の方々との月に一度の昼食会に来ていたのだ。「これでジュース飲み」といって、500円玉を僕の手にのせた。

トモリンといきなり呼ばれた恥ずかしさ。あの500円玉の重たさ。忘れがたい。

祖母は僕と妻の結婚式の1週間前に亡くなってしまった。式を楽しみにしていた祖母の気持ちに沿うのがよいと親族も言ってくれ、喪中にもかかわらず地元の神社は予定通りに式を執り行ってくれた。

ぐるぐる巡る愛の環、口承伝達の卵どんぶりにのって、どこまでも続くのだろうか。サナエのこともトモリンのことも知らないずっと先の世代になっても、早苗の卵どんぶりが継がれていてほしい。

あの世でおばあちゃんがこの記事を見ててくれたらいいのになと思う。