こんにちは。
奈良県都祁(つげ)の羽間さんから、在庫がわずかだった発酵番茶を追加でお届けいただきました。このお茶は、「わざと大きな葉で作った紅茶」です。
摘んだ葉を、人気のない山道に敷き詰めます。数日かけて何度かかく拌し、空気を通します(ほかの農作業もあるので夜中にするときも!)。葉は萎れますがこのときによい香りが生まれるので、欠くことのできない大切な作業です。そして工場に持ち帰り、しっかりと揉み込んでから発酵を促し、乾燥させて完成。
ただいま販売しているのは、昨年の夏に作られた在来種。製造から一年が経ち、湯を注いだ際の香りは深みある蜜のような甘い芳香に変わっていました。びっくりするほどの変化です。
立ち上る濃厚な香気とは違って味わいはどこまでもさわやか。一番茶のような明るい華やかさはありませんが、一方で番茶の素朴な味わいが自然な化粧をしたような、健やかな味わいにうれしくなってしまうお茶です。
暑い夏には、ぜひ熱湯で淹れて楽しんでみてほしいと思います。お腹から優しく温まり、そして汗を少しかいたあとにはわずかなそよ風でさえも冷たく感じるほどの涼感がやってくるでしょう。熱い茶と涼しさは相反するものだとおもわれるかもしれませんが、お試しを。
そもそもこのお茶の出会いは、まだお茶屋になる前のこと。あることがきっかけで購入した彼の発酵番茶が家にちょうど届いたその日、私は風邪で高熱を出しており飲み食いがままならない状態でした。ちょうど家族が外出しており家でひとりで伏せっていましたら、配達員の方がお茶を持ってきました。
そんなときでも初めてのお茶となればふらふらの状態でも飲んでみたく、湯を沸かして何気なく飲んでみたら、不思議なことに私の体は「もっと飲め」と言わんばかりに欲しがったのです。何も食べられず、飲み物もあまり飲めなかったのに、このお茶だけはすとんと体に入りました。理屈は置いといて、ともかくこのお茶だけはいくらでも体に入りました。
その体験がきっかけで羽間さんとのご縁もできたのです。そんな食べ物や飲み物が、みなさんにとってはあるでしょうか?あるよという方はまた話を聞かせてくださいね。
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さてこのお茶は、羽間さんだからこそ作ることができるお茶だといえるでしょう。米と野菜とキノコ等もつくるお百姓さんである羽間さんは大忙し。彼の家にはガスが通っておらず、自給自足の暮らし。多様な農作物のスケジュールと変わりゆく天候の合間を縫うようにして、そのときそのときにできる仕事に取り組んでおられます。
だから、お茶をつくるにしても羽間さんは決して無理をしません。農薬と肥料をまったく使わない羽間さんのお茶ですから、まずお茶の体力を第一に考えて毎年作るということをせず、2019年はたしか3年ぶりの製造でした。
そして作るにしても、決まったときにできるわけではありません。できるときに、お茶の状況をみながら作るのが羽間さんのスタイル。見てくれも味わいも業界的な市場価値にはとらわれず、それとは距離をおいたところで光を放っています。わたしは、類まれな価値が彼のお茶にはあるとおもっています。
番茶でつくる紅茶というもの自体が、まずそこらでお目にかかるものではありません。どうして緑茶ではなく「番茶の紅茶」にするのかといえば、羽間さんの農業のスタイルに合うのがこのやり方だからなのでしょう。商業的に緑茶をつくるなら、一般的にはそれなりの規模の加工場が必要です。ところがこのお茶なら、製造量にもよりますが巨大な設備がなくても作ることができます。だから羽間さんは、森の中にある山道をも利用しつつ、経済的にも無理なくできるやり方でお茶と関わろうとしておられるのです。
自然の摂理に対して慎しみ深い理解があり、そして既存のやり方にとらわれず遠慮しながらお茶と接することのできる羽間さんだからこその仕事だと私はおもいます。
いつも目を細めて笑っておられる朗らかな羽間さんは、そのようなことをわざわざ口にすることもなくただ優しく田畑や森と関わっておられます。ありのままの放任した自然にこだわるのでもなく、また逆に必要以上の負荷をかけることもなく、あるべき調和というものを長い時間をかけて探っておられるように感じられます。
だから、このお茶には羽間さんの哲学がぎっしりと詰まっているようにおもわれてなりません。
お茶は人をあらわす鏡だとおもいます。そのことを羽間さんもしっかりと伝えてくれているのでした。
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