2024/07/03

4年目を迎えて

ふと気がつくと僕は7年も前に辞めた前職に復帰していた。大量の書類がデスク脇に置かれていて、ずっと離れていた事務作業に突然取り掛からなくてはならない。異常に長いブランクがあるのに同僚はそれを全然考慮してくれず、初日からプレッシャー。

どうしてこんなことになっているのだろうか…事務をこなそうとするが、進まない。するとまた、例の兆候が表れ始めた。突然、上下の奥歯が複雑に引っかかり合ってしまって動かない。しかも自分の意思とは無関係に、それを解こうとして顎が無理矢理に動きはじめてしまう。なす術なく奥歯がその圧力で砕け散り、ミンティアぐらいの大きさ。たまらずトイレでそれを吐き出すとスッキリしたが、しかしこれからは奥歯でものを噛めない人生を送るのだ。

うわっ。またか。そうして悪い夢から覚めた。思わず奥歯を探り、砕けていないことを確かめる。心配事があると見る夢パターンのひとつ。日付は6月28日。金曜早朝の外はまだほの暗くて、家族は誰も起きていない。水を飲み、なんとなく口をゆすいでもう一度横になったけれど、翌日に迫った周年祭のことを考えると、すぐには眠れなかった。

...

僕は先の心配ばかりして生きてきた。ちゃんと約束を守れるだろうか。ちゃんと時間を守れるだろうか。ちゃんと間に合うだろうか。迷惑をかけないだろうか。心配が原動力になって生きてきたといえば多少は聞こえはいいが、いま振り返ると保身ばかりを考えてきたのだと思う。「ちゃんとすること」の意味を深追いせず、ちゃんと振る舞おうとしてきたのだ。親の期待を裏切りたくない。恥をかきたくない。失敗したくない。笑われたくない。後ろ指さされたくない。性根はちょっとやそっとで変わるものではない。周年祭についても企画者は自分たちなのに、根本には「ほんまに大丈夫やろか(恥をかくような事態にならないだろうか)」という保身が鳴門の渦潮のピークタイムぐらいにぐるぐるしている。だから予約の名簿とか、出店者の曜日別予定とかを、何回も何回も見直していた。

元栓を締めたか。コピー機から原本を取り出したか。車の車内灯を消したか。そういう点検行動が常につきまとっている人間にとって、自分からすればやんごとなさすぎる事業者が何人も来てくださるのだから、これはずぶの素人がいきなりサマーソニックの運営を一手に任されるようなものだ。いかに精神的に差し迫ってくるのかをご想像いただけるだろうか。しかしその反面、部分的に適当な性分でもあるのでぶっ倒れるまでには至らず、プラスマイナスちょっとしんどいくらいの状態でいつも本番を迎えることができている。

このようにして周年祭は、心配をカロリーに変換しながら初日を迎えた。最初の出店者が到着するまで細かいことを気にして、いつまでもモノの配置とか、雰囲気的なところを調整する。妻はむしろ大局をみて大胆にスケジューリングができる人なので、僕のチマチマした動き方は、アッパーカットをかましたくなるほどの腹立たしさだろう。つまるところ僕にとって周年祭は、かのいつまでも完成しない建築物として名高いサグラダ・ファミリアと同じなのである。いつまでも終わらないのである。僕は実質ガウディ、知らんけど。(妻は岐阜出身で、大阪に来たころは「どうして大阪の人はいつも、文末で無責任なことを言うのだろうか」と思っていたそうだ)

そうして当日の朝になってもチマチマしている僕のところに、まずは常滑から、ガソリン代と高速代を負担してmorrinaの杉江さんがやってきた。それを皮切りに次から次へとみなさんがやってきた。始まってしまうのかよ。天気もまずまず。次第にお客様が増えてきて、30平米と少ししかない店内はちょっとした騒動のようになってきた。ちまちまコントロールが効くことなどほとんど無くなってしまう。もうあかん、気持ち的に進退窮まる!とか思っていたら、皆めっちゃ笑ってるやん。めっちゃ人来るやん。梅雨やのに。もしかしておもしろいん。おもしろい催事になってるん。包子もうすぐ売り切れ?まじ?周年祭、もしかして、いけてる?いけてるかもー!

…以上のようにして当店の周年祭は繰り返してきた。素敵な出店者のお人柄とそれに惹きつけられたお客様たちによる小さなフェスティバル。心配はいつも、自分ではないたくさんの誰かが打ち壊してくれた。

初日は一気に時間が過ぎ、夜の企画も政所茶の山形さん一家による絶妙な時間管理によって無事に終了することができた。出店者をみな見送り、一旦静かになった店内で僕はお金の計算をしようと思ってちょっと座って、いくつかの伝票をまとめかけたところで気絶した。

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2日目の朝。ちょっと寝坊した。心臓に負担のかかる起き方をして店内準備と家事にとりかかる。周年祭の会場は家でもあるので、生活と仕事が渾然一体。仕事とは何か?家事とは何か?

この日、atelier SAWAさんが販売用にCDをいくつか持って来てくれていたので、ぜひかけてくださいとお願いをした。初日の藤井風さんに代わって2日目の音楽を担ってくれたのは、箱庭という夫婦デュオの作品「ひととせ」と、澤為太郎さん・桜井まみさんの共作 "Wreath"だった。

予報を裏切る天候で雨も少なく、出だしこそちょっと落ち着いた雰囲気だったが、いつしか初日のようにふたたび賑わいを見せ、時間を気にする余裕などほとんどなくなってしまった。杉江さんが「もう3時ですね」と言った。えっ、さっき始まったばっかりなのに。店内のカウンターはまさに楽しい混乱の極みの様相で、包子蒸しまくりのノリコ、コーヒーを淹れながらトークができるオヤユビコーヒーのアヤさん、エキセントリックなのに普通に美味しいアイスを売るK2 EISのカツヤさん、ただ人としゃべっているだけの僕、そして相手の目を見ながら話すのを自然にできる農家・蓮ちゃんが並んでいた。

向かい合う客席にはお客様がひしめいていた。アイス屋の前で玄米おはぎを食べる子どもに斜め前から政所茶が提供される。売り手と向き合う人が全然違う出店者のものを飲み食いするなどして全員が楽しくおしゃべりしており、もはや出店者と客という境界線は無用であった。出店者も豚まん片手に接客していたり、ブースを放ったらかしてホーボー堂のコーラを飲んだりSun and Norfの腹に優しい玄米麺をすすったりしている。そこへすかさず北摂高槻生協のオオクボさん、ナチュラルな漬物の試食を差し出し良質な酢や野菜を売るべく頑張り始める。事態は楽しく混迷を極め、「こうでなくてはならない」がひとつずつ崩れてゆく。そこに参加しているということだけを全員が共有しているのだ。tocoha flowerは霊験あらたかな涅槃仏のTシャツを着用し、しかもあろうことかそれを販売していたので、あやしい宗教的要素も十二分に兼ね備えた魅惑の催事である。そこに桃星農園の桃を備える人などおらず、自分で食べたいという私欲丸出し。素晴らしい。悲しそうな人はいなくて、楽しそうな人しかいない。たとえ悲しさを引きずって来店されたかもしれない人であっても、一瞬だけはそのことを忘れてくれているかもしれないと思えるくらいの、その場限りの何かがあるように思えた。これはもう古代から繰り返されてきた祭そのもの。我々は今日生きていることを、それぞれのダンスによって祝っていた。

SAWAさんがかけてくれたCDはどれも優しく、どことなく儚くて、混沌とした賑わいを静かに包みまとめあげてくれていた。楽しい喧騒のなか聞こえてくるその音楽に心奪われて、途端、悲しくなる。ああ、もうすぐ終わってしまう。頭の中で音楽は残響に変わり、店内の光景はスローモーションになる。そのイメージがまだ終わっていない催事のエンドロールのように思われた。渦中にいるのに引きの目線で全体を見、ひとり内心ではなんだか寂しくなってしまった。優しい人たちばかりが集まってくれて、よかったな。

夜、ルミさん(ナチュラルフーズドングリ)とモモさん(ルミさんの妹・焼肉南山のスタッフ)による葡萄酒とシャルキュトリーのプレゼンテーション。いったん空気が入れ替わるも、我々は北イタリアとジョージアの葡萄酒と、それらにあわせた加工肉による料理に打ちのめされた。後夜祭としてなにひとつ不足なく、満ち足りた時間と一体感にしみじみと浸ろうとするも、誰かの大きな笑い声でその隙が奪われるのがよかった。

いいお酒はあとが楽だと見えて、夜更けのころにはすっかり素面に。余韻だけが残り、我々夫婦は週末を振り返りながら終わりのない後片付けをはじめた。

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翌日、我々は子どもたちを学校に送り出してから高槻市の猫猫へ向かった。土曜に販売したブッダボウルの清算をするためだが、本当の目的は猫猫の食事をいただくことで催事のピリオドを打つこと、そしてその日が18周年だという猫猫の小さなお祝いをすることだった。

その日は雨。2階にある猫猫の席からは国道171号線を行き交う人々がよく見える。注文後は喋り続けていた僕と紀子だったが、目の前に豊かな食事が提供されると黙った。催事によってぽろぽろ剥げ落ちた何かをちょっとずつ塗ったりはめこんだりするようにして、野菜や魚や肉などを体のなかに取り込んだ。満腹が訪れ、回復を感じる。隣でまだ食べている紀子を待つ間、雨の国道をぼんやり眺めていると、こういう何でも無い景色がエモーショナルに思われてくるほど、僕は周年祭が終わってしまった寂しさを抱えているのだと思った。

どうして準備が大変なのに、あの催事を毎年やろうと思うのだろうか。考えていると、自転車に二人乗りをしている高校生の男の子と女の子が見えた。赤信号を無視して国道を横切っていった。なんだかいいなと思った。危なっかしいけれど、達者でいてほしいなと思った。それで気がついた。ああそうか、皆の達者でいるところが見られるから、そうすると僕も嬉しいし、達者でいられるような気がするからだ。

達者で生きていてほしい。達者で生きていたい。

猫猫の夫妻と別れて我々は阪急電車に乗った。もうすぐ子どもたちも帰ってくるし、水無瀬に帰るのだ。高槻市駅からゆっくり出発した電車は、駅を出るとすぐに大阪医大を左に見ながら走る格好になる。達者な人とそうではない人が境目を行ったり来たりしているあの場所は、母親が8年も前に最期を迎えた場所だった。あと13年もすれば僕は51歳で止まったままの母親と同い年になる。いちばん達者でいてほしかった人に、最近では夢でもなかなか会えないでいる。

水無瀬に着かないうちに僕は隣の紀子に言った。「な、4周年祭のことやけどな…」。彼女は苦笑いをしていた。そういう日常がいつまでも続きはしないと分かっているから、愛しかった。