2020/03/20

木の人と風の茶 続 / 鶯歌・ドイツ

3月19日、政所を訪ねて今年の平番茶の加工の様子を確認してきました。

この日の同行者の中に、私とさほど変わらない世代の方がひとり。彼女は禅で修養を積むドイツ人の女性(Nさん)で、毎月の日本茶講座を受け持っている京都・河原町のGenki日本語学校でたった2日前に出会ったばかりでした。

昨秋にも私は、台北からさほど離れていない鶯歌の老街で、同じく禅を学びその体系を実践する老師、そして彼に学ぶ人々と交流したのです。「木の人と風の茶」というタイトルで書いたそのときの記事で、私は1970年代の烏龍茶を飲んだときに涙が止まらなくなり、老師の前で崩れるという出来事についても触れています。

Nさんと出会ったその日、きっとこれは重要な出会いだという確信がありました。自分にとって特別な、そして何かを共有している人と今日出会ったと、心から思ったのです。彼女はお茶に対して天井知らずの興味関心を抱いており、そして現在流通している日本茶の多くに欠けている要素を直感的に見抜いているセンスの持ち主でした。そして彼女は、禅をすでに20年以上も学び続けている人でした。

また、禅だ…どうして禅をしている人と出会ったときには、こんなにも心が動かされるのだろうか。そのように私は動揺していました。台湾での経験は一生の糧になる、そう思いながらもまだあの経験を消化しきれていないなか、またしても禅というキーワードを備えた人物が前に現れ、そして強烈に惹かれる何かを感じさせるのですから。

その日の日本茶講座で彼女は多数の、そして核心を突いた質問を繰り出しました。別れ際、思わず私は、I'm visiting tea farmers the day after tomorrow.  Do you want to come with me? と尋ねました。もっとこの人と話したい、そして彼女なら言葉にならない私のお茶に対する気持ちを、きっと現場で汲み取ってくれると、そう感じたからです。

彼女は、Yes と即答。言語の違いを超えた共感を、既に感じていました。

講座のなかで彼女は、ドイツでの禅の学びのなかで触れたいくつかの日本茶のうち、ある緑茶に接したとき涙が止まらなかったというエピソードを話してくれました。お茶に泣いた…この人は自分と同じ経験をしている…私は驚いていない顔をして、話を聴きました。お茶に泣くという体験は、自身にも起こったので、誰しもに有り得るものだと思っていたからです。

いよいよ当日、車中で彼女と話した話題はあまりにも多様で、ここでひとつひとつに触れることはできません。日本とドイツの社会制度の違い。歴史が人々に影響し精神構造を少しずつ動かしていくこと。政治的無関心。ポピュリズム。資本主義。子どもたちの教育。学びのあり方。ドイツ人の彼女にはかなり奇異に映る、日本人のある側面について…。

お茶に対する価値観とこれらの話題を通じて、私は彼女と根底のところでかなり共通する社会の見方をしていることがわかりました。

I'm sure you are feeling what I want to say.  You know that.  We are sharing it.

このような感じで、そうそう、わかるよ、と頷き合う場面がいくつもありました。彼女も私も英語は母語ではありませんが、英語を介して話をしました。私は彼女ほどに流暢な英語を操る訳ではありませんが、普段ならば出てこないような言葉たちがするするといくつも口をついて出ました。外国語を操るのに必要なのはスキルではなくて、その言葉を使って伝えたいことを内に抱いているか否かだと、今更ながら気が付いたのです。

We met for the first time only two days ago, but don't you think we have been friends for a long time?

私たちは出会ったばかりなのに、ずっと前から知っているような気がする。途中からお互いにそう思っていました。このようなことを対人関係の中で感じたのは、生まれてから全くといっていいほどに、ありません。そしてこんな出来事が、生まれ故郷や母語というバックグラウンドの全く異なる人物との間に起きたことに私は驚いていませんでした。

彼女と私は、一個の命を生きている人間であり社会にむけてアンテナを大きく広げ、善く生きようとしている点で、何も変わりませんでした。文化と言語を超えた交流だったのです。

私たちは政所で平番茶の製造を見、集落内を散策し、川嶋いささんと再会し、そして日野の満田さんの茶畑までも一緒に訪ねて長い一日を過ごしました。気が付けばあっという間に地元の駅まで帰り着き、駅舎で彼女といったんのさようならをすることに。

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帰りの車中、彼女はこう言いました。

「お茶で涙を流したというエピソードを、あなたの講座を受けた日に話したよね。実は普段ならあの話はあまりしない。だって、ちょっと変に聞こえてしまうかもしれないでしょ?お茶に泣くって、そんなに一般的な出来事ではないと思うから。あの日、あなたの講座に私は少し遅刻して到着した。教室に入ってすぐ、あなたと話をまだ何もしないのに、突然感じたの。あの話を、この人には伝えなければならないって」

なんということだと、私はハンドルを握りながら打ちのめされそうな気持ちがしました。そして自身の話もしました。

「台湾で僕もお茶を飲み涙が流れた。そのとき心に起こったことがいまだによく整理できないけれど、禅の老師は僕にこう言った。『あなたは老松のような木の性の人で、老松が風を受けて姿勢を傾けるように周囲の環境から強く影響を受けるのと同じく、感受性がとても強い。あなたはお茶と会話ができるのだ。私から学ぶことは何もない』って。僕はこの人から学んでみたいと思ったばかりなのに、それを察してか学ぶ必要がないと言われてしまった」

これを聞き17歳から禅に身を捧げた彼女は、小さく笑って言いました。

「それが禅なの」

こんな話が出来る人と巡り合えたことが嬉しくて、私はまたしても禅という世界の淵に立って涙を流すことになりました。

「僕、また泣いてる。なんということだ。Nさん、あなたが運転してよ。僕は泣けて運転できないから。国際免許持ってる?代わってちょうだい!じゃないと危ないよ」

彼女は「私、国際免許は持ってないし、持ってたとしてもドイツと逆の左側運転なんかできないわよ。私が運転するほうが危ない」とけらけら笑っていました。

「Nさん、あなたから学びたい。どうしたらいい?」

そう言うと彼女は「西洋人が禅を学ぼうとするときに必ずといっていいくらい目を通す本があるから、まずはそれを送る。私は日本に毎年来て、ドイツで禅を学ぶ人たちを率いてツアーをしている。そのときに必ずあなたには会うようにしたいし、できたら彼らが本当にいいお茶をつくる現場を見て、そしてあなたがお茶について思っていることを聴ける場を設けさせてくれない?」と言ってくれました。

山崎駅で、別れ際に握手。

乾物屋スモールのまどかさんとも先日握手をしました。まどかさんは小柄な女性だけど、ぎゅっと強く握りしめてくれる気持ちのいい握手をする人。

Nさんはまどかさんよりもずっと大柄だけど、彼女の手はまるで裏起毛の羽毛布団に頭から入っているときのように軽くて温かく、誠実な感じをまとっていました。

改札の向こうでNさんはすっと立ち、見たこともないくらいに自然で美しい礼をしてくれました。ぶしつけな私は、ただ笑って手を振るしかできませんでした。

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そうして満たされた幸せな気持ちでひとりトヨタを走らせ自宅前の駐車場に到着。たくさんの荷物を抱えて車から歩み去ろうとしたとき、一陣の暖かい風が、さあっと横から吹きました。

その風のなかに、確かにお茶の花の香りを感じました。

え、なんで?とびっくりして、ふと横に咲いていた椿の白い花かなと思って鼻を近づけましたが、その椿からは何も香りがしませんでした。もちろんお茶なんか生えていない団地だし、そもそもお茶の花のシーズンはとっくに終わっています。

それなのに、その風は茶花の香り。

でももう、次に吹いた風は何もまとっていませんでした。

「あなたは木の人。風の茶があなたを解放する」

鶯歌の老師は、心中で再び私に向かってそう言い、「そういうこともあるのかな」とちょっとだけ納得した気持ちになりました。

玄関を開くと、私がどんな気持ちでいるか知りもしない小さな娘と小さな息子が、駆け寄ってきました。

2020/03/15

乾物屋スモール 思い出とこれから

起業する前から交流のあった「乾物屋スモール」の店主、まどかさんのところへ行ってきました。

お店のできる前から、彼女の発行していたフリーペーパー「スロウダウン」の読者です。一度、同誌で日本茶をインタビュー記事にしてくださったこともありました。スロウダウンではどんな立場のどんな考え方の人もフラットに紙面に登場し、人々の小さくささやかな生活のなかに、豊かで広大な世界があることを、まどかさんが伝えてくれました。

まどかさんの視線が紙面にあふれていて、励みになったり、何かを変えていくきっかけになったり、支えに感じてきた方はきっとたくさんいると思います。少なくとも私はそのひとり。

少し前にまどかさんから、乾物屋スモールをいったん閉めることになるよという話を伺いました。3月末をもって、およそ3年半の高槻市塚脇での店舗営業を終えられます。ゆっくりお休みを取られたのちに、茨木市を拠点として再び歩み出される予定。

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まどかさんと出会ったのはたぶん5年前。当時私が妻と一緒になって発行した「しまもとノート」というフリーペーパーを知ってくださった大山崎町のオオバチエさんが、「こんな女性がいるんだよ」といってあるイベントの際に引き合わせてくださったのが始まり。

それから途切れず交流が続くようになり、それぞれにお茶屋・乾物屋としてスタートを切りました。

先に店舗を持つに至ったまどかさんの様子はまぶしくて、でも肩で風を切るようにして歩く実業家という感じではないのです。スロウダウンの視線と温かさそのままの、優しい人。いつだって芯のしなやかさを感じる仕事ぶり。ゆったりした佇まいの中に、きりっとした空気を帯びて、そういうのがちょっとカッコイイなと私は密やかに感じていました。

私が起業した当初は、お茶を誰かに卸すなんて予期していませんでした。でもまどかさんから「お店にお茶を置きたい」と話をいただいたとき、どんなにかうれしかったか。

なるべく介在する人の数を減らし、農家のメッセージを直に伝えることを目標としてきた私でしたが、まどかさんなら別。彼女が間に入ってくれることで、私には作ることのできない道筋がたくさん生まれるだろうなと心から思えたのです。安心してお茶を託すことができたのは、彼女がお茶に詳しい人かどうかは関係なく、彼女のお人柄と、そして彼女がどんなにか生産者のことを気にかけて日ごろ過ごしているかを知っていたからでした。

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いまも記憶に新しい出来事がありました。

2016年初夏のことです。当時51歳だった私の母の身体のなかに、進行の非常に早い癌が広く散らばっていることがわかりました。長く生きられる見込みはないことを主治医から告げられ、味わったことのない絶望のなか、父と妹と私は話し合いを幾度も重ねました。母の気持ちを最も尊重できる過ごし方を考えるため。

しばらくして在宅ケアに切り替わって以降、母はほとんど動けず、食べられるものもほとんどありませんでした。

ほんの少しでもいいからおいしいものを口にしてほしい。そしてあわよくば理屈を超えた奇跡が母の身に起きてくれはしないか。そんな風に考えながら、少しだけでも口にするよい食材を、つてを頼りに集めました。

当時母の隣の家に住んでいた私は、母の食事を担当することになったのです。この頃は気が動転していて、細かいことを覚えていません。それでも唯一記憶に強く残っているのが、まどかさんから買った豆でした。

豆の茹で汁がよい出汁になって、おいしい味噌汁ができたのです。とびきり素敵な民芸品の器を水無瀬で新調して、味噌汁の上澄みと玄米の重湯をよそって、母のもとへ。

スプーンでほんの少しだけすくって口元に運びます。母は「おいしいね」と言って、じっと目を閉じて、一口をずっと味わっていました。二口ばかりか時間をかけて食べて、それだけで食事はおしまいでした。

「ごめんね、いろいろしてもらって」と言う母に、「ええねん。今までいろいろしてもらったやんか」と返して、泣かないようにするのが精一杯。当時、母のいないところで毎日ずっとずっと泣いていました。

在宅が始まってまだ4日目に体調が急変。その翌日、母は逝きました。

その後、お礼のメールをまどかさんに送って、しばらくして返ってきたお手紙は今でも大事にとってあります。4年前のそのお手紙を読み返しながら、この記事を書いています。

この頃は彼女の前で話しているだけで泣けてしまったり…とにかくたくさんの支えになってくれる人がいるなかで、居てくれてありがたい存在でした。

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あれからもう4年。乾物屋スモールを訪ねて、芯のぶれない店主と話をすることは、私にとってずっと大事な時間でした。初心を思い出させてくれたり、「あ、いけないいけない!」と気づきがあったり、それからなんでもない笑い話をしたり。ぶれない店主の時折やらかすミスが、私は大好きでした。

ひょっとして今日が今のお店に行く最後の日かもしれない。そう思って「まどかさん、写真一緒に撮って!」とお願い。自分からこんなことをお願いするのはちょっと珍しいこと。

思いのたけを言葉にして面と向かって言うのは得意ではないけれど、今日はがんばって感謝の気持ちを、一部だけでも絞り出しました。いや、一部というのは本当は偽りで、もじもじしながら言うその有り様が、たぶん私にできる全てなのだったと思います。

別れ際には握手。まどかさんは私より背丈が小柄な女性ですが、握手のときはものすごく大きな手に感じるのです。強く握り返してくれるその手に私は少し安心して、一方で彼女が抱いているであろう新しい暮らしへの不安もまた、どこか伝わってくるようでした。

だからそれは、気持ちが晴れたり憂いたりを繰り返す、素朴なひとりの人間の命そのものでした。

写真のまどかさんが持っているのは、茨木市の三島独活(みしまうど)。独りで活きると書いてウドと読み、しかしこの三島独活の場合、人が手間暇をかけて丁寧に栽培することが必須。

だから、独りでは活きられない。そんな気持ちが込められた野菜なんだそうです。

たしかに、独りで活きてこられたためしなんて、ない。

これまでたくさんの支えになってくれたまどかさんと、彼女の心で満たされた素敵なお店に、精一杯のお礼を。ありがとう。

そしてもちろんこれからも、よろしくお願いします。

僕たちは独りでは活きていけないのだから。

2020/02/03

一日よろこび / 政所の在りし姿と今日の生活の先に

今日は、秋のブログ記事「木の人と風の茶」以来の長い記事です。この文章には、ありったけの気持ちを詰め込んでお届けします。

はたらくことの意味を思い、そして現代の暮らしを問い直すきっかけになることを切に願います。

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令和2年2月1日。新年以来、この地域にしては異常に遅い雪がはじめて降った翌日のことです。誉れ高い「政所茶」の産地である奥永源寺地域(滋賀県東近江市)にお住まいの、川嶋いささんのご自宅で、これまでの長い長い暮らしのお話を伺いました。

ここは臨済宗永源寺派大本山である永源寺よりも山奥へ入ったところにあるため「奥永源寺」と呼ばれ、東近江市の東端です。鈴鹿山脈から流れ出る愛知川(えちがわ)の源流域。

政所は集落全体で農薬と化学肥料を使わず、在来種を多数残している地域です。圧倒的な香りを放つお茶がいまも残ってはいますが、今回はまず、この記事にもつながる長い当地の歴史を簡単に振り返ります。

その先に、今も元気に暮らしておられる、いささんの生活へと話を進めましょう。

ゆっくりでいいから、ついてきてください。

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惟喬親王と木地師

政所の歴史を簡単に紐解きましょう。これを読んでくださっているあなたの「いま」も、これからお話する歴史の先っぽなのですから。

歴史についての内容は、飯田辰彦さんの著書「日本茶の『発生』」(鉱脈社 2015年)をもとにしています。

ここ政所は、お茶だけでなく木地師(きじし)の故郷としても知られ、今も作家が住まうところでもあります。木地師の祖とされているのが、惟喬親王(これたかしんのう。844年生 897年没)です。

藤原氏全盛の当時。親王は55代文徳天皇の第一子でしたが、母は紀氏の静子。天皇は親王を皇太子にしようとしましたが、皇后である藤原明子に惟仁親王が生まれると、権力の力で惟喬親王が皇太子になることは破談となりました。

親王は一流文化人の世評をとりましたが、権力争いに明け暮れる都が嫌になって出家することを決意。今でいう京都市北区に住まっていたところ藤原一族の追求にあい、水無瀬(大阪府島本町)や奈良の渚院などと転々とします。私は島本町に住んでいるので、このことはとても感慨深いお話です。

親王のやがて辿り着いたのが、小椋庄(おぐらのしょう)でした。今でいう政所です。

 政所という地名は、平安時代中期以降、各所におかれた親王家や公卿の所領荘園を管理する機関「政所」に由来します。役所の名前がそのまま残っているのですね。

親王はこの地域に落ちのび、この地の人々と生活をともにしました。そして生業のため、地元に豊富にある木材を使った木地づくりを指導したのです。ロクロで木を挽き、日用食器をつくる技術が伝えられました。ロクロ製品はやがて需要が大きくなり、技術習得のため全国から志願者が尋ねてくるまでに。今も木地師たちの住居群がおびただしく残っているといいます。

しかし、やがて用材が枯渇し木地業も衰退。木地師たちは朝廷から諸国の樹木を自由に切る権利を得て、散り散りになりました。

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茶栽培のおこり

こうした木地業の衰退にあわせるようにして、政所で本格的に茶の栽培がはじまっていることがわかっています。

室町時代のこと。永源寺開祖の弟子のひとりで、5代目の住職 越渓秀格禅師という人がいました。越渓さんが政所の谷に薬用として茶を植えたことが、政所茶の起源だとされています。

むやみに植えた訳ではなく、越渓さんはお茶に精通していたと言われるのには理由があります。この地域には川から上がる朝霧が立ち込めることで霜の被害から守られ、また高品質の茶ができる地質があります。さらには急斜面ばかりである政所は排水もよいため、茶栽培には適している土地なのです。

さて、やがて応仁の乱がおこると、京都から寺々の僧が数多く永源寺に身を寄せました。ここで彼らは茶会を開いて政所茶を楽しみ、戦火が収束すると学僧たちは都へ戻りました。こうして京都に政所茶の名声が届けられることになったのです。

また全国の木地師たちが数年に一度、政所の山を訪ねてきます。彼らもまた政所で茶を飲み、それぞれの地方で評判を高めることにもなったのではないかと飯田さんは推察しています。そればかりではなく、彼らが茶の実を政所から地元へ持参することで伝播に関係した可能性までも指摘されています。

その後の戦国時代での政所についてはあまり記録がないらしく、表舞台に登場するのは江戸時代。彦根藩が政所地域を所領に加えていました。

彦根藩は「茶の運上」(雑税)を課そうとします。政所の人々は、かねてより山畑の年貢を納めてきたのだから二重課税は不服として反発します。これを受けて彦根藩は、「今後増殖する茶園には、面積にかかわらず課税しない」ことを約束しました。

これが励みになり、政所では茶の植栽が一気に勢いづいたのです。課税による騒動は、政所茶の名声がさらに高まる時代の幕開けでもありました。

幕末にはお茶が輸出品目の花形となり、やがて絹糸にその座を奪われましたが、第二位の地位を得ます。明治から大正期にかけて政所でも増産が続き、当時を知る人は「山の高いところまで、どこも茶の樹で埋まっていた」と語っています。最盛期には1,000人もの助っ人が三重からやってきて各家に分散し滞在。茶摘みが縁で政所の男性と三重の女性が結ばれることを「茶縁」と呼んだそうです。

山の上まで茶畑…それは、現在の生産量が荒茶で1トン程度の政所からは、とても想像もつかない景色です。

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今日の政所

木地師。永源寺がはじめた茶栽培。江戸末期からの増産。長い長い歴史のその先端に今日も暮らしている川嶋いささんは、どんなことを考えて山での生活を営んでいるのでしょうか。

今回も、この地で政所茶の復興に力を注ぐ山形蓮さんのご縁をたよって、政所茶のファンの方々もご一緒にお話を伺うことになりました。総勢8人の団体で、いささんのお宅にあがらせていただくと…なんと、この日のためにと政所づくしのおかずやぜんざいを、たくさんこしらえておいてくださっていました。

あまりのおいしさに、みなさんいいコメントが出ません。「おいしい…」と、ひたすらに箸を動かします。ストーブを2台も出して、家をぬくぬくと温めておいてくださったのも感激。数え年で90歳になる古老のあざやかなおもてなしに、ただただ喜ぶみなさん。

もちろん、いささんはご自身の茶畑もしっかり管理されています。その煎茶をいただき、塩っ辛いのやら甘いのやら、至福の時を過ごしながら、いささんの語りがはじまりました。


いささんの今昔ばなしです…

生まれたのは昭和6年。黄和田(きわだ)という集落の、百姓の家。お父さんは炭焼きも仕事にしていました。

子どものころ、まず家の片づけから仕事が始まりました。朝、起きるとすでにご両親は畑に出ていたので、まず自分も食事をとり、親の残した食器などもすべて片付け、家を整えてから畑仕事を手伝いました。それから牛を飼っていたので、朝に草を刈って餌をやりました。家では、素直に親のいうことを聞いておけばよかったといいます。

茶摘みの時期には学校も1週間ほど休み。他のところだと田植えで休みになることが多いけど、ここではお茶摘みのため学校が休みになったのです。学校では「開拓の歌」というのを習いました。

戦争の前から、茶畑は芋畑に作り直されることがありました。食糧の確保が大変でした。茶の間に芋を挿して育てたこともあって、雨だとよく根付きよく育つ。蕎麦もつくっていました。黄和田の実家には、戦争のとき大阪や京都から10人くらいが疎開しに来ました。

昔は砂糖もなかった。干し柿を使って甘みをとっていました。塩はあったけれど黒い塩。鯨の缶詰というのがあって、おもしろかった。 

やがて、いささんはここ箕川(みのかわ)集落へ嫁いできました。ここでも百姓です。子どもは畑で遊ばせていました 。

お茶摘みは忙しくて、朝の6時から夕方6時まで続きました。草むしりが大変ですが、ずっとお茶は消毒せずにやってきたのです。そうやって続けてこられたのは、気候のおかげ(寒いから虫も少ない)だといいます。

ここのお茶は押しがききます(何煎も淹れられるという意味)。おいしいのは土がいいから。箕川の土は黒い。政所茶といっても、集落によって味が違います。それは、土が違うからです。箕川では、ススキが大きくなったカヤを敷き詰めていました。黄和田のほうでは落ち葉も入れています。

箕川は番茶に定評があって、「箕番」と呼ばれていました。

作り方は今の「平番茶」と少し違っています。2~3日摘みためた茶葉を「お荒神さん」(おくど)で蒸して、あつあつの茶葉を「ネコザ」(写真)という道具の上で揉みます。そしてホイロに柿渋で貼った和紙の上で、お茶を乾かしました。50年前くらいまで、こういうやり方。

 ※50年前から使っていないネコザを保管していたいささん。ススを取り払って見せてくださいました。博物館級の道具です。

こうして作った箕番は、彦根のお茶屋が現金で買いに来ました。その売り上げで蚕を飼うのです。

飲むのはいつでも番茶ばっかり。夏でも熱中症知らず。煎茶はお客さん用だそうです。

お茶をお金にするのは大変でした…ほったらかすと荒れるのもとても早いのです。地域に茶工場がないから家で作っていました。

いささんは、お茶ほど正直に匂いの出るものはないといいます。昔は鶏糞を使っていたのだそうです。土は増えるし、お茶もよく採れたけれど、匂いがつく。それで、鶏糞はやめて植物性のものだけ使うようになりました。鶏糞を使っていたころのお茶を、いささんは「肥満だった」と表現しています。

数え年で90のいささん。腰は曲がっていても、話しているとき以外はあまり止まっていません。テレビをじっと見ているのも性に合わないようで、一人暮らしの今でも働きっぱなし。元気の長生きについて伺うと、「子どものときから、育ちながら土をなぶって(触って)きた。そのかわり賢くはならん」と少し謙遜して仰います。いささんのようにお百姓として何でもやる人をさしおいて「賢い」とは、いったいどういう人のことを言うのか、私は頭を抱えてしまいます。

なんといささん、毎日地域内を巡回しているバスにのって、実家の黄和田の畑に通っているのです。

「世の中、変やな」と仰る、いささん。こんなに雪のない年は初めてだといいます。本来ならば高い山に雪が降って根雪になり、少しずつ溶けることで水を供給します。雨だと留まることなく流れていくので、今年は水不足が心配。

こうしてお話を続ける間にも、食卓の様子をみながら立ったり座ったりしているいささん。

大勢ですみませんね~…と山形さんが言うと、「座ってテレビを見ているよりずっとええから!こうして若い人らが来てくれると、体は動かせるし健康にいい。動かしてもろてます」という答え。

カメラを構えると、茶目っ気たっぷりにピースサイン!それにつられてみんなピース。

「昔は、『一年よろこび』やった。いまは老い先も短いから『一日よろこび』。一日一日をありがたく、生かしてもろうてます」

いささんは、「動かしてもらっている」「生かしてもらっている」と何度も口にしていました。ずいぶんと長居をしてお話を楽しみ、お土産のおかずもたくさんもらって、私たちはいささんのお宅をあとにしました。

別れ際に握手をして、その手の温かかったこと。

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いささんのような人々の生き方に接していると、色々と思い悩みながら「生きるとは」とか「働くとは」と考えてしまう自分が、なんだか滑稽にすら思えてきます。そんな暇など一日もなかったかのように、いささんを見ていると感じるからです。

でもむしろ、こうした人々の生き様に接して、私は「生きる」「働く」ということを、いちばんはっきりとした形で目の当たりにして、ストンとそれが腑に落ちるのです。ただただ、体と頭を使って山に生きてきた人たち。

一方、都市に暮らす私の暮らしには何でもあるかのように思えますが、政所の視点でいえば何もない(土がない)。人は無数にいるのにも関わらず、政所の人々のように少ない人口で濃密に関わり合っていることも、あまりない。

だけど、それだけではただの田舎礼賛になってしまいます。

今は2020年で、嘆いたところで何にもならない。政所はかつてのような勢いをすでに失っているし、かたや都市の生活にも暗雲はしっかりと見えています。私たちが生きていく環境は、もうずいぶんと変わってしまっているのです。

そして、すべての人が政所の人のように生きればよいかといえば、そうではないと私は思います。政所は政所。だけど、ここには忘れ去られようとしている営みが、今も残っていて、山形さんをはじめとしてそれを残そうと奮闘する人たちがいます。

都市に生きる人間として大切なのは、それを認知することだけではなく、関わろうとすることです。できる形でいいから、例えばSNSで政所のことを書くとか、人に話してくださるとか、お茶を買って一緒に誰かと飲むとか、何でもいいのです。

時代の利器を余すところなく使いましょう。高齢化率50%に迫り、かつてのような勢いはなくなったという政所ですが、いま歴史上いちばんあなたに近いところでリアルに姿を見せてくれる、とってもいい時代に生きています。かつて、そんなことは出来なかったのですから。

飯田さんの著書に「心の過疎」という言葉が登場します。どこかへ出ていてもいつか帰ってくる場所として政所が記憶され、暮らしが営まれ続けることの大切さを説き、地元の方が「心配なのはいわゆる過疎化ではなくて、心の過疎」と言っています。

 政所に、心を寄せてください。この地の行く末の、一部になってください。

何はともあれ、ここのお茶を飲んでみませんか。その1杯があなたの前にあることが、どれほどに奇跡的な営みの結果であるのかを、お伝えさせてください。

これからは山形さんのだけではなく、4月以降はいささんの平番茶も取り扱いをさせていただく予定。これまでと形態を変え、小 100g / 大 500gの2種で展開します。パッケージには、古樹番茶のときと同じく北岡七夏さんの木版画が再登場。私もとっても楽しみにしています。

急須で淹れても、水出しでも、やかんでわかしてもいい。お茶漬けにしてもおいしい平番茶。完全無農薬・在来種でカフェインもとっても少ないのでいつでも誰でも美味しく楽しめます。小さな子どものいるご家庭の常備茶に、ぜひ。

売りながら、政所のお話をたくさんの人にしようと思っています。たくさん売れたら、山形さんやいささんに報告をして、それで毎日の励みにしてもらえたらいいなと考えています。

どこへでも売りに行きます。だけど私には店がありません。もし「ぜひ来て話をしてほしい」と仰ってくださる方があれば、お声がけくださったら嬉しいです。売るだけじゃなくて、私に話をする時間をぜひください。

政所のお茶と人の精神の支えに、なりたいのです。