2021/04/23

農業はひとりでもできる / 益井悦郎さん(静岡・川根本町)

令和3年 4月18日(日)


茶農家・益井悦郎さんにお会いするため、静岡県榛原郡川根本町の青部地区を訪ねた。

益井さんのことは僕が起業する前から飯田辰彦さんの著書で知っており、彼の得意とする発酵系のお茶を取り寄せては、起業前にイベントで淹れていたことがある。京都の「吉田山大茶会」でもお会いし、3年ほど前に静岡を訪問する約束をしていたが急な事情で叶わず、このたび念願を果たすことができた。

今回は益井さんのつくる浅蒸し煎茶が目的の訪問だ。彼の煎茶をひととおり送ってもらったところ、どれも後口が優しく無理がない。香りをぐっと引き出すために熱湯でさっと淹れ、喉元を過ぎてからも胸焼けを起こさず、ひねくれたところのないお茶だった。

そのなかでも光っていたのは、「やぶきた」種シングルオリジンの煎茶だった。きっちりと滋味をキープしたまま2煎、3煎と耐える。このような浅蒸しの煎茶を探していたので、どんぴしゃだった。(このお茶は近日中に販売開始します!)

すぐ益井さんに連絡をした。他のやぶきたとちょっと違うと感じたからだ。改めて益井さんの話を聴きたいと伝え、ご快諾いただくや否や、新幹線のチケットを手配して旅のモードに切り替わった。

会いにいくぞ、と決めたときの心の躍動。これがたまらなく好きだ。

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浜松駅で新幹線を降り、金谷駅まで向かい、大井川鐵道に乗り換えた。大井川沿いをどんどんと北上し、比較的規模が小さいと思われる茶畑や地域の茶工場を見遣りながら期待が高まる。益井さんの家の最寄りである青部駅で降りた。

降りた途端に西の空から分厚い雲が流れ込み、さっきまでの晴天が嘘のような雨になった。雨合羽を持っていたので、携帯を濡らさないようにgoogle mapを確認して益井さんの家に向かう。歩いて10分もかからないところにご自宅はあった。

そのあたりは、よくある「富士山を臨む広大な緑の茶畑」といった静岡茶のイメージとは全然違っていて、一区画あたりがさほど大きくない茶畑の点在している静かな農村といった印象だった。

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ここからは益井さんから伺ったお話をもとに、彼のご紹介をしたい。

益井悦郎さんは、ご自身で5代目になる茶農家だ。ご先祖は江戸時代の末期に静岡から青部へ移って、以来お茶をこの土地でつくり続けている。

6人きょうだいの末っ子。もともと実家の農業を継ぐつもりはなく、一生を途上国の農業支援に捧げようと早くから心に決めていたという。子どものころ、兄たちの世代は学生運動などに熱心に取り組む人も多く、悦郎さん自身もその影響を子どもながらに受け、興味関心が途上国支援に結実していった。

悦郎さんは高校を出たのち、アメリカのネブラスカ州で2年間、農業を学んだ。このときに無農薬の作物づくりに触れたが、それが日本ではあまり価値のおかれていない農法であることもまた分かった。その後地元に戻った彼は、さらに2年間農業をした。ところがきょうだいのうち誰も実家の農業を継ごうとする人がいなかったことから、担い手のない茶畑を彼が守ることに。

途上国支援を生涯のテーマに決めていた彼は、実家で就農することを約束し、青年海外協力隊として2年間働くことを決めた。赴任したのはアフリカのセネガル共和国で、彼が目にしたのは換金作物をつくる農業だった。種と肥料と農薬がセットで農家に販売され、作物をつくる。アメリカで無農薬の農業を学んでいた彼は、現地の人々にそのやり方を指導した。

彼の話しぶりは、ガンディーが推し進めたスワデーシ・スワラージの考え方を感じさせた。支配的な海外資本によらず、あくまでも現地の人々が生活の手綱を自らの手にしっかりと持てる住民自治と地域経済。これを目指すべきと、当時の悦郎さんも考えたのではないだろうか。

いまから37年前の1984年、悦郎さんはセネガルから帰国。5代目として茶畑をその手に預かった。

彼は、「つゆひかり」や、独自品種「みらい」が病害虫に対して屈強だったことから、これらを無農薬転換。続いて、病害虫に対して抵抗の弱い「やぶきた」に取り組んだ。ちょっとした偶然からそのヒントを近隣の茶園から得た悦郎さんは、やぶきたも無農薬で栽培する方法を確立。「行政や指導機関の話とは違う手法を実践するのは、みんな不安に思いがちだけれども、そこをがまんして続けられるかが大切です。それに、売れるから無農薬のお茶を作ってるんじゃない。哲学として、そうしているんです」と言う。

そんな悦郎さんの農業について特筆すべきことは、無農薬であることはもちろん、ひとりでできる規模の農業を守っている点だ。

茶業は、ご両親の代で機械化した。その規模は大きくも小さくもない。これが現在でもなんとか継続できている理由のひとつだと彼は言う。20年以上前、地域では共同製茶工場をつくり集約化が図られたが、それでも経営状態は苦しいままだった。効率化を進めるために更に事業規模は大型化されたが、好転していないという。悦郎さんはそもそも大型化に魅力を感じず、個人ですべてを行うことにした。「僕は、3周遅れで最先端ですよ」と笑う彼には、茶業全体の行く末と独自性の必要性が、理屈ではなく直感的に読めていたのではないだろうか。

どの地域でも、またどの農業分野でも後継者が足りていないことは今や誰でも知る事実だろう。だが悦郎さんは悲観することなく、工夫して活路を切り拓く。集約化とは逆方向を向いた。ひとりでお茶を育て、摘み、製茶し、そして売るところまで出来ることを、彼は自らの働き方を通じて伝えようとしている。

「よく『ひとりでやっています』なんて人もいるけれど、実態は家族経営とか共同経営だったりします。僕は、本当にひとりで全部をやっています(ご家族もいらっしゃるが、悦郎さんはひとりでやっている)。そもそも『家族で』なんていう価値観も、もうこの時代にはあまり通用しないんじゃないかと思います。結婚していなくても、親が働けなくなっても続けられる農業っていうのも、あるんですよ。30~40代の担い手にこのことを伝えたい。両親の世代が集約化で苦しい思いをするのを間近で見ていて、本当に続けられるんだろうかと悩む人も多いですから、そのなかで本当にやる気がある人には教えたいと思っています」

今年になって彼が着手したのは、新たな独自品種の育成だ。明治時代の篤農家が残した茶畑から、特色あるものを自ら選抜して挿し木し、育てている。ロマンティックな物語性を帯びたお茶を、悦郎さんは愛おしそうに見つめる。

「5年くらいしたら摘めるかな。これが最後の仕事だろうな」と言う悦郎さん。その視線は自らの人生だけではなく、遠く先を見つめていることが彼の話を聴けばわかる。これまで支配的であった「家族」「みんなで」という価値観を脱ぎ去り、無理のない合理化を柔軟に取り入れつつお茶を守り継ごうと彼は奮闘している。

懐古にとらわれすぎては、本当に大切なことはいったい何であるのかを見落としてしまうかもしれない。悦郎さんの眼差しは明るく、淡々とした語り口にもにじみ出る里への愛情に、僕も元気をおすそ分けしていただく気持ちがした。

再訪を約束し、地元へ帰ったのは日付が変わるころだった。後を追うようにして悦郎さんの煎茶が後日届き、これから皆さんにご紹介するための準備にとりかかる。寒いくらいの爽やかな青部の風の感触はまだ肌に残っている。

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益井悦郎さんからお預かりした浅蒸し煎茶は、『平野原煎茶』の名で近日中にご紹介します。

乞うご期待!

2020/12/23

継ぐのが定めでした / 梶原敏弘さん / 熊本県 芦北町

 


梶原敏弘さん / 熊本県 芦北町 告(つげ)

2020年12月に何度目かの再会を果たし、そのときにご自宅でゆっくりと伺ったお話をここに残します。ぜひ、このお茶とともにお楽しみください。(この記事の内容は2020年12月現在の情報にもとづきます)

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「芦北釜炒り茶」の生産者である梶原敏弘さんは昭和35年生まれで、ちょうど私の父親世代。今ではご子息も加わって茶業に勤しんでいます。茶業を始めたのはおじいさんなので、敏弘さんが3代目です。

※釜炒り茶は緑茶の1種です。日本国内に流通する緑茶のほとんどが煎茶で、これは葉を蒸してから揉みながら乾燥させます。一方で釜炒り茶は、蒸す代わりに生葉を鉄釜で炒り、茶葉の酸化酵素のはたらきを止めてから揉みこみと乾燥を行います。大量生産に向かないので担い手は非常に少なく流通量もごくわずか。ざっくり、蒸すか炒るかで分かれるとお考えください。

もともと梶原家が住まう告は芦北町ではお茶の産地で、今でも数軒だけ釜炒り茶を作る家があるのだとか。このあたりでは自家用の茶の樹があり、摘んだ生の葉を梶原さんのところへ運び加工賃を支払って製造してもらう家もたくさんありました。この仕事で工場はてんやわんやの大忙しで、敏弘さんも学生時代から実家の仕事を手伝いました。工場から家の縁側あたりまでは50mほど、ずらりと委託加工のお茶が並んでいました。それはそれは凄まじい加工量です。敏弘さんが20代前半のころは、一番茶期にもなれば地域の人々と協力して3交代を組み、工場はなんと24時間操業!

中学と高校を出た敏弘さんは、すぐに熊本県立農業大学校へと進学。ここの2期生として、茶業課程に所属し、栽培・製造・経営を学びました。ご自身を含む8名の同級生とは今も同窓会をする仲なのだとか。8名の実家は、3名が釜炒りで、5名が煎茶農家でした。敏弘さんを含む4人が現在でもお茶に携わっています。

農業大学の卒業は昭和55年だから、今年で40年が経ったことになります。「そんなになるのかぁ」と敏弘さんも感慨深げ。

家業を継ぐことについて、思い切って質問してみました。「他のことをしてみたかった、という思いは当時なかったのですか」

敏弘さんの答えは、こうでした。「うちは、継ぐのが定めでした。他のことをするなんて、そんな選択肢は思いつきもしないような環境で育ちました」

今でこそ敏弘さんは笑って語ってくれますが、このことは、彼のお茶を愛する人ほどに頭の片隅に置いておきたい言葉だと私は感じました。個人の職業選択は基本的に自由なのが当たり前の時代とはいえ、その自由をある人が謳歌しようとするとき、それが当然ではなかった人もごく一般にいることを踏まえておくべきですし、またこの瞬間にも、その「定め」に従って家業に従事し、ひと一倍の輝きを放ってやまない人がいることは忘れないようにしたいものです。

敏弘さんは今年、年季の入った製茶機械の多くを一新し、昭和最後の年に誕生したご子息へのバトンタッチをすでに視野に入れています。費用も相当に必要なことですし、いかほどの勇気と決断を必要とすることなのか、製茶工場を見たことがある方なら推測ができるかもしれません。



ここからは、敏弘さんの釜炒り茶について見てみましょう。その特徴として最たるものが、とても瑞々しく、釜炒りならではの凛とした香りを大切に、火を入れすぎない清涼感ある仕上げです。

ひと口に釜炒り茶と言っても、まず大量生産に向いていないから、生産者によっていろいろな作り方があります。たとえば、同県の八代市泉町にいる船本繁男さんのお茶は、強度の炒りから来る燻香がとても特徴的です。このようなお茶を熊本弁で「かばしか茶(香ばしい茶)」と言い表し、敏弘さんのおじいさん、そしてお父さんも同じように「香ばしくないと釜炒りではない」との教えを崩さない方々でした。ときにそれは煙たいほどで、京都の炒り番茶にも微かに通ずるものがあります。

敏弘さんが大学を出るころには、釜炒りの流行が変わります。昔ながらの釜炒りとは違って、旨味ののったタイプが好まれるようになり、ここでも一時はそのようなお茶を作っていたといいます。

これは、同県 山都町の小崎孝一さん(倉津和釜炒り茶の生産者)から伺った話にも通じます。生産者のなかには、「旨味と外観重視」の流れと、本来の釜炒り茶らしい姿とのギャップに悩みながらお茶を作り続ける方が少なからずいることが、これまでの聞き取りからもはっきりしています。

一度だけ、私はある年の全国茶品評会の釜炒り茶部門において一等一席、つまり頂点を極めたものを、その生産者のご厚意で飲ませていただいたことがあります。そのお茶についてここでは細かく書きたくはありませんが、そもそも生産者は私がそれを気に入ることは絶対にないだろうと分かった上で、勉強のために飲ませてくれたのです。その取引価格は、はっきり言って常軌を逸していました。

だから、ここで強調しておきたいことがあります。品評会で上位の茶になったり、価格が高かったりしても、あなたはそれを必ずしも美味しいと感じるとは限らない。「ん?」と思ったとしても、ご自身の感覚に素直に従ってもいい。どんな「権威」のあるお茶屋があなたを説き伏せようとしても、最後にそのお茶を口にするのはあなたなのであって、あなた自身の経験の蓄積と感性から、おいしいかどうかを決めればいい。

反面、気をつけたいこともあります。あなたの感性に反するお茶であったとしても、それを生産する人がどのような気持ちでいるかについて、想像を巡らせるべきです。つまり多くの茶農家は、趣味でお茶を作っているのではなく、生業としてお茶と向き合っている。あなたと生産者の間には、往々にして市場という、個人嗜好に合うようカスタムメイドされてはいないフィルターがあります。そして、その市場があるからこそ、あなたの嗜好に合うものがやってきてくれる場合もある。

だから、市場を通したものについて、個人の好き嫌いとは必ずしも合致していなくとも、「嫌い」なんて安易には言うべきではないのです。個人が嫌い(あるいは好き)だと思うものが、なぜ市場にあるのかを考えてみたときに、世の中は多少は優しくなれるのではないかと私は思っています。


話が少し脱線しました(いつものことです)が、梶原家のものを含めてこのあたりのお茶が問屋さんなどを通さずお客さんに直接販売されてきたことは、もちろん苦労は伴いながらもある意味で賢明な判断だったかもしれません。

買い手の感想を直に受け止めるやり方でずっと続けてきた結果、様々な助言者との出会いもあるなかで梶原さんの釜炒り茶が向かった先は、中国緑茶の作り方を基本とした手法でした。炒り葉の段階で釜香(かまか)がつき香ばしく仕上がった従来のものとは違い、釜香がつかないように水分を保ちながらじっくりと火を通して内側の水(芯水 しんみず)を抜いていく。

「今の機械は『いかに効率よく作るか』を考えて設計されています。でも、無理して水を抜こうとすれば上乾き(うわがわき)して表面だけが乾いてしまいます。大切なのは芯水を抜くこと。時間はかかるし、自分が習ってきたのとは真逆のやり方ですが、こうして出来上がるお茶はおいしかったです。それに水がきちんと抜けていると劣化しません」と敏弘さんは言います。

だから、敏弘さんは製茶機械の更新にあたって、炒り葉機や、最後の仕上げを行う丸釜(上の写真で手前に移っている鍋のようなもの)は大切に残しました。古いものを使うことが、梶原さんのお茶の品質に大きく関わっています。

こうして梶原さんの釜炒り茶は、昔ながらのやり方でもなく、市場で売れるお茶でもなく、飲む人の多くがおいしいと言ってくれるお茶に辿り着きました。このことは、国内で釜炒り茶が残っていくためのひとつの道筋を示唆していますが、誰にでも真似できることでもないのだろうと感じます。何しろ、自分で作って、自分で売らなくてはなりません。あるいは、市場がその価値基準を大きく転換してゆけば、光は見えるかもしれませんね。私は小さく「手から手へ」販売していますから、スケールメリットはありません。むしろ、小ささを生かして丁寧に伝えていこうと思っています。

地元では相変わらず火の強めに入った香ばしいお茶が好まれるので、地元の方々と、外の方々の声それぞれを細やかに聞き分けて敏弘さんはお茶づくりをしています。だから、香ばしいお茶だって、やっぱりおいしいのです。それは風土と密接に結びついています。

今年は豪雨で、ご自宅も大切な在来茶園も、被害に遭いました。それでもこうして笑ってくれる敏弘さんの心意気に、誰よりも私自身が勇気づけられた一日です。

「5年分くらい、いろいろ経験した一年でしたね。でも僕はお茶を作っているだけで、あとは何にもしてない。本当に、助けてくれる方々のお陰様だね」と敏弘さんは愛車のトラックをがたごと運転しながらぽつりと言いました。

別れ際は、ずっとこちらに夫婦で手を振ってくださっていました。こういうときは胸が痛みます。


2020/10/31

無為の人 / 栢下裕規さん(奈良県 山添村)

こんにちは。

10月26日。気持ちのよい秋晴れに誘われて、奈良県の山添村を訪ねました。お邪魔したのは、この村で就農し釜炒り茶を中心に作っておられる栢下(かやした)家です。

彼らに出会ったのは、5年か6年前。京都の吉田山で毎年開催されている、「吉田山大茶会」でのことでした。この催しには全国から腕じまんの茶農家や茶商がつどいます。栢下さんたちも出店しておられ、まだ作り始めたばかりだった「天日干し釜炒り茶」を並べていました。

そのお茶のおいしかったこと。何度か注文させていただき、しまいにはそれに飽き足らず現場を見てみたくなり、ご自宅を訪ねたのがご縁のはじまりです。

当店でも栢下さんのお茶を、早い段階から「太陽の釜炒り茶」という名前で販売させていただいてきましたが、先だってその名称を製法にならい「天日干し釜炒り茶」に変更しています。

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まずはそのお茶をご紹介しましょう。

当店でも釜炒り茶はいくつかラインナップがありますが、栢下さんのはユニークです。このお茶は、摘んだお茶の芽を釜で炒り、次いで「揉みこんでから天日干し」を繰り返し、乾燥と焙煎を経ることで作られるものです。和歌山県の熊野地方で伝統的に作られてきた「熊野番茶」の製法を学ばれ、これにならっておられます。

その味わいは、さながら台湾烏龍茶の重焙煎をかけたもののよう。それでいて上品すぎることなく、日常の気兼ねない飲み物として生活に根を下ろす親しみやすさ。深みある香ばしさは単に焙煎だけから生まれるものではなく、それ以前のあらゆる工程が織り成す豊かな滋味に満ちています。台湾のお茶が好きという方にもきっとお気に召していただけますし、日々の食卓にもぴったり。

さて今回の訪問では、改めて一家のこれまでの歩みについてお話を伺う機会を得ましたので、それを皆さんと共有したいと思います。茶農家の表情の一端を知っていただくきっかけになれば幸いです。

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お話を伺ったのは、栢下裕規さん・江里さん。お二方とも奈良出身ではなく、裕規さんは大阪の枚方で、江里さんも同じく大阪の和泉のご出身。

話を裕規さんの大学時代まで遡って、彼らの足跡を追ってみましょう。

裕規さんはもともと農業を志していたわけではなく、大学では建築を学んでいました。3年生のころからは庭園に関心を持ち、国内では飽き足らず中国にも鑑賞しに行くほど。その興味関心から卒業後は造園会社での仕事を体験するも、すぐに身を引きます。「思い描いていた仕事と違っていました」と彼は言います。

「お寺の庭園管理のようなことをやると思ってたんですけど、違ってました。行政から委託を受けて、公道脇の雑草や公園の芝を刈るとか、そういうものでした。もちろん寺院の仕事もある会社でしたけど、今思ってみれば新人にそんなとこ、いきなり任せる訳ないですよね。それで草刈りがあまりにもしんどくて、辞めました。今のほうが体力的にはきついので、なんてことないはずやったんですけど」

退職後、彼はもともと興味があった昔ながらの里山での暮らしを考えはじめます。「里山って、作為のないデザインでできているんです」と彼は言います。「里山で生活しようっていうことなら、やるべきは農業かなって、漠然と思いました」

彼と会ったことのある人なら、彼が里山という言葉のニュアンスをそっくりそのまま体現しているといっても、頷いてくれるのではないかと思います。

2009年、彼は1年間の有機農業研修を伊賀で受けることに。直感から「有機しかない」と思っていたそうです。しかしこの研修生活を経て、彼は体力と精神のいずれをも鍛えられたと言います。つらい局面もあったそうですがどうにかやり抜き、「この経験からタフになれました」と現在彼は笑います。

続けて彼が半年間の研修先に選んだのは、奈良県内の農園でした。ここも有機農法に特化していましたが、経営規模が大きく、したがって有機物の使用量も多い。有機農法について思索を巡らせた彼は、やがて肥料をも使わない農業か可能であるのかどうかを思い巡らせます。そこで彼の目に魅力的に映ったのが、農薬と肥料を使わない、いわゆる自然農法という手法でした。

そこで裕規さんは、同じ奈良県内で自然農法を実践し、野菜とお茶を生産していた農園で2年間を過ごすことに。ここで得た見識から、お茶ならば土壌さえ肥沃ならば自然農法でもやっていけるのではないかと可能性を感じたそうです。ここに至って彼とお茶にようやく接点ができたわけですね。

そしてお客さんとして吉田山大茶会を訪ねた彼は、そこではじめて釜炒り茶の存在を知ります。その魅力を突き詰めるため、彼は四国や九州の生産者を訪ね歩きました。心の赴くまま自由に物事を選択してゆく裕規さんの足取りは軽やかで、気鋭のクリエイターというよりは、どこか牧歌的なのどかさを感じさせます。

江里さんが彼と知り合ったのもそんなころ。彼女は同じ農園で働いていたのです。

やがて2013年に奈良県の山添村にある茶畑を紹介され、この地での農業がスタート。3月にたまたま近くを通りかかった住人から今の住まいである古民家を紹介してもらうことができ、お茶づくりで力強い協力を得ていた江里さんとの生活も始まったのです。「お茶作りはひとりではできないし、本当に心強かったです」と裕規さん。

そうはいっても、彼らはお茶づくりの専門的な修行をしていませんでした。そこで県内の懇意にしていたお茶屋から紹介を受け、和歌山県のある農家を訪問。この農家こそ、現在栢下家の看板ともなっている天日干し釜炒り茶(熊野番茶)を今も生産し続けている古老だったのです。今でも毎年師匠を訪ね、学んでいます。

2014年には自宅横に小さな茶工場を新設。新品の台湾製製茶機などを思い切って購入し、必要最小限の設備で栢下家のお茶づくりは本格的にスタート。この年には、二人の間にかわいい愛娘も誕生しました。

天日干し釜炒り茶のクオリティが落ち着いてきたこともあり、近年はラインナップの拡充にも余念がありません。とりわけ、ウンカという虫が茶を吸うことで「蜜香」と呼ばれる香りの生まれる紅茶は、新たな看板商品として活躍しています。プーアル生茶の製法にヒントを得た長期熟成茶も仲間に加わっています。

早くから多様な品種の育成にも取り組み、現在では在来種のほか8品目を管理。「お茶を植える段階が、一番好きです。話が最初に戻ってしまいますけど、やっぱり庭づくりのようなものに通ずるのです。管理のし易さとか景観とか、自分で考えるのがおもしろいんです」

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裕規さんは、初めてお会いしたときから、口数の少ない人でした。しかしそれだからといってきまりの悪い空気になることはないのが不思議で、こちらも気負いすることがありません。黙々と立ち働いておられる姿は朴とつとしていて、里山を形容して「作為のないデザイン」と言った彼のその言葉そのものの印象を帯びている人です。でも、よいお茶をつくろうとしておられることは、ひしひしと伝わってくるのです。

江里さんは、とっても器用。ちょっとしたことなら割となんでもできるんですよ、と語る彼女は、農園のデザインや広報面を全面的に担っています。もちろんお茶の時期になれば、お茶の摘み取りや製茶作業など裕規さんと一緒にやっておられます。

このお二人には、押し付けがましい商売っ気のようなものがまるでなくて、一方素朴で香りのよいお茶を黙々と作り続けておられます。だから何だか気になってしまうし、毎年どんなお茶を作られるのか楽しみなのです。

初めてお会いしたときだってそうでした。吉田山大茶会の賑やかなテントの並びのなかで、ただテントとテーブルを広げ、そのうえにお茶を並べていたご夫妻。飾り気もないし、ただ静かにそこに居て、作ってきたお茶の話をとつとつとしている。そういうブースはここだけでした。その時に私の胸を打った彼らの実直な立ち姿が忘れられなくて、今でもお会いするとそのときの気持ちを思い起こすのです。こんな人たちがお茶を静かに作っておられるのならば、なんとかして知ってもらえないかなと、素直に思いました。

「作為がない」ものに惹かれる裕規さんの感性は、そのまま彼ら自身の人となりにも。彼らのお茶を一口飲んでいただければ、きっとそのことを感じていただけるはず。物静かな裕規さんは、お茶を通じてこそ実は人一倍に雄弁なのです。

同世代である彼らのこれからを、ずっと追い続けて皆さんにお伝えしたいと思います。