2020/07/19

丘の先の山

【帰宅】

昨日、満田製茶での1ヶ月を終えて、7月18日に地元である大阪の島本町へ戻った。満田製茶での記録をたくさん書き続けたけれど、ひとまずこれを一区切りにしたい。

住まわせていただいていたマンスリーアパートをきれいに掃除して、思わず一礼をして部屋を出る。ひとりで1ヶ月も寝起きするのははじめてのことだった。久樹さんのお母さんが分けてくれる夕食のおかずに何度も助けられた。

部屋を出ると、どこからか毎日漂ってくる柔軟剤のにおいは、これが最後と言わんばかりに鼻をついた。いつもなら柔軟剤のにおいで頭痛がしてしまうのに、このときばかりは哀愁さえ感じてしまうのだった。人の感覚はいい加減なもので、こんなにも気分次第で感じ方が変わってしまうのだ。

まずは日野町立図書館へ行き、借りていた本を返す。ここでIDカードを作ってもいいですよと言ってもらえたとき、なんとなく町の一員になれたような気がしてぽっと嬉しくなった。郷土に関する史料を多数揃えているこの図書館には、本当にたくさんの人が週末になると訪れていた。本のある場所が愛されている。

毎日通った旧道を走り、満田製茶へと向かう。東に向かってまっすぐ伸びる街道が小さなS字カーブを描き、小さな竹林が繁るその元に、1ヶ月を過ごした満田製茶がある。

満田製茶に向かって走るのは、当面の間はこれが最後なのだと思うと、どうしてもさみしい気持ちになってくる。長く見ていたいからカブの速度はいつもよりゆっくりだ。

週末になるとカーテンの降りている事務所も、今日は僕が最後に来ることがわかっているからか、上がっている。鍵も開いていたので中に入ると、コンビニで鳴るのと同じような電子音が鳴り響いて来訪者を家の人々に知らせる。

久樹さんが出てきた。いつもなら朝の挨拶にはじまり「今日は何しますか?」「雨やでなあ。中の仕事やな」とぼちぼち話をするところだが、もう仕事の日ではない。何の気まぐれか、雨ばかりで草取りのあまりできなかった日野もこの日は青空の広く見える夏空だ。「休みやのに、こんなに晴れてしもたら畑に出んならん!」と久樹さんは苦々しく笑っている。

家の人たちがぞろぞろ出てきて話をしてくれる。「ほんまにバイクで帰んの?」「送ってこか?」「荷物、落ちるんとちゃうの」「奥さん、待ってるやろ」...

お父さんもその中にいた。満田武久さんこそ、久樹さんに茶業のバトンを渡した張本人。初代の興した事業を受け継ぎ、地道な営業活動と農作業を続け、今日に至る満田製茶の仕事の広がりを支えた人だ。もう80歳を超えておられるが、まだまだ現役で畑にも工場にも出てこられる。休憩のときに聞かせてくれる昔気質なお話の数々はとてもおもしろかった。そのときばかりはお父さんは少し遠い目をしていたが、次の瞬間にはもう鋭い目線で世のあれこれをずばずばと斬る評論に切り替わる。

ぼくもこんな風に年をとりたいと思わせる人だった。その佇まいというか気力は、政所の古老たちにも通ずるものが大いにある。ずっと立ち働いていて、人として大切な価値観を失わない。

息子さんに、久樹さんとのツーショットを撮ってもらった。5年のお付き合いになるけれど、一緒に写真を撮るのは初めてのことだ。この間、山形蓮さんと写真を撮ったときを思い出してみると、なんとも肩肘の張った一枚になった。僕の久樹さんに対する気持ちの構えが、そのまんま正直に出た。本当に尊敬していて、言葉では親しく話をずっとしているけれど、迂闊になれなれしい態度は取れないのだ。

12時の時報が鳴った。「あ、昼休憩ですね。お弁当食べて帰ろかな」と言うと皆が笑う。そんな軽い冗談を言えば言うほどに、帰らなければならないという現実が近づくだけだった。

「岡村くん来てくれて、助かりましたわ。こんなとこでよかったら、またお願いします」と久樹さんは言ってくれた。「いや、助かったなんて...ともかく、本当にたくさん勉強させていただきました。ありがとうございました」と、何とも気の利かない言葉しか出てこなくて、不甲斐ない気持ちになった。

彼が1ヶ月かけて見せようとしてくれた細やかな仕事の数々は、通常ならば小売店の経営者に見せることなど決して有り得ないものの連続だった。ひとつとして華々しい作業はなかった。掃除とか、汗と粉にまみれる加工作業とか、倉庫とトラックを往復してお茶の積み降ろしとか、ブレンドに使用する茶の割合を決める鑑定とか。

※自園自製の茶は当然ブレンドしていない。

昭和23年からの仕事の積み重ねの先端にいる人がどんなことを考えているのかを間近で見て、そして見るだけでなく一緒に働くという宝物のような時間。合間にぽつりと出てくる久樹さんの胸を打つような本音が、時間をかけて染み渡る。それを感じながら現実と向き合う日々なのだ。

いつまでも立ち話をしていても仕方がない。「じゃあ...」といって僕はカブにまたがって、どこかよそよそしい感じでエンジンを始動した。すべてのものに心がある。それは僕の両親の信条だが、そのときのカブもまた、心を持っていた。

「あんたの居場所はここやないの。早う行くで」

胸がざわついて、ギアチェンジのうまくいかない妙な運転でへろへろと走り出した。「下手やなあ。しゃあないなあ」とカブが言っている。目線を横にやるとミラーに映る夫婦の姿がいつまでも見えていた。振り返るのが怖くて、戻ってしまいそうで、振り返らなかった。

澄んだ空と、前日までの雨ゆえの蒸せ返るような湿気だ。澄んでいるのに重たさもある。爽やかだけれどもさみしさのある別れは、日本の言葉でなんといっていいのかわからない。

でも、言葉にできることが感情のすべてではないのだろうと思う。だからこそ僕たち人間は、もどかしくて、わかってほしくて、こうして文章を書こうとするのかも。乾物屋スモールのまどかさんは、さみしさと爽やかさの同居をさす言葉として「充実」を教えてくれた。充ちて実る、かあ。

ついにミラーから夫婦が消え、満田製茶の看板が消えた。ギアを4速に入れ、スピードを上げる...はずだった。

僕は未練が振り払えなくて日野で少し時間を過ごすことにした。

満田製茶の近くにある「向町カフェ」で昼を食べて帰ろうと思い立ち、カブを停める。ここは3週間ほど前に一度来て感激する味だった。

おにぎりの軽食と、プリン、そして満田製茶のお茶を使ったというラテを頼んだ。どこまでも未練を払うのが下手な自分が、ここまでくると可愛く思えてくる。

やはりおいしく、すっかりお腹は満たされた。満腹になるというのは、本当に大切なことだ。

店の方は僕のことを覚えていて、「いつまで日野にいるんですか?」と聞いてくれた。

「実は今から帰るんですよ」

「えっ!そうなんですか。また来てくださいね」

「もちろん。ちゃんとしたご飯の食べられる場所があって助かりました」

「ありがとうございます!」

「ところでこの音楽、何ですか」

「ああ、これ、えーっと大橋トリオですよ」

「名前だけ知ってましたけど、いいですね。覚えておきます」

「あはは。ありがとうございます」

「じゃあ、また来ますね。ごちそうさま」

日野の人に「また来てね」と言ってもらえるのが嬉しかった。

いよいよ帰路に...と思った僕は、土地の神様に挨拶をしていないことにはじめて気がついた。近くの馬見岡綿向神社(うまみおかわたむきじんじゃ)に入る。完璧に掃き清められた気持ちのいい境内を通って本殿へ向かい、手を合わせた。

いつからか覚えていないけれど、僕は神社で願い事をしない。その瞬間まで生きてこられたことを感謝するのだ。必ず頭の中に浮かぶのは、祖父母の幼少期から今に至るまでの走馬灯のような光景だ。

それでやっと区切りがついた。帰ろう。

来たときとは反対のルート。水口、信楽、朝宮、宇治田原、宇治。途中いくつかの場所で休憩を挟む。どんどんと日野から離れていく。その感じは「千と千尋の神隠し」のエンディングととてもよく似ている肌感覚だった。

京滋バイパス沿いの幹線道路に出る。宇治川と桂川を渡るあたりまで至ったとき、眼前に見知った街並みの風景が突然飛び込んできた。三川合流の向こうの天王山。その頭上には、まだ夕日と言うには少し早い、ぎらついた太陽だ。

山も、川も、街も、空気も、あらゆるものが金色に光っていた。ひとつとして知らないものがなく、そのなかで育った光景だ。何も変わらずにそのままに、あった。帰ってきたのだとその瞬間に深い感慨が沸き起こって、理由のわからない涙がぼろぼろと出ては、真向かいからの風を受けて後ろに飛ぶ。目尻にまっすぐな涙の跡ができた。

「おかえり。どうだった?」と、故郷が優しくささやくのが分かった。

「泣いてばっかり。男らしさのかけらもない!」とカブは言うようだ。

そのまま島本町の懐に飛び込み、いつもなら何も感じないひとつひとつの風景が宝物のように思えた。

団地の駐車場でとうとうカブのエンジンを切り、「お疲れさま。ありがとう」と声をかける。世界で一番多くの台数が走っているという原動機付自転車は、無言になった。

自宅のドアを開けると娘がニヤニヤして立っていて、息子は昼寝をしていた。その横で妻は「ようやく帰ってきたな。さあ私に休暇を」という顔をして笑っている。

ただいま。

...

【お茶屋として】

4年目途中のお茶屋として今回の滞在で感じたことを残しておきたいと思う。

最初僕は、「出稼ぎ」というタイトルで記事を書いたが、とんでもない思い違いであることがすぐにわかった。段取りもわからなければ手際も悪い。そりゃそうだ。一緒に仕事をしたのは、もう30年ほどこの仕事に従事している人なのだから。

それでも久樹さんが僕に声をかけてくれたのは、ひとえに心配してくれたからだ。彼にとって僕のやろうとしていることは、「方向性はよいけれど危なっかしくて心配になる」とのこと。「岡村くんのお母さん、さぞ心配したやろうな。公務員やめて創業するなんて、むちゃくちゃなことを。そやし、僕な、お母さんに頼まれてるような気がしてるんや。『息子のこと、よろしくお願いします』って言われてるような気が...僕が勝手にそう思ってるだけかもしれんけど」

だから彼は、期間中あらゆる手の内を僕に見せてくれた。人には見せられない重要な書類や、記録、ひとつひとつの作業。もちろんやましいものは何一つない。商売上、守秘しておくべきことばかりだ。

でも、彼は終始楽しそうにしてくれていた。あの表情にはきっと嘘がない。なぜかといえば、満田製茶の人知れない苦労の数々を間近でしばらく見る人などそう多くはないからだ。無農薬を30年続けて、草と戦いながら、そして市場価値のさほどないものとして扱われながら、それでも満田家は頑固にそれを続けてきた。そして問屋業を営み、ときに苦しい場面もありながらも、日野の商人として気概溢れる仕事を骨太に継続してきた。

「最初は、再製加工の仕事も、なんでそうするのかとか、よくわからんかった。30年やってて、ここ数年になってやっとやねん。おもしろいなあって思えるようになってきたのは。無農薬もそうやで。やっぱり無農薬のやないとな、おいしくないねん。飲みたいって思えんねん。無農薬の真髄みたいなものが、ようやく感覚としてわかってきた。そういうときに岡村くんみたいな人が来てくれて、嬉しいわ」と彼は包み隠さずに気持ちを言葉にしてくれる。

ある日には、彼は僕の甘さを指摘し、厳しく叱ってくれた。その言葉は今までにお茶屋として人からかけられたどんな言葉よりもまっすぐに心を撃ち抜いて、強いショックを受けながらも、目の覚めるような思いがして、その日からいっそう日々の時間が充実するような思いがした。

「ひとつひとつのことに意味があんねん。無駄なことなんかなにひとつない。それを見てほしいから、来てもらってんねん」

きわめて小さくても僕は満田製茶の客でもあるのだけれども、そんな存在をまっすぐに叱ってくれた。彼はそのとき僕にかけた一連の言葉がきつすぎたといって、ずっと尾を引いているようだった。ごめんなとまで後日彼は僕に言った。僕の気の弱さが彼に伝わり、むやみに心配させてしまったのだ。

久樹さんは、僕のことを、商売の相手であったり、また商売としての茶を教えるべき生徒であったり、それから食べ物の話で盛り上がる友達のような存在であったりと、いろいろな側面から捉えてくれている。そして、ちょうど父親と息子くらいの年の差があるので、ひょっとしたらそんな感覚もまた持ってくれているのかもしれない。

初めてお会いしたときを思うと、ずっと踏み込んだ関係をつくることができた。彼の広い心のおかげだ。

...

日野での1ヶ月が始まったとき、僕は壮大な何かを期待していた。今までよりもお茶を知り、詳しい説明をお客さんにできるようになり、お茶屋として飛躍できると。

でも実際はその逆だった。見れば見るほど、知れば知るほど、わからないことが生まれていく。ようやく丘に登ったぞと思った矢先、その頂上から連峰が向こうにさらにあることに気がつく。きっとこのことに終わりはないと直感した。知っていると思った途端、無知を自覚できなくなるのだ。

連峰は、丘に登らなければその存在を知ることもなかった。あるいは知ったかぶりをしていたか。

「農家の代わりにお客さんに話をしたい」と常々思ってはいるものの、それはとても責任のある仕事であることを改めて思う。彼らの現実を聞こえのいい売り文句にして、切り売りすることがあってはいけない。それでも実際に見聞きしたことを、間違いのないようにできるだけきちんと伝える。簡単なことではない。

僕は彼らと完全に心を重ね合せることはできない。違う人間だからだ。でも、共感をすることができる。重なりそうで重ならない、もがきを繰り返すしかない。その繰り返しのなかに、できるだけ近づき合おうとする人の温かみのようなものを感じられる瞬間がたくさんある。

そうして終盤で日々感じたのは、無理に伝えようと力まなくてもいいかもしれないということだ。全てを伝えようと躍起にならなくても、農家たちとの間で少しずつ育むことのできた気持ちを、心の中で宝物のようにして大事にしておくだけでもいいかもしれない。

僕は、見て、聴いた。

久樹さんやお父さんがどんなふうに草取りをしているか。再製機械の前でどんなふうに動いて、どんな顔をしているか。そのとき鳴っている、それぞれの機械がたてる大きな音。鉄製の機械の強固な冷たさ。木製の機械の古びた温かみ。粉塵の肌感覚。におい。ガスバーナーの熱気。トラックの「まだまだやれるよ」というエンジン音。30kgのお茶の袋の重さ。冷蔵倉庫の寒さ。休憩中の力の抜けた雑談。濡れた茶の樹に手を突っ込んで蔓を引き抜く感覚。土を踏む感覚。虫たちの生きているさま。休憩に入り顔を洗う水の冷たさの気持ち良さ。合間にぽつりと出てくる久樹さんの本音。

どれもこれも、遠く離れたところで起きていることだけれども、心のなかでいつでも呼び起こせる。いまこの瞬間にも、きっとあの人はあんなことをしているだろうなと、今までよりも具体的に想像することができるようになった。

そのことは何にも変えがたい大事な宝物だ。信頼関係と言ってもいいのかもしれない。

これからやることに何も変わりはない。今までと同じことを同じようにきっとやるだろうと思う。どうにか知っていることをできるだけ丁寧にお話する。壮大なことなど何もない。小さな人間関係のなかで、支え合いながら、温め合いながら生きていく。

2020/07/12

7月12日 政所へ

早いもので1ヶ月の日野滞在も、あと1週間を残すところとなった。明日から、最後の5日間が始まろうとしているのだけれど、その前に大切な予定がある。

政所へ行くことだ。

日野町から北へ。東近江市に入り東へ向かう。奥永源寺とも呼ばれるその一帯では600年もの昔からお茶作りが絶えることなく続いており、その品質は古くから知られ、今では生産量も非常に小さく孤高の存在だ。

ここで政所茶の振興に尽力している山形蓮さんと待ち合わせ、今年の新茶を中心にテイスティングをさせていただけることになった。

昼から始め、15種類くらいのお茶を飲ませていただく。気がつけば18時だ。ああでもないこうでもないと言いながらたくさん飲む。まず、どれもおいしい。

肥のよく効いて丁寧な手入れを感じさせるもの。萎凋させてふくよかな香りを発揚させたもの。それらが組み合わさった印象のもの。どこか夏の草刈りのあとを思わせるような、爽やかに青く香るもの。

政所茶と一口に言えども、生産者の栽培のやり方、土壌、そして製造状態などが複雑に絡み合ってそれぞれに独特の個性を持っている。しかし一方で「政所らしいよね」と口を揃える、「らしさ」がある。

それは、鬼気迫るような茶にこめた気迫であったり、先祖代々の営みを絶やすまいとする気丈な心であったりする。

どれがいちばんおいしい、と容易には決められない魅力をそれぞれに持っている。もっともそのことを難しくしているのは、他ならない山形さんの語り口だ。

彼女がひとつひとつのお茶を紹介してくれる様子は、さながら小さな短編集を丁寧に紐解く語り部のよう。

「これは、◯◯さんの…」と言って彼女は、地域の孫であるかのように受け入れられている存在ならではの視点で、語りを始める。それらの多くはどこまでもプライベートな物語であるだけに、聞くものはいつしか彼女の心情を追体験するような気持ちを抱くことになる。

そのひとつを紹介したい。

80歳になろうかというある男性の生産者は、お茶の栽培は続けながらも、茶工場での作業を今年をもって引退することになった。引き際をきっちりとして後進に継承せんとする勇ましい考えあってのことだ。

彼は、工場で自らの担当する生涯最後のロットを無事に加工し終わったあと、脱帽して古い製茶機械に深く一礼したのだという。

自然と熱いものがこみあげてしまう話だ。ほんのりと山形さんの目の赤らむ様子は、否応なくここの人々の信頼関係を垣間見せてくれる。

そのようなお茶が次々と登場するのだ。

そのなかで果たしてあなたなら、「これがいちばんいい」と容易に決めることができるだろうか。僕にはできない。

でも、もちろん商売をするためには決めなければならない。

どうやって?

そんなときは直感しか頼りにするものがない。あらゆる先入観をできるだけ感覚から切り離して、自然と「これだよ」という身体の言葉に従うこと。その選択に後悔の生まれないことを僕は知っている。

今日もまたいくつかの素晴らしいものに出会うことができた。それらは例外なく人柄を反映させているように思われてならない。

日本茶の流通で、生産から買う人までの間に入る人の数が余りにも多すぎると日頃感じている。需要と供給という関係性に、売り手の欲が織り込まれた市場経済において、生産の段階では豊かに備わっていた何かがすっかりと抜け落ちてしまう。何か、というのは、たぶん、こころだと思う。

それを、僕は最後まで消えないようにしたかった。

だがここ政所では、山形さんという存在が生産者たちと僕の間に入ってくれることで、彼女は風土の翻訳者となる。僕にもよくわかる形で政所茶を表現してくれる。

要は、間に入る人の数が問題ではないのだ。間に入るのがその人である必然性は、どれほどあるか、ということなのだ。

彼女のおかげで知ることのできた政所の魅力は、枚挙に暇がない。それらはテキストに書いてあることではなく、彼女と政所の人々の豊かな関係性のなかでしか見えないものだ。

僕たちはそれを主体的に体験することができない。でも、人間は、共感することのできる生き物だ。「わかるよ」と思わず口を突いて出る、その感じだ。

今日も改めてそのことを心に刻み、日野へと帰ることになった。

山形蓮さんは僕と同い年。そんな存在が、きょうもあの山里で奮闘してくれているのだと思いその方角を見遣るとき、どれほどに心強く励まされることか。

帰りのスーパーカブは軽やかに走り、思ったより早く日野へ帰着した。「やるぞ」という衝動が、エンジンにうつったかのようだ。日野で最後の5日間が始まる前に、再び僕は初心を呼び起こすことができた。

梅雨空でも山形さんの表情は湿潤を知らない太陽のようだ。日野へと至る広域農道で、どこからともなく微かににおってきたのは、真夏の夕暮れの気配。梅雨の明けていない山でそんなにおいのするはずがないのに、その気配は確かにあった。

彼女の気力がもたらす衝動を感じ取り、あたかも自らの周囲だけが季節を早く進めていたかのようだ。それとも単に、内なる衝動がはやる気持ちを抑えられず、記憶のなかの夏を呼んでしまっただけなのだろうか。

今年の政所茶を、楽しみにしていてほしい。

2020/07/10

満田製茶 16日目 7月10日 / 母

きのうはうまく文章にならなくて記事をお休みした。

今日は16日目の仕事だった。まずは煎茶の再製加工の仕上げを続ける。細かい茶葉を唐箕にかけて粉を抜く。さらに色彩選別機にかけてカリガネ(茎のお茶)を分別する。などなど。

それらを途中で切り上げて、冷蔵倉庫での作業をすることになった。お客さんから注文があったからだ。トラックとライトバンに分乗して倉庫へ向かい、たくさんのお茶を積む。それをお客さんのところへ運んだ。

2週間そこそこで筋力がつくわけでもないが、ちょっとだけ慣れてきた。どれくらい疲れる作業なのかという感覚が分かりはじめた。

ここまで記事を何度か読んでくださった方はお気づきかもしれないが、華々しい作業というものはひとつとしてない。茶摘みもしていない。なぜなら満田製茶は無農薬であるために、温暖な時期の2番茶の芽は虫たちに献上することになるからだ。

汗とか茶の粉とか製茶機械の轟音にまみれた作業の連続だ。

そのことを「感謝して」と無理に言うつもりはない。ただ強調させてほしいのは、いかなる茶の文化的な営みも、日々の何気ない1杯も、いけてる小売りのプロモーションも、インスタ映えも、日々の地味な労働を礎にしていることだ。ほんの少しでもいいから心に留めておいてもらえたら僕は嬉しい。

「案外地味やろ。こんなもんやねん。僕らみたいにてきぱきやれんでもええから、岡村くんにはこういう世界を知っておいてほしいねん。分かってくれたやろう」と久樹さんは言う。

彼は、自分たちのしんどさを売り文句にしてほしいと思っているわけではない。そういうことは望んでいない。でも、知っておいてほしいと望んでいる。

「無農薬とか、有機とか、やれるもんならやってみいと思うな。昔からずっとやってきたけど、うち、よう考えたら最先端やで…」と、時々彼は絞り出すように言葉をもらす。

無農薬有機(しかも殆どが在来種)の農家であり、問屋業と製造業も営む。礎は開業したおじいさんが作ったそうだ。多様な業務を一挙に抱え込むのは想像を超える大変さがつきまとうのかもしれないが、ある意味でリスク分散ともいえるし、何よりお茶のあらゆる側面を見ることが出来るという強さがある。

だから久樹さんの言葉は常に経験と勘で裏打ちされている。テキストの受け売りではない。そういう人の姿を、1ヶ月めいっぱい使って、見てほしいと言ってくれているのだ。

終業後、加工場を丁寧に掃除する。あす土曜日、僕は満田製茶で取材を受けることになっているからだ。インタビュアーは、島本町から来てくれる。久樹さんも掃除に熱が入る。そして、写してはならないイロイロについて指示をもらう。

「じゃあ明日また10時に来ますね。ありがとうございました」

「おおきに。ありがとう」

まだ時刻は夕方5時過ぎだ。真っ直ぐ家に帰るのが勿体なく感じて、図書館へ寄ることにした。しかしなんとなく思い立ち、図書館の向こうにある森の方へバイクを走らせてみることにした。

すると、正明寺という禅寺があった。聖徳太子が創建したと伝えられるものの焼失し、江戸期に再建。本堂は京都御所の一部を移築したものだという。

虫取りの子どもと、おじいさんが参道の向こうに見えた。虫取り網とカゴ。見かける頻度がちょっと少なくなったかもしれない。

禅寺であるという案内の看板を見ると、何となく心がざわついた。昨秋に台湾に居たとき、禅と老茶を教える老師の前で、僕は不意に泣き崩れてしまった経験があるからだ。

入り口から100メートルほど真っ直ぐに続く参道を抜け、山門をくぐると誰もいない。しかし丁寧に掃き清められた空気にはある種独特の緊張感と、しかし僕のように不意にさすらってくる者を拒まない包容力を感じる。

ようやく抱えることができるほどの大きさの鉢から蓮の葉が伸びて、溜まっている玉のような雨露は赤子の頬っぺたを思わせる。

本堂の扉は閉められていたので重要文化財であるというご本尊の像にまみえることはできなかったが、手を合わせてざわつく気持ちの中を覗いてみることにした。

きっとそうなるだろうと、わかっていた。

4年前に亡くした母親の姿で意識はいっぱいになった。

這いつくばってトイレを隅々まで掃き清めているところ。台所で漢方薬を煮出すところ。中学生のころ口ごたえして頭をパチンと打たれたときのこと。玄関の外で鉢に水やりをしているところ。ベランダで洗濯物を干すところ。辞職したいと申し出た僕を制止しようとした焦り顔。突然の病の宣告を受けてからの痩せ細った顔。「好きなことを、やってみたら…」と突然言った、死の2日前のこと。

それから、もとのとおりの朗らかな顔で僕を見ている、今の母の顔だ。

脇目もふらずに涙がやっぱり出てきてしまった。

お母さん、あなたにもう一度会いたい。どこを探せばあなたにまた会えるのか。宇宙の歴史のなかで、もう僕とあなたが会えることは、もうないのか。互いに違う姿でもいいから、虫でも魚でもいいから、あなたをあなたと認識できるその日が来ることは、もうないのか。いつまでこんなに寂しい思いをすればいいのか。

母の居なくなったその日から、もう何百回、何千回と繰り返し問うてはただ宙に消えていく想いが、また同じように湧き出てくるばかりだった。

母がそれに答えたことはない。ただ、こちらに微笑みかけているばかりだ。

久樹さんは言う。

「亡くなった人な、いつも見てはるで。なんかわかるねん」

そして僕の娘も、とっくにそのことを知っているようだ。「お父さんな、バーバに会いたいねん。バーバ、どこに行ってしもたんやろうな」と僕が言うと、いつも僕の胸をバンバンと叩いてこう返す。

「ここにいるでしょ」

お茶にはなんの関係もなさそうなこういうことが、僕の日々の力にもなっている。