2020/07/12

7月12日 政所へ

早いもので1ヶ月の日野滞在も、あと1週間を残すところとなった。明日から、最後の5日間が始まろうとしているのだけれど、その前に大切な予定がある。

政所へ行くことだ。

日野町から北へ。東近江市に入り東へ向かう。奥永源寺とも呼ばれるその一帯では600年もの昔からお茶作りが絶えることなく続いており、その品質は古くから知られ、今では生産量も非常に小さく孤高の存在だ。

ここで政所茶の振興に尽力している山形蓮さんと待ち合わせ、今年の新茶を中心にテイスティングをさせていただけることになった。

昼から始め、15種類くらいのお茶を飲ませていただく。気がつけば18時だ。ああでもないこうでもないと言いながらたくさん飲む。まず、どれもおいしい。

肥のよく効いて丁寧な手入れを感じさせるもの。萎凋させてふくよかな香りを発揚させたもの。それらが組み合わさった印象のもの。どこか夏の草刈りのあとを思わせるような、爽やかに青く香るもの。

政所茶と一口に言えども、生産者の栽培のやり方、土壌、そして製造状態などが複雑に絡み合ってそれぞれに独特の個性を持っている。しかし一方で「政所らしいよね」と口を揃える、「らしさ」がある。

それは、鬼気迫るような茶にこめた気迫であったり、先祖代々の営みを絶やすまいとする気丈な心であったりする。

どれがいちばんおいしい、と容易には決められない魅力をそれぞれに持っている。もっともそのことを難しくしているのは、他ならない山形さんの語り口だ。

彼女がひとつひとつのお茶を紹介してくれる様子は、さながら小さな短編集を丁寧に紐解く語り部のよう。

「これは、◯◯さんの…」と言って彼女は、地域の孫であるかのように受け入れられている存在ならではの視点で、語りを始める。それらの多くはどこまでもプライベートな物語であるだけに、聞くものはいつしか彼女の心情を追体験するような気持ちを抱くことになる。

そのひとつを紹介したい。

80歳になろうかというある男性の生産者は、お茶の栽培は続けながらも、茶工場での作業を今年をもって引退することになった。引き際をきっちりとして後進に継承せんとする勇ましい考えあってのことだ。

彼は、工場で自らの担当する生涯最後のロットを無事に加工し終わったあと、脱帽して古い製茶機械に深く一礼したのだという。

自然と熱いものがこみあげてしまう話だ。ほんのりと山形さんの目の赤らむ様子は、否応なくここの人々の信頼関係を垣間見せてくれる。

そのようなお茶が次々と登場するのだ。

そのなかで果たしてあなたなら、「これがいちばんいい」と容易に決めることができるだろうか。僕にはできない。

でも、もちろん商売をするためには決めなければならない。

どうやって?

そんなときは直感しか頼りにするものがない。あらゆる先入観をできるだけ感覚から切り離して、自然と「これだよ」という身体の言葉に従うこと。その選択に後悔の生まれないことを僕は知っている。

今日もまたいくつかの素晴らしいものに出会うことができた。それらは例外なく人柄を反映させているように思われてならない。

日本茶の流通で、生産から買う人までの間に入る人の数が余りにも多すぎると日頃感じている。需要と供給という関係性に、売り手の欲が織り込まれた市場経済において、生産の段階では豊かに備わっていた何かがすっかりと抜け落ちてしまう。何か、というのは、たぶん、こころだと思う。

それを、僕は最後まで消えないようにしたかった。

だがここ政所では、山形さんという存在が生産者たちと僕の間に入ってくれることで、彼女は風土の翻訳者となる。僕にもよくわかる形で政所茶を表現してくれる。

要は、間に入る人の数が問題ではないのだ。間に入るのがその人である必然性は、どれほどあるか、ということなのだ。

彼女のおかげで知ることのできた政所の魅力は、枚挙に暇がない。それらはテキストに書いてあることではなく、彼女と政所の人々の豊かな関係性のなかでしか見えないものだ。

僕たちはそれを主体的に体験することができない。でも、人間は、共感することのできる生き物だ。「わかるよ」と思わず口を突いて出る、その感じだ。

今日も改めてそのことを心に刻み、日野へと帰ることになった。

山形蓮さんは僕と同い年。そんな存在が、きょうもあの山里で奮闘してくれているのだと思いその方角を見遣るとき、どれほどに心強く励まされることか。

帰りのスーパーカブは軽やかに走り、思ったより早く日野へ帰着した。「やるぞ」という衝動が、エンジンにうつったかのようだ。日野で最後の5日間が始まる前に、再び僕は初心を呼び起こすことができた。

梅雨空でも山形さんの表情は湿潤を知らない太陽のようだ。日野へと至る広域農道で、どこからともなく微かににおってきたのは、真夏の夕暮れの気配。梅雨の明けていない山でそんなにおいのするはずがないのに、その気配は確かにあった。

彼女の気力がもたらす衝動を感じ取り、あたかも自らの周囲だけが季節を早く進めていたかのようだ。それとも単に、内なる衝動がはやる気持ちを抑えられず、記憶のなかの夏を呼んでしまっただけなのだろうか。

今年の政所茶を、楽しみにしていてほしい。

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