2020/08/30

孤高の煎茶が生まれる場所へ / 小椋武さんと君ヶ畑

ほんの少ししかないけれど、新しいお茶をご紹介します。

煎茶「君ヶ畑」。キミガハタと読みます。

はじめにお伝えしたいことがあります。この煎茶、ここ数年で私が縁あって口にできた緑茶のうち、ほかの追随を許さない圧倒的な品質を誇っています。手元にはたったの1kg。

凄まじい香気は、かつて多くの日本茶が持っていたという胸がすくような香り高さを今に伝えているようにおもえてなりません。

今回は「君ヶ畑」の生産者のこと、そしてこのお茶が生まれた理由を追ってみましょう。

生産者は、滋賀県東近江市の君ヶ畑に代々お住まいである小椋武(おぐら たけし)さん。山の材木と茶を代々の稼業とし生活してこられました。

今年、数えで80歳になられると仰いますが、屈強な体格と背筋の伸びには何ら衰えというものを感じさせません。

小椋さんのいらっしゃる君ヶ畑は、政所茶ブランドを支える奥永源寺地域の七集落のなかでも、最奥にあります。木地師の祖と敬われる惟喬親王(これたかしんのう)が都を離れ、各地を転々としたのちに住まわれたとされる由緒ある土地。君ヶ畑の「君」とはこの親王に他ならず、親王を祀る荘厳な神社も集落に残っています。

小椋さんとお会いすることが叶ったのは、7月に山形さんのもとを訪ねて今年の政所茶をひととおり試させていただけたことがきっかけです。

このときほんとうにたくさんの、それぞれに素晴らしいお茶を試しました。

すでに販売している川嶋さんの煎茶は、政所らしさをしっかりと持ちつつ、どこか肩の力を抜いて楽しめる素朴な魅力に満ちています。

そのあと小椋さんのお茶を飲みますと、川嶋さんのものとは正反対に、鬼気迫る執念をさえ感じるようなおもいがしました。その香りは他が並ぶことを許さず、形容する言葉を無くしてしまったほど。

その後ほどなくして、小椋さんに会わないかと山形さんからうれしい提案。そうして叶ったのがこのたびの訪問でした。

--

到着するとご夫婦で温かく出迎えてくださり、さっそく家の中へ。築100年以上経つという家屋は古びた様子をまったく見せず、磨き上げられた木の美しさを家中にきらめかせていました。

小椋さんはさっそく、君ヶ畑集落のお茶のことから自らのお茶作りまでを丁寧に、そして情熱的に語ってくださいました。上の写真に写っているのは、過去数年の茶畑の農作業を細かく記録したアルバムです。

この家の初代であるお爺様が開墾したという茶畑に植わっているのは、やはりこの地域らしく在来種。薬品を使用せず、落ち葉やススキ、牛糞など有機肥料だけを使用して栽培管理しています。

小椋さんのお茶づくりの転機となったのは、ライターである飯田辰彦さんとの出会いでした。静岡県出身の飯田さんは、昔ながらの日本茶の香りを支えた「萎凋(いちょう)」という工程の重要性を著書で伝えています。これは、摘んだ葉を時間をかけて萎れさせることで、茶葉のわずかな発酵を促し香りを高めるプロセスです。現代、日本の煎茶づくりにおいては萎凋を意図的に行うことはほぼありません。

しかし政所では代々、自然に萎凋を行なってきたそうです。小椋さんの家でもそれは変わらず、しかしその作業を「萎凋」と呼ぶとは知らなかったと奥さんはいいます。摘んだ葉を家の板間に薄く広げて風通しをよくしておき、ときどき撹拌しつつ一晩を過ごすのです。

もともとやっていた作業でしたが、より意識して香りを高め品質のよいお茶とするために、5年前から小椋さんは試行錯誤して萎凋に取り組んでこられました。

「最初の年、ほんまにええのができた。やから『こんなん、簡単なもんや』と思ったんやけんど、そうはいかんかった」

温度管理や風通しの具合など様々に試行を重ねました。うまくいくと、その部屋だけではなく、家中のいたるところにその香りが届くのだといいます。「ハーブのような香り」と奥さん。

そうして香りの高まった茶葉は共同製茶工場に運ばれて、地域のみなさんの手で、家ごとに茶が混らないよう分けて製茶されます。

武さんによれば、「香りのええとき、粗揉機から出たお茶の香りが、精揉機のあるところまで届く」そうです。この2つの機械はかなり離れたところにあるので、びっくりするような話。

このお茶がまさに製茶されているそのとき、山形さんもまた工場にいました。小椋さんのお茶が担当箇所に流れてきたとき、先輩からこう言われたそうです。

「ええ茶や。よう見とけよ」

武さんも茶工場で製茶の仕事を受け持っておられました。しかし後身に譲るとして、今シーズンで工場からは引退なさったのです。

最後のロットを加工し終えたとき、武さんが脱帽して製茶機械に向かって深く一礼するところを山形さんは目の当たりにしました。彼女の胸には、そのときどんな気持ちが湧いたのだろうかと想像します。

--

今年はとてもうまく仕上がったと武さんも自信たっぷり。「ものをつくるというのは、ほんまにおもろいで」。

「畑は、預かりもの。次に渡すために欠かさず手入れしておきます。自分の代でこの茶畑を小さくするということはしません」と語る武さん。彼は自分の畑という感覚ではなく、手渡され、預かり、そして次に繋げるものであるという考えで茶と向き合っています。

その考え方は、並行して営んできた林業でも垣間見えます。「樹は、自分が植えたら、子が育て、そして孫が切る。そういうものです」といって、50年前に植えたという立派な杉の写真を見せてくださいました。

ご自宅も、同じです。いつご子息が戻ってきてもよいように、よく手入れされているのです。「いまはみんな街へ出ていくような時代やけど、いずれ、山のよいときが必ず来ます」。

そんな武さんは、茶畑の様子を見にいくのが日々の楽しみ。「用事がなくても、『今日も元気か』って、お茶のご機嫌伺いに行くんです。山も茶も、親方の足音が最大の肥料なんですよ」

そんな話をしつつ、武さんは君ヶ畑集落の案内をしてくださいました。その足取りはどっしりと重厚で、集落を守ろうとする気概に満ち満ちているのでした。

「君ヶ畑のお茶こそが政所茶の質を支えてきた。そういう気持ちでつくっています。昔はこの集落だけでも3軒の製茶工場がありました。他の集落の茶も集まる政所茶の共同販売会では、農協に売りに行ったお茶を箱に残したまま君ヶ畑に帰ってくることは恥だとされていたんですよ」

※現在、政所茶の製茶工場はJAが操業する1箇所だけになっていて、ここに全集落のお茶が集まる。

少量だけ作られた今年の煎茶を、当店にも預けてくださいました。

これこそ煎茶の勘所だと膝を叩くおいしさ。もはや冗長な説明を必要としないその力を、ぜひご堪能いただきたいとおもいます。

この地のお茶は、正月のころに熟成が進みおいしくなるとも伝えられています。少しだけ取り分けて寝かせておき、新春をともにするのもよいかもしれませんね。

-

手摘み煎茶「君ヶ畑」

滋賀県 東近江市 君ヶ畑町

小椋 武 作

在来種 無農薬 無化学肥料

2,980円 40g入

2020/08/25

発酵番茶 / お百姓さんの健やかな茶

こんにちは。

奈良県都祁(つげ)の羽間さんから、在庫がわずかだった発酵番茶を追加でお届けいただきました。このお茶は、「わざと大きな葉で作った紅茶」です。

摘んだ葉を、人気のない山道に敷き詰めます。数日かけて何度かかく拌し、空気を通します(ほかの農作業もあるので夜中にするときも!)。葉は萎れますがこのときによい香りが生まれるので、欠くことのできない大切な作業です。そして工場に持ち帰り、しっかりと揉み込んでから発酵を促し、乾燥させて完成。

ただいま販売しているのは、昨年の夏に作られた在来種。製造から一年が経ち、湯を注いだ際の香りは深みある蜜のような甘い芳香に変わっていました。びっくりするほどの変化です。

立ち上る濃厚な香気とは違って味わいはどこまでもさわやか。一番茶のような明るい華やかさはありませんが、一方で番茶の素朴な味わいが自然な化粧をしたような、健やかな味わいにうれしくなってしまうお茶です。

暑い夏には、ぜひ熱湯で淹れて楽しんでみてほしいと思います。お腹から優しく温まり、そして汗を少しかいたあとにはわずかなそよ風でさえも冷たく感じるほどの涼感がやってくるでしょう。熱い茶と涼しさは相反するものだとおもわれるかもしれませんが、お試しを。

そもそもこのお茶の出会いは、まだお茶屋になる前のこと。あることがきっかけで購入した彼の発酵番茶が家にちょうど届いたその日、私は風邪で高熱を出しており飲み食いがままならない状態でした。ちょうど家族が外出しており家でひとりで伏せっていましたら、配達員の方がお茶を持ってきました。

そんなときでも初めてのお茶となればふらふらの状態でも飲んでみたく、湯を沸かして何気なく飲んでみたら、不思議なことに私の体は「もっと飲め」と言わんばかりに欲しがったのです。何も食べられず、飲み物もあまり飲めなかったのに、このお茶だけはすとんと体に入りました。理屈は置いといて、ともかくこのお茶だけはいくらでも体に入りました。

その体験がきっかけで羽間さんとのご縁もできたのです。そんな食べ物や飲み物が、みなさんにとってはあるでしょうか?あるよという方はまた話を聞かせてくださいね。

---

さてこのお茶は、羽間さんだからこそ作ることができるお茶だといえるでしょう。米と野菜とキノコ等もつくるお百姓さんである羽間さんは大忙し。彼の家にはガスが通っておらず、自給自足の暮らし。多様な農作物のスケジュールと変わりゆく天候の合間を縫うようにして、そのときそのときにできる仕事に取り組んでおられます。

だから、お茶をつくるにしても羽間さんは決して無理をしません。農薬と肥料をまったく使わない羽間さんのお茶ですから、まずお茶の体力を第一に考えて毎年作るということをせず、2019年はたしか3年ぶりの製造でした。

そして作るにしても、決まったときにできるわけではありません。できるときに、お茶の状況をみながら作るのが羽間さんのスタイル。見てくれも味わいも業界的な市場価値にはとらわれず、それとは距離をおいたところで光を放っています。わたしは、類まれな価値が彼のお茶にはあるとおもっています。

番茶でつくる紅茶というもの自体が、まずそこらでお目にかかるものではありません。どうして緑茶ではなく「番茶の紅茶」にするのかといえば、羽間さんの農業のスタイルに合うのがこのやり方だからなのでしょう。商業的に緑茶をつくるなら、一般的にはそれなりの規模の加工場が必要です。ところがこのお茶なら、製造量にもよりますが巨大な設備がなくても作ることができます。だから羽間さんは、森の中にある山道をも利用しつつ、経済的にも無理なくできるやり方でお茶と関わろうとしておられるのです。

自然の摂理に対して慎しみ深い理解があり、そして既存のやり方にとらわれず遠慮しながらお茶と接することのできる羽間さんだからこその仕事だと私はおもいます。

いつも目を細めて笑っておられる朗らかな羽間さんは、そのようなことをわざわざ口にすることもなくただ優しく田畑や森と関わっておられます。ありのままの放任した自然にこだわるのでもなく、また逆に必要以上の負荷をかけることもなく、あるべき調和というものを長い時間をかけて探っておられるように感じられます。

だから、このお茶には羽間さんの哲学がぎっしりと詰まっているようにおもわれてなりません。

お茶は人をあらわす鏡だとおもいます。そのことを羽間さんもしっかりと伝えてくれているのでした。

2020/07/19

丘の先の山

【帰宅】

昨日、満田製茶での1ヶ月を終えて、7月18日に地元である大阪の島本町へ戻った。満田製茶での記録をたくさん書き続けたけれど、ひとまずこれを一区切りにしたい。

住まわせていただいていたマンスリーアパートをきれいに掃除して、思わず一礼をして部屋を出る。ひとりで1ヶ月も寝起きするのははじめてのことだった。久樹さんのお母さんが分けてくれる夕食のおかずに何度も助けられた。

部屋を出ると、どこからか毎日漂ってくる柔軟剤のにおいは、これが最後と言わんばかりに鼻をついた。いつもなら柔軟剤のにおいで頭痛がしてしまうのに、このときばかりは哀愁さえ感じてしまうのだった。人の感覚はいい加減なもので、こんなにも気分次第で感じ方が変わってしまうのだ。

まずは日野町立図書館へ行き、借りていた本を返す。ここでIDカードを作ってもいいですよと言ってもらえたとき、なんとなく町の一員になれたような気がしてぽっと嬉しくなった。郷土に関する史料を多数揃えているこの図書館には、本当にたくさんの人が週末になると訪れていた。本のある場所が愛されている。

毎日通った旧道を走り、満田製茶へと向かう。東に向かってまっすぐ伸びる街道が小さなS字カーブを描き、小さな竹林が繁るその元に、1ヶ月を過ごした満田製茶がある。

満田製茶に向かって走るのは、当面の間はこれが最後なのだと思うと、どうしてもさみしい気持ちになってくる。長く見ていたいからカブの速度はいつもよりゆっくりだ。

週末になるとカーテンの降りている事務所も、今日は僕が最後に来ることがわかっているからか、上がっている。鍵も開いていたので中に入ると、コンビニで鳴るのと同じような電子音が鳴り響いて来訪者を家の人々に知らせる。

久樹さんが出てきた。いつもなら朝の挨拶にはじまり「今日は何しますか?」「雨やでなあ。中の仕事やな」とぼちぼち話をするところだが、もう仕事の日ではない。何の気まぐれか、雨ばかりで草取りのあまりできなかった日野もこの日は青空の広く見える夏空だ。「休みやのに、こんなに晴れてしもたら畑に出んならん!」と久樹さんは苦々しく笑っている。

家の人たちがぞろぞろ出てきて話をしてくれる。「ほんまにバイクで帰んの?」「送ってこか?」「荷物、落ちるんとちゃうの」「奥さん、待ってるやろ」...

お父さんもその中にいた。満田武久さんこそ、久樹さんに茶業のバトンを渡した張本人。初代の興した事業を受け継ぎ、地道な営業活動と農作業を続け、今日に至る満田製茶の仕事の広がりを支えた人だ。もう80歳を超えておられるが、まだまだ現役で畑にも工場にも出てこられる。休憩のときに聞かせてくれる昔気質なお話の数々はとてもおもしろかった。そのときばかりはお父さんは少し遠い目をしていたが、次の瞬間にはもう鋭い目線で世のあれこれをずばずばと斬る評論に切り替わる。

ぼくもこんな風に年をとりたいと思わせる人だった。その佇まいというか気力は、政所の古老たちにも通ずるものが大いにある。ずっと立ち働いていて、人として大切な価値観を失わない。

息子さんに、久樹さんとのツーショットを撮ってもらった。5年のお付き合いになるけれど、一緒に写真を撮るのは初めてのことだ。この間、山形蓮さんと写真を撮ったときを思い出してみると、なんとも肩肘の張った一枚になった。僕の久樹さんに対する気持ちの構えが、そのまんま正直に出た。本当に尊敬していて、言葉では親しく話をずっとしているけれど、迂闊になれなれしい態度は取れないのだ。

12時の時報が鳴った。「あ、昼休憩ですね。お弁当食べて帰ろかな」と言うと皆が笑う。そんな軽い冗談を言えば言うほどに、帰らなければならないという現実が近づくだけだった。

「岡村くん来てくれて、助かりましたわ。こんなとこでよかったら、またお願いします」と久樹さんは言ってくれた。「いや、助かったなんて...ともかく、本当にたくさん勉強させていただきました。ありがとうございました」と、何とも気の利かない言葉しか出てこなくて、不甲斐ない気持ちになった。

彼が1ヶ月かけて見せようとしてくれた細やかな仕事の数々は、通常ならば小売店の経営者に見せることなど決して有り得ないものの連続だった。ひとつとして華々しい作業はなかった。掃除とか、汗と粉にまみれる加工作業とか、倉庫とトラックを往復してお茶の積み降ろしとか、ブレンドに使用する茶の割合を決める鑑定とか。

※自園自製の茶は当然ブレンドしていない。

昭和23年からの仕事の積み重ねの先端にいる人がどんなことを考えているのかを間近で見て、そして見るだけでなく一緒に働くという宝物のような時間。合間にぽつりと出てくる久樹さんの胸を打つような本音が、時間をかけて染み渡る。それを感じながら現実と向き合う日々なのだ。

いつまでも立ち話をしていても仕方がない。「じゃあ...」といって僕はカブにまたがって、どこかよそよそしい感じでエンジンを始動した。すべてのものに心がある。それは僕の両親の信条だが、そのときのカブもまた、心を持っていた。

「あんたの居場所はここやないの。早う行くで」

胸がざわついて、ギアチェンジのうまくいかない妙な運転でへろへろと走り出した。「下手やなあ。しゃあないなあ」とカブが言っている。目線を横にやるとミラーに映る夫婦の姿がいつまでも見えていた。振り返るのが怖くて、戻ってしまいそうで、振り返らなかった。

澄んだ空と、前日までの雨ゆえの蒸せ返るような湿気だ。澄んでいるのに重たさもある。爽やかだけれどもさみしさのある別れは、日本の言葉でなんといっていいのかわからない。

でも、言葉にできることが感情のすべてではないのだろうと思う。だからこそ僕たち人間は、もどかしくて、わかってほしくて、こうして文章を書こうとするのかも。乾物屋スモールのまどかさんは、さみしさと爽やかさの同居をさす言葉として「充実」を教えてくれた。充ちて実る、かあ。

ついにミラーから夫婦が消え、満田製茶の看板が消えた。ギアを4速に入れ、スピードを上げる...はずだった。

僕は未練が振り払えなくて日野で少し時間を過ごすことにした。

満田製茶の近くにある「向町カフェ」で昼を食べて帰ろうと思い立ち、カブを停める。ここは3週間ほど前に一度来て感激する味だった。

おにぎりの軽食と、プリン、そして満田製茶のお茶を使ったというラテを頼んだ。どこまでも未練を払うのが下手な自分が、ここまでくると可愛く思えてくる。

やはりおいしく、すっかりお腹は満たされた。満腹になるというのは、本当に大切なことだ。

店の方は僕のことを覚えていて、「いつまで日野にいるんですか?」と聞いてくれた。

「実は今から帰るんですよ」

「えっ!そうなんですか。また来てくださいね」

「もちろん。ちゃんとしたご飯の食べられる場所があって助かりました」

「ありがとうございます!」

「ところでこの音楽、何ですか」

「ああ、これ、えーっと大橋トリオですよ」

「名前だけ知ってましたけど、いいですね。覚えておきます」

「あはは。ありがとうございます」

「じゃあ、また来ますね。ごちそうさま」

日野の人に「また来てね」と言ってもらえるのが嬉しかった。

いよいよ帰路に...と思った僕は、土地の神様に挨拶をしていないことにはじめて気がついた。近くの馬見岡綿向神社(うまみおかわたむきじんじゃ)に入る。完璧に掃き清められた気持ちのいい境内を通って本殿へ向かい、手を合わせた。

いつからか覚えていないけれど、僕は神社で願い事をしない。その瞬間まで生きてこられたことを感謝するのだ。必ず頭の中に浮かぶのは、祖父母の幼少期から今に至るまでの走馬灯のような光景だ。

それでやっと区切りがついた。帰ろう。

来たときとは反対のルート。水口、信楽、朝宮、宇治田原、宇治。途中いくつかの場所で休憩を挟む。どんどんと日野から離れていく。その感じは「千と千尋の神隠し」のエンディングととてもよく似ている肌感覚だった。

京滋バイパス沿いの幹線道路に出る。宇治川と桂川を渡るあたりまで至ったとき、眼前に見知った街並みの風景が突然飛び込んできた。三川合流の向こうの天王山。その頭上には、まだ夕日と言うには少し早い、ぎらついた太陽だ。

山も、川も、街も、空気も、あらゆるものが金色に光っていた。ひとつとして知らないものがなく、そのなかで育った光景だ。何も変わらずにそのままに、あった。帰ってきたのだとその瞬間に深い感慨が沸き起こって、理由のわからない涙がぼろぼろと出ては、真向かいからの風を受けて後ろに飛ぶ。目尻にまっすぐな涙の跡ができた。

「おかえり。どうだった?」と、故郷が優しくささやくのが分かった。

「泣いてばっかり。男らしさのかけらもない!」とカブは言うようだ。

そのまま島本町の懐に飛び込み、いつもなら何も感じないひとつひとつの風景が宝物のように思えた。

団地の駐車場でとうとうカブのエンジンを切り、「お疲れさま。ありがとう」と声をかける。世界で一番多くの台数が走っているという原動機付自転車は、無言になった。

自宅のドアを開けると娘がニヤニヤして立っていて、息子は昼寝をしていた。その横で妻は「ようやく帰ってきたな。さあ私に休暇を」という顔をして笑っている。

ただいま。

...

【お茶屋として】

4年目途中のお茶屋として今回の滞在で感じたことを残しておきたいと思う。

最初僕は、「出稼ぎ」というタイトルで記事を書いたが、とんでもない思い違いであることがすぐにわかった。段取りもわからなければ手際も悪い。そりゃそうだ。一緒に仕事をしたのは、もう30年ほどこの仕事に従事している人なのだから。

それでも久樹さんが僕に声をかけてくれたのは、ひとえに心配してくれたからだ。彼にとって僕のやろうとしていることは、「方向性はよいけれど危なっかしくて心配になる」とのこと。「岡村くんのお母さん、さぞ心配したやろうな。公務員やめて創業するなんて、むちゃくちゃなことを。そやし、僕な、お母さんに頼まれてるような気がしてるんや。『息子のこと、よろしくお願いします』って言われてるような気が...僕が勝手にそう思ってるだけかもしれんけど」

だから彼は、期間中あらゆる手の内を僕に見せてくれた。人には見せられない重要な書類や、記録、ひとつひとつの作業。もちろんやましいものは何一つない。商売上、守秘しておくべきことばかりだ。

でも、彼は終始楽しそうにしてくれていた。あの表情にはきっと嘘がない。なぜかといえば、満田製茶の人知れない苦労の数々を間近でしばらく見る人などそう多くはないからだ。無農薬を30年続けて、草と戦いながら、そして市場価値のさほどないものとして扱われながら、それでも満田家は頑固にそれを続けてきた。そして問屋業を営み、ときに苦しい場面もありながらも、日野の商人として気概溢れる仕事を骨太に継続してきた。

「最初は、再製加工の仕事も、なんでそうするのかとか、よくわからんかった。30年やってて、ここ数年になってやっとやねん。おもしろいなあって思えるようになってきたのは。無農薬もそうやで。やっぱり無農薬のやないとな、おいしくないねん。飲みたいって思えんねん。無農薬の真髄みたいなものが、ようやく感覚としてわかってきた。そういうときに岡村くんみたいな人が来てくれて、嬉しいわ」と彼は包み隠さずに気持ちを言葉にしてくれる。

ある日には、彼は僕の甘さを指摘し、厳しく叱ってくれた。その言葉は今までにお茶屋として人からかけられたどんな言葉よりもまっすぐに心を撃ち抜いて、強いショックを受けながらも、目の覚めるような思いがして、その日からいっそう日々の時間が充実するような思いがした。

「ひとつひとつのことに意味があんねん。無駄なことなんかなにひとつない。それを見てほしいから、来てもらってんねん」

きわめて小さくても僕は満田製茶の客でもあるのだけれども、そんな存在をまっすぐに叱ってくれた。彼はそのとき僕にかけた一連の言葉がきつすぎたといって、ずっと尾を引いているようだった。ごめんなとまで後日彼は僕に言った。僕の気の弱さが彼に伝わり、むやみに心配させてしまったのだ。

久樹さんは、僕のことを、商売の相手であったり、また商売としての茶を教えるべき生徒であったり、それから食べ物の話で盛り上がる友達のような存在であったりと、いろいろな側面から捉えてくれている。そして、ちょうど父親と息子くらいの年の差があるので、ひょっとしたらそんな感覚もまた持ってくれているのかもしれない。

初めてお会いしたときを思うと、ずっと踏み込んだ関係をつくることができた。彼の広い心のおかげだ。

...

日野での1ヶ月が始まったとき、僕は壮大な何かを期待していた。今までよりもお茶を知り、詳しい説明をお客さんにできるようになり、お茶屋として飛躍できると。

でも実際はその逆だった。見れば見るほど、知れば知るほど、わからないことが生まれていく。ようやく丘に登ったぞと思った矢先、その頂上から連峰が向こうにさらにあることに気がつく。きっとこのことに終わりはないと直感した。知っていると思った途端、無知を自覚できなくなるのだ。

連峰は、丘に登らなければその存在を知ることもなかった。あるいは知ったかぶりをしていたか。

「農家の代わりにお客さんに話をしたい」と常々思ってはいるものの、それはとても責任のある仕事であることを改めて思う。彼らの現実を聞こえのいい売り文句にして、切り売りすることがあってはいけない。それでも実際に見聞きしたことを、間違いのないようにできるだけきちんと伝える。簡単なことではない。

僕は彼らと完全に心を重ね合せることはできない。違う人間だからだ。でも、共感をすることができる。重なりそうで重ならない、もがきを繰り返すしかない。その繰り返しのなかに、できるだけ近づき合おうとする人の温かみのようなものを感じられる瞬間がたくさんある。

そうして終盤で日々感じたのは、無理に伝えようと力まなくてもいいかもしれないということだ。全てを伝えようと躍起にならなくても、農家たちとの間で少しずつ育むことのできた気持ちを、心の中で宝物のようにして大事にしておくだけでもいいかもしれない。

僕は、見て、聴いた。

久樹さんやお父さんがどんなふうに草取りをしているか。再製機械の前でどんなふうに動いて、どんな顔をしているか。そのとき鳴っている、それぞれの機械がたてる大きな音。鉄製の機械の強固な冷たさ。木製の機械の古びた温かみ。粉塵の肌感覚。におい。ガスバーナーの熱気。トラックの「まだまだやれるよ」というエンジン音。30kgのお茶の袋の重さ。冷蔵倉庫の寒さ。休憩中の力の抜けた雑談。濡れた茶の樹に手を突っ込んで蔓を引き抜く感覚。土を踏む感覚。虫たちの生きているさま。休憩に入り顔を洗う水の冷たさの気持ち良さ。合間にぽつりと出てくる久樹さんの本音。

どれもこれも、遠く離れたところで起きていることだけれども、心のなかでいつでも呼び起こせる。いまこの瞬間にも、きっとあの人はあんなことをしているだろうなと、今までよりも具体的に想像することができるようになった。

そのことは何にも変えがたい大事な宝物だ。信頼関係と言ってもいいのかもしれない。

これからやることに何も変わりはない。今までと同じことを同じようにきっとやるだろうと思う。どうにか知っていることをできるだけ丁寧にお話する。壮大なことなど何もない。小さな人間関係のなかで、支え合いながら、温め合いながら生きていく。