この記事では、主に釜炒り緑茶を当店に預けてくださっている岩永智子(いわなが さとこ)さんのことをご紹介します。
(2020年12月ごろ、前ブログに投稿した記事を再編して公開するものです)
岩永さんと出会ったのは偶然の出来事でした。2019年の春に対馬の大石さんを訪問した際、同じタイミングで大石家の紅茶づくりを見に来ておられたのです。そのまま意気投合し、翌週になって馬見原へ。心温かくお母様とともに迎え入れてくださり、たっぷりとそのお茶づくりについてお話を伺うことが出来ました。それ以来ご縁が続き、京都の mumokuteki でお茶の販売会を開催していただいたことも。
岩永さんが暮らすのは、熊本県上益城郡山都町の馬見原(まみはら)というかつての宿場町です。山都町は、蘇陽町・清和村・矢部町が平成になってから合併して出来た町。なかでも馬見原は山深い場所にありながら古くから宿場町として栄え、「一旗上げるなら馬見原へ」と言われた時代もあったとか。現在でも人影は多くないながらも立派な石畳の商店街が健在であり、かつて何軒もの造り酒屋が営業していたという名残も見ることができます。
岩永家があるのは、この馬見原の目抜き通りの中。その裏手には宮崎県との県境でもある五ヶ瀬川が流れ、これに沿うようにして在来種を含む複数品種の育成を行っています。
茶業を商業的に発展させたのは、智子さんの父である博さん(故人)。その博さんのおばあさんの里が馬見原なのです。お父さんは熊本市内でラジオ屋を営んでいましたが、戦時の疎開先として馬見原へ。博士さんは人生のほとんどをここで生活することになりました。
博さんは大学で畜産を学びましたが、馬見原の家にはもともとお茶が植えられていたこともあり、徐々にこれを拡大して稼業となしたのです。そのお茶づくりは釜炒り製でした。(この地域は国産釜炒り茶のひとつの中心地でした)
はじめは農協に卸していた茶葉も、徐々に小売販売へウェイトを移します。今でも岩永家を訪ねれば、全国のファンに向けた荷物が玄関先に置いてあるのを見ることができます。着実にファンを増やした岩永製茶園のお茶は、昭和46年に農林水産大臣賞を受賞するほどまでに。
智子さんのお母さんである周子(かねこ)さんは、蒸し製煎茶への転換を博さんに提案したことがあるといいます。煎茶のほうが生産効率が高く、またクルクルと曲がった形状の釜炒り茶とは違って、煎茶はピンと伸びた茶葉がきれいに揃って見えたからです。
しかし博さんは、「絶対に、せん」といって頑なに釜炒り製をやめようとしませんでした。彼が釜炒りに対して抱いていた思いとは、どのようなものなのでしょうか。故人に直接思いを尋ねることは叶わないまでも、博さんと同世代である生産者・船本繁男さんが同県の八代市泉町に健在。彼は煎茶を生産していたのに、途中から地域にもともとあった釜炒り茶にわざわざ転向しました。2021年に惜しまれつつ静かに操業を終えるまで、船本家は誇りを持って釜炒り茶のみを作りました。
彼らにとって生産性は問題ではなく、釜炒り茶は自らの暮らす土地と紐付けられたアイデンティティそのものだったのではないでしょうか。岩永さんがお茶をつくる共同製茶工場* でも、製造ラインの半分は煎茶に転換しつつも、釜炒りを現在でもやめていません。
* 菅尾(すげお)共同製茶工場。現工場長は小﨑孝一さんで、当店でも販売する「倉津和釜炒り茶」の生産者でもあります。
このように、土地と自らの切っても切れない関係性を強く意識し、そのお茶を守ろうとする生産者は各地に存在します。もちろん、釜炒り茶に限ったことではなく、たとえば滋賀県東近江市君ヶ畑の小椋武さんは「祖父から預かったこの畑と土地の名を次に託すのが、自分の役目です」と語ります。
自宅裏の茶畑では、美しい小径を挟んで左に在来種が、そして右に品種茶が植わっています。品種茶のなかには、博さんが在来種のなかから選別して殖やしたここだけのお茶「岩永1号」があり、紅茶にすると素晴らしい香気を生みます。
さて現在、博さん亡きあと故郷に戻って畑の管理を担う智子さん。お母様はすでに高齢なので、日々の畑の管理は智子さんが担当し、繁忙期になれば地域の人々の協力を得ながらなんとか継続しておられます。幼少から博さんの作業風景を間近で見て、ときに手伝うこともありました。そんな智子さんがお茶を語る際には必ずといっていいほどに博さんの言葉や面影が登場し、智子さんのお茶に対する感性のなかに生き生きと博さんの姿があるのを誰も見過しはしないでしょう。
とりわけ仕上げの火入れをするときの芳しい香りについて智子さんが話すとき、お父さんとの鮮明な思い出に包まれながらひとつひとつの言葉を編む様子は、この家の茶業の歴史がぎゅっと詰まった結晶そのものです。
その様子を周子さんは喜ばしく見ています。博さんが亡くなり、もう茶業はおしまいだろうと思っていたところに智子さんが帰郷。周子さんはコタツで温もりながら、こう語ってくれました。
「私はもともとお茶が好きでここに嫁いできた訳ではなかったんですけれど、段々とお茶が可愛くなってきました。この歳になって、一番の楽しみは茶畑に行くことで、可愛がればお茶は応えてくれます。藁や枯れ草を敷いたりしてね…。そのへんを散歩する暇があったら、畑の草の1本を取りにいきたいですよ。智子も、そういう風になってきたんでしょうか。智子が一所懸命お茶をするので、彼女がし易いようにしてあげたいと思います。紅茶づくりも応援しています」
智子さんはご自身が実家の茶業に携わるようになってから新たに紅茶づくりもはじめ、近年は毎年連続して国産紅茶のコンテストで入賞を繰り返している実力派なのです。もちろん茶業に楽なことなど何一つなく、栽培、製茶、販売に広報…問題は山積みで、智子さんも日々あらゆることに頭を悩ませつつ、それでも思い出の詰まった茶畑を今日も守っておられます。
当店では、智子さんの「岡村くんには、ぜひ緑茶の紹介をがんばってほしい」という言葉をきっちり受け止めて、「川鶴」をお預かりしています。川鶴はご自宅の裏の古い字名だそうで、岩永家のお茶のなかでも、若くて重たい芽だけを選別した特上のロットにだけ与えられてきました。なかでも、岩永家に古くから伝わっている在来種だけを原料にした特別な「在来川鶴」をオーダーし、数キロだけ託して頂いています。在来種でつくってこそ、岩永家の釜炒り茶はいっそう魅力を増すように思うからです。
菅尾共同製茶工場で荒茶までをつくり、仕上げ加工は智子さんの自宅の工場で。在来種の深みはあるけれど控えめな出で立ちが、釜炒りならではの凛とした「釜香」を引き立てて何煎も楽しませてくれます。さらに雑味がなく飲み疲れがありません。ともすると行き過ぎた香ばしさをつけて原料の素直さを曲げてしまう釜炒り工程ですが、ここでは智子さんや、地域の熟練の技術者たちの腕前がぞんぶんに発揮されています。
「色々なお茶があり目移りするけれども、毎日飲めるお茶は限られてきます」と智子さんが言うのも、このようにすっきりと香りのよいお茶を一口飲めば頷けます。この地域の古老たちも、地元の釜炒り茶を「胸ん中の、すかっとするごたる茶」とかつて評しました。この川鶴も、まさしくそのような爽快感を誇っています。
在来のお茶をおいしいという私に、智子さんは「お父さんに会ってもらいたかった」とこぼしたことがありました。たしかに博さんはそこにはいません。でも馬見原の工場を訪ねれば、どこを見渡しても博さんの残した足跡を見つけることができます。
何よりも智子さんという人を訪ね、その人となりとお茶への姿勢を見つめる人は、目には見えなくてもそこに親子の重なりが静かに輝く様子を心を通じて発見するでしょう。そのことを思いながら淹れる「川鶴」は、もはや「おいしいか否か」という嗜好品の域をゆうに越えています。
心と心をなめらかに通わせるそのお茶が、いままさに自分の目の前にあること。縁あってこそ身の回りのあらゆる物事が成り立ち生きておられることを改めて思います。
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川鶴釜炒り茶
岩永智子 作 / 熊本県 山都町 馬見原
釜炒り製緑茶 在来種 無農薬
¥980 / 40g
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