(続き)
君ヶ畑町の小椋さんのお宅を後にして、僕は蛭谷町を抜けて箕川町へとたどり着いた。政所茶を構成する7町はそれぞれに「町」の名があるけれど、都市部に暮らす人が想像する町とは全く違う規模で、小さな集落といったところだ。もちろんそれぞれに役場がある訳でもない。
川嶋いささんは黄和田集落がご出身で、ここ箕川町に嫁いでこられた女性だ。今年で90だとか、91だとか、ときによっていろいろと仰るので正確な年齢が分からないのだけれども、少なくとも奥永源寺地域の生活を戦前から目の当たりにし、この地域に根付いている在来のお茶のように根っこをびっしりと張り生きてこられた方だ。
いささんは、山形蓮さんにとっては奥永源寺の祖母のような存在でもある。蓮ちゃん、蓮ちゃん、といっていつも気にかけている様子が伝わってくるし、時折山形さんから送られてくる写真にも、心から親しみをもって接してこられた様子を感じる。
山形さんは市外から転居し、地域おこし協力隊を経て政所町に定住している。いささんは同じ奥永源寺地域の出身とはいえ、黄和田という異なる集落から箕川に嫁いで生活を送ってきた方だ。慣れ親しんだ住処を出て、違う環境で長く奮闘してきた女性という立場から、いささんは山形さんの姿にいつかの自分を重ねていることが、ひょっとしたらあるのかもしれない。
今回いささんを訪ねたのは、もちろん今年のお茶を見たいということもあったけれど、何よりもお元気でいらっしゃるかどうか、お顔を見て話したいなと思ったからだ。というのも、少し前のこと、山形さんからいささんが今年のお茶づくりをもって茶畑を手放されることになったという連絡があった。
それはもう、驚くようなニュースではなかった。いささんの腰は尊厳を感じるほどに折れ曲がっていて、百姓として長い年月をかけ土と対面してきたことが誰にでもわかる背格好をしておられる。野菜づくりの畑はまだ続けておられるけれど、負担の大きな茶畑の管理はいよいよリタイアなさり、ご親戚があとを継ぐことになったとのこと。茶畑はいささんのご出身である黄和田集落にあり、地域を周回するバスで日々通っておられた。
いささんがご自身の手を入れてこられた茶畑からの煎茶はもう最後ということで、それを拝みたかった。
いささんは足腰こそ少ししんどそうな様子こそあれ、達者なおしゃべりはこちらの心配をよそに全くもってご健在。ほっとした。「ほんで、どんくらいお茶をとってくれはるんですかな?」と世間話もそこそこに、いささん、縁側からおもむろにお茶の袋を引張り出して来た。
すでにいささんのペース。この家ではいつも朝に沸かした湯をポットに入れて、いつでもお茶を淹れられるようにしてあるので、すぐ飲ませていただいた。茶渋でいっぱいになったいつもの急須。そこにたっぷり茶葉を淹れて、熱い湯を注いでくださる。いささんは「つ」の字みたいな形になっている。
ここのお茶はどこか奔放で、伸びやか。青草の香りがして気持ちがいい。それはまさしく土の賜物。一朝一夕では仕上がらない土を、政所の人たちは本当に大切に扱ってこられたのだ。それがわかる味。適切な渋さ、滋味がきちんとあり、あと引く健やかな余韻は、さすが政所茶の一員だ。
改めて思う。この地域の煎茶は、特別だ。
いささんのお茶の1/4くらいをお預かりした。これが、いささんから買う最後のお茶なのだ。
そんなことは何も知らない子どもたち。とくに4歳の息子は、仏間だの寝室だの、僕たちが何を言おうとも勝手に走り回って楽しそう。
「人ん家の寝室に入るな!!おい、引き出しを!勝手に開けては!ならん!!…仏壇の前でボールを投げるのもいかん!!!(嘆息)」
「かまへん、かまへん…仏さんもな、おお誰か知らんけど元気な子どもさんたちいらっしゃったな言うて、喜んではるで。あっはっは…」
こういう時候なので、あまり長居するのも褒められないかなと思い、小一時間ほどの滞在でいささんとお別れした。いささんは僕たちが昼ごはんを食べるかなと思ったらしく、赤飯を炊いておいてくださったので、それをパックにつめてお土産にしてくれた。
ご尊顔を記念撮影。今のところ奥永源寺地区で最もチャーミングなおばあちゃんであるいささんは、カメラを向けたら必ずピースサインで応じてくれる。チャーミングさはそのままに、どこか厳かにも思われるその表情。積み上げてこられた苦労がどれほどのものであるか僕には想像するしかないけれど、それでもこうして齢90歳を超えてもお元気であり、笑いを絶やさないところに、この地域の魅力を感じてしまう。
またいつでも来ていいんだと、そう思える大切な場所だ。これからもいささん、お元気で!いささんは元気なのに、ちょっと目頭、火照る感じがする。本当に僕はこの山の人たちが好きだ。
…
高速道路を走らせて、水無瀬に帰着。雑誌 dancyu で政所茶の特集が組まれているよと山形さんが教えてくれたので、長谷川書店で買い求めた。書店を出てロータリーに停めてある車へ向かう途中、ひぐらしのカナカナ…という声が近くで聞こえてきた。駅前ではちょっと珍しい。
その声、君ヶ畑の客間でご飯をいただいていたとき、山から聞こえてきたのと同じだった。少し暑さのましな夕暮れ、いい風があって。目さえ閉じたら、ひぐらしの一声で90kmかなたの政所へ瞬時に戻ってしまうようだ。それって、心の中の政所だ。いつの間にか政所は僕の心象風景になって、僕がこの世界にさよならをするときまで、消えないのだろう。
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煎茶 黄和田 2022
川嶋いさ 作
無農薬 無化学肥料 在来種
準備でき次第販売開始します