2021/07/01

プレオープンを終えて ① これまでとこれから

 


(ブログ記事は、今回からこちら Google の Blogger にて投稿します。これまで Wix上で記録してきた記事は、順次こちらに移管します)

2021年6月29,30日

岡村商店のプレオープン。はじめてお店にお客さまをお迎え入れした二日間が終了してから、一日が経ちました。内容を踏まえてオペレーションを調整しつつ、7月4日の本オープンまでいったんお休みとします。

さてプレオープン中は、自分たちの空間であるのに、体がそこでの動きに慣れておらずアタフタしっぱなし。それでもひっきりなしに、これまでお世話になった方々や、工事の様子をずっと見てくださっていた方がご来店くださいました。前日からお花のアレンジメントや素敵な鉢植えが山ほど届き、言葉にならない気持ち。いつまでも眺めていられます。

何度も頭のなかで繰り返した動き方も、実際にお客さまが店内に入っていろいろと注文をくださると、すべてが吹き飛んでしまいました。そんなに単純にはいかないものですよね。

週末に本オープンを控えた今日は、改めてこのお店ができるまでのことをざっと振り返ります。初心は大切!

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私はもともとお茶が好きで、実家でも祖父母宅でも急須で何気なくお茶を飲んでいました。こだわりはなくて、緑茶なら何でもよかったのです。コーヒーよりは日本茶、でも和菓子よりは洋菓子という子どもでした。

母方の祖父は徳島県つるぎ町の山奥にある家賀(けか)という集落で育った人で、自家用茶を皆で作ったと話していました。10代に京都へ移り住んで工務店を仲間と立ち上げた祖父。結婚してから大阪の高槻市淀の原町に住まいを移し、亡くなるまでの長い生活の場となりました。10年ほど前に心臓を悪くしてからは徳島に帰ることもむずかしい状態に。それでも田舎の話ばかりする祖父だったので、気の毒になり私ひとりが代わりに故郷を見に行くことになったのです。

祖父の生家は長年空き家ですが、その隣人は健在。私の急な訪問を快く招き入れてくれました。そこで出会ったのが、家賀集落のお茶でした。「田舎のお茶がいちばんうまい」と話していた祖父の言葉を思い出しながらいただく煎茶は格別の味わいで、さながら幼少期の祖父と自分が、時間を超えて繋がるような思いがしたものです。決して上品な味わいではなく、がぶがぶ飲めるような素朴なものでした。でも、今まででいちばんおいしいお茶はなんだったかと問われれば、迷わずこのときの煎茶だと答えます。お茶は、ベロと鼻、そして心で飲むものです。

帰り際に高齢化の激しく進む家賀集落を眺めると、胸を打たれるような思いがして涙が止まりませんでした。ここが自分の故郷なんだという気持ちが溢れて、自分の命は両親と祖父母だけでなく、本当にたくさんの人びとの生活を礎にしているのだと感じ入りました。

お茶と深く関わるようになったのはそれからです。しかしお茶屋めぐりをしても満たされない気持ちを抱えた私は、平日はふつうに務める傍らで、週末になると農家のところへ足を運ぶのが趣味になりました。お茶の味わいはもちろんのこと、作っている人がどんなことを考えながら農業をしているのかに興味があったからです。

やがて、農家たちの生き様やものの考え方を皆に知ってほしいなと願うようになりました。ちょうど仕事を変えたいと思い始めた頃と重なり、すでに結婚していた妻の力強い後押しがあって2017年に起業。「にほんちゃギャラリーおかむら」という名前で無店舗のままお茶を農家から預かって販売してきました。どこの馬の骨ともわからぬ男がお茶を売っていることに多くの方が呼応してくださって、今日まで生活をつないでこられました。

その傍らで妻は2018年から「岡村包子研究所」という名前で月に何度か中華まんをつくってイベントに持っていくように。これが瞬く間にお客さまの好評を得て、いつしか一緒にお店が出来たらいいのになと思うようになりました。でも簡単には物件に出会うことができません。あれこれ内覧をしに行きましたが、直感的にこれだと感じる場所がありません。

長岡京市の写真スタジオSTU:L(スツール)を営むカメラマンの竹内靖博さんは、いつの日だったかこう言っていました。「焦らなくても、本当にあるときになって突然、これだという場所に出会えるよ」

その場所は、私のいつもの生活圏内にあったのです。地元の島本町、その水無瀬駅前にある商店街。純喫茶「槇珈琲店」は1970年からこの地で営業していましたが、2019年に店主の体調を理由に閉店。私はときどきここでココアを飲むのが好きだったのですが、店主の新田さんから「ここで店をするか?」と提案をいただきました。

長いこと踏ん切りがつかなかった私たち夫婦ですが、店がないままずっとやっていくことに不安もあり、自分たちのカラーを出せる拠点を持とう!と決心したのが去年の秋ごろ。融資を申し込み、出来るときに一気に改装工事をやろうということになりました。

工事は4月にはじまり、6月中頃まで。子どもたちも、毎日いらっしゃる大工さんをはじめとしていろいろな職種の職人さんたちと会うのを楽しんでくれました。あれよあれよで工事が進み、とうとうプレオープンを迎え、それすらも過ぎたことになりました。

本当に、時間の経つのはあっという間です。信じられない。

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妻の紀子は、私の起業から今日までを、思い切りのよい決断力でもっていつでも味方になってくれました。「うん、うん」と小さく頷きながら、どんな話題でも嫌がらずにいつでも聴いてくれたことでどれだけ救われたでしょうか。大きな出費があるときは「意味のあることなら、やったらええやんか」と言っていつでもGOサイン。気の小さな私とは大違いで、気丈な人です。

お茶とは関係のない仕事も、地域内のありがたいご縁を頼りとして色々とこなしてきました。とりわけ、知的障害のある方の生活支援をする福祉の仕事には今も世話になっています。

毎日変則的なリズムで私が出たり入ったりする生活は、家族にとって楽とは程遠い状態でした。

それでも妻は、私に対して感情的になることが全然ありませんでした。もちろん私はこのことを美談として書きたいのではなく、妻が常に味方でいてくれたこと、ずいぶんと気持ちに甘えさせてもらったことをいつまでも忘れてはならないという思いから、ここに書き残しています。

これからは同じ屋号のもと、力をあわせて仕事をします。楽ではないけれど、妻をはじめとしてたくさんの方々への感謝の気持ちを感じながら日々を過ごせること、とても幸せなことです。

こつこつと改良の重なってゆく妻の包子と甘味。その変化が楽しみですし、この町の方々や、もっと遠くから来てくださる方々が妻と仲を深めていくところを見届けられたらいいなと思っています。

2021/04/23

農業はひとりでもできる / 益井悦郎さん(静岡・川根本町)

令和3年 4月18日(日)


茶農家・益井悦郎さんにお会いするため、静岡県榛原郡川根本町の青部地区を訪ねた。

益井さんのことは僕が起業する前から飯田辰彦さんの著書で知っており、彼の得意とする発酵系のお茶を取り寄せては、起業前にイベントで淹れていたことがある。京都の「吉田山大茶会」でもお会いし、3年ほど前に静岡を訪問する約束をしていたが急な事情で叶わず、このたび念願を果たすことができた。

今回は益井さんのつくる浅蒸し煎茶が目的の訪問だ。彼の煎茶をひととおり送ってもらったところ、どれも後口が優しく無理がない。香りをぐっと引き出すために熱湯でさっと淹れ、喉元を過ぎてからも胸焼けを起こさず、ひねくれたところのないお茶だった。

そのなかでも光っていたのは、「やぶきた」種シングルオリジンの煎茶だった。きっちりと滋味をキープしたまま2煎、3煎と耐える。このような浅蒸しの煎茶を探していたので、どんぴしゃだった。(このお茶は近日中に販売開始します!)

すぐ益井さんに連絡をした。他のやぶきたとちょっと違うと感じたからだ。改めて益井さんの話を聴きたいと伝え、ご快諾いただくや否や、新幹線のチケットを手配して旅のモードに切り替わった。

会いにいくぞ、と決めたときの心の躍動。これがたまらなく好きだ。

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浜松駅で新幹線を降り、金谷駅まで向かい、大井川鐵道に乗り換えた。大井川沿いをどんどんと北上し、比較的規模が小さいと思われる茶畑や地域の茶工場を見遣りながら期待が高まる。益井さんの家の最寄りである青部駅で降りた。

降りた途端に西の空から分厚い雲が流れ込み、さっきまでの晴天が嘘のような雨になった。雨合羽を持っていたので、携帯を濡らさないようにgoogle mapを確認して益井さんの家に向かう。歩いて10分もかからないところにご自宅はあった。

そのあたりは、よくある「富士山を臨む広大な緑の茶畑」といった静岡茶のイメージとは全然違っていて、一区画あたりがさほど大きくない茶畑の点在している静かな農村といった印象だった。

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ここからは益井さんから伺ったお話をもとに、彼のご紹介をしたい。

益井悦郎さんは、ご自身で5代目になる茶農家だ。ご先祖は江戸時代の末期に静岡から青部へ移って、以来お茶をこの土地でつくり続けている。

6人きょうだいの末っ子。もともと実家の農業を継ぐつもりはなく、一生を途上国の農業支援に捧げようと早くから心に決めていたという。子どものころ、兄たちの世代は学生運動などに熱心に取り組む人も多く、悦郎さん自身もその影響を子どもながらに受け、興味関心が途上国支援に結実していった。

悦郎さんは高校を出たのち、アメリカのネブラスカ州で2年間、農業を学んだ。このときに無農薬の作物づくりに触れたが、それが日本ではあまり価値のおかれていない農法であることもまた分かった。その後地元に戻った彼は、さらに2年間農業をした。ところがきょうだいのうち誰も実家の農業を継ごうとする人がいなかったことから、担い手のない茶畑を彼が守ることに。

途上国支援を生涯のテーマに決めていた彼は、実家で就農することを約束し、青年海外協力隊として2年間働くことを決めた。赴任したのはアフリカのセネガル共和国で、彼が目にしたのは換金作物をつくる農業だった。種と肥料と農薬がセットで農家に販売され、作物をつくる。アメリカで無農薬の農業を学んでいた彼は、現地の人々にそのやり方を指導した。

彼の話しぶりは、ガンディーが推し進めたスワデーシ・スワラージの考え方を感じさせた。支配的な海外資本によらず、あくまでも現地の人々が生活の手綱を自らの手にしっかりと持てる住民自治と地域経済。これを目指すべきと、当時の悦郎さんも考えたのではないだろうか。

いまから37年前の1984年、悦郎さんはセネガルから帰国。5代目として茶畑をその手に預かった。

彼は、「つゆひかり」や、独自品種「みらい」が病害虫に対して屈強だったことから、これらを無農薬転換。続いて、病害虫に対して抵抗の弱い「やぶきた」に取り組んだ。ちょっとした偶然からそのヒントを近隣の茶園から得た悦郎さんは、やぶきたも無農薬で栽培する方法を確立。「行政や指導機関の話とは違う手法を実践するのは、みんな不安に思いがちだけれども、そこをがまんして続けられるかが大切です。それに、売れるから無農薬のお茶を作ってるんじゃない。哲学として、そうしているんです」と言う。

そんな悦郎さんの農業について特筆すべきことは、無農薬であることはもちろん、ひとりでできる規模の農業を守っている点だ。

茶業は、ご両親の代で機械化した。その規模は大きくも小さくもない。これが現在でもなんとか継続できている理由のひとつだと彼は言う。20年以上前、地域では共同製茶工場をつくり集約化が図られたが、それでも経営状態は苦しいままだった。効率化を進めるために更に事業規模は大型化されたが、好転していないという。悦郎さんはそもそも大型化に魅力を感じず、個人ですべてを行うことにした。「僕は、3周遅れで最先端ですよ」と笑う彼には、茶業全体の行く末と独自性の必要性が、理屈ではなく直感的に読めていたのではないだろうか。

どの地域でも、またどの農業分野でも後継者が足りていないことは今や誰でも知る事実だろう。だが悦郎さんは悲観することなく、工夫して活路を切り拓く。集約化とは逆方向を向いた。ひとりでお茶を育て、摘み、製茶し、そして売るところまで出来ることを、彼は自らの働き方を通じて伝えようとしている。

「よく『ひとりでやっています』なんて人もいるけれど、実態は家族経営とか共同経営だったりします。僕は、本当にひとりで全部をやっています(ご家族もいらっしゃるが、悦郎さんはひとりでやっている)。そもそも『家族で』なんていう価値観も、もうこの時代にはあまり通用しないんじゃないかと思います。結婚していなくても、親が働けなくなっても続けられる農業っていうのも、あるんですよ。30~40代の担い手にこのことを伝えたい。両親の世代が集約化で苦しい思いをするのを間近で見ていて、本当に続けられるんだろうかと悩む人も多いですから、そのなかで本当にやる気がある人には教えたいと思っています」

今年になって彼が着手したのは、新たな独自品種の育成だ。明治時代の篤農家が残した茶畑から、特色あるものを自ら選抜して挿し木し、育てている。ロマンティックな物語性を帯びたお茶を、悦郎さんは愛おしそうに見つめる。

「5年くらいしたら摘めるかな。これが最後の仕事だろうな」と言う悦郎さん。その視線は自らの人生だけではなく、遠く先を見つめていることが彼の話を聴けばわかる。これまで支配的であった「家族」「みんなで」という価値観を脱ぎ去り、無理のない合理化を柔軟に取り入れつつお茶を守り継ごうと彼は奮闘している。

懐古にとらわれすぎては、本当に大切なことはいったい何であるのかを見落としてしまうかもしれない。悦郎さんの眼差しは明るく、淡々とした語り口にもにじみ出る里への愛情に、僕も元気をおすそ分けしていただく気持ちがした。

再訪を約束し、地元へ帰ったのは日付が変わるころだった。後を追うようにして悦郎さんの煎茶が後日届き、これから皆さんにご紹介するための準備にとりかかる。寒いくらいの爽やかな青部の風の感触はまだ肌に残っている。

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益井悦郎さんからお預かりした浅蒸し煎茶は、『平野原煎茶』の名で近日中にご紹介します。

乞うご期待!

2020/12/23

継ぐのが定めでした / 梶原敏弘さん / 熊本県 芦北町

 


梶原敏弘さん / 熊本県 芦北町 告(つげ)

2020年12月に何度目かの再会を果たし、そのときにご自宅でゆっくりと伺ったお話をここに残します。ぜひ、このお茶とともにお楽しみください。(この記事の内容は2020年12月現在の情報にもとづきます)

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「芦北釜炒り茶」の生産者である梶原敏弘さんは昭和35年生まれで、ちょうど私の父親世代。今ではご子息も加わって茶業に勤しんでいます。茶業を始めたのはおじいさんなので、敏弘さんが3代目です。

※釜炒り茶は緑茶の1種です。日本国内に流通する緑茶のほとんどが煎茶で、これは葉を蒸してから揉みながら乾燥させます。一方で釜炒り茶は、蒸す代わりに生葉を鉄釜で炒り、茶葉の酸化酵素のはたらきを止めてから揉みこみと乾燥を行います。大量生産に向かないので担い手は非常に少なく流通量もごくわずか。ざっくり、蒸すか炒るかで分かれるとお考えください。

もともと梶原家が住まう告は芦北町ではお茶の産地で、今でも数軒だけ釜炒り茶を作る家があるのだとか。このあたりでは自家用の茶の樹があり、摘んだ生の葉を梶原さんのところへ運び加工賃を支払って製造してもらう家もたくさんありました。この仕事で工場はてんやわんやの大忙しで、敏弘さんも学生時代から実家の仕事を手伝いました。工場から家の縁側あたりまでは50mほど、ずらりと委託加工のお茶が並んでいました。それはそれは凄まじい加工量です。敏弘さんが20代前半のころは、一番茶期にもなれば地域の人々と協力して3交代を組み、工場はなんと24時間操業!

中学と高校を出た敏弘さんは、すぐに熊本県立農業大学校へと進学。ここの2期生として、茶業課程に所属し、栽培・製造・経営を学びました。ご自身を含む8名の同級生とは今も同窓会をする仲なのだとか。8名の実家は、3名が釜炒りで、5名が煎茶農家でした。敏弘さんを含む4人が現在でもお茶に携わっています。

農業大学の卒業は昭和55年だから、今年で40年が経ったことになります。「そんなになるのかぁ」と敏弘さんも感慨深げ。

家業を継ぐことについて、思い切って質問してみました。「他のことをしてみたかった、という思いは当時なかったのですか」

敏弘さんの答えは、こうでした。「うちは、継ぐのが定めでした。他のことをするなんて、そんな選択肢は思いつきもしないような環境で育ちました」

今でこそ敏弘さんは笑って語ってくれますが、このことは、彼のお茶を愛する人ほどに頭の片隅に置いておきたい言葉だと私は感じました。個人の職業選択は基本的に自由なのが当たり前の時代とはいえ、その自由をある人が謳歌しようとするとき、それが当然ではなかった人もごく一般にいることを踏まえておくべきですし、またこの瞬間にも、その「定め」に従って家業に従事し、ひと一倍の輝きを放ってやまない人がいることは忘れないようにしたいものです。

敏弘さんは今年、年季の入った製茶機械の多くを一新し、昭和最後の年に誕生したご子息へのバトンタッチをすでに視野に入れています。費用も相当に必要なことですし、いかほどの勇気と決断を必要とすることなのか、製茶工場を見たことがある方なら推測ができるかもしれません。



ここからは、敏弘さんの釜炒り茶について見てみましょう。その特徴として最たるものが、とても瑞々しく、釜炒りならではの凛とした香りを大切に、火を入れすぎない清涼感ある仕上げです。

ひと口に釜炒り茶と言っても、まず大量生産に向いていないから、生産者によっていろいろな作り方があります。たとえば、同県の八代市泉町にいる船本繁男さんのお茶は、強度の炒りから来る燻香がとても特徴的です。このようなお茶を熊本弁で「かばしか茶(香ばしい茶)」と言い表し、敏弘さんのおじいさん、そしてお父さんも同じように「香ばしくないと釜炒りではない」との教えを崩さない方々でした。ときにそれは煙たいほどで、京都の炒り番茶にも微かに通ずるものがあります。

敏弘さんが大学を出るころには、釜炒りの流行が変わります。昔ながらの釜炒りとは違って、旨味ののったタイプが好まれるようになり、ここでも一時はそのようなお茶を作っていたといいます。

これは、同県 山都町の小崎孝一さん(倉津和釜炒り茶の生産者)から伺った話にも通じます。生産者のなかには、「旨味と外観重視」の流れと、本来の釜炒り茶らしい姿とのギャップに悩みながらお茶を作り続ける方が少なからずいることが、これまでの聞き取りからもはっきりしています。

一度だけ、私はある年の全国茶品評会の釜炒り茶部門において一等一席、つまり頂点を極めたものを、その生産者のご厚意で飲ませていただいたことがあります。そのお茶についてここでは細かく書きたくはありませんが、そもそも生産者は私がそれを気に入ることは絶対にないだろうと分かった上で、勉強のために飲ませてくれたのです。その取引価格は、はっきり言って常軌を逸していました。

だから、ここで強調しておきたいことがあります。品評会で上位の茶になったり、価格が高かったりしても、あなたはそれを必ずしも美味しいと感じるとは限らない。「ん?」と思ったとしても、ご自身の感覚に素直に従ってもいい。どんな「権威」のあるお茶屋があなたを説き伏せようとしても、最後にそのお茶を口にするのはあなたなのであって、あなた自身の経験の蓄積と感性から、おいしいかどうかを決めればいい。

反面、気をつけたいこともあります。あなたの感性に反するお茶であったとしても、それを生産する人がどのような気持ちでいるかについて、想像を巡らせるべきです。つまり多くの茶農家は、趣味でお茶を作っているのではなく、生業としてお茶と向き合っている。あなたと生産者の間には、往々にして市場という、個人嗜好に合うようカスタムメイドされてはいないフィルターがあります。そして、その市場があるからこそ、あなたの嗜好に合うものがやってきてくれる場合もある。

だから、市場を通したものについて、個人の好き嫌いとは必ずしも合致していなくとも、「嫌い」なんて安易には言うべきではないのです。個人が嫌い(あるいは好き)だと思うものが、なぜ市場にあるのかを考えてみたときに、世の中は多少は優しくなれるのではないかと私は思っています。


話が少し脱線しました(いつものことです)が、梶原家のものを含めてこのあたりのお茶が問屋さんなどを通さずお客さんに直接販売されてきたことは、もちろん苦労は伴いながらもある意味で賢明な判断だったかもしれません。

買い手の感想を直に受け止めるやり方でずっと続けてきた結果、様々な助言者との出会いもあるなかで梶原さんの釜炒り茶が向かった先は、中国緑茶の作り方を基本とした手法でした。炒り葉の段階で釜香(かまか)がつき香ばしく仕上がった従来のものとは違い、釜香がつかないように水分を保ちながらじっくりと火を通して内側の水(芯水 しんみず)を抜いていく。

「今の機械は『いかに効率よく作るか』を考えて設計されています。でも、無理して水を抜こうとすれば上乾き(うわがわき)して表面だけが乾いてしまいます。大切なのは芯水を抜くこと。時間はかかるし、自分が習ってきたのとは真逆のやり方ですが、こうして出来上がるお茶はおいしかったです。それに水がきちんと抜けていると劣化しません」と敏弘さんは言います。

だから、敏弘さんは製茶機械の更新にあたって、炒り葉機や、最後の仕上げを行う丸釜(上の写真で手前に移っている鍋のようなもの)は大切に残しました。古いものを使うことが、梶原さんのお茶の品質に大きく関わっています。

こうして梶原さんの釜炒り茶は、昔ながらのやり方でもなく、市場で売れるお茶でもなく、飲む人の多くがおいしいと言ってくれるお茶に辿り着きました。このことは、国内で釜炒り茶が残っていくためのひとつの道筋を示唆していますが、誰にでも真似できることでもないのだろうと感じます。何しろ、自分で作って、自分で売らなくてはなりません。あるいは、市場がその価値基準を大きく転換してゆけば、光は見えるかもしれませんね。私は小さく「手から手へ」販売していますから、スケールメリットはありません。むしろ、小ささを生かして丁寧に伝えていこうと思っています。

地元では相変わらず火の強めに入った香ばしいお茶が好まれるので、地元の方々と、外の方々の声それぞれを細やかに聞き分けて敏弘さんはお茶づくりをしています。だから、香ばしいお茶だって、やっぱりおいしいのです。それは風土と密接に結びついています。

今年は豪雨で、ご自宅も大切な在来茶園も、被害に遭いました。それでもこうして笑ってくれる敏弘さんの心意気に、誰よりも私自身が勇気づけられた一日です。

「5年分くらい、いろいろ経験した一年でしたね。でも僕はお茶を作っているだけで、あとは何にもしてない。本当に、助けてくれる方々のお陰様だね」と敏弘さんは愛車のトラックをがたごと運転しながらぽつりと言いました。

別れ際は、ずっとこちらに夫婦で手を振ってくださっていました。こういうときは胸が痛みます。