2021/07/02

プレオープンを終えて ② 岡村商店をつくった人たち

 


この記事は、「プレオープンを終えて ① これまでとこれから」の続きです。

本オープンを明後日の日曜日に控え、今回は岡村商店が開店するまでにお力添えをくださった方々をご紹介します。私にとっても永久保存版のリスト。(書かずとも忘れるわけがないのですが…)

「お店をやろう!」という気持ちはあれども、この方々の支えがなければ、何ひとつ自分たちの力では成し得ませんでした。

数多くの方が、様々な形で力になってくださいましたが、ここではとくに物件の契約から開店までの工事でお世話になった方を中心にご紹介します。


▷ 新田 美知子さん / 槇珈琲店 (2019年末 閉店)

この場所で1970年から「槇珈琲店」を切り盛りしてきた方です。若いころひとりで日本料理店に飛び込んで、飲食店の基礎を叩き込まれたという新田さん。女性がそのような機会を得るのは当時としてはとても珍しかったのだといいます。槇珈琲店は一時期、高槻市内にも直営店を構えスタッフも大勢雇って賑やかに営業していました。

新田さんは今日もご健在で、開店前のご挨拶のためご自宅へ伺いました。本当に引退してよかったのかと思うほどの元気のよさで、お客さまをお迎えするとき、そして見送るときの極意について教えて頂きました。大ベテランの直接講義です。

引退後もまだまだ商売人の目の輝きを失わない、私にとっては商売の先生のひとり。新田さんのご厚意がなければ、すべてが始まりませんでした。


▷ 山本 順子さん / 島本町商工会

「にほんちゃギャラリーおかむら」のときからずっと気にかけてきてくださった山本さん。そのスムーズな繋ぎと心遣いがあってこそ、この物件を契約することが叶いました。岡村商店の芽が出る最初のきっかけをつくってくれた仕掛け人であり、毎夜商工会のほうに足を向けて寝ることは許されません(?)。

商売をしている人でなければ、商工会の方が何をしているのかは分かりにくいかもしれませんが、その実態はシンプルです。商売がうまくはじめられるように道筋を一緒に考えてくれ、そして始まったあとは相談窓口としてどんなことでもとりあえず聴いて、適切な答えを用意してくださる心強い存在なのです。

でも、山本さんは商工会の人である以前に、ご個人としてこの町の商売人たちの日々を近いところで見つめておられます。職責に燃えているというより、もともとそういうことが好きなんだなとわかる素朴な視点が魅力的なんです。

Twitter 👉 https://twitter.com/4403_shimamoto


赤羽 遼圭さん / Smile village ハルカフェ 店主

岡村商店の隣でキッズカフェを営む商売の先輩です。当店の包子部の活動は、赤羽さんの声掛けから始まりました。3年前の冬にお店を間借りして、「ノリコの包子ナイト!」というイベントを開催したのです。

これがきっかけになって、月に2度、昼と夜の営業を続けてきました。新型コロナウイルスが流行して以降は開催できませんでしたが、それまでの毎月のイベントがなければお店という形にしていくことはイメージすることすら難しかったと思います。

赤羽さんは、何でもやってみる力強さと思い切りのよさがある人です。企画力もすごい!その立ち働きの姿を知っていたから、ようし我々も、と思えたのです。

ウェブサイト 👉 http://smilevillage.info/cafe/


▷ 永田 晋介さん / migimimi design

岡村商店に関わるデザインと全体のディレクションを担当してくださいました。永田さんと出会ったのは、箕面市にある「豆椿」さんのオープニングイベントでのこと。

デザインって、どんな仕事だと思いますか?格好いいロゴやチラシをつくること?永田さんの仕事を知るまで、私はそんなふうに思っていました。でも違っていました。

デザインは、聴くこと、引き出すこと。形にならないものを言葉と形にし、ときにその主が思いもよらない方向から光をあてて、影をつけて、感情をもった立体にすること。

お店をすることになって最初に連絡したのが永田さんでした。彼と一緒なら、きっとよいお店ができるに違いない!と確信があったからです。常に私達の気持ちを汲んでくれて、そしてシビアな商売という側面からも助言をくださいました。

屋号、ロゴ、アクリル電灯看板、暖簾、照明、店内装飾、ショップカードに名刺。具体的に挙げれば本当にたくさんのものを一緒につくって下さいました。大切なのは、それらひとつひとつが調和をもって繋がり合う関係性をきちんと整えてくださったこと。

岡村商店のデザインは、これからも永田さんと一緒に歩みます。

ウェブサイト 👉 https://mgmmd.com/ (リニューアル準備中)


▷ 藤井 博之さん / 藤井建築設計・施工事務所

岡村商店の設計をご依頼しました。淡々と丁寧かつ精緻な仕事ぶり。業界事情が大いに絡む交渉ごとなど、施主としてやりにくいところをきめ細かく見渡してくださりました。

藤井さんにお願いしていなかったら、どう考えても岡村商店のいまの姿は日の目を見ることがなかったはずです。施主としてこの空間に願うこともきちんとヒアリングしてくださり、ひとつひとつの決め事も常に一緒になって確認し、着実に駒を進められるよう知恵を尽くしてくださった藤井さん。本当に彼にお願いしてよかった!

最初のヒアリングを済ませたあと、藤井さんは設計のコンセプトの一部に「近視眼的な流行を追わないデザイン。今までもそこにあったような、これからもずっとそこにあるような、骨太な店構え」という文章を設定なさいました。これに私は心を打たれて、この人にお願いしたいなと思ったのです。

途中、たくさんのご迷惑をおかけしましたが、この恩は藤井さんの設計を活かすよい店を永く続けることできちんとお返ししたいと思います。

ウェブサイト 👉 http://fujii-archi.com/


▷ 宮村 俊司さん / 宮村建築工房

はるばる奈良からお越しいただいた工務店さんです。大工さん、左官屋さん、ペンキ屋さん、クロス屋さん、洗い屋さん…みなさん気持ちのよい方ばかりで、子どもたちも日々職人さんたちと会うのを楽しみにしていました。

宮村さんとは食や生活に対する向き合い方でも共感できるところが多く、合間合間のおしゃべりも嬉しい時間となりました。今後ともお付き合い願いたいです!

ウェブサイト 👉 https://miyamura-kenchiku.com/

INSTAGRAM 👉 https://www.instagram.com/miyamura_kenchikukobo/


▷ 岡村喜昭 / 岡村電気工事

父です。店の電気工事をお願いしました。心遣いがあって仕上げまで丁寧にやる人だと分かっていましたし、何より自分の店に父親の仕事の痕跡が残っていてほしかった。工事期間中、父とあれこれおしゃべりしながら作業をするのは日々の楽しみでした。工事が終わり、その時間が去ってしまうのは少し寂しい気持ちです。

父親として、それから自営業の先輩として、学ぶべきことばかり。偉大な人だと改めて思います。

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ご紹介すべき方は本当にもっともっとたくさんいらっしゃるのですが、ここでは今回の工事にかかわる方に限って書かせていただきました。

みなさん本当にありがとうございます!

2021/07/01

プレオープンを終えて ① これまでとこれから

 


(ブログ記事は、今回からこちら Google の Blogger にて投稿します。これまで Wix上で記録してきた記事は、順次こちらに移管します)

2021年6月29,30日

岡村商店のプレオープン。はじめてお店にお客さまをお迎え入れした二日間が終了してから、一日が経ちました。内容を踏まえてオペレーションを調整しつつ、7月4日の本オープンまでいったんお休みとします。

さてプレオープン中は、自分たちの空間であるのに、体がそこでの動きに慣れておらずアタフタしっぱなし。それでもひっきりなしに、これまでお世話になった方々や、工事の様子をずっと見てくださっていた方がご来店くださいました。前日からお花のアレンジメントや素敵な鉢植えが山ほど届き、言葉にならない気持ち。いつまでも眺めていられます。

何度も頭のなかで繰り返した動き方も、実際にお客さまが店内に入っていろいろと注文をくださると、すべてが吹き飛んでしまいました。そんなに単純にはいかないものですよね。

週末に本オープンを控えた今日は、改めてこのお店ができるまでのことをざっと振り返ります。初心は大切!

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私はもともとお茶が好きで、実家でも祖父母宅でも急須で何気なくお茶を飲んでいました。こだわりはなくて、緑茶なら何でもよかったのです。コーヒーよりは日本茶、でも和菓子よりは洋菓子という子どもでした。

母方の祖父は徳島県つるぎ町の山奥にある家賀(けか)という集落で育った人で、自家用茶を皆で作ったと話していました。10代に京都へ移り住んで工務店を仲間と立ち上げた祖父。結婚してから大阪の高槻市淀の原町に住まいを移し、亡くなるまでの長い生活の場となりました。10年ほど前に心臓を悪くしてからは徳島に帰ることもむずかしい状態に。それでも田舎の話ばかりする祖父だったので、気の毒になり私ひとりが代わりに故郷を見に行くことになったのです。

祖父の生家は長年空き家ですが、その隣人は健在。私の急な訪問を快く招き入れてくれました。そこで出会ったのが、家賀集落のお茶でした。「田舎のお茶がいちばんうまい」と話していた祖父の言葉を思い出しながらいただく煎茶は格別の味わいで、さながら幼少期の祖父と自分が、時間を超えて繋がるような思いがしたものです。決して上品な味わいではなく、がぶがぶ飲めるような素朴なものでした。でも、今まででいちばんおいしいお茶はなんだったかと問われれば、迷わずこのときの煎茶だと答えます。お茶は、ベロと鼻、そして心で飲むものです。

帰り際に高齢化の激しく進む家賀集落を眺めると、胸を打たれるような思いがして涙が止まりませんでした。ここが自分の故郷なんだという気持ちが溢れて、自分の命は両親と祖父母だけでなく、本当にたくさんの人びとの生活を礎にしているのだと感じ入りました。

お茶と深く関わるようになったのはそれからです。しかしお茶屋めぐりをしても満たされない気持ちを抱えた私は、平日はふつうに務める傍らで、週末になると農家のところへ足を運ぶのが趣味になりました。お茶の味わいはもちろんのこと、作っている人がどんなことを考えながら農業をしているのかに興味があったからです。

やがて、農家たちの生き様やものの考え方を皆に知ってほしいなと願うようになりました。ちょうど仕事を変えたいと思い始めた頃と重なり、すでに結婚していた妻の力強い後押しがあって2017年に起業。「にほんちゃギャラリーおかむら」という名前で無店舗のままお茶を農家から預かって販売してきました。どこの馬の骨ともわからぬ男がお茶を売っていることに多くの方が呼応してくださって、今日まで生活をつないでこられました。

その傍らで妻は2018年から「岡村包子研究所」という名前で月に何度か中華まんをつくってイベントに持っていくように。これが瞬く間にお客さまの好評を得て、いつしか一緒にお店が出来たらいいのになと思うようになりました。でも簡単には物件に出会うことができません。あれこれ内覧をしに行きましたが、直感的にこれだと感じる場所がありません。

長岡京市の写真スタジオSTU:L(スツール)を営むカメラマンの竹内靖博さんは、いつの日だったかこう言っていました。「焦らなくても、本当にあるときになって突然、これだという場所に出会えるよ」

その場所は、私のいつもの生活圏内にあったのです。地元の島本町、その水無瀬駅前にある商店街。純喫茶「槇珈琲店」は1970年からこの地で営業していましたが、2019年に店主の体調を理由に閉店。私はときどきここでココアを飲むのが好きだったのですが、店主の新田さんから「ここで店をするか?」と提案をいただきました。

長いこと踏ん切りがつかなかった私たち夫婦ですが、店がないままずっとやっていくことに不安もあり、自分たちのカラーを出せる拠点を持とう!と決心したのが去年の秋ごろ。融資を申し込み、出来るときに一気に改装工事をやろうということになりました。

工事は4月にはじまり、6月中頃まで。子どもたちも、毎日いらっしゃる大工さんをはじめとしていろいろな職種の職人さんたちと会うのを楽しんでくれました。あれよあれよで工事が進み、とうとうプレオープンを迎え、それすらも過ぎたことになりました。

本当に、時間の経つのはあっという間です。信じられない。

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妻の紀子は、私の起業から今日までを、思い切りのよい決断力でもっていつでも味方になってくれました。「うん、うん」と小さく頷きながら、どんな話題でも嫌がらずにいつでも聴いてくれたことでどれだけ救われたでしょうか。大きな出費があるときは「意味のあることなら、やったらええやんか」と言っていつでもGOサイン。気の小さな私とは大違いで、気丈な人です。

お茶とは関係のない仕事も、地域内のありがたいご縁を頼りとして色々とこなしてきました。とりわけ、知的障害のある方の生活支援をする福祉の仕事には今も世話になっています。

毎日変則的なリズムで私が出たり入ったりする生活は、家族にとって楽とは程遠い状態でした。

それでも妻は、私に対して感情的になることが全然ありませんでした。もちろん私はこのことを美談として書きたいのではなく、妻が常に味方でいてくれたこと、ずいぶんと気持ちに甘えさせてもらったことをいつまでも忘れてはならないという思いから、ここに書き残しています。

これからは同じ屋号のもと、力をあわせて仕事をします。楽ではないけれど、妻をはじめとしてたくさんの方々への感謝の気持ちを感じながら日々を過ごせること、とても幸せなことです。

こつこつと改良の重なってゆく妻の包子と甘味。その変化が楽しみですし、この町の方々や、もっと遠くから来てくださる方々が妻と仲を深めていくところを見届けられたらいいなと思っています。

2021/04/23

農業はひとりでもできる / 益井悦郎さん(静岡・川根本町)

令和3年 4月18日(日)


茶農家・益井悦郎さんにお会いするため、静岡県榛原郡川根本町の青部地区を訪ねた。

益井さんのことは僕が起業する前から飯田辰彦さんの著書で知っており、彼の得意とする発酵系のお茶を取り寄せては、起業前にイベントで淹れていたことがある。京都の「吉田山大茶会」でもお会いし、3年ほど前に静岡を訪問する約束をしていたが急な事情で叶わず、このたび念願を果たすことができた。

今回は益井さんのつくる浅蒸し煎茶が目的の訪問だ。彼の煎茶をひととおり送ってもらったところ、どれも後口が優しく無理がない。香りをぐっと引き出すために熱湯でさっと淹れ、喉元を過ぎてからも胸焼けを起こさず、ひねくれたところのないお茶だった。

そのなかでも光っていたのは、「やぶきた」種シングルオリジンの煎茶だった。きっちりと滋味をキープしたまま2煎、3煎と耐える。このような浅蒸しの煎茶を探していたので、どんぴしゃだった。(このお茶は近日中に販売開始します!)

すぐ益井さんに連絡をした。他のやぶきたとちょっと違うと感じたからだ。改めて益井さんの話を聴きたいと伝え、ご快諾いただくや否や、新幹線のチケットを手配して旅のモードに切り替わった。

会いにいくぞ、と決めたときの心の躍動。これがたまらなく好きだ。

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浜松駅で新幹線を降り、金谷駅まで向かい、大井川鐵道に乗り換えた。大井川沿いをどんどんと北上し、比較的規模が小さいと思われる茶畑や地域の茶工場を見遣りながら期待が高まる。益井さんの家の最寄りである青部駅で降りた。

降りた途端に西の空から分厚い雲が流れ込み、さっきまでの晴天が嘘のような雨になった。雨合羽を持っていたので、携帯を濡らさないようにgoogle mapを確認して益井さんの家に向かう。歩いて10分もかからないところにご自宅はあった。

そのあたりは、よくある「富士山を臨む広大な緑の茶畑」といった静岡茶のイメージとは全然違っていて、一区画あたりがさほど大きくない茶畑の点在している静かな農村といった印象だった。

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ここからは益井さんから伺ったお話をもとに、彼のご紹介をしたい。

益井悦郎さんは、ご自身で5代目になる茶農家だ。ご先祖は江戸時代の末期に静岡から青部へ移って、以来お茶をこの土地でつくり続けている。

6人きょうだいの末っ子。もともと実家の農業を継ぐつもりはなく、一生を途上国の農業支援に捧げようと早くから心に決めていたという。子どものころ、兄たちの世代は学生運動などに熱心に取り組む人も多く、悦郎さん自身もその影響を子どもながらに受け、興味関心が途上国支援に結実していった。

悦郎さんは高校を出たのち、アメリカのネブラスカ州で2年間、農業を学んだ。このときに無農薬の作物づくりに触れたが、それが日本ではあまり価値のおかれていない農法であることもまた分かった。その後地元に戻った彼は、さらに2年間農業をした。ところがきょうだいのうち誰も実家の農業を継ごうとする人がいなかったことから、担い手のない茶畑を彼が守ることに。

途上国支援を生涯のテーマに決めていた彼は、実家で就農することを約束し、青年海外協力隊として2年間働くことを決めた。赴任したのはアフリカのセネガル共和国で、彼が目にしたのは換金作物をつくる農業だった。種と肥料と農薬がセットで農家に販売され、作物をつくる。アメリカで無農薬の農業を学んでいた彼は、現地の人々にそのやり方を指導した。

彼の話しぶりは、ガンディーが推し進めたスワデーシ・スワラージの考え方を感じさせた。支配的な海外資本によらず、あくまでも現地の人々が生活の手綱を自らの手にしっかりと持てる住民自治と地域経済。これを目指すべきと、当時の悦郎さんも考えたのではないだろうか。

いまから37年前の1984年、悦郎さんはセネガルから帰国。5代目として茶畑をその手に預かった。

彼は、「つゆひかり」や、独自品種「みらい」が病害虫に対して屈強だったことから、これらを無農薬転換。続いて、病害虫に対して抵抗の弱い「やぶきた」に取り組んだ。ちょっとした偶然からそのヒントを近隣の茶園から得た悦郎さんは、やぶきたも無農薬で栽培する方法を確立。「行政や指導機関の話とは違う手法を実践するのは、みんな不安に思いがちだけれども、そこをがまんして続けられるかが大切です。それに、売れるから無農薬のお茶を作ってるんじゃない。哲学として、そうしているんです」と言う。

そんな悦郎さんの農業について特筆すべきことは、無農薬であることはもちろん、ひとりでできる規模の農業を守っている点だ。

茶業は、ご両親の代で機械化した。その規模は大きくも小さくもない。これが現在でもなんとか継続できている理由のひとつだと彼は言う。20年以上前、地域では共同製茶工場をつくり集約化が図られたが、それでも経営状態は苦しいままだった。効率化を進めるために更に事業規模は大型化されたが、好転していないという。悦郎さんはそもそも大型化に魅力を感じず、個人ですべてを行うことにした。「僕は、3周遅れで最先端ですよ」と笑う彼には、茶業全体の行く末と独自性の必要性が、理屈ではなく直感的に読めていたのではないだろうか。

どの地域でも、またどの農業分野でも後継者が足りていないことは今や誰でも知る事実だろう。だが悦郎さんは悲観することなく、工夫して活路を切り拓く。集約化とは逆方向を向いた。ひとりでお茶を育て、摘み、製茶し、そして売るところまで出来ることを、彼は自らの働き方を通じて伝えようとしている。

「よく『ひとりでやっています』なんて人もいるけれど、実態は家族経営とか共同経営だったりします。僕は、本当にひとりで全部をやっています(ご家族もいらっしゃるが、悦郎さんはひとりでやっている)。そもそも『家族で』なんていう価値観も、もうこの時代にはあまり通用しないんじゃないかと思います。結婚していなくても、親が働けなくなっても続けられる農業っていうのも、あるんですよ。30~40代の担い手にこのことを伝えたい。両親の世代が集約化で苦しい思いをするのを間近で見ていて、本当に続けられるんだろうかと悩む人も多いですから、そのなかで本当にやる気がある人には教えたいと思っています」

今年になって彼が着手したのは、新たな独自品種の育成だ。明治時代の篤農家が残した茶畑から、特色あるものを自ら選抜して挿し木し、育てている。ロマンティックな物語性を帯びたお茶を、悦郎さんは愛おしそうに見つめる。

「5年くらいしたら摘めるかな。これが最後の仕事だろうな」と言う悦郎さん。その視線は自らの人生だけではなく、遠く先を見つめていることが彼の話を聴けばわかる。これまで支配的であった「家族」「みんなで」という価値観を脱ぎ去り、無理のない合理化を柔軟に取り入れつつお茶を守り継ごうと彼は奮闘している。

懐古にとらわれすぎては、本当に大切なことはいったい何であるのかを見落としてしまうかもしれない。悦郎さんの眼差しは明るく、淡々とした語り口にもにじみ出る里への愛情に、僕も元気をおすそ分けしていただく気持ちがした。

再訪を約束し、地元へ帰ったのは日付が変わるころだった。後を追うようにして悦郎さんの煎茶が後日届き、これから皆さんにご紹介するための準備にとりかかる。寒いくらいの爽やかな青部の風の感触はまだ肌に残っている。

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益井悦郎さんからお預かりした浅蒸し煎茶は、『平野原煎茶』の名で近日中にご紹介します。

乞うご期待!