2022/05/12

伊丹 - 熊本空港 - 水俣

 


今から6年前の2016年4月1日。一年間の育児休業がスタートすると同時に、九州の釜炒り茶を知るための旅に出た。妻とまだ0歳だった娘も一緒に。娘にとっては初めての飛行機。僕たちは天草エアラインで熊本空港に降り立って、レンタカーを借りた。熊本では水俣、八代、芦北。宮崎では五ヶ瀬、高千穂、椎葉をまわった。写真はそのときのもので、娘はまだ急須を触ったことがないし、息子はまだこの世に生まれていないし、妻は包子を作っていないころだ。

その旅で僕は圧倒的な「知らないこと」の大洪水に身を任せるほかなくて、自分は本当に何にも知らないのだと思い知った。知らなくても心から好きなら助けてくれる人もたくさんいることも。

それから6年。娘は小学生になったし、まだ熊本を知らない息子は幼稚園に通う。妻は包子を一所懸命つくって今日も店の営業に励む。熊本は合間に何度も訪ねたけれど、今回はまとまった日数で九州を旅する機会に恵まれた。

お茶の旅は、言葉を探す旅。出会うものごとが自分のなかで何を起こして、どんな言葉が首をもたげるのかを探る時間だ。外の世界に向けた冒険をして、自分の内側から何が出てくるかを探求する。



飛行機のジェットエンジンが激しく回転して、背中が座席に押し付けられ、伊丹空港のターミナルビルが後ろへ飛び去っていく。何度経験してもドラマチックで胸に迫る何かがある。旅だぞ、ついにまた始まったぞ。

鈍色をした大阪の都市風景を眼下に見やり、高度を上げた飛行機は雲の上を飛びもう何も見えない。ここ数日は睡眠時間があまりとれなかったから、あっという間に意識を無くして眠ってしまった。

居眠りから覚め、首の筋が痛い。狭いながらも身体を伸ばしていると、再び雲の下に降りた飛行機から見えるのは、大阪のそれとは対象的な若草色と深緑の田園風景だ。畑の間を縫うようにして走る車は蟻のようだから、人や、急須や、茶さじ1杯の茶葉などはいっそうちっぽけな存在として思い出される。絶対的な尺度でものを見ることは難しくて、相対的にしか感じられないのだ。そういう小さなことに情熱を注ぐことができるのもまた、いい感じがする。

身体も疲れているし、宿で休むだけの予定だった。けれどちょっと時間が工面できるぞと思い、せっかくの機会なのだからと水俣の茶農家である松本和也さんに連絡をしてみた。するとぜひおいでと言ってくださり、僕は熊本空港を出ると九州自動車道から一気に水俣まで南下することにした。



松本さんは、農薬と肥料を使わないお茶を生産する茶農家だ。慣行農法から有機を経て、無施肥のお茶へとシフト。一部に、昭和初期に植えられた在来種の茶畑も所有。煎茶も釜炒り茶も紅茶も幅広く作っている。今は店にはないけれど、彼の萎凋をきかした釜炒り茶を以前たくさん預かっていたことがある。

6年前に松本さんのお宅にお邪魔したとき、ご自宅の敷地内にある段差にレンタカーの片側後輪を落っことした。それで松本さんは笑いながらジャッキやら何やらをあたりから集めてきて、あれよあれよと車の位置を元に戻してくれた。このとき僕は、農家ってすげえ、と感嘆した。

松本さんは頼もしい農家だ。彼の目線はお茶そのものというよりも、食をめぐるあれこれに広く配られている。良いものがきちんと評価されるよう、北海道のように遠いところへでも出かけていって、商品開発や流通に積極的に関わっているのだ。彼の話にはあまりにも登場人物が多く、僕は覚えることをあきらめた。かわりに、彼がたったのひとつも悲観的なことを言わないポジティビティを楽しむことにしている。話している間に、何度も電話が鳴ってあれこれ明るく話しておられた。

今年のお茶をご自宅の裏で急ごしらえしたテーブルでいただき、これまた縦横無尽に行ったり来たりする話を楽しみながら、そのままの勢いで水俣市中心部にある海産物中心の和食屋さんで一緒にごはんを食べた。安いのに、ものすごい量の、それもおいしい料理が出てくる店だった。

ごちゃごちゃ言うて細かいことを気にせず、とりあえずやってみいと、そんな気分になる。旅のはじまりは松本さんの行ったり来たり話から。雨模様の熊本だが、幸先よくスタートした。

松本さんは、夜遅くまでカヌーの自主練習をしているという高校生の息子さんを迎えるため、これまた忙しそうに夜の市街へと消えていった。

お土産に、今年の釜炒り茶をお裾分けしてくださった。店に帰ったとき、この記事を読んだよという方がもし居たら、一緒に飲んで松本さんの話をしようと思う。

2022/02/03

船本さん、お元気ですか

 


2月1日の朝。厚みのある普通郵便が開店準備中に届いた。何となくお茶っぽい。開封してみるとそれはやはりお茶で、どう見ても古風な釜炒り緑茶だった。貴重なものにちがいない。差出人は静岡県で茶栽培の研究にあたっておられる知人の方で、「率直な感想を聞かせてください」と書いてあった。

お茶は静岡産ではなく、坂本孝義さんという熊本県人の方がかなり前に作ったものを保管しておられ、物品整理をしていたときにひょっこり出てきたという。坂本さんは熊本県の行政側から茶業の普及に関わっていたようで、茶に関する論文をいくつも執筆しておられる。

面識の無い方だけれども、きっと何か思い入れがあって作られたものに違いないと確信し、営業時間中の暇を見計らって飲むことにした。

茶葉自体からは、すでに古くなって少しツンとしたにおいがしている。

ざっくばらんなかたちで、大小の葉や茎など混じっている。たぶん、ひとつひとつの樹に個性がある在来種。それを若芽で摘まず、適当に伸ばしたところで機械刈りしたもののようだ。ある程度伸びたものだと味がすっきり素朴な感じになる。

製茶工場で作ったものではなく、丸い鉄釜と薪火で手炒りしているように感じられた。お茶の古くなったにおいと並行して、粗野な煙のにおいがハッキリとついているのだった。まったりした旨味が微かに残っているので、それなりに肥が使われた畑から摘まれたのだと思う。

仕上がったお茶には、そのお茶が辿ってきた道筋がはっきりと残っている。ベロと鼻でそれを探るのは、さながら子ども心をくすぐる探検のようだ。

煎がきくし、素朴でとてもおいしいお茶だ。こんな日本茶とは滅多に出会えない。(でも、一般的なお茶の審査基準からいえば、このお茶は減点要素だらけで門前払いかもしれない)

こんなお茶をわざわざ作り、それを他県の茶研究者に送っているところを思うと、坂本さんには並々ならぬ思い入れがあったのだと察することができる。市場価値のあるお茶と生産者個人が思いを馳せるお茶の間には、往々にして溝がある。これまでも何度も確認してきたけれど、今回もまたそれを目の当たりにする。

小ロット生産の釜炒り茶づくりは、その出来栄えが土地と製法に対する生産者の思い入れと真っ直ぐに地続きだ。何を思ってそういうお茶をつくっているのかがわかりやすく、僕は好きだ。坂本さんのお茶を飲んで、改めてその生産者がお茶に込めている気持ちの奥深さと思い入れの強さに感じ入る。

坂本さんのお茶を飲んで、すぐに思い出した人がいる。同じく熊本県は八代市の山中にある泉町(旧泉村)の、船本繁男さんがつくった釜炒り茶だ。



船本さんは、僕が釜炒り茶のおもしろさに取り憑かれるきっかけを最初に与えてくれた人だ。はじめて飲んだ釜炒り茶、それはそれはおいしかった。こんなにおいしい素直なお茶があるのに、どうして今まで知らなかったのだろう?

知りたい。見たい。

それで僕はツテをたどり、何年かの時間をかけ、熊本・宮崎・長崎・奈良・静岡の生産者にお会いした。初めて数えてみたところ、13軒前後の生産者にお会いしている。

13人の農家がいれば13通りのスタイル。誰一人として同じような立場にある人は居なかった。希少性だけが語られがちな釜炒りのお茶のなかにも、当たり前なのだけれど、千差万別な栽培、製茶、そして思想の違いがあることがわかった。「希少」のイメージとは真逆で、それらはとても豊かだった。

船本さんは、工場の老朽化と年齢を理由に、2021年に茶業を終えられた。5回ほどお会いしてご自宅の居間で一緒にお茶を囲み、彼の釜炒り茶に対する気持ちを何度も聞いたこと、そして目の前で昔ながらのお茶を一所懸命につくり、それを全量僕に預けてくれたこと、どれも忘れられない。



繁男さんなら、きっと自分と同じようなお茶をつくった坂本さんのことを知っているだろう。そう思って、久しぶりに繁男さんの声を聴きたくて、電話をかけた。

1回目の電話に出てくれたのはお母さんだった。この人はいつもちょこんと柱にもたれ、足を伸ばして洗濯物を畳んでいた。僕の最初の熊本ご飯は、この人の料理だ。いっぺんに熊本がスキになった。

「お母さん、こんにちは。大阪の岡村です。お久しぶりですけども、お元気ですか?」

「やっと生きとる。ははは」

「なにをなにを。お元気そうやないですか。今日は繁男さんに聞きたいことがあって電話したんですけども、おられますか?」

「出かけよらして、家におらん。いつ戻るかもわからん」

ということで出直すことになったけれども、お母さんの声が聞けてよかった。繁男さんが不在だということはつまり、車でどこかに遊びに行っているということだ。それはそれで健在なのが分かって、よかった。

翌日の電話でようやく繁男さんと話すことができた。※繁男さんの愛すべきコッテリ熊本弁を僕は再現できないので、以下はふつうの話し言葉に置き換える。(次回から録音して文字に起こしたい…)

「繁男さん、ほんまに久しぶりですね!!お元気にしておられましたか。昨日はどっかにお出かけやったみたいですけど、車で、ですか」

「もう84になったな。昨日は車でなあ、ちょっと盆栽友達のとこへ、な」

「泉村は車がないと動けませんもんね。でも運転までして、お元気そうで。よかったです」

「もうなあ、84にもなって、お茶の味がわからんなった。ははは」

「いやいや。そんなことないでしょ!去年から家のお茶づくりは終えられましたけど、今はどういうお茶を飲んでんのですか」

「まだ去年までにつくったやつがあるから、それを飲んでる。釜炒りっていうお茶は、古くなっても飲めるもんね。いい茶だと煎茶より釜炒りのほうが長持ちするもんな。たまに自分がつくった古いやつを冷蔵庫から出してきて飲むけど、10年もんでも、飲まれんことはないな」

「以前、20年くらい前のやつを飲ませてくださったこともありましたね。それもおいしかった」

「釜炒りというのは、肥料っ気がない在来種がいちばんうまいな。香りが違う」

「無肥料・在来種なんて、そういうお茶は本当に少ないですね。たくさん量をつくることもできないし」

「たくさんつくろうと、欲出したらだめなんです。身体のよく動いたときには、釜をいくつか据えていっぺんに作ろうとしたこともある。でも、欲出して量つくろうとすると、だめだ。ひと釜が限界だな。たくさんつくってブレンドするのもむずかしい。お茶っつうのは、良いのと悪いのを合したら(混ぜたら)悪くなるの。1足す1は2というはずなんだけれども、お茶に関しては、1足す1が、1にしかならんということ。悪い茶は、強い」

それからいよいよアクセルが存分にかかって、さっき「お茶の味がわからん」と言った繁男さん、とめどなく釜炒り茶のこだわりについて語りが止まらなくなった。この人、本当に数年前からお茶づくりをやめていたのだろうか。僕はいくつかの熊本弁がわからなくて聞き返しながら、繁男さんがだんだん熱っぽくなってくるさまを楽しく聴くことができた。

繁男さんは盆栽に凝っている。山を背にした小高い斜面のてっぺんにある家の周囲は、盆栽だらけだ。見る人が見たら、すごいコレクションなのかもしれない。

「遠いとこにいる茶農家で会いに行きたい人もいるけど、これ(盆栽)がな…」

繁男さんによれば、盆栽の水やりは一日たりとも欠かせない。家族に任すつもりもなさそうだ。

「また、熊本に来ることがあったら、ここも寄ってな」

「早く行って、お茶を囲んでしゃべりたいですね。いまは世の中がこんなんやから、なかなか動きづらいんですけど、必ず行きますからお達者でいてくださいよ!」

「はいはい。ありがとうね、ありがとうね」


船本さんのお茶はすでに在庫もなく、今後も入荷しません。

現在当店では、以下の方々から釜炒り茶を預かってご紹介していますので、この記事をお読みくださり「なんだろう」とちょっとでも引っかかった方は、ぜひうちに試飲しに来てくださいね。

・熊本県芦北町 梶原敏弘さん「芦北釜炒り茶」

・熊本県山都町 岩永智子さん「川鶴釜炒り茶」

・熊本県山都腸 小﨑孝一さん「倉津和釜炒り茶」

・奈良県山添村 栢下裕規さん「天日干し釜炒り茶」

※ちなみに包子部で扱っている台湾茶「四季春」「古式凍頂」の2種も、製法からいえば釜炒りのお茶です。

どれもこれも違う味です。船本さんのお茶は、このいずれとも違う独特の個性がありましたが、私なりに釜炒り茶全体に通ずる良さをきちんと持っているものを選んでいるつもりです。


坂本さんのお茶を飲んで、久しぶりに船本さんともお話ができ嬉しかった。そんな記事でした。

肝心の船本さんと坂本さんの関係ですが、プライベートなことも含まれるためあえて伏せて書きました。でも、面識はあった。よかった。

2022/01/08

記憶の再生と先延ばし

 




1月6日。祖母に新年の挨拶をしようと思い「おばあちゃん、あけましておめでとう。夕方ごろ家におるか」と電話をしたら、適当につくるから晩ごはんを食べて帰ればよいとのこと。

18時。妻と子どもたち2人を連れて、高槻市の上牧にある祖母宅へ着いた。祖母は5年前に夫を亡くしてから一人暮らしだが、気丈なものでやることに事欠かない。僕の小さかった30年前と比べて、80歳になった今も外見があまり変わっていない。「あと何年生きられるかわからんよ」と祖母は言えど、10年は堅そうに見えるし、100まで生きても一族郎党のうち誰もきっとびっくりしない。

かつてはこの家に、祖父母、僕の両親と妹に叔父夫妻が集まり、大いに賑わった。テーブルをふたつ並べ、小さな居間で肩を寄せて食事をした。祖父はニッカウイスキーをどんどんあおり、煙草はおきまりのハイライト。酒がすすむと口の悪くなる祖父だったが、酔えば酔うほど孫に甘くなる。僕や妹が大学生になっても酔った祖父は僕らの頭を撫でた。「友よ、友よ、おまえはほんまにかわええ子…」と、べろんべろんの祖父が言った。あの赤ら顔。アルコールのにおい。ステテコと腹巻き…なつかしくて涙がでる。

日本茶はその風景のなかに必ずあった。大きな白磁の急須に赤や緑で絵付けがしてあって、同じような湯呑みが並ぶ。祖母がスーパーで選んできた八女茶や知覧茶がセットしてあり、祖父の横に置いてあるポットからおのおの好きに湯を注いで飲む。茶葉の量なんか目分量で、熱湯しか使わないスタイルだ。僕は今でも常日頃からそうやってお茶をのむ。いろいろ試したけど、結局これが自分には合う。

流石に今はやらないけれど、祖母はお茶が薄くなったら茶葉を入れ替えるのではなく、茶缶から茶葉を追加投入した。急須のなかの金属カゴは茶殻でぱんぱんになっていて、蓋を押し上げようとした。なつかしい。

現在、そんなふうに集まることはほとんどない。悪酔いは考えものだが孫に甘い好々爺は仏壇からこちらを見ている。どこか人間味ある昭和のエアコンもテレビも洗濯機もなくなって、見栄えのする最新家電に置き換わった。変わらないのは瀬戸大橋の色あせたパズルが30年くらい壁にかかったままなのと、祖母のあっけらかんとした性格くらいだ。

祖母は僕らのために鍋を炊き、スーパーの握り寿司を買っておいてくれた。小さいころから食べ慣れた手づくりの茶碗蒸しもあったし、大根の甘い漬物と、ご自慢の煮た黒豆、みかんにアイスクリームと、相変わらず次から次へと食べるものが出てくる。

娘は祖母の黒豆をひとつひとつ無言で食べ続け、息子は大根の漬物をひっつかんでバリバリ噛んでいる。何も言わないが食べ方でよほどうまいのだとわかる。僕も同じような家庭料理を食べさせてもらって育ったから、こういうものの味をどうか覚えておいてほしい。

食後、祖母がお茶を淹れてくれた。ポットはもう無くて、いつの間にかティファールが台所にある。急須はカゴつきのものではなく、注ぎ口に茶こしのついている。こちらのほうがおいしくお茶は入るけれど、かえって昔の道具がなつかしいような気持ちがする。

祖母は滋賀県の日野町出身だ。当店でおなじみの日野町満田家のお茶は、祖母の出身地であることから縁がつながり、今では看板商品になった。祖母にとっては田舎のお茶だから、ときどきプレゼントしている。

祖母のお茶の淹れ方は相変わらずで、手順と細部の所作にこだわる人が見たら卒倒するかもしれない。なにもかもが適当だけど、それだから誰にも真似のできない家庭の風景にちがいない。これこそ日常のお茶のありさまであり、祖母が、雑多だけれども慎ましくてモノを大切にしながら暮らしている空間のなかでこそ引き立つ、ならではのおいしさだ。

祖母にしかあのお茶は淹れられないし、もっと言えば、祖母と僕の間柄に生きている記憶が土台にあってこそのおいしさだ。使うお茶が変わってもその味わいが変わることがない。五感をはたらかせてお茶と向き合っているのではなくて、自分のなかにある記憶を再生し、それを感じているからだ。

もうこの世に居ない人たちも一緒に囲んだテーブルの、その賑わい。ご馳走のにおい、カチャカチャと誰かが洗い物をする音、頬の熱くなる卓上コンロの青い火、アルコールの高揚と煙草の煙、そしてみんなが居るという安心感を、再生する。月日が経ってだんだんと記憶から薄れていこうとするその摂理に抗うようにして、祖母のお茶は、あの頃を忘れてはならぬ、忘れてはならぬと繰り返し訴える。

きっと誰しもに、こうした食材があるのだろう。

いつまで生きられるかわからんでと笑う祖母に「わはは、おばあちゃんなら大丈夫やわ。90は堅いわ」と言葉では返すけれども。

先延ばしにしたい命の限りがこちらを直視するのをなるべく無視しようとして僕は祖母のお茶を飲む。あと何度、このお茶が飲めるだろうか。不安が大きくなろうとする前に僕たちは荷物をまとめて暇乞いをした。氷点下に迫る寒さが邪念を断ち切ってくれるけれど、ぽつねんと一人寝支度をする祖母の姿がぼうっと胸に浮かんでは、わが子が何気なく話しかけてくるたびに消えていく。

このえも言われないさみしさ。祖父母の注いでくれた愛情が、いまこうしてずきずき痛む感傷となって、しっかり生きねばと日々の支えになっているようだ。

自宅に戻って布団に入ると4歳の息子は不安そうにこう言った。

ねえ、お父さんとお母さん、お父さんとお母さんは、おじいちゃんとおばあちゃんにならないでほしいよ お父さんとお母さんが、おじいちゃんとおばあちゃんになった顔を、見たくないよ

大丈夫、大丈夫、そんなんずっとずっと先のことやから、とまた僕は先延ばしをした。