2021/11/08

丁寧をやめよう



こんばんは。

土曜日に開催したこども日本茶教室のなかで印象的な会話がありました。そのことだけは別の記事にしておきたくて、今日はそれを書きたいと思います。

丁寧をやめようという話です。

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私は今回、子どもむけということもあり「熱湯で淹れていいよ」と繰り返しお話をしてきました。ただそれは、子どもに温度管理は無理だろうと思うからではありません。

・私個人が、あつあつの湯でさっぱりと淹れるお茶が好き。

・多くの子どもの嗜好を考えれば、低温でまったり抽出するものよりあっさりしたもののほうが好ましい。

このふたつの理由から、高温でお茶を淹れていいんだよと伝えました。(無論、どんなお茶でもその淹れ方がベストと言いたいのではありません。そもそも正解のない世界です)

私がハッとしたのは、ある子がお母さんと参加してくれた枠での会話でした。

「お茶をさっぱりと淹れたり、香り重視で楽しみたいときには、熱いお湯で淹れるといいです。僕も日常的に飲むお茶は、だいたい100度の沸騰した湯で淹れるんですよ」

「えっ、そうなんですか?熱湯でお茶を淹れてもいいんですか?」

「はい、焙じ茶や番茶など、もともとそういう淹れ方が向いているお茶もありますが、どんなお茶でも熱い湯で淹れるお茶屋が現にここに居ます。もちろん茶葉の量や蒸らす時間が関係するから、そのときどきに合ったやり方がありますけど、何にせよ熱湯でお茶を淹れてもいいです」

「そうなんですか…子どもが小さいときから、毎日忙しくてバタバタしてて、沸騰したお湯でお茶を子どもたちに淹れていました。『ちゃんとしたやり方じゃなくてごめんね』って思いながら、ずっとやってきました」

お母さんは、忙しくてもできるときには急須で家族にお茶を淹れる生活を送ってきました。それなのに、その淹れ方が「ちゃんとしていない」ばかりに、小さな罪悪感を抱えてきたのです。もしその淹れ方で飲むお茶が不味かったら、そういう淹れ方は続けないですよね。でもそれで大丈夫だったから、そのままだったのです。なんの問題もないように私には思えます。

きっと「お茶はちょうどいい塩梅まで冷ましてからゆったりと淹れるものだ」という方法を、事あるごとにあちこちで見たり聞いたりしてこられたのだと思います。

熱い湯で淹れるというやり方は、荒っぽくて、せっかちで、丁寧ではない。淹れ方を伝えようとする側にそんなつもりはなくても、情報を受けるお客さんたちの多くは、どこを向いてもそういうテキストが多いばかりに「熱いのは無作法で正しくない」という意識に苛まれています。

これは私が想像で言っているのではなく、これまで販売してお客さんと話してきたなかで何度も感じてきたことです。

お茶の扱いについて「冷まして」だの「水はどういうものを」などとあれこれ事細かく言い過ぎるとき、手渡す相手をあまり信用していないという場合もあるのではないでしょうか。感性が違えば、同じ食品でも違う扱いがあっていいはずです。それなのに「固定化されたレシピこそが正しい扱いである」と、お茶に関してはそういう暗黙の空気がそこかしこに存在します。(言いすぎかもしれませんが、今日はこういう言い方を許してください)

とはいえ、お茶を楽しむ側としても自由な発想が必要です。「こういうふうに言われたから、こう淹れる」ではなく、自分の感覚を信じて好きなように扱ってあげればよいのだと思います。それがまわりの誰とも違っていても、大丈夫なのです。

お茶を売る側が固定観念でかちかちになってきた面もあれば、飲む側が自分で好きなように扱うという自由裁量を怠ってきたという面も否定できないように思います。偉そうに書いていますが許してください。自分の主観を大切にしてあげることです。(しかしそれが「いつでも正しい規則」として思い込みになってしまわないよう、すっと異論を受け入れて修正できる余白も必要です)

そうとはいっても、現代、人と違うやり方を貫くのは大変です。なぜなら、インターネットが「〜べき」という思い込みを不可逆的に強化してしまうからです。

「丁寧」や「いい感じの生活スタイル」が、インターネットでいくらでも拡散できるプロモーションのなかで闇雲に強化され、実生活と乖離したイメージであるはずなのに理想的なあり方としていつしか腰を据えてしまっている。そういうことはないでしょうか。

お茶もその波に呑まれつつあります。その「丁寧」が本当に「丁寧」なのか問い直すことをしなければ、価値判断を自分の感性から人の評価に売り渡してしまうことに繋がります。もし「熱湯で日本茶を淹れること」が「丁寧ではない」のなら、その理由をはっきりと自分の言葉で説明できなければなりません。

私たちはスマートフォンの中に精神と身体を置いて暮らしているのではありません。画面の中だけにある丁寧さ、きちんとした何かは、私たちの日々の生活にとっては必要のないものだと私は思います。

本当は散らかっているし、忙しくて洗濯物は畳みきれずにちょっと部屋の端っこで積み重なっているときもあるし、食卓はぜんぜん整っていなくてカメラフレームの枠外はめちゃくちゃになっているときもあります。

いちいち人に見せないところにこそ私たちがほっと一息をつける生活空間はあり、その自分の砦でどのようにお茶を扱うかということくらいは、なんびとにも侵されない自由な領域にしてあげたらよいのではないでしょうか。

くどくどと書いてしまいましたが、要するに試行錯誤してほしいということです。私は私なりの試行錯誤で、熱湯がいいなと思っているというだけなのです。

みなさん、日々の料理のなかでお茶よりもよっぽど複雑なことをして、そのやり方を疑わずに暮らしています。なのに、ずっとシンプルなお茶について悩む人が多いのはおかしいです。

お茶だって、そっちの仲間に加えてあげてほしいと思います。

2021/11/07

こども日本茶教室を終えて

 


こんにちは。

昨日は、こどもたちをお店に迎えて「こども日本茶教室」を開催しました。

4枠を設けたところすべて埋まり、幼稚園と保育所の子どもたち、小学生、中学生が参加してくれました。

家庭でのお茶の経験もさまざまで、一人として同じように話せばよい子は居ません。じっと「うん、うん」と話に聞き入ってくれた子もいましたし、「わたしはね!」「わたしは!」といって保育所の仲良し3人組は騒ぎながら楽しく体験してくれました。

まず、親戚が近所からとってきてくれたお茶の枝や花、実を見せました。お茶は、チャノキという植物の名前なんだよという話からスタート。花をつけ、実になり種を落とし、地面から新しい芽が出る。他の植物と同じように生活している生きものだということを伝えました。

そして、農家の人たちはお茶の樹を育てていて、葉を収穫したらいくつかの作業をこなし、やっと「お茶」が出来上がることを簡単にお話し。実際に乾燥した茶葉に触れて、からからに乾いているのを肌で知ってもらいます。

次に、急須を使って自分でお茶を淹れてみました。そもそも「きゅうす」という名前であること、どうしてそんなものを使うのかを説明。使うものはたったの5つ。お茶と、急須と、お湯と、台所にあるスプーン(茶さじの代わり)、そして湯呑み。温度計もスケールも湯冷ましも要りません。

私が実演してから子どもたちへバトンタッチ。細かいことは何も言いません。そもそも正解などないからです。茶葉の量も、お湯の量も、蒸らす時間も好きなように。そうすると、他の子どもと出来上がりの違うことが分かります。

子どもたちは慣れない手つきで急須を持ち、真剣に湯呑に注ぎます。いままさに世界の境界線を広げている子どもたちの神聖な様子。はじめて急須でお茶を淹れるって、一生に一度だけのことですよね。お母さんたちのシャッター音も最高潮です!

苦い!おいしい!うすい!熱い!いろいろと声が上がります。

どうしてそうなったのかな?と一緒に考えます。お茶が多すぎたかな?湯のなかに長くつけっぱなしにしすぎたかな?お湯が少なかったかな?

次に、家族にお茶を淹れてあげる練習。ポイントは「回し継ぎ」だけです。一度にひとつの湯呑を満杯にせず、濃さが均一になるように少しずつ注ぎます。これを自分でやってもらいました。手がまだまだ小さい子も多いので、私が手を添えつつ、やけどしないように気をつけて。

保護者の方々にも子どもが淹れたお茶を飲んでもらいました。ものすごい量の茶葉を使って、湯は少しだけ使った女の子も。お母さんたち、表情を引きつらせて「うん、ちょっと、ちょっとだけ苦いかな!」とかなり優しめのコメント。これには私が楽しませてもらいました。

最後に、教室で使ったお茶を3煎ぶんくらい個包装して子どもたちにプレゼント。家でまたやってみてね、キュウスがなかったらサンタさんにお願いしてね、なんて言いつつ。

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知らないことに足をつっこむことの緊張とうれしさって大切です。そしてやってみたら意外とできることを、子どもたちはもちろん、保護者の方にも確認してもらえれば、なおのこと光栄です。

保護者の皆さまには、「割れる、危ない」とか「熱い、やけどする」といった声掛けをできるだけ我慢してもらって、やりたいようにさせてあげてほしいとお願いをしました。割れたら割れたで仕方がないです。(実際にそんなことは起きず、みんな大切に道具を扱ってくれました)

曲がりなりにも最初から最後までやることができれば、子どもの自尊心やアイデンティティにつながるはず。大人だって一緒です。お茶を淹れられるようになることは、自分自身を大事にしてあげられることに比べたら、そんなに重要なことではないと思います。心に関わることだからです。

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同日開催した「日々の和菓子」も盛況で、あっという間におやつは完売しました。こちらもお礼申し上げます。

おやつaoiさんの和菓子販売とこども日本茶教室は、今後も月に一度のペースで継続するつもりです。修正できることをちょっとずつ直しながら、より豊かに、子どもの感性に寄り添ってあげられるように、私も勉強です。

今後のスケジュールは改めてお知らせしますね。

多謝。


2021/10/12

いつも傾いているソフトクリーム

 きょうは臨時休業なので、気ままに過ごしています。妻と駅前の puku puku さんでお昼ごはんをいただいたあと、予定なくぶらぶら。

「高槻にでも、甘いもの食べに行くかな」

「行きたいあてもないし」

「長谷川書店に気になる本が」

「じゃあとりあえず行こうか」

結局、長谷川さんとしゃべったり、際限なく本を物色しているうちに時間がどんどん過ぎました。そうしてすぐ近くに昔から踏ん張っているケーキ屋のコトブキさんがあるので、そこでソフトクリームを買って、ロータリーに腰をおろしてしばらく休みます。


妻は雑誌 TRANSIT のスパイス特集に夢中

人口のわりに水無瀬駅前のロータリ周辺は広々としていて、日々掃除してくださっている方のおかげもあっていつでも割ときれいです。なんとなく座れる場所が駅前にあるのはうれしいですね。

突然ですが、そのコトブキさんで買うソフトクリームは、いつも巻き方が下手っぴです。背格好のくたびれたおっちゃんは本当に下手で、祈るような気持ちで仕上がりを待ちます。手渡されたときにはだいたい全体が傾き、ソフトクリームの命といってもいい頭頂部のとんがりは、まるで数日前に買ってきたナスビの棘みたいに活力がない。嗚呼!

いくらソフトクリームだからといって、そういうところはソフトじゃなくていいのにと思いながら頬張ること数十回。

今日は、恐らく奥様でいらっしゃるおばちゃんが店にいて、巻いてくれました。ほのかな期待を胸に、300円のチョコレートソフトクリームLサイズを注文しました。待つことほんの30秒ほど。絶妙に期待から少しだけ外れた傾き具合の大きなソフトクリームが手渡されました。苦笑。風邪をひいてやる気がないときの私の背筋みたい。

300円払うなら、同じ値段のハーゲンダッツのアイスクリームをコンビニで買うほうがきっとおいしいでしょう。

前のブログ記事で、否定的なレビューを公開するのはよくないと書きました。なのにこんなことを書いているのは、私はコトブキ水無瀬店に愛着があって、巻き方のいまいちなソフトクリームが高級なハーゲンダッツと同じくらい好きだからです。

人の営みを感じるからです。

せっかくならより美味しいものを口にしたいというのは至極あたりまえの感覚。でも、ベロで感じる美味しさだけを求めてしまった結果、私たちは何を食べればよいのかをいちいち人に聞いたり、検索したりしなければならなくなってしまいました。たいてい、すぐ近所に丁度いいものがあるのに。

○○ランキング第一位、お客様口コミ評価○○点、○○金賞受賞…次から次へと更新される、私たち自身の五感とは何の関係もない他者の評価に、自分が今日何を食べるかを委ねてしまってはいないでしょうか。自戒をこめて。

そのようなランキングには、ときに恣意的な順序づけを感じたり、業界の自作自演を見てしまったりすることもままあります。

当然、第三者の評価が正当になされることで、製造者や生産者にとっての励みになることは多々あるでしょう。褒められて嫌だという人はそんなにいないと思います。そういう作る側の気持ちを蔑ろにする意図はまったくありません。

でもそれが行き過ぎたときに、真っ先に無くなるものは心です。「どこそこの○○とは違って、うちの○○は美味しい」と言われても嬉しくない。たとえ美味しくても、なんとなく満たされない部分がある。現代は飽食の時代と言われてもう久しいのに、いつまでも「もっと美味しいもの、もっといいものを」と底のない欲求に引きずられがちです。

不完全なもので満足してはいけないのでしょうか。そもそも完全なものって、そして不完全なものって、どういうものなのでしょうか。

いつも傾いているソフトクリームには「もう、しょうがないんだから」という微笑ましさと憎めなさを感じてしまいます。これからもそのまま駅前の風景であってねと心の中で祈ります。ずっと長年そこで踏ん張ってきた店がまだきちんと毎日開けていて、ふとしたときにアイスもケーキも買える。店主さんたちはいちいち語りませんが、きっと人知れず苦しい思いをしたり、あれこれ工夫したりして日々を積み重ねておられるのでしょう。そんな哀愁すら漂うソフトクリームを出す店が家のすぐそこにあるのは幸運です。

「○○と比べて美味しい」と相対的に比較すればきりがありません。でも、阪急水無瀬駅に昔からあるケーキ屋さんがまだ営業していて、いつまでも背筋が伸びずに傾いたソフトクリームを売っていること。このことは他の何事とも比べられず、ただその事実だけでもってストンと腑に落ちる何かしらの忘れがたい魅力があります。ひょっとしたらそれは、店と自分の間に少なからず縁を感じるからではないでしょうか。

添加物が、残留農薬が、精製された砂糖が…と言い出したらキリがありません。もちろんそのような視点も食品を考えるうえで大切だとは思います。でもどちらかというと私は、自分自身がお茶を扱うようになったきっかけである「縁」の側からものごとを見たい。

隣でスパイス本を読んでいる妻にそういう話をすると、「またブログに書くんでしょ」と心中みごとお察し。

なにはともあれ。私も傾いたソフトクリームみたいに情のあるお茶とともにありたいなという話なのでした。