2023/08/30

ドイツからの御一行 日本茶ツアーの記録 2023.8.27-28

 


机の上に、なんとなく古めかしいような、微妙におしゃれな、モダンな昔家電っぽさをたたえたポットが置いてあった。あれは何だろうかと一瞬思っただけで、僕は間もなくはじまる日本茶セミナーの準備を中嶋さんと進めることに意識を引っ張られる。

//

「4年ぶりに日本に行く機会ができたので、会いたいです。それに今回は20名以上の団体となるばかりか皆がそろってお茶好きなので、セミナーをやってもらえませんか」とドイツからメールが届いたのは初春のころ。相手はドイツのヘリッシュリートという、長閑な地区の禅の修養施設に暮らすニコルさんという女性で、彼女はそこで指導をしながら施設総括の役目を担っている。

4年前、ニコルさんは京都に滞在して日本語学校に通っていた。ここで僕が何度か日本茶セミナーを開催したなかでのご縁。本当にお茶が好きだということが伝わってきたので「明日、農家のところに行くのですが、一緒に来ますか」と声をかけると、ぱあっと顔を明るくして彼女は「行きます」と即答した。

その道中、彼女とは言葉で完璧に説明しなくても相手の言いたいことが何となくわかる仲になった。僕の英語はいつも微妙に消化不良で、思っていることの1割を何となく言い残す。同時に2割くらいを聞き逃す(日本語でも大なり小なり同じく)。それでもニコルさんとの意思疎通には問題がなかった。我々は、何となく似たようなことを考えて、社会にちょっと絶望しながらも、温かな光明を探して、それぞれにこれはと思う道を生きているのだった。

「セミナーだけでは『情報』に終始してしまうから、実際に茶農家のところへ行きましょう」と僕が提案すると、それを待っていたかのようにニコルさんは賛成の返事をくださった。そして日野の満田さんに声をかけた。

といっても、20人以上もの団体を受け入れるのは初めてのようで、それでもやってもらえることになった。有り難い。僕の言いたいことは僕からではなくて、農家のふるまいから感じてもらえたらそのほうがいい。

せっかくだから昼食も日野らしく。近江日野商人ふるさと館で活動する「伝統料理を継承する会」の皆さんにお願いをして、本来なら定休日であるにもかかわらず一行のために腕をふるって郷土料理を用意してくださる段取りとなった。

前職でお世話になったバス会社さんにもお声がけして、それから日野行き前日のセミナー後の懇親会夕食はホーボー堂さんにも協力してもらって…助けてもらいっぱなしの2日間になりそうだったけれど、おかげさまで段取りは何とか済ませられた。

//

8月27日、ニコルさんたちが滞在している京都市内のゲストハウスを訪問。日本茶セミナーを開催する。インストラクターの中嶋さんが加わってくださった。

Finally! 4年ぶりに再会したニコルさんは破顔して、我々はメッセージアプリだけで繋がってきた4年のブランクを感じず打ち解けて話をした。会場にはずらりと20名ほどドイツの皆さんが集まってくる。室温がぐんと上がり、緊張もあってくらくらする。それでも始まってみれば皆さんともに強い好奇心の持ち主で、それに助けられて間に困ることもなく、7種類の日本茶を堪能していただけた。熊本の梶原敏弘さんと康弘さん親子、岩永智子さん。滋賀の満田久樹さん、政所茶縁の会さん。徳島の磯貝一幸さん。心強いみなさんのお茶はどれもこれも好評で、中嶋さんのサポートがなければ時間内に終わらせることは出来なかった。農家さん、中嶋さん、本当にありがとう!

セミナーでは、ただベーシックな話をするだけではおもしろくないので、自分とお茶の関係の話にそれなりに時間を割いた。幼少から急須で淹れて飲むのが当たり前だったこと。祖父の田舎にあったお茶のこと。それらのダイジェストをお話するとそれが特によかったようで、一同にある種の温かな連帯感のようなものが生まれるのを感じることができた。思い出とご先祖に対する気持ち、好きなことへの傾倒。これらは人間に共通することなのだ。それを触媒として少しずつ距離が縮まってゆくのがわかる。

国同士の物理的な距離は何の支障にもならない。彼らが日本にやってくるために排出されるジェットエンジンからの二酸化炭素は、気持ちでオフセット。科学的ではないけれど、とても真に迫る感覚だった。

セミナー後、ドイツ側の4名と日本人2名とで三条大橋あたりの河原へ出かけて弁当を広げた。ニコルさんは静かな喜びを内側にじんわりと抱いていて、抱えきれない分が微風にのってあたりに漂う。「夢が叶った」とニコルさん。「いつもドイツの禅センターにある私の部屋で日本茶を飲んでいます。私の先生が贈ってくれた湯呑みには三条大橋が描かれているのです。今、その橋を見ながらこうしてみんなで夜を過ごしていて、本当に嬉しい」。

河川敷では日本も外国も関係なくいろいろな人がそれぞれに時間を過ごしていて、ぬるい空気を時たま川下から吹く涼しい風が奪ってゆく。その開放感ある風を受けて、ニコルさんはすべてを言葉にするでもなく幸福とともに小さく微笑んで物思いにふけっていた。片膝を立てて、手にはお弁当とおはぎ。その姿に旅人の精神が結晶していて、人間の美しさの目に見えるところ、見えないところ、ぜんぶが迫る。出る言葉もなかった。

その夜にニコルさんから受け取ったのは、冒頭のティーポットだった。白磁の大きなポット全体が、フェルトで裏打ちしたステンレスカバーに包まれている。

「あなたがおじいさんのことを大切に思いながらお茶を扱っている話は以前から聞いてきたので、私たちの『おばあちゃん世代』らしい道具を考えて、これを贈ることにしました。おばあちゃんの家にこういうものがあったよね、って感じの」

出で立ちは古めかしい宇宙船ふう。未来というよりは過去の思い出へとゆっくりジャンプさせてくれそうな、合理的でちょっと可笑しくて、そんな道具。大切に使おう。

//

8月28日、我々は貸し切りの中型バスをお願いして朝から日野町へと向かった。バスのマイクを借りて、添乗員よろしく日野町と自分との関わりについて説明をする。ニコルさんの師であるベイカーさんというご高齢の男性も同乗していて、彼も日本の田舎と都市の関わりについて小さな講義をマイク越しに行った。

社内ではドイツと日本それぞれの若者たちの現状のこと、社会の閉塞感のこと、などをニコルさんと話した。似ているようでちょっと違っていたり。様々な問題に対して先進的なイメージがあるドイツの事情を聞き、民主主義はどこも大変なのだと思わざるを得なかった。日本の投票率がすごく低いことを知り、彼女は言葉を失った。「投票率が少なくとも90%はなければ民主主義は機能しないと思います」と僕に言った。

昼食、「伝統料理を継承する会」による鯛そうめん御膳。「ようこそ岡村商店ご一同さま」という手書きメニューまで添えてあって、休日返上で料理をこしらえてくれたオバちゃんたちには後光が差している。手土産に、地元の100歳を超えているおばあちゃんが作ったというアクリルたわしとか、折り紙工芸品をたくさん用意してくださっている。一生懸命に「グーテンターク」とひとりひとりに声をかけている…

かしこまって食事をする一同を前に、ニコルさんが静かに僕に尋ねる。「友章さん。ここでは静かに食事したほうがいいのですか」。「いえいえ、家にいるみたいにくつろいで、楽しく食べて!」という僕も、何となく緊張して静かに食べた。「みんな箸で大丈夫なのですか」と聞くと「はい、禅センターでの食事はみんな箸ですから」との答え。なるほど。

食後、調理室の前でオバちゃんたちがそわそわしている。「なあ、岡村さん。歌おか。」と、そのなかのお一人が僕に言う。「え?」と僕はわけがわからなくて聞く。「歌おか。歌…みんなで。日野の歌」。「それはめっちゃ嬉しいです!ぜひお願いします!!」というとオバちゃんたち、ドイツ人の前に整列してもじもじする。さながら何かしらのスポーツの日独交流戦みたいな様相を帯び始める。禅を実践するドイツ人たちと、伝統料理を保存しようとする日野のオバちゃんたち。

ついさっき書いたばかりの歌詞カードを手に、「どんとや〜れこの、どんとや〜れこの、よ〜いと〜こ〜な〜」と、明らかに慣れた雰囲気でオバちゃんたち、鮮やかに喝采をさらう。負けじとドイツ側、何やら相談し始めたかと思うと、なつかしい雰囲気のアンサーソング。全然わからないドイツ語の民謡に圧倒されてビデオを撮るのも忘れる。中には音程を変えてコーラスにまわる人までいて、慣れている…誰でも知っている歌らしい。オバちゃんは、「今日ここにドイツと日本の架け橋ができ、嬉しいです」と挨拶をしてくださった。手がふたつでは足らないくらいの、そのあとの満田製茶での予定を一瞬忘れるくらいの、拍手。泣きたかった。

オバちゃんたちが「ダンケ!」と何度も言いながら見送ってくれて、そうしてついに満田製茶へとバスは進む。少し離れた駐車場に我々が到着すると、ご親戚のヨウヘイさんが我々を見て事務所へ駆け込んだ。「来たぞー!」という感じなのだろう。斥候みたいだ。バスを降り一行を入り口まで案内すると、タオルをはちまきにした久樹さんが出迎えてくれた。互いに言葉は通じなくても、ドイツ側の皆さんはどことなく佇まいを直してリスペクトを表明してくれている。

まっすぐ茶畑へと歩を進めた。ほとんどの方にとってお茶の樹を見るのは初めてのようだった。「蜂がいるので畝の中には入らないで」と声をかけ、葉に触ってみたり、少し散策してみたりして、思い思いの時間。さすがに人数も多いせいか、矢継ぎ早に質問がいくつも飛んでくる。息継ぎができないくらいに「Tomoaki-san!」と声がかかり、忙しい。(通訳がひとりだと向こうの質問を消化しきれないかもしれない)

続いて久樹さんとヨウヘイさんによる茶刈りの実演。二人用摘採機を持って、短い畝の上面をほんのちょっと触る程度に。本来なら茶袋に入るところ、そのまま土に落ちるので、これを見た何人かは非常に申し訳なさそうな顔をして「来年の収穫量が減るのではないか。なんだか申し訳ない」と僕に言う。「お茶はとても強い樹だから大丈夫です。またここから新しい芽がいくつも出てくるのですよ」と言うと心底ほっとした顔をして「安心させてくれてありがとう」と返ってきた。

次に向かったのは荒茶の製造工場。"semi-product"としての荒茶をどのように作るのか、"pan-fired tea"(釜炒り茶)と何が違うのかを、機械をひとつひとつ見ながら説明する。このために久樹さんは、機械全面を覆っているブルーシートを外しておいて下さった。それだけでも難儀したはずだ…。

そして荒茶をいよいよ製品として仕上げるための再製加工を行う隣の工場へ。ここではヨウヘイさんがその様子を実演してくださった。製品になるまでの手数の多さは想像よりはるかに多かったようで、皆さんびっくりして話を聞いてくださる。ひとり、茶箱に足をかけて写真を撮っていたので No You can't do that! と言うと笑って足を下ろす。こういうところにちょっとした感覚の違いが見られて、それはいいとか悪いとかじゃなく、面白い。ここでも先程の心配性の方が「トモアキさん、もしかしてこの工程を見せてくれるためにお茶を無駄にしているのではないか?大丈夫なのか?」と聞いてくださる。気遣いの絶え間ない優しい人なのだ。大丈夫、実際に製品になるから無駄にはならないよと言うと、再び安堵の表情。

企画はどんどん続く。半製品としての荒茶の試飲会。焙じ茶の焙煎工程の見学。久樹さんたちは一行のために大量の手土産として自園のお茶を用意してくださっていて、その中には「在来のカリガネを焙じ茶にしたもの」という大変希少なお茶までがあった。(買い取りたかった)

大量の手土産があるにもかかわらず、ほぼ全員が満田製茶の自園のお茶や水出し用の茶器などを追加でごっそりと買いたいと思ってくれていた。別に僕がそうしろとお願いした訳ではなく、買いたかったら買えるからねと最初に少し言っておいた程度だったけれど、買い物に対する勢いからも皆さんの関心が伝わって嬉しかった。ご夫婦で会計に対応くださり、必死の形相でひとりひとりをこなしている。途中で僕がどこかに行ってしまうと、「岡村くん!通訳!!」といって呼び戻される。

気持ちのいい買い物ってあるものだ。お金ってこんなふうに使うといいんだなって、本当にそう思った。この光景。茶畑を背に、みんなが喜んでいる。買う方も売る方も、そして社会にとっても満足のゆく素晴らしい商売。近江商人の経営哲学「三方良し」。哲学が先にあるのではなく、気持ちの良い人々の生き様が先にあって、それを抽象化した言葉なのだと思えた。

16時ごろ、記念撮影をしてお別れをする。誰かが "say cheese!" のかわりに "green tea!" "sencha!"といって笑顔の合図をした。



一行がバスに乗り込んだあと僕は少し満田家の皆さんと言葉を交わす。まだ皆さんの胸に興奮が強く残っていて、すごいものを目撃した子どもみたいだ。最後に、ある言葉を久樹さんは僕に言った。照れくさいし、それにじんとしてしまって、目を見られなかった。

バスが動く。運転手さんは満田家の見送りに気を遣ってゆっくりとそばを走ってくれる。いつもは頭を下げて見送りをしてくれる満田家の皆さん、今日は大手を振って明るく一行を見送った。名残惜しさに満たされて、小さなため息が車内でいくつか漏れる。

「ああ、本当に素晴らしい一日だった。ありがとう」と隣に座ったニコルさんが言う。なんとなく表情が赤くて目元がうるっとしていたのは、もともとの明るい肌の色のせいなのか、別な感情があるせいなのか、わからなかった。彼女の師であるベイカーさんも僕の膝をぽんと打って笑った。

京都に到着し、長い2日間もおしまい。歩道に広がって最後のご挨拶をする。「2日間のガイドに選んでくれて本当にありがとう。亡くなったおじいさんと母が、こちらに笑ってくれているのを感じるし、あなたは正しいことをしているって言ってくれているような、そんな気がします。ありがとう」と伝えた。

ニコルさんに急須をプレゼントした。僕がずっと使い続けたもので、「新品じゃないけど」と言うとベイカーさんは「その方がいいよ」と言った。徳島県三木枋の煎茶の最後の一袋を彼女のためにとっておいたので、それも手渡す。三木枋は祖父の故郷のとなりの集落だ。先祖の思い出を交換しよう、と添える。

互いに疲れもありつつ、惜しみながら別れた。

帰り道、昼食のあとで一行が歌ってくれた民謡の意味を聞いたことを思い出した。それはこういう歌なのだとニコルさんは教えてくれた。

//

ひとり とてもいい景色のなかを荷馬車で走る
綺麗な景色だから 止まって見ていたいのに馬車はどんどん走る
もっと見ていたいのに

2023/08/26

援農の記録 2023.8.22-23

 


「命がけで作ってるから」と久樹さんは、そのときだけちょっと張り詰めた顔をして言う。「今年のお茶は去年以上のいいものが出来上がりましたね」と僕がかけた声への応えだった。

一日の作業を終えてバーベキューを囲みながら、互いにスーパードライ片手の会話。久樹さんが遠慮気味に片方の口角を上げて、ほんの少しだけ顎を引く。そうすると、暗がりのなかで、いつもは和やかな目線が急に圧力を持つ。平成初期に継いでから経てきたことが具体的には語られずとも束になり視線で示されるようだ。分かるだろう、と彼は言っているのだ。

「命がけで」なんて表現が彼の口から出たのは初めてだった。これまでは「今年のも美味しいですね」と僕が言っても、「こんなもんとちゃうかな」「趣味でやってること」「完璧と思ったことがない」という言葉が返ってくるくらいだった。

実際、お茶を作るということは命がけだと思う。蜂にはしょっちゅう刺されるし、鋭利な茶刈り機は手で持つものも乗用型も、それぞれに危険をともなう。茶工場の大型機械が危ないことは見れば誰でもわかる。酷暑のさなかに畝間で倒れたら誰にも気づかれない。

だが久樹さんがお茶に命を賭していると言うのは、たぶん身体的な危険を指しているのではない。気軽に共感してはいけないような、分かるのに時間がかかる深い精神性のことを言わんとしておられるのだと思う。

//

はじめてお会いしてから8年が経った。この人が表現しようとしていることに少しでも力になりたいと思って、「援農」を掲げて人を募り、ときたま草取りのために畑に行くようになった。

満田製茶のことを言葉でいくら語ったところで、僕の存在がかえってフィルターになって伝わりにくいこともあるし、一方でお客さんのほうでも、言い方は雑だけれど、僕が何を提示しても見たいものしか視界に入っていなかったり、聞きたいことしか耳に入らなかったりで、極端に選択的な考えや排他的オーガニック志向に陥っている例をいくらでも見てきた。もちろんみんながそうじゃない。深く気持ちを寄せてくれる人たちがたくさんいるおかげで、折れずに続けてこられた。

それでもいま人々のなかに、わざわざ用意しなくてもよい仮想敵がたくさんいるのだ。原因は情報過多だ。そうなると考えていることはすべて実際とかけ離れ、ときには空論でしかなくて、そうこうしている間にも茶畑で四季は巡り、あまり物言わぬ農家たちは人知れず淡々と日々を暮らし精一杯の自己表現を茶葉という言葉で繰り返す。声の大きな者が闊歩し、遠慮がちに生きる者たちは肩を小さくすくめて生きてきた。

後者のような農家をたくさん見てきた。そして美味しいお茶を作るのも、いつも後者だった。何もしなければきっと近い将来に失われてしまう営みが次から次へと目の前に飛び込んで、圧倒されてしまった。

言葉では伝えにくいところがある。だからとにかく茶畑に来てもらって、できれば頭を空っぽにして、そこにいる人たちの有様を見てほしい。それで援農という形で茶畑にお邪魔するようになった。

//

今週の火曜と水曜、満田家のご親戚のお宅に泊まらせていただき2日間の作業をした。

2日間にしたのは、単日だと何かと気を遣わせてしまって結局作業している時間があまりとれず、かえって手間ばかりかけるからだった。

でも蓋を開けてみれば、満田家の手を変え品を変えの(?)気遣いとおもてなしを全員がもれなく受けることに、やはりなってしまった。ご家族それぞれが何かと出てきてくれて、菓子やらお茶やら手製の甘酒やらをご馳走してくださる。あっちの部屋で着替えたらええよとか、空調服いっぱいあるよ、シャワーも使ったらええ、などなど。挙げたらきりがない。

美味しいバーベキューも準備してくださっていて、茶の仕事がどう見ても止まっているのがわかる。ここは製茶問屋でもあるから加工の仕事が忙しい。久樹さんは「いつもバーベキューでごめん」と言う。

2日間が終わってみれば我々はいつもと同じようにお腹も心も完璧に満たされていて、どこからどう考えてももてなされた分の仕事量をこなしていない。そしてそれが逆転したと思えたためしなど、ただの一度もない。

助けになりたいと思うことそのものが間違っているのだろうかと、はじめのうちは思った。だけど、たくさん話をして時間を一緒に過ごして、そういうときの久樹さんたちの表情は僕の目に狂いがないとすれば嬉しそうに見えるのだった。久樹さんだけではない。心ある農家さんたちは皆、そうだった。

本当に大変な農業を、僕のような素人が仕事量によって支えようとすることには確かに無理がある。やってもやっても助けになった気がしない。そして僕が万が一にも満田製茶のお茶を全量買い上げることがあったとしても、きっと僕は「助けてあげている」と感じることが誓ってないだろう。

等価交換という言葉がある。人は何かをしてもらったら等価で返さなければならないという考えにとらわれてしまっている。もらったら返す。してあげたら見返りを期待する。あらゆるものごとをお金で換算できる時代。

そうではない関係をひとつひとつ見つけていく。それはいつでも心地よくて、気兼ねなくて、優しい。

//

深夜、宿でとても不思議な出来事があった。恐ろしくはなかった。そのことを久樹さんとお母さんに話すと、どことなく嬉しそうにしておられた。ご先祖はやっぱり大切にせなあかんのよ、と久樹さんは言う。古い家やから、とお母さん。

「ご先祖さんは見てはるねん。岡村くんのお母さんもな、ここ…肩の後ろ。ここでいつも見てはんの。そういうことを分かってくれそうな人のところに、ご先祖さんというのは現れることがあんねん」

「いつか死んで祖父母や母と再会することがあったら、『ようがんばったね』と言ってもらえるように、生きたいです」

「うん」と久樹さんは応えた。

//

だいぶ暗くなって大阪への帰路についた。久樹さんと、彼が神社で拾って来た白い犬のハクとが並んで、見送ってくださる。なんとなくハクは、たぶん、普通の犬じゃない。

バックミラーの暗闇にふたりが消えてゆく。何かの幕が降りるような気持ちでハンドルを握る。少し進んだところで止まり、聴きたい音楽をセットする。そのとき、理由がわからないけれど対向車が大きなクラクションを鳴らしながら僕とすれ違って、それを機に現実に引き戻されるような気がした。

とろとろと日野の暗い田園の間を走る。高速道路に乗るともうそこは都市と一直線に繋がっていて、空気が変わる。「ご先祖が見てはる」を繰り返し考えながら時速80km。視線は子どもの頃からなんとなく感じていて、ひとりでいるときでも見られている感じがいつもあった。勝手にそう思っているだけかもしれないけれど。

いまこの瞬間も…と思ったとき、高速道路の開けた視界の上で雲間から半月が顔を出した。それはやけに強く光っていて、目だった。優しく潤っていた。「あなたを見ている。何もしないけれど、あなたがしていることを見ている」と、ひとつの月の視線に何人ものもう会えない人たちの目が重なった。