2021/11/07

こども日本茶教室を終えて

 


こんにちは。

昨日は、こどもたちをお店に迎えて「こども日本茶教室」を開催しました。

4枠を設けたところすべて埋まり、幼稚園と保育所の子どもたち、小学生、中学生が参加してくれました。

家庭でのお茶の経験もさまざまで、一人として同じように話せばよい子は居ません。じっと「うん、うん」と話に聞き入ってくれた子もいましたし、「わたしはね!」「わたしは!」といって保育所の仲良し3人組は騒ぎながら楽しく体験してくれました。

まず、親戚が近所からとってきてくれたお茶の枝や花、実を見せました。お茶は、チャノキという植物の名前なんだよという話からスタート。花をつけ、実になり種を落とし、地面から新しい芽が出る。他の植物と同じように生活している生きものだということを伝えました。

そして、農家の人たちはお茶の樹を育てていて、葉を収穫したらいくつかの作業をこなし、やっと「お茶」が出来上がることを簡単にお話し。実際に乾燥した茶葉に触れて、からからに乾いているのを肌で知ってもらいます。

次に、急須を使って自分でお茶を淹れてみました。そもそも「きゅうす」という名前であること、どうしてそんなものを使うのかを説明。使うものはたったの5つ。お茶と、急須と、お湯と、台所にあるスプーン(茶さじの代わり)、そして湯呑み。温度計もスケールも湯冷ましも要りません。

私が実演してから子どもたちへバトンタッチ。細かいことは何も言いません。そもそも正解などないからです。茶葉の量も、お湯の量も、蒸らす時間も好きなように。そうすると、他の子どもと出来上がりの違うことが分かります。

子どもたちは慣れない手つきで急須を持ち、真剣に湯呑に注ぎます。いままさに世界の境界線を広げている子どもたちの神聖な様子。はじめて急須でお茶を淹れるって、一生に一度だけのことですよね。お母さんたちのシャッター音も最高潮です!

苦い!おいしい!うすい!熱い!いろいろと声が上がります。

どうしてそうなったのかな?と一緒に考えます。お茶が多すぎたかな?湯のなかに長くつけっぱなしにしすぎたかな?お湯が少なかったかな?

次に、家族にお茶を淹れてあげる練習。ポイントは「回し継ぎ」だけです。一度にひとつの湯呑を満杯にせず、濃さが均一になるように少しずつ注ぎます。これを自分でやってもらいました。手がまだまだ小さい子も多いので、私が手を添えつつ、やけどしないように気をつけて。

保護者の方々にも子どもが淹れたお茶を飲んでもらいました。ものすごい量の茶葉を使って、湯は少しだけ使った女の子も。お母さんたち、表情を引きつらせて「うん、ちょっと、ちょっとだけ苦いかな!」とかなり優しめのコメント。これには私が楽しませてもらいました。

最後に、教室で使ったお茶を3煎ぶんくらい個包装して子どもたちにプレゼント。家でまたやってみてね、キュウスがなかったらサンタさんにお願いしてね、なんて言いつつ。

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知らないことに足をつっこむことの緊張とうれしさって大切です。そしてやってみたら意外とできることを、子どもたちはもちろん、保護者の方にも確認してもらえれば、なおのこと光栄です。

保護者の皆さまには、「割れる、危ない」とか「熱い、やけどする」といった声掛けをできるだけ我慢してもらって、やりたいようにさせてあげてほしいとお願いをしました。割れたら割れたで仕方がないです。(実際にそんなことは起きず、みんな大切に道具を扱ってくれました)

曲がりなりにも最初から最後までやることができれば、子どもの自尊心やアイデンティティにつながるはず。大人だって一緒です。お茶を淹れられるようになることは、自分自身を大事にしてあげられることに比べたら、そんなに重要なことではないと思います。心に関わることだからです。

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同日開催した「日々の和菓子」も盛況で、あっという間におやつは完売しました。こちらもお礼申し上げます。

おやつaoiさんの和菓子販売とこども日本茶教室は、今後も月に一度のペースで継続するつもりです。修正できることをちょっとずつ直しながら、より豊かに、子どもの感性に寄り添ってあげられるように、私も勉強です。

今後のスケジュールは改めてお知らせしますね。

多謝。


2021/10/12

いつも傾いているソフトクリーム

 きょうは臨時休業なので、気ままに過ごしています。妻と駅前の puku puku さんでお昼ごはんをいただいたあと、予定なくぶらぶら。

「高槻にでも、甘いもの食べに行くかな」

「行きたいあてもないし」

「長谷川書店に気になる本が」

「じゃあとりあえず行こうか」

結局、長谷川さんとしゃべったり、際限なく本を物色しているうちに時間がどんどん過ぎました。そうしてすぐ近くに昔から踏ん張っているケーキ屋のコトブキさんがあるので、そこでソフトクリームを買って、ロータリーに腰をおろしてしばらく休みます。


妻は雑誌 TRANSIT のスパイス特集に夢中

人口のわりに水無瀬駅前のロータリ周辺は広々としていて、日々掃除してくださっている方のおかげもあっていつでも割ときれいです。なんとなく座れる場所が駅前にあるのはうれしいですね。

突然ですが、そのコトブキさんで買うソフトクリームは、いつも巻き方が下手っぴです。背格好のくたびれたおっちゃんは本当に下手で、祈るような気持ちで仕上がりを待ちます。手渡されたときにはだいたい全体が傾き、ソフトクリームの命といってもいい頭頂部のとんがりは、まるで数日前に買ってきたナスビの棘みたいに活力がない。嗚呼!

いくらソフトクリームだからといって、そういうところはソフトじゃなくていいのにと思いながら頬張ること数十回。

今日は、恐らく奥様でいらっしゃるおばちゃんが店にいて、巻いてくれました。ほのかな期待を胸に、300円のチョコレートソフトクリームLサイズを注文しました。待つことほんの30秒ほど。絶妙に期待から少しだけ外れた傾き具合の大きなソフトクリームが手渡されました。苦笑。風邪をひいてやる気がないときの私の背筋みたい。

300円払うなら、同じ値段のハーゲンダッツのアイスクリームをコンビニで買うほうがきっとおいしいでしょう。

前のブログ記事で、否定的なレビューを公開するのはよくないと書きました。なのにこんなことを書いているのは、私はコトブキ水無瀬店に愛着があって、巻き方のいまいちなソフトクリームが高級なハーゲンダッツと同じくらい好きだからです。

人の営みを感じるからです。

せっかくならより美味しいものを口にしたいというのは至極あたりまえの感覚。でも、ベロで感じる美味しさだけを求めてしまった結果、私たちは何を食べればよいのかをいちいち人に聞いたり、検索したりしなければならなくなってしまいました。たいてい、すぐ近所に丁度いいものがあるのに。

○○ランキング第一位、お客様口コミ評価○○点、○○金賞受賞…次から次へと更新される、私たち自身の五感とは何の関係もない他者の評価に、自分が今日何を食べるかを委ねてしまってはいないでしょうか。自戒をこめて。

そのようなランキングには、ときに恣意的な順序づけを感じたり、業界の自作自演を見てしまったりすることもままあります。

当然、第三者の評価が正当になされることで、製造者や生産者にとっての励みになることは多々あるでしょう。褒められて嫌だという人はそんなにいないと思います。そういう作る側の気持ちを蔑ろにする意図はまったくありません。

でもそれが行き過ぎたときに、真っ先に無くなるものは心です。「どこそこの○○とは違って、うちの○○は美味しい」と言われても嬉しくない。たとえ美味しくても、なんとなく満たされない部分がある。現代は飽食の時代と言われてもう久しいのに、いつまでも「もっと美味しいもの、もっといいものを」と底のない欲求に引きずられがちです。

不完全なもので満足してはいけないのでしょうか。そもそも完全なものって、そして不完全なものって、どういうものなのでしょうか。

いつも傾いているソフトクリームには「もう、しょうがないんだから」という微笑ましさと憎めなさを感じてしまいます。これからもそのまま駅前の風景であってねと心の中で祈ります。ずっと長年そこで踏ん張ってきた店がまだきちんと毎日開けていて、ふとしたときにアイスもケーキも買える。店主さんたちはいちいち語りませんが、きっと人知れず苦しい思いをしたり、あれこれ工夫したりして日々を積み重ねておられるのでしょう。そんな哀愁すら漂うソフトクリームを出す店が家のすぐそこにあるのは幸運です。

「○○と比べて美味しい」と相対的に比較すればきりがありません。でも、阪急水無瀬駅に昔からあるケーキ屋さんがまだ営業していて、いつまでも背筋が伸びずに傾いたソフトクリームを売っていること。このことは他の何事とも比べられず、ただその事実だけでもってストンと腑に落ちる何かしらの忘れがたい魅力があります。ひょっとしたらそれは、店と自分の間に少なからず縁を感じるからではないでしょうか。

添加物が、残留農薬が、精製された砂糖が…と言い出したらキリがありません。もちろんそのような視点も食品を考えるうえで大切だとは思います。でもどちらかというと私は、自分自身がお茶を扱うようになったきっかけである「縁」の側からものごとを見たい。

隣でスパイス本を読んでいる妻にそういう話をすると、「またブログに書くんでしょ」と心中みごとお察し。

なにはともあれ。私も傾いたソフトクリームみたいに情のあるお茶とともにありたいなという話なのでした。


2021/10/02

レビュー

お店をしている以上は避けられないこととして、いつなんどき、誰がどのような形で自分のお店に対するレビューを発信しているのか予想もつきません。

鉄の心臓を持つ人ならばまだしも、私は人目がとても気になるし、どんなふうに自分たちが提供しているものについてインターネット上で話されているのかが不安でたまりません。たとえばグーグルの口コミ評価は星5つが満点ですが、おそらく喜ぶべき「星4」でさえも「星5にならなかった理由」が気になって仕方がありません。買ってきたばかりのハムスターみたいに気の小さい人間だといえば、そうなのでしょう。

夜、布団のうえで「ひとり反省会」をしていることもしょっちゅうです。「あのときのあの表現、違うほうがよかったな」など、思い出してはモヤモヤ…そのまま携帯を取り出して「ごめんなさい」とメッセージを送る。そんな人はひょっとしたらたくさんいるのかもしれません。

そんなだから、不特定多数が目にする可能性のある場で誰かのレビューを書くときには、とても気をつけています。そこで書く意味のないことは言葉にしません。自分が相手に対価を払ったからといって、どのようなことでも世間様に向けて書いてもいいとは到底思えないのです。

レビューはなんのためにあるのでしょうか。私は、「そのお店の人が目にしたときに喜んでほしいなと願って書かれたもの」であるべきだと考えています。ある日なんとなく目にして、ぽっと気持ちが温かくなれるような、血の通った温もりある文章です。

批判・改善すべき点の羅列は、余程の場合でなければサービスの提供者に対して直接伝えるべきことだと私は思います(むろん、中傷はいけません)。相手はスクリーンではなく、その向こうの人間であることを思えばなおのこと。負の感情を強く帯びたメッセージは、使い方を誤れば誰ひとり得るものがなく、ただ虚しいばかり。

「いやいや、行くべきでない店を事前にフィルタリングできて、いいじゃない」という意見もあることでしょう。でも、どこの誰がどのような立場から書いたのかもわからない文章をもとにして、成るべく効率的に時間とお金を遣っていこうとする意識は、私は間違っていると思います。同じ理屈で、好意的レビューも参考程度に。おいしいかそうでないか、人となりが好きかそうでないかは、他所様ではなく自分が決めることです。

そこまで簡単に人のことを信用してはならないし、そうでなければ逆に信頼関係を築くことも難しいのではないでしょうか。

自分の足で店まで行って、先入観と期待を捨て、ストレートにお店のあれこれを体感すること。できることなら店主さんと話し、店をつくるのはモノではなくあくまでも人であることを再確認する。なんだかストイックな響きさえ帯びてしまいますが、それでこそお店の世界観を楽しむことができます。目に見える形でも、見えない形でも。

たとえ期待と違っていても、すぐさま批判的な態度で思考するよりは「なんでこういうふうにしたんだろう」と考えてみるのは楽しい時間です。店主さんの人となりや店全体の空気感も含めていろいろ考えると腑に落ちてくるものがあって、とくに個人が営むお店であればたくさん発見があるのでメモが止まりません。(これいいな!と思ったらぜんぶメモして帰ります)

そういうふうにして過ごした時間のあと店を出ると、来るときとは土地の空気がずいぶんと違って感じられるから不思議です。店と自分との小さな関係性がたったひとつできただけで、その土地のことを何だか好きになる。それってすごく素敵なことだし、連鎖して新しい出会いが続くかもしれません。

こうして積み重ねていく体験の集まりは簡単にはレビューにできません。当の本人にしかわからない感慨をともなうものだと思います。人に伝えようとしてもうまく伝えられなくて、自分だけは心底その気持ちがよくわかっている。もどかしいですが、なんでもかんでも共有することが可能であるかのように思われる今日という時代においては、大事に温めてあげたい気持ちです。

でももちろん、「この伝えたい気持ち、なんとか言葉にしたい!」という人の絞り出すような文章も、私は大好きです。そういうところなら一度は行ってみたいなあと思ってしまうし、人情ってものだなあとしみじみします。