2022/07/20

確かなことを求めて


「もしもし、岡村さんですか。検査の結果、陽性でしたので。」

単調な電話をかけてきた病院のスタッフ。こういう電話に明け暮れていて多忙だから、何も聞かず大人しく療養してほしい、そんな気迫をいっぱいにして彼は手短に話した。

最初の3日間ほどは高熱と頭痛がつらかったが、やがて症状がなくなると手持ち無沙汰になった。

携帯の画面では、折しも政治家が銃撃されたことで猫も杓子も一様に色めき立っていた。見たくもない凄惨な写真と動画が繰り返し画面上で再生されている。子どもでも簡単にそういう情報にアクセスできることから分かったのは、地味な配慮よりも耳目を集める刺激が優先されるということだった。悲しいかな、世間はそういう騒ぎを求めているかのようにすら見えた。

家に居てそんな話にばかり触れていると、確かなことが何もなくなってくるのを感じた。フワフワする。全部起きていることなのに、まるで実感がなくて覚束ない。仮想的に外の世界とつながればつながるほどに、自分の生活という感じがしない。手元の画面を見ているのに焦点は定まらず、自分の息遣いや脈がどこか遠くで起きているかのようであり、寝ること、食べることが単調な作業になりかかっていた。

..

僕は携帯電話から意図的に離れることにした。物理的にもなるべく遠くに置いて、各種の通知も少なめに。

それで、畑に行くことにした。療養期間中だけど、どうせ山あいの畑で人と至近距離で話すことなんかないし、そのようがよほど健やかだと考えた。

病気してしばらく行けていなかったから、畑は草に埋もれ、野菜の半分くらいは野生動物の奔放なつまみ食いの対象になっていた。

それでも生活が脅かされる感じがしなかったのは、他者の生産物に依存して暮らしているからであり、いくらか自給するために続けている畑も、レジャーの域を出ていないのを感じた。その中途半端さ加減が情けなかった。

それでも僕はそこに居るかぎり、実体感を限りなく自分の近くに手繰り寄せることができた。噴き出す汗と泥が混じる。草を刈る匂い。そのときの音は台所で菜を切るときと同じ。這いつくばって作業すると、ふと土中から現れる正体不明の虫に得も言われぬ連帯感をおぼえた。急に立ち上がるとめまいがして、同時に微風。汗で張り付く肌着が冷えつつも、再び太陽に熱されるまでに数秒もかからない。僕の息も脈も、そこに確かなものとして、あった。何万回も歌われていそうな「生きてるって感じ」って感じだった。

お金にならない、ただ消耗するだけのその時間が、気持ちよかった。出し切って空になるこの時間がずっと続けばいいのにと心から思った。

..

帰って、ハクビシンと猿が情けをかけて手つかずで残したトマトを冷やさずに切って食べた。何を食べても大して美味しくなかった不調は、打ち寄せる波が綺麗にさらったみたいにして突如消え去った。感覚が澄んで霧が晴れ、視野が広がる。そのときに、治ったと直感した。自己判断。3日ほど前。

以後今日まで、畑の世話をしたり、読みたかった本を読んだり、子どもと学校の話をしたりして過ごした。携帯電話には相変わらずなるべく触らないようにして、気持ちよくないと思うことはなるべくやらないようにした。

生活を調節するときが来たと感じた。明後日からまたお店を開くにあたって、これからどうやって生活するのかを考えるのだ。

店が出来て一年と少し。改めて僕は、随分と自分の健康(特に精神の)を顧みない生活をしていたのを思う。たくさん仕入れてたくさん売ることが美徳だと、そんなふうには思っていなかったはずなのに、振り返ってみれば結果的にはそれを目的とする渦の真ん中にずっと居たのだった。

お金稼がなくちゃ、なぜならお金が必要だから。

融資の返済に固定費、学資、年金に健康保険。

??

僕だって人並みに物欲があるし、やりたいことならいくらでもある。ところがここしばらくというもの、心ここに有らず。お金はいくらあっても福を呼び込むとは限らないことは、前職時代に味わったはずだった。

僕はどういうときに、楽しさ、うれしさ、気持ちのゆとりを感じるのだろう。逆にどういうとき、我慢を自分に課していると感じるのだろう。あなたはどうだろうか。充実とは、いったいどういう精神状態を指すのだろうか。現代の多忙はそれを手短に諦めさせる仕組みになってはいないだろうか。

少なくとも確実に言えるのは、より多く稼ぎ出すことを目的にする行動をとった瞬間から、永遠に手の届かない満足を追い、後悔に終始するということだった。自営7年目、やっと気がついたのかよ。もうひとりの自分が鼻で笑う。

自分の身の丈と向き合い、仕事をいま捉え直すときなのだ。

まず僕がやったのは、6年続けた副業を辞めることだった。収入源のひとつでありながら精神を激しく消耗する仕事だったので、思い切って辞めてしまった。その仕事に大いに世話になりながらも、「主」ではなく「副」とついつい呼んでしまう自分のいい加減さも嫌だった。

これで収入源をひとつ断ったが、不安ではなく大きな安心がまずやって来た。それってつまり、その選択がとりあえず正解ということだ。

次に決めたこと。考えだしたらいくつも出てくる。

お茶をたくさん買いすぎないこと。在庫に対する自分の精神のキャパシティを見極めよう。気持ちで抱えきれないほどの物量を預かってはならない。

売上に一喜一憂しないこと。それよりも、誰と会ってどんな話ができたかをこそ、寿ぐ。

勇気をもって、余計なことをせずにいること。

「仕方ない」の萌芽を見逃さないこと。幸せや豊かさを諦めようとする気持ちが芽を出そうとする瞬間を見逃してはならない。幸せと豊かさの形は社会が提示してくるものではなく、内から湧くものを見極めたい。

畑に今までよりも多く通うこと。残渣を畑で活かし、土となし、そのサイクルのたまものである収穫物を口にすること。

音楽を聴き、いい本を読み、子どもの話を聴き、むやみな発信をやめる。

生活を愛でよう。ふわふわした仮想空間よりも、確かな感覚、実感を大切にしよう。

そんなところだと思う。

..

このように考えるひとつの種になっているのは、いつか満田さんが僕に言ったことだった。

「僕は、岡村君にうちの茶ぁをたくさん売って欲しいとは思ってへんの。岡村君が扱ってくれてるというだけで、満足してんのよ。」

確かなことを求めよう。

2022/05/22

新茶製造見学ツアー

 


2022/5/21

九州から帰るや否や、急いでサンプルを何度も試飲した。感情を抜きにして、自分のものさしだけを頼りにお茶を見るのは困難な作業だが、試される時間でもある。

感情と情景が何度も割って入ってこようとする。それは悪いことではないが、流されてはならないと心に決めてお茶をみる。直感を大切に、かつじっくりと。ひとまず納得のいく拝見ができたように思う。

そうして休む間もなく、今度は東へ向かう準備だ。

滋賀・日野の満田さんのところは在来種の摘み取りと新茶製造の最盛期をちょうど迎えている。きのう21日は11名のお客さまをお連れして茶畑と荒茶工場・再製工場の見学ツアーへ。

これだけたくさんの方をお連れするのは初めてのことだった。

「色々とお気遣いなく。邪魔にならないよう見学させていただきます」と言ったものの、そうは問屋が卸さないのが満田流で、案の定きっちりともてなしの用意がなされてあった。(実際、満田製茶は問屋でもある!)

久樹さん、「おおきに」といつものお出迎えをしてくれた。いつも綺麗な工場だが、この日はとりわけ念を入れて掃除をしてくれたのだなと分かる清らかさ。今を生きる日野商人である。

2年前、1ヶ月をここで過ごして一緒に働いたことが思い出される。

//

さて応接室と工場を通り抜け、まずは茶畑へ。まだ摘んでいない一角へ皆さんをお連れした。初めてお茶畑を見たという方が多く、皆さん矢継ぎ早の勢いで質問を飛ばしてくださる。未知の世界を少しずつ押しやり、知っている領域が増えていく感じ。みずみずしく新鮮で、皆さんのわくわくが静電気みたいに伝わってくるのだった。



次いで一行は荒茶製造工場へ。蒸し・揉み込み・乾燥を経て、一定の水分が抜けてしばらくは保存ができる荒茶をつくる工程だ。お茶づくりというと優雅なイメージがありがちだが、現実は危険な大型機械がたくさん稼働する現場が主であることを見てもらえるだけでも価値がある。

小休止を挟んで、再製工場へ。ここでは選別と火入れによる仕上げ工程が行われ、ちょうど和歌山から助太刀に来ていた屈強青年N氏が懇切丁寧に、かつダイナミックに説明くださる。

その後は摘採機を実際に持ってみたり、荒茶製造の工程をじっくり見学したりと、好き好きにお茶の最前線を味わっていただいた。気がつけば4時間程度滞在しており、最盛期にも関わらず落ち着いて応対くださった満田家の皆さんには本当に頭が上がらない。

それぞれにきっと、お茶、そして携わる人に対する感慨を持ち帰り、育んでくれるにちがいない。

//

いつものように満田さん達、心からの見送りをしてくださる。しかし今回、僕はお客さんと話すのに夢中になり、ずっと動かずこちらを見送ってくれている満田家に気が付かなかった。

同行したHさんが、あとから教えてくれた。「満田さん、ずっと見てくださっていましたよ」

あちゃー、しまったな。振り返るのすら忘れていたな。でも今回は、様々な世代の方を団体で連れて行くことができた。その団体を見つめる満田家の皆さんの胸に、いったいどのような気持ちが残っただろうか。

あなたのお茶のことが好きで、知りたくて、応援したい人がまだまだたくさんいるということ。その一端を感慨という置き土産にできたなら、今回のツアーは成功だったと言っていいと思う。

少なくとも僕は、いつもとは少し違う感情のままに帰路についた。いつもは、寂しくなる。でも今回、希望が、きっと大丈夫だという確信のようなものが、肺のあたりにさわやかに吹いた。

我々にとって現実世界というものは、実感をともなって認知できる限られた範囲だけのものだ。ならば、世界を変えることはきっとできる。お茶を、人を愛する気持ちがその源になると、僕は満田さんのところへ初めて人を連れていった何年か前からずっとそう信じている。

次回、盛夏の草取りツアーを企画している。今度は援農戦力として、大挙して満田製茶へ押し寄せようと思う。

お茶をめぐる旅に終わりはない。

2022/05/18

言葉にならないことのために

 


熊本に滞在するのも9日目、なかでも馬見原の岩永さんの世話になるのは7日目。明日は午前の飛行機だから、帰るばかりとなった。

今日は一番茶のお茶摘みが終わった樹を剪定して、そのあとは乗用型の摘採機を使ったお茶摘み。もちろん僕は操縦なんて出来ないから、サポートに入る。ごっそりと茶葉を共同工場に運びこんでからは、4日前に荒茶となった釜炒り茶の再製加工を見届けた。

今回は共同製茶工場での製茶から仕上げまでを確認するなかで、この共同工場で作られるお茶の特徴をいっそう確かに理解することができたのも大きな収穫だ。

再製加工を進めるなかで、等級別に茶葉を選別する工程がある。この一部が、2年前から「川鶴」としてお預かりしているお茶だ。在来種だけで仕上げるようリクエストしていて、最終的な色彩選別をする前だけれども、夕食どきに皆で試飲してみると「おいしいね〜!」と歓声があがる。岩永さんのお母さんも満足げ。僕も嬉しくて5煎目まで飲んだ。



とても幸せな瞬間だった。なにしろ今回、岩永さんとお茶摘みからずっとご一緒できた。霜にあたらなかったのは何年ぶりか…と岩永さんもしみじみ感じ入り、良質の芽が摘めたのだ。共同工場での加工も首尾よく進んだ。しばらくすれば風味に落ち着きが出て、さらに美味しく楽しめるお茶になるだろう。(出来立てホヤホヤより、少し落ち着かせたほうが美味しい)

仕上がるまでの様々な(本当に様々な!)苦労があるのを見届けたいま、今年からはいっそう「川鶴」のことが可愛くなりそう。さらに昨日摘んだ在来種の紅茶も美味しく仕上がっており、お疲れの岩永さんもこれにはニッコリ。岩永さんの紅茶は引き合いも増えてきているようで、本当によいことだ。



途中、今日も共同工場では「倉津和」の小﨑さんが製茶を進めていた。出荷用の煎茶づくりだ。合間に奥様が小﨑さんの茶畑のなかでも最も大きなところへ案内してくださる。そこは人里から少し離れた丘の上で、雄大な宮崎県の山脈を臨む場所にある。何の物音もしないその場所は、小﨑さんにとっては自分だけの世界に浸れる特別な場所だ。

今回の旅では息子さんとその奥様にお会いすることも叶い、若い世代とのお付き合いが出来ていくのはとても嬉しい。

トップの写真は、今朝いきなりカメラを向けて「はい、笑ってー!」と言ったときの小﨑さん。大阪での教員生活を経て帰郷、百姓をして生きてこられた。共同製茶工場で、なんとなく小﨑さんだけ他の人と違う雰囲気があって、僕はその感じが好きだ。真面目で、あまり口には出さないけれど、きっと心のなかでは人一倍いろいろなことを考えるタイプの人なのだ。

再開を約束して、しばらくのお別れをした。店ではまだ昨年の釜炒り茶が若干あるが、それがなくなり次第、今年の「倉津和」をご紹介できるようにしたい。「サンプル送ります!」と小﨑さんも言ってくださった。



行ってみる? 行く。

食べてみる? 食べる。

見てみる? 見る。

やってみる? やる。

今回の旅では、無遠慮になることを心がけた。遠慮しても何にもいいことはない。だから足かせになろうとも、そのことはひとまず気にせずに機会をとらえて色々とチャレンジしてみた。(失敗して機械を一部故障させ真っ青にもなったけれど…)

折角の機会に、挑戦しなければ足かせにさえなれない。身の程を知った上で、大して役に立てないという自覚のなか、それでもやってみるしかないのだ。僕は農家ではないから、その苦労全てを身をもって我が事のように体感することは出来ないけれど、その間をちょっとでもいいから埋めたい。

それは販売戦略などではなくて、僕がそうしたいから、そうするだけのことだ。「農家から直仕入れ」と店の看板にも書いてあるけれど、それはプロモーションのためではなく、それ以外のやり方を考えられないからだ。ブレンドも自家焙煎ももはや興味はなく、預かった品物の純度を損なわず、ちょっとだけ僕の言葉をのせてあなたに手渡したい。

そして、そのように行動するとき、農家の皆さんとちょっとだけ気持ちを重ね合わせることができるのが、僕はとても嬉しい。こうして誰かと喜びを共有して生きていくことができれば、きっと自分の一生は幸せだと振り返ることが出来るって、そう思える。

「夫は、岡村さんが釜炒り茶に関心をもって来てくれたことに、とても心を打たれた様子でした」と、茶畑案内の帰りに奥さんがぽつりと言ってくださった。

あるいは岩永さんは、夕食を食べて宿の近くまで送ってくれたとき、手を前で組んでぺこりとなさった。その視線、岩永さんの背負っているものの大きさと相まって、撃ち抜かれる。

岩永さんのお母さんは、「もう、あなたは孫のようなものね」と言ってくれる。

そういうときの、なんとも言えない気持ち。ああ、本当に来てよかったな、でもこの気持ち、どうやって伝えたらいいのだろうと思う。

言葉にならないもののために、来ている。言葉にならないこの何かは、僕が手渡すお茶には、きちんとのっかっているのだろうか。よくわからないけれど、これからも僕は一所懸命にしゃべりつつ、伝えきれないもどかしさを抱いて仕事をするだろう。

//

最後に、今回の旅でお世話になった皆様をご紹介します。

馬見原の岩永智子さんとお母様の周子さん。旅のコーディネイトに道先案内、そして茶仕事の先生として多くを教えていただきました。そして水俣の松本和也さん。芦北の梶原敏弘さん、康弘さん、優美子さん。菅尾の小﨑孝一さんとご家族の皆さん。日之影の甲斐鉄矢さんと奥さん。延岡の亀長浩蔵さんとご家族の皆さん。五ヶ瀬の坂本健吾さん。そして菅尾共同製茶工場で働くおっちゃん達。みんな僕にとって釜炒り茶の先生です。

そして、智子さんのお父様である博さん。すでに鬼籍に入られていますが、智子さんと作業をする日々のなかで博さんの存在を感じないときはありませんでした。会っていないのに、知っている感じ。

飛行機のテイクオフが明日の朝に迫ります。寂しいです。