2023/08/30

ドイツからの御一行 日本茶ツアーの記録 2023.8.27-28

 


机の上に、なんとなく古めかしいような、微妙におしゃれな、モダンな昔家電っぽさをたたえたポットが置いてあった。あれは何だろうかと一瞬思っただけで、僕は間もなくはじまる日本茶セミナーの準備を中嶋さんと進めることに意識を引っ張られる。

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「4年ぶりに日本に行く機会ができたので、会いたいです。それに今回は20名以上の団体となるばかりか皆がそろってお茶好きなので、セミナーをやってもらえませんか」とドイツからメールが届いたのは初春のころ。相手はドイツのヘリッシュリートという、長閑な地区の禅の修養施設に暮らすニコルさんという女性で、彼女はそこで指導をしながら施設総括の役目を担っている。

4年前、ニコルさんは京都に滞在して日本語学校に通っていた。ここで僕が何度か日本茶セミナーを開催したなかでのご縁。本当にお茶が好きだということが伝わってきたので「明日、農家のところに行くのですが、一緒に来ますか」と声をかけると、ぱあっと顔を明るくして彼女は「行きます」と即答した。

その道中、彼女とは言葉で完璧に説明しなくても相手の言いたいことが何となくわかる仲になった。僕の英語はいつも微妙に消化不良で、思っていることの1割を何となく言い残す。同時に2割くらいを聞き逃す(日本語でも大なり小なり同じく)。それでもニコルさんとの意思疎通には問題がなかった。我々は、何となく似たようなことを考えて、社会にちょっと絶望しながらも、温かな光明を探して、それぞれにこれはと思う道を生きているのだった。

「セミナーだけでは『情報』に終始してしまうから、実際に茶農家のところへ行きましょう」と僕が提案すると、それを待っていたかのようにニコルさんは賛成の返事をくださった。そして日野の満田さんに声をかけた。

といっても、20人以上もの団体を受け入れるのは初めてのようで、それでもやってもらえることになった。有り難い。僕の言いたいことは僕からではなくて、農家のふるまいから感じてもらえたらそのほうがいい。

せっかくだから昼食も日野らしく。近江日野商人ふるさと館で活動する「伝統料理を継承する会」の皆さんにお願いをして、本来なら定休日であるにもかかわらず一行のために腕をふるって郷土料理を用意してくださる段取りとなった。

前職でお世話になったバス会社さんにもお声がけして、それから日野行き前日のセミナー後の懇親会夕食はホーボー堂さんにも協力してもらって…助けてもらいっぱなしの2日間になりそうだったけれど、おかげさまで段取りは何とか済ませられた。

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8月27日、ニコルさんたちが滞在している京都市内のゲストハウスを訪問。日本茶セミナーを開催する。インストラクターの中嶋さんが加わってくださった。

Finally! 4年ぶりに再会したニコルさんは破顔して、我々はメッセージアプリだけで繋がってきた4年のブランクを感じず打ち解けて話をした。会場にはずらりと20名ほどドイツの皆さんが集まってくる。室温がぐんと上がり、緊張もあってくらくらする。それでも始まってみれば皆さんともに強い好奇心の持ち主で、それに助けられて間に困ることもなく、7種類の日本茶を堪能していただけた。熊本の梶原敏弘さんと康弘さん親子、岩永智子さん。滋賀の満田久樹さん、政所茶縁の会さん。徳島の磯貝一幸さん。心強いみなさんのお茶はどれもこれも好評で、中嶋さんのサポートがなければ時間内に終わらせることは出来なかった。農家さん、中嶋さん、本当にありがとう!

セミナーでは、ただベーシックな話をするだけではおもしろくないので、自分とお茶の関係の話にそれなりに時間を割いた。幼少から急須で淹れて飲むのが当たり前だったこと。祖父の田舎にあったお茶のこと。それらのダイジェストをお話するとそれが特によかったようで、一同にある種の温かな連帯感のようなものが生まれるのを感じることができた。思い出とご先祖に対する気持ち、好きなことへの傾倒。これらは人間に共通することなのだ。それを触媒として少しずつ距離が縮まってゆくのがわかる。

国同士の物理的な距離は何の支障にもならない。彼らが日本にやってくるために排出されるジェットエンジンからの二酸化炭素は、気持ちでオフセット。科学的ではないけれど、とても真に迫る感覚だった。

セミナー後、ドイツ側の4名と日本人2名とで三条大橋あたりの河原へ出かけて弁当を広げた。ニコルさんは静かな喜びを内側にじんわりと抱いていて、抱えきれない分が微風にのってあたりに漂う。「夢が叶った」とニコルさん。「いつもドイツの禅センターにある私の部屋で日本茶を飲んでいます。私の先生が贈ってくれた湯呑みには三条大橋が描かれているのです。今、その橋を見ながらこうしてみんなで夜を過ごしていて、本当に嬉しい」。

河川敷では日本も外国も関係なくいろいろな人がそれぞれに時間を過ごしていて、ぬるい空気を時たま川下から吹く涼しい風が奪ってゆく。その開放感ある風を受けて、ニコルさんはすべてを言葉にするでもなく幸福とともに小さく微笑んで物思いにふけっていた。片膝を立てて、手にはお弁当とおはぎ。その姿に旅人の精神が結晶していて、人間の美しさの目に見えるところ、見えないところ、ぜんぶが迫る。出る言葉もなかった。

その夜にニコルさんから受け取ったのは、冒頭のティーポットだった。白磁の大きなポット全体が、フェルトで裏打ちしたステンレスカバーに包まれている。

「あなたがおじいさんのことを大切に思いながらお茶を扱っている話は以前から聞いてきたので、私たちの『おばあちゃん世代』らしい道具を考えて、これを贈ることにしました。おばあちゃんの家にこういうものがあったよね、って感じの」

出で立ちは古めかしい宇宙船ふう。未来というよりは過去の思い出へとゆっくりジャンプさせてくれそうな、合理的でちょっと可笑しくて、そんな道具。大切に使おう。

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8月28日、我々は貸し切りの中型バスをお願いして朝から日野町へと向かった。バスのマイクを借りて、添乗員よろしく日野町と自分との関わりについて説明をする。ニコルさんの師であるベイカーさんというご高齢の男性も同乗していて、彼も日本の田舎と都市の関わりについて小さな講義をマイク越しに行った。

社内ではドイツと日本それぞれの若者たちの現状のこと、社会の閉塞感のこと、などをニコルさんと話した。似ているようでちょっと違っていたり。様々な問題に対して先進的なイメージがあるドイツの事情を聞き、民主主義はどこも大変なのだと思わざるを得なかった。日本の投票率がすごく低いことを知り、彼女は言葉を失った。「投票率が少なくとも90%はなければ民主主義は機能しないと思います」と僕に言った。

昼食、「伝統料理を継承する会」による鯛そうめん御膳。「ようこそ岡村商店ご一同さま」という手書きメニューまで添えてあって、休日返上で料理をこしらえてくれたオバちゃんたちには後光が差している。手土産に、地元の100歳を超えているおばあちゃんが作ったというアクリルたわしとか、折り紙工芸品をたくさん用意してくださっている。一生懸命に「グーテンターク」とひとりひとりに声をかけている…

かしこまって食事をする一同を前に、ニコルさんが静かに僕に尋ねる。「友章さん。ここでは静かに食事したほうがいいのですか」。「いえいえ、家にいるみたいにくつろいで、楽しく食べて!」という僕も、何となく緊張して静かに食べた。「みんな箸で大丈夫なのですか」と聞くと「はい、禅センターでの食事はみんな箸ですから」との答え。なるほど。

食後、調理室の前でオバちゃんたちがそわそわしている。「なあ、岡村さん。歌おか。」と、そのなかのお一人が僕に言う。「え?」と僕はわけがわからなくて聞く。「歌おか。歌…みんなで。日野の歌」。「それはめっちゃ嬉しいです!ぜひお願いします!!」というとオバちゃんたち、ドイツ人の前に整列してもじもじする。さながら何かしらのスポーツの日独交流戦みたいな様相を帯び始める。禅を実践するドイツ人たちと、伝統料理を保存しようとする日野のオバちゃんたち。

ついさっき書いたばかりの歌詞カードを手に、「どんとや〜れこの、どんとや〜れこの、よ〜いと〜こ〜な〜」と、明らかに慣れた雰囲気でオバちゃんたち、鮮やかに喝采をさらう。負けじとドイツ側、何やら相談し始めたかと思うと、なつかしい雰囲気のアンサーソング。全然わからないドイツ語の民謡に圧倒されてビデオを撮るのも忘れる。中には音程を変えてコーラスにまわる人までいて、慣れている…誰でも知っている歌らしい。オバちゃんは、「今日ここにドイツと日本の架け橋ができ、嬉しいです」と挨拶をしてくださった。手がふたつでは足らないくらいの、そのあとの満田製茶での予定を一瞬忘れるくらいの、拍手。泣きたかった。

オバちゃんたちが「ダンケ!」と何度も言いながら見送ってくれて、そうしてついに満田製茶へとバスは進む。少し離れた駐車場に我々が到着すると、ご親戚のヨウヘイさんが我々を見て事務所へ駆け込んだ。「来たぞー!」という感じなのだろう。斥候みたいだ。バスを降り一行を入り口まで案内すると、タオルをはちまきにした久樹さんが出迎えてくれた。互いに言葉は通じなくても、ドイツ側の皆さんはどことなく佇まいを直してリスペクトを表明してくれている。

まっすぐ茶畑へと歩を進めた。ほとんどの方にとってお茶の樹を見るのは初めてのようだった。「蜂がいるので畝の中には入らないで」と声をかけ、葉に触ってみたり、少し散策してみたりして、思い思いの時間。さすがに人数も多いせいか、矢継ぎ早に質問がいくつも飛んでくる。息継ぎができないくらいに「Tomoaki-san!」と声がかかり、忙しい。(通訳がひとりだと向こうの質問を消化しきれないかもしれない)

続いて久樹さんとヨウヘイさんによる茶刈りの実演。二人用摘採機を持って、短い畝の上面をほんのちょっと触る程度に。本来なら茶袋に入るところ、そのまま土に落ちるので、これを見た何人かは非常に申し訳なさそうな顔をして「来年の収穫量が減るのではないか。なんだか申し訳ない」と僕に言う。「お茶はとても強い樹だから大丈夫です。またここから新しい芽がいくつも出てくるのですよ」と言うと心底ほっとした顔をして「安心させてくれてありがとう」と返ってきた。

次に向かったのは荒茶の製造工場。"semi-product"としての荒茶をどのように作るのか、"pan-fired tea"(釜炒り茶)と何が違うのかを、機械をひとつひとつ見ながら説明する。このために久樹さんは、機械全面を覆っているブルーシートを外しておいて下さった。それだけでも難儀したはずだ…。

そして荒茶をいよいよ製品として仕上げるための再製加工を行う隣の工場へ。ここではヨウヘイさんがその様子を実演してくださった。製品になるまでの手数の多さは想像よりはるかに多かったようで、皆さんびっくりして話を聞いてくださる。ひとり、茶箱に足をかけて写真を撮っていたので No You can't do that! と言うと笑って足を下ろす。こういうところにちょっとした感覚の違いが見られて、それはいいとか悪いとかじゃなく、面白い。ここでも先程の心配性の方が「トモアキさん、もしかしてこの工程を見せてくれるためにお茶を無駄にしているのではないか?大丈夫なのか?」と聞いてくださる。気遣いの絶え間ない優しい人なのだ。大丈夫、実際に製品になるから無駄にはならないよと言うと、再び安堵の表情。

企画はどんどん続く。半製品としての荒茶の試飲会。焙じ茶の焙煎工程の見学。久樹さんたちは一行のために大量の手土産として自園のお茶を用意してくださっていて、その中には「在来のカリガネを焙じ茶にしたもの」という大変希少なお茶までがあった。(買い取りたかった)

大量の手土産があるにもかかわらず、ほぼ全員が満田製茶の自園のお茶や水出し用の茶器などを追加でごっそりと買いたいと思ってくれていた。別に僕がそうしろとお願いした訳ではなく、買いたかったら買えるからねと最初に少し言っておいた程度だったけれど、買い物に対する勢いからも皆さんの関心が伝わって嬉しかった。ご夫婦で会計に対応くださり、必死の形相でひとりひとりをこなしている。途中で僕がどこかに行ってしまうと、「岡村くん!通訳!!」といって呼び戻される。

気持ちのいい買い物ってあるものだ。お金ってこんなふうに使うといいんだなって、本当にそう思った。この光景。茶畑を背に、みんなが喜んでいる。買う方も売る方も、そして社会にとっても満足のゆく素晴らしい商売。近江商人の経営哲学「三方良し」。哲学が先にあるのではなく、気持ちの良い人々の生き様が先にあって、それを抽象化した言葉なのだと思えた。

16時ごろ、記念撮影をしてお別れをする。誰かが "say cheese!" のかわりに "green tea!" "sencha!"といって笑顔の合図をした。



一行がバスに乗り込んだあと僕は少し満田家の皆さんと言葉を交わす。まだ皆さんの胸に興奮が強く残っていて、すごいものを目撃した子どもみたいだ。最後に、ある言葉を久樹さんは僕に言った。照れくさいし、それにじんとしてしまって、目を見られなかった。

バスが動く。運転手さんは満田家の見送りに気を遣ってゆっくりとそばを走ってくれる。いつもは頭を下げて見送りをしてくれる満田家の皆さん、今日は大手を振って明るく一行を見送った。名残惜しさに満たされて、小さなため息が車内でいくつか漏れる。

「ああ、本当に素晴らしい一日だった。ありがとう」と隣に座ったニコルさんが言う。なんとなく表情が赤くて目元がうるっとしていたのは、もともとの明るい肌の色のせいなのか、別な感情があるせいなのか、わからなかった。彼女の師であるベイカーさんも僕の膝をぽんと打って笑った。

京都に到着し、長い2日間もおしまい。歩道に広がって最後のご挨拶をする。「2日間のガイドに選んでくれて本当にありがとう。亡くなったおじいさんと母が、こちらに笑ってくれているのを感じるし、あなたは正しいことをしているって言ってくれているような、そんな気がします。ありがとう」と伝えた。

ニコルさんに急須をプレゼントした。僕がずっと使い続けたもので、「新品じゃないけど」と言うとベイカーさんは「その方がいいよ」と言った。徳島県三木枋の煎茶の最後の一袋を彼女のためにとっておいたので、それも手渡す。三木枋は祖父の故郷のとなりの集落だ。先祖の思い出を交換しよう、と添える。

互いに疲れもありつつ、惜しみながら別れた。

帰り道、昼食のあとで一行が歌ってくれた民謡の意味を聞いたことを思い出した。それはこういう歌なのだとニコルさんは教えてくれた。

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ひとり とてもいい景色のなかを荷馬車で走る
綺麗な景色だから 止まって見ていたいのに馬車はどんどん走る
もっと見ていたいのに

2023/08/26

援農の記録 2023.8.22-23

 


「命がけで作ってるから」と久樹さんは、そのときだけちょっと張り詰めた顔をして言う。「今年のお茶は去年以上のいいものが出来上がりましたね」と僕がかけた声への応えだった。

一日の作業を終えてバーベキューを囲みながら、互いにスーパードライ片手の会話。久樹さんが遠慮気味に片方の口角を上げて、ほんの少しだけ顎を引く。そうすると、暗がりのなかで、いつもは和やかな目線が急に圧力を持つ。平成初期に継いでから経てきたことが具体的には語られずとも束になり視線で示されるようだ。分かるだろう、と彼は言っているのだ。

「命がけで」なんて表現が彼の口から出たのは初めてだった。これまでは「今年のも美味しいですね」と僕が言っても、「こんなもんとちゃうかな」「趣味でやってること」「完璧と思ったことがない」という言葉が返ってくるくらいだった。

実際、お茶を作るということは命がけだと思う。蜂にはしょっちゅう刺されるし、鋭利な茶刈り機は手で持つものも乗用型も、それぞれに危険をともなう。茶工場の大型機械が危ないことは見れば誰でもわかる。酷暑のさなかに畝間で倒れたら誰にも気づかれない。

だが久樹さんがお茶に命を賭していると言うのは、たぶん身体的な危険を指しているのではない。気軽に共感してはいけないような、分かるのに時間がかかる深い精神性のことを言わんとしておられるのだと思う。

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はじめてお会いしてから8年が経った。この人が表現しようとしていることに少しでも力になりたいと思って、「援農」を掲げて人を募り、ときたま草取りのために畑に行くようになった。

満田製茶のことを言葉でいくら語ったところで、僕の存在がかえってフィルターになって伝わりにくいこともあるし、一方でお客さんのほうでも、言い方は雑だけれど、僕が何を提示しても見たいものしか視界に入っていなかったり、聞きたいことしか耳に入らなかったりで、極端に選択的な考えや排他的オーガニック志向に陥っている例をいくらでも見てきた。もちろんみんながそうじゃない。深く気持ちを寄せてくれる人たちがたくさんいるおかげで、折れずに続けてこられた。

それでもいま人々のなかに、わざわざ用意しなくてもよい仮想敵がたくさんいるのだ。原因は情報過多だ。そうなると考えていることはすべて実際とかけ離れ、ときには空論でしかなくて、そうこうしている間にも茶畑で四季は巡り、あまり物言わぬ農家たちは人知れず淡々と日々を暮らし精一杯の自己表現を茶葉という言葉で繰り返す。声の大きな者が闊歩し、遠慮がちに生きる者たちは肩を小さくすくめて生きてきた。

後者のような農家をたくさん見てきた。そして美味しいお茶を作るのも、いつも後者だった。何もしなければきっと近い将来に失われてしまう営みが次から次へと目の前に飛び込んで、圧倒されてしまった。

言葉では伝えにくいところがある。だからとにかく茶畑に来てもらって、できれば頭を空っぽにして、そこにいる人たちの有様を見てほしい。それで援農という形で茶畑にお邪魔するようになった。

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今週の火曜と水曜、満田家のご親戚のお宅に泊まらせていただき2日間の作業をした。

2日間にしたのは、単日だと何かと気を遣わせてしまって結局作業している時間があまりとれず、かえって手間ばかりかけるからだった。

でも蓋を開けてみれば、満田家の手を変え品を変えの(?)気遣いとおもてなしを全員がもれなく受けることに、やはりなってしまった。ご家族それぞれが何かと出てきてくれて、菓子やらお茶やら手製の甘酒やらをご馳走してくださる。あっちの部屋で着替えたらええよとか、空調服いっぱいあるよ、シャワーも使ったらええ、などなど。挙げたらきりがない。

美味しいバーベキューも準備してくださっていて、茶の仕事がどう見ても止まっているのがわかる。ここは製茶問屋でもあるから加工の仕事が忙しい。久樹さんは「いつもバーベキューでごめん」と言う。

2日間が終わってみれば我々はいつもと同じようにお腹も心も完璧に満たされていて、どこからどう考えてももてなされた分の仕事量をこなしていない。そしてそれが逆転したと思えたためしなど、ただの一度もない。

助けになりたいと思うことそのものが間違っているのだろうかと、はじめのうちは思った。だけど、たくさん話をして時間を一緒に過ごして、そういうときの久樹さんたちの表情は僕の目に狂いがないとすれば嬉しそうに見えるのだった。久樹さんだけではない。心ある農家さんたちは皆、そうだった。

本当に大変な農業を、僕のような素人が仕事量によって支えようとすることには確かに無理がある。やってもやっても助けになった気がしない。そして僕が万が一にも満田製茶のお茶を全量買い上げることがあったとしても、きっと僕は「助けてあげている」と感じることが誓ってないだろう。

等価交換という言葉がある。人は何かをしてもらったら等価で返さなければならないという考えにとらわれてしまっている。もらったら返す。してあげたら見返りを期待する。あらゆるものごとをお金で換算できる時代。

そうではない関係をひとつひとつ見つけていく。それはいつでも心地よくて、気兼ねなくて、優しい。

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深夜、宿でとても不思議な出来事があった。恐ろしくはなかった。そのことを久樹さんとお母さんに話すと、どことなく嬉しそうにしておられた。ご先祖はやっぱり大切にせなあかんのよ、と久樹さんは言う。古い家やから、とお母さん。

「ご先祖さんは見てはるねん。岡村くんのお母さんもな、ここ…肩の後ろ。ここでいつも見てはんの。そういうことを分かってくれそうな人のところに、ご先祖さんというのは現れることがあんねん」

「いつか死んで祖父母や母と再会することがあったら、『ようがんばったね』と言ってもらえるように、生きたいです」

「うん」と久樹さんは応えた。

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だいぶ暗くなって大阪への帰路についた。久樹さんと、彼が神社で拾って来た白い犬のハクとが並んで、見送ってくださる。なんとなくハクは、たぶん、普通の犬じゃない。

バックミラーの暗闇にふたりが消えてゆく。何かの幕が降りるような気持ちでハンドルを握る。少し進んだところで止まり、聴きたい音楽をセットする。そのとき、理由がわからないけれど対向車が大きなクラクションを鳴らしながら僕とすれ違って、それを機に現実に引き戻されるような気がした。

とろとろと日野の暗い田園の間を走る。高速道路に乗るともうそこは都市と一直線に繋がっていて、空気が変わる。「ご先祖が見てはる」を繰り返し考えながら時速80km。視線は子どもの頃からなんとなく感じていて、ひとりでいるときでも見られている感じがいつもあった。勝手にそう思っているだけかもしれないけれど。

いまこの瞬間も…と思ったとき、高速道路の開けた視界の上で雲間から半月が顔を出した。それはやけに強く光っていて、目だった。優しく潤っていた。「あなたを見ている。何もしないけれど、あなたがしていることを見ている」と、ひとつの月の視線に何人ものもう会えない人たちの目が重なった。

2023/05/06

死んだらみんな同じ 還っていくの


2月ごろ、すぐ近所に住む母方の祖母から電話があった。亡くなった夫、つまり僕の祖父である武田光夫の生まれ故郷、徳島県つるぎ町(旧貞光町)に久しぶりに行きたいという話だった

光夫の生家は長い間放置したままだ。光夫はかなり早くに戦争から帰った父を赤痢で亡くしており、また兄も若くして亡くなっている。そのため光夫は、僕からみれば曾祖母と高祖母(いわゆるひいひいおばあちゃん)と生活していた。地元の仲間たちと京都市で中川工務店という会社を立ち上げる際に離郷し、大工見習いとして働き始めた。それから光夫は亡くなるまで京都市と高槻市で生活を送った。その途中、仕事仲間からの縁談が持ちかけられ、当時の結婚ではごく一般的だったことかもしれないが、2人の意思とはまったく関係のないところで全ての手はずが整えられ、夫婦はある日を境に、同じ家で生活をすることになったのだ。

祖父から望郷の気持ちがなくなることはなく、僕も幼少期からずっと田舎の話を聞かされて育った。もちろんそのなかに故郷のお茶の話も含まれていたし、時たま故郷のお茶が届くと喜んで日々飲んでいたが、それに対して当初、僕は聞いてもなんとも思わなかった。


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5月3日、祖母と父、そして妹一家と僕の子どもたちとで、旅行を兼ねて一泊二日で墓参りと生家の様子見に向かうことになった。現地には曾祖母と高祖母の墓が残されている。



出発前日の昼、床に、手首に着けられるコンパクトな数珠が転がり落ちていた。愛用していたのに1年以上行方不明になっていたものが、たまたまその日に珍しく羽織った上着のポケットから落ちたと思われる。京都の東寺で買ったものだ。光夫一家は僕の母が幼少のころその界隈に暮らしており、1970年前後、東寺の境内は母の遊び場であったという。そのため2016年に母の葬儀を終えてから、僕は母を偲ぶためこれを買い求め、常々どこへでも母を連れてゆくような気持ちで手首に着けてきた。

母にしてみれば父親の故郷帰りに同伴できる身体がないのだから、こうして数珠に何かしらを託して現れたのだと僕は嬉しく理解した。その解釈が科学的には単なるファンタジーであろうとも、僕にとっては筋が通って納得のゆく出来事だ。この文章を書く手も、数珠とともにある。

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鳴門を抜けて徳島自動車道を西へ走り、市町村合併前の貞光町にあたるところで降りる。そこから剣山の方向へ南進すると、祖父の故郷に到着する。山中に突如として開く大きな谷の南側にある家賀(けか)集落は、玄関を開ければ反対側の谷を広く臨み、さらには西方へと果てしなく眺望が続く。視界を遮るものといえば頼りない電線がわずかにあるのみで空が広い。

絶景というツアリズム寄りの言葉よりは人智以上の何か、たとえば神仏と森羅万象に対する畏怖のような気持ち、そして人の生活に対する敬意が、ここでは似合うように思う。見えているものは景色ではなく、何百年とここで命をつないだ人々の姿と山の調和そのものなのだ。

この9年ほどの間に僕は2度、この集落をひとりで訪ねている。そのいずれと比べても家賀を覆う緑は深く感じられ、それは単純に新緑の美しさというよりは、山と人が互いを侵すことなく長年保ってきた調和が崩れつつあることを感じさせた。家賀に残る人口はとても少ないのだ。それでも今なお残っておられる方々が故郷を守っている様は十分にそこかしこに見て取ることができた。自分もここで…奮い立つような思いがする。

ここではかつて、「まずはお茶でも」というときに湯呑みに注がれた酒が出された。光夫も小学生の当時から焼酎を飲んだという。そのような土地柄のせいか、若くして肝臓を傷めて命を落としている人の話がちらほら聞こえてくる。僕が大学生の当時、祖父を連れてここへ来たことがあった。その頃はまだ存命だった親戚筋の方々の何名かは盛大にもてなしてくれ、僕にも父にもさっそくビールを飲ませようとした。僕はそのころまだビールが飲めなかった。父は運転手だった。そのため2人とも断ったところ、「つまらん奴やの」と叱られるという出来事があったのは今では思い出だ。光夫は湯でた蛸のように成り果て、いつものようにブツブツ小言を言うのだった。とても嬉しそうだった。

このときもてなしてくれた人々の中に祖父の従兄弟や遠戚の方がいたが、既にみな亡くなってしまった。

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祖父の生家に到着した。左から納屋、母屋、便所、牛小屋、そして手前には高祖母の寝起きしていた小屋の5つ…があるはずだったが、最も古い小屋は倒壊してしまっていた。数年前の七夕に瓦の自重によって真下にすとんと座り込むようにして潰れたのだと、お隣に今も暮らす見定(けんじょう)夫妻は教えてくれた。

潰れた様子に悲壮感はなく、自然の草木が屋根瓦をつたって上り、やがて風化して山に飲まれるであろう行く末を当然のように受け入れているかのようだった。自然にあったものを素材として当時の人々が組んだものが、いま再びもとあった形へと戻ろうとしている。コンクリートの瓦礫ではなく、それは大げさにいえば大きな循環の一部だとすら言えそうだった。山の長い命からしてみれば、この小屋が建てられ崩れるまでの時間など、一輪の花がぱっと咲いて枯れるようなものなのかもしれない。山の時間でいえば一瞬のことに、人間は永久に通ずるような感慨を抱く心を持っている。命は各人に固有のものではなく山に抱かれ代々継がれる一個のものであるという感覚が自分の内に湧き上がってくる。

苔だらけの瓦をひとつ拾い、持ち帰ることにした。祖母は「そんなもんどうすんねんな」と言った。なぜ欲しいと思ったのかそのときは分からなかったが、代々継がれる永久の命と限りのある肉体の命、そのふたつを象徴するものとして、崩れた瓦を手元に持っておきたかった。

見定夫婦は今なお健在だった。9年前、すでに弱っていた祖父のために僕がひとりでここを訪ねたとき、淡々と、かつ明るく迎えてくれたのだった。ここで飲んだ煎茶が、いまの自分の仕事や、もっと広い人生観に直結している。今回も家のお茶を土産に持たせてくれた。

「なかなか帰る機会も少なく、申し訳ありませんでした」と僕が言うと、おばちゃんはこう答えた。「どこもこないして還っていくんよ。みんな同じ。私らも死んだら、ここは継ぐ者もないから。還るの」僕はそれに対して「…この集落との関わりを断ってはいけないと思っています…」と答えた。ご夫妻は何も言わなかった。

母屋は倒壊とまではいかないが、玄関を開けるとまず見えるのが荒れた居間だった。床が痛み、仏壇や戸棚などで重さのかかっていたところは床が抜けて、家具が散乱している。すでに数年前に祖母が仏壇の魂(こん)を抜いて高槻市の自宅にある仏壇へと移す手続きを済ませているから、この仏壇は空っぽということになる。

なお、荒れた家の公開をご先祖は望まぬと思われるため、内部写真の公開は控えたい。

3つの居室が横に並んでいる簡素な建物で、右の玄関から入り、真ん中の部屋へ、床を踏み抜かないように恐る恐る進む。カーテンを開けて解錠し戸を開けると、小さな縁側がある。そこに腰掛ければ遠く反対側の谷と、はるか彼方が霞むまで西を見渡せる。



本当に、本当に、美しい。これがここに住む人間の日常であったのだ。僕はこの場所がツーリズムの対象であってほしくないと思った。妹は集落の遠景写真を見晴台から撮ろうとしていたが、「写りきらない」ことを嘆いていた。きっとそれは、見えているもの以上に、見えない何かが心に迫るのを感じているからなのだろう。

小さな床の間があって、そこに僕の高祖母の葬儀の際に使ったと思われるモノクロの遺影が置いたままになっていた。それを縁側へ運び、久しぶりの外の空気と景色を高祖母が楽しめる格好にした。そのとき自分にできる精一杯のことであったし、そうすることによってある種自分の慰みにもなった。

母屋の隣には納屋があり、茅が山のように積まれていた。近所の誰かが畑の資材の置き場として使っているのだろう。納屋の中には雑多なものがごろごろ置かれており、屋根裏には農具と思われるものが見える。まだ使えるものも多いのかもしれない。空いた酒瓶が無数に残っており、「酒しか娯楽がなかったのよ」という祖母の話が思い出される。いつから漬かっているのかわからない梅干しの瓶もあった。蓋が固着しており中を確かめることはできなかった。

どこが傷んでいるのかもわからない納屋なので、無理に中に入ることはやめておいた。入り口から手の届くところに小さな木箱があり、何気なくこれを持ち出して中を検めた。

小さな写真がいくつか。電気の検針票。湿布。薬。タウンページ。高祖母が亡くなったときの、祖父を喪主とする喪中はがき。農事を記録するための冊子。倒壊の際に失われないよう、写真をすべて持ち帰ることにした。

なかには祖父が10代後半か20代前半ごろと思われる頃の写真がいくつかあり、そのひとつでは京都で自分たちの興した「中川工務店」のトラックとともに写っていた。もうひとつは会社か地元の仲間たちと思われる若い衆との何気ない写真だった。



60年ほど前のものと思われる写真。中央のわずかに左。色のある上着と白い肌着を着てこちらを見ているのが祖父だ。今の自分より若い祖父の表情と向かい合い、何だか言葉が出ない。

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納屋を後にして母屋の前を通り、車の方へ戻る。ふと目線を下に遣ると、母屋の縁側の下からお茶が慎ましく生えていて新芽を伸ばしている。何かが心に去来するのを期待して、そしてほんの少しでも自分と土地の隙間を埋めたくて、新芽のひとつを摘んで食べた。青く、少しえぐみがあり、かすかな旨味がある。それ以上の何ももたらすことがなく、一体自分はお茶に何を期待しているのだろうと、情けなくなるだけだった。

その後僕たちはお隣の見定さんと別れた。「がんばりや」とおばちゃんは声をかけてくれて、「はい、また必ず来ますから」と答えた。

家賀に残る曾祖母と高祖母のお墓を掃除し、心清らかに僕たちはその日の宿へと向かった。


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連休中ということもあり、事前に宿を探すのは難儀した。どこに電話してもいっぱいで、空いていても驚愕の宿泊料だったりして途方に暮れていた。やけっぱちになって市街ではなく山の中を探していると、どうやら家賀集落から見て山の反対側の集落に農家民泊があるようだ。

「そらの宿 磯貝」というその宿は情報が少なく、どうしたものかと思ったが、あまり整理されていないウェブサイトに僕はかえって好感をもった。電話をするとおばあちゃんが出てくれて、快く9名の宿泊を受け入れてくれることになった。家賀から車で本当にすぐそこにあるその土地は、三木栃(みきとち)という。

「贅沢なものはない。山のものとか、ここの食材しかないよ」とおばあちゃんは言った。それだけで僕は安心した。

到着すると、ご高齢ながらもシャキっとしたご夫妻とその息子さんが3人で出迎えてくださった。とりあえず温泉へ行っておいでと案内いただき、帰ってから夕食となった。

夕食はこの土地のものばかり。米は自家栽培のアワと一緒に炊いたもの。天ぷらには山うど、たけのこ、そしてこれも自家製のこんにゃく。そば雑炊というこの土地独特の汁物には、根菜、かしわ、きのこ、そして自家栽培の蕎麦の実がたくさん入っている。お茶は畑の横に生えている実生在来種を大歩危という地区の製茶工場で揉んでもらったものだという。

心づくしの食事。外食の苦手な祖母もこれには満足げだった。



このときまで僕は知らなかったのだけれども、徳島県の西部で伝統的に行われている「にし阿波の傾斜地農耕システム」は国連食糧農業機関によって世界農業遺産のひとつに認定されているのだという。つるぎ町の各集落、家賀や三木栃もこれに含まれており、祖父がもしこれを知ったならさぞ誇らしく思っただろう。(傾斜地農耕についてはご自身にて調べてみてください)

さて何という偶然の賜物か、磯貝家と祖父の武田家は親戚関係にあった。家賀の見定さんと磯貝のおばちゃんは同じ病院に通っているそうで、世間話のなかで「その泊まりに来る一行は磯貝さんの親戚やぞ」ということが分かったのだそうだ。

要するにこういう話だった。祖父・武田光夫の父である菊雄には何人かのきょうだいがおり、そのうちのひとり、キミコさんが磯貝家のご長男のもとへ嫁いでいた。ご長男もキミコさんも既に亡くなっておられるが、家を継いだ次男さんが今回僕たちを迎え入れてくれたのだ。磯貝さんは仏壇から過去帳を取り出して、16代にもなるという家の系譜のなかに、確かにキミコさんの名があるのを見せてくださった。

点と点が繋がってゆく。偶然ではなく導かれているのだ。はっきりとそう思う。

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磯貝家でも傾斜地農業を今も実践しておられ、野菜に雑穀、お茶など食べ物の多くを自給している。鶏舎もあり、朝食のたまごは家のにわとりが産んだものだ。ご長男の一幸さんは実家の農業を継ぐことを決めておられ、僕の生業であるお茶の話を中心に、ここの生活について詳しく教えてくださった。



ここではお茶を「岸茶」と呼ぶ。傾斜地農業を支える石垣のキワのあたりを「岸」と呼ぶことからその名がついており、岸に生えているものは畑の邪魔にもならないため除去されず大切に扱われてきたのだという。勝手に生えてきたものなので実生在来種ということになり、古いものでは樹齢400年と思われるそうだ。現在はこれをハサミで摘採し、製茶工場で煎茶として加工してもらう。一般的な茶畑と違って背の非常に高いものもあり、梯子を使わなければ刈れない。こうして出来上がる磯貝家のお茶は、きれいな味と香りのお茶だ。商業的な思惑をまったくといって感じさせない透明な味で、何気なく夕食のときに出てきたものを飲んで僕はひっくり返るかと思った。

まもなくだという希少な新茶の仕上がりを待つことにしている。

ここらではいわゆる肥料を入れず、カヤや落ち葉を畑に投入して土を肥やすようにしている。「痩せている土地が向いているという作物でも、やはりそれなりに肥えていなければ収穫できない。畑は肥えているほうがいいから肥料は一切使っておらず、カヤと落ち葉を入れているだけ」とおばちゃんは言う。「肥えているのがいいから肥料を使わない」という話はおそらく世間一般の認識とは真逆であるはずだ。肥料を避けているというよりは、伝統的に土地のものを使ってきたのだから、特にそれを変えてまでして外のものを投入することは今更必要ないということなのだろうか。

そのためお茶にも肥料は与えられていないが、農地がゆるやかに傾斜しているのでカヤや落ち葉の養分は流れてくるのだという。政所のお茶づくりと部分的に似通っているが、積極的に肥料を使わないことなど違いもいろいろとあり、新茶をみるのが本当に楽しみだ。

磯貝家の自給に近い生活は、家賀集落の祖父の生家をどうしようかと悩むばかりの僕にとっては本当にまぶしい姿だった。われわれ夫婦はここ大阪で店をようやく出すことができ、まだ2年目の途中である。それにもかかわらず、僕は店を大切にしつつも、かの集落を自分の生活圏とすることができないのだろうかなどと…夢想をし始めている。



「死んだら同じ 還ってゆくの」と見定さんは言った。どこで、どんなふうにして還ろうか。

なぜ自分の生まれた場所ではない土地が、ここまで強く呼ぶのだろうか。ここまで惹かれてしまうのだろうか。

家賀に立つと、遥かな昔と自らの今が一直線に繋がるのを感じる。たとえ歴史の表舞台に現れるような雅な話ではなくても、粛々と紡がれた生活の糸の先端はここに、教科書や資料館ではなく自分の命として、ここにある。糸は見えずとも手繰れば家賀に繋がっているのだ。

さらに遡ろうとすれば…我々は同じなのだという感覚が、遠い光の点として見えてくるような思いすらする。朝崎郁恵さんの「あはがり」という歌を思う。そこではこんなことが奄美の言葉で歌われている。

「浮世にいつまで留まることができるのかわからないけれど、優しく生きてください。季節や水車が巡るようにして、また会えるでしょう」

優しく生きること。ご先祖にも子どもたちにも優しくある命の繋ぎ方を、旅をするようにして探したい。