2020/06/30

満田製茶 9日目 6月30日 / 優しすぎる

今日の仕事

・ひみつ

・委託加工 荒茶 柳仕立て

・委託加工 煎茶 仕上げ

・落札した茶の受け取り

今日の一日は、言わないほうがいいことからスタートした。それは特別な計らいでもあるので、詳しいことは書かないでおきたい。

そこで僕は、初対面となる茶の事業者とたくさん出会った。頭を下げっぱなしだ。後ろから声が聞こえてくる。ひそひそ声でも分かる。僕は、人が自分のことを言っているとき、異常なくらいそちらに神経をもっていかれる。

「満田さんとこの、あの細い人、誰や」

久樹さんは僕の正体をきちんと説明してくれていた。僕はしゃしゃり出るのも良くないと思い、黙って引き下がっていた。

ここでは体格でまず人を判断されるきらいがある。僕は細い。中学は剣道、高校はテニスをしていたけれど、以降は運動嫌いだし、筋肉がそんなに無くてもどうにかなる都会暮らしだ。

頭でっかちに考え気味の日々を後悔する。ここでは力のない人間はどうも見くびられてしまうのだ。

優雅にみえるお茶という世界も、はじめはこのような空気のなかを通り抜けている。ガソリンと茶埃と汗にまみれ、むさ苦しくも爽やかな、農業のリアルな現場だ。そしてその世界は、相場と駆け引きのなかで商品価値が決定していく非常にシビアなものでもある。

産業として茶が存続しているのは、そのような現場で問屋さんたちが生産者と一般のお客さんの間に入ってくれているからだ。彼らの感性と商魂が、生産者たちの渾身の作の市場価値を決める。ときにそれは、その茶の味や香りとは別なところで決定されることがあることをも今日は知りえた。

動くお茶の量が違う。そのスケールのなかで、「にほんちゃギャラリーおかむら」などは、数字のうえではミジンコみたいなものだ。

「岡村くんがやろうとしていることをハッキリさせていくためにも、市場や相場という世界が主流であることを知ってもらい、どのようなものが市場価値を持つのかを判断できる目を持ってほしいねん」と久樹さんは何度も言う。

「岡村くんはええ意味で頑固やしそれはええねんけど、もうちょっとシビアなものの見方をして、商売としてきちっとやっていくことも必要なのよ。岡村くんが直でお茶を買ってる農家はみんな優しいんよ。もうちょっと広く見なあかん。それに、直ではない買い方というのも知っといたほうがいい。実際にやらんにしても」。

外出先から2人で戻ると、さっそくいくつかの茶葉を並べる久樹さん。

「どれがええ茶やと思う」

日に一回はこのテストを受ける。

「ええ茶っていうのは、僕の好みのことですか。それとも市場価値のことですか」

「市場」

「それやったら、これ」

「骨太で色味にも深さがあるし。においにも力がある。で、こっちは水くさい感じがする。乾燥が甘いんと違いますか」

「正解やね」

今日は雨も強まって、外の草取りができない。雨ということは、草がぼうぼうに伸びてくるということだ。次の晴れの日は大変なことになるだろう。

外で仕事ができないので、加工場で作業をする。まずは、緑茶の「柳仕立て」という委託加工をする。使う機械はみな大型で、掃除にはじまり掃除に終わる。違うロットのものが混入しないように気をつけないといけない。

生産者から預かった荒茶を大きさによって選別し、大きすぎるものは切断機を通すことでサイズを均す。

サイズ別に選別された茶葉を乾燥機(上写真手前)に通す。ここで茶葉の水分量を減らすことで長期保存のできる状態にして、なおかつ香味の発揚を促すことができる。

火の入った茶葉は静電気を利用した選別機を通る。茎が静電気で吸着され、分けられる。

最後に全体を均一にするため合組機を使って混ぜ合わせる。

さらに、煎茶の仕上げ加工にもとりかかる。柳仕立てよりもより工程の多い選別を経て、切断、火入れ、茎選別、合組。これも細かい掃除やちょっとした機械の調整があり、手数が多い。

選別に使う篩い(ふるい)も、原料の状態によって久樹さんはかなり時間をかけて悩んでいた。そのやり方を誤ると、原料に対する歩留りが非常に悪くなってしまう。預かったものをいちばんよい方法で仕上げてお客さんに返す、責任の大きな仕事だ。

僕は細かい調整なんてまだできないから、その周辺の細々としたことで久樹さんのアシスタントにまわる。でも、テキストで学ぶ製茶方法のリアルをみ続けられるのは楽しい。

ときどき後ろから久樹さんの動き方をみて、主体的に判断して動けることが無いかを探す。

ほんの少しずつ、工場での動き方を体で覚えていく。子どもの成長と自信にも似た感覚だ。寝返りがうてる。ハイハイができる。つかまり立ち。歩行。

お父さんも作業に入っていたので、その作業もフォローする。お父さんはもう80歳を超えているが、とてもそうは見えない。

かつてはおじいさんも居り、さらには雇い入れたスタッフもいたから、賑やかだったそうだ。その当時は市場も非常に活気があり、お茶の市場価格は今よりもずっとずっと高かった。

乾燥機のガス火ゆえ、加工場の気温がどんどん上がって汗が止まらない。

… 

今日の仕上げに、満田製茶が落札した茶葉を集荷場まで取りにいく。トラックで向かい、久樹さんがひょいひょいと運び上げてくる30キロ入りの袋を荷台に並べていく。

体を一気に使う瞬間だ。腕力よりも、腰や脚の使い方のほうがひょっとすると大事かもしれないと思いながら作業する。

17時となり、終業。久樹さんもどこか一息ついた雰囲気になり、スーパーカブを見にくる。久樹さんはカブが気になるのだ。

「ええな。何速あんの」

「4速。以前のカブと違ってセルでスタートするんで、蹴らんでもええんです。どうです1台。20万円と少し」

「僕は900ccくらいのが気になるんよな」

「そんなん乗って、久樹さん事故しはらへんか怖いなあ。死なんといてくださいよ。ぜったいに困ります」

「へへへ。言うてるだけで、買わへんよ」

「ちょっと乗ります?」

「ええわ。新車こかして傷つけたら、えらいことやん」

「わはは。そしたらお疲れ様でした。また明日です。ありがとうございました」

「おおきに。明日もよろしく」

雨が激しく降る中をスーパーへ向かい、足らない食材を買って帰る。かんたんな自炊はけっこう楽しい。

本を一冊買ったけれど、今日も疲れた。読めるかな。


2020/06/29

満田製茶 8日目 6月29日 / 無農薬の真髄?

日野に来てから2回目の月曜日を迎えた。

今日やったこと

・草とり(手作業)

・仕入れた茶を冷蔵倉庫へ移送

・草刈り(草刈機)

日差しのきつくない時間を利用して茶園の草とりをする。久樹さんと話をしながら、ぶちぶちと草を抜いていく。やぶがらし、自然薯、朝顔、ウリの蔓、笹…コツや段取りも少しずつ分かってきた。どの草がどんなふうに生えていて、どう攻めれば効率的に取れるか。どうすれば疲れにくいか。

草とりは満田製茶の仕事の核なのかもしれない。

「こういう淡々とした作業も悪くないやろ。余計なこと考えへんし。大切な時間やで」と久樹さん。いつもはどんどん先にいく彼だけれども、今日は話が弾んで僕と同じペースで進めてくれた。

「無農薬をするようになって30年くらい経つけんども、ここ数年でやっと分かるようになってきた。無農薬の茶の真髄が。やっぱりな、茶は無農薬で作らなあかんねん。無農薬の茶ぁは、何かちゃう。うまいねん。でも、お茶屋さんたちがいう旨味のことやないよ」

彼は何を感じているのだろうか。

彼は問屋として、市場の価値観に基づいたお茶の鑑定ができる人だ。茶を見たら人がわかるねん、と彼は言ってはばからない。

彼が仕入れてきた茶をみて「めっちゃええ茶やんか」と惚れ惚れしている場面をすでに何度か見ているが、そのときの「ええ」は、彼が自園の茶について言っている「ええ」とはまったく別物のニュアンスを帯びている。

「こうして岡村くんも来てくれるから何とか続けられるものの、いつまで出来るかわからへん。そのうちに1度だけ除草剤使わなあかんときもあるかもわからへん」と彼は大真面目にいう。

僕は、彼が例え農薬を使う農家になっても、彼のことを追いかけ続ける。

「岡村くんは頑固や。ええ意味での頑固やけどな。頑固。お母さん大変やったと思うわ。感謝せなあかんで」と彼は草をとりながら話し始めた。

「前職を辞めたいと言ったとき、母親は参ってしまっていました。本当にどうしたものかと悩んで、親戚に相談までしてたくらいです。辞職も起業も、きつく反対された。でも、病気で亡くなる2日ほど前に、突然言うたんです。『やってみたら。あなたの人生やから』って」

それを聞いた久樹さんは、神妙な顔をした。「ええ…そうなんか…。実を言うとな、僕が岡村くんに頼んでこうして来てもらっているのは、お母さんを感じるからってのもあんねん。お母さんがな、僕に言うてる感じがしてたんや。『息子がちゃんとやっていけるように、茶を教えてやってください。頼みます』ってな、なんかわからんけど、お母さんに言われているような気がしてたんや。そういうこともあって、来てもらってんの。せやからここにいる間は、先入観を捨てて、素直な気持ちでお茶をみてや。あと、仏壇は毎日参るんやで」

「はい」としか言えなかった。生前の母親なら、そういう頼み事をきっとやっていただろうと思うからだ。

それからもいろいろの話をした。

子どもの教育とデジタル機器の話になったとき、話題はYouTubeのことに移った。珍しく彼は言葉を荒げ、こう言った。

「YouTubeって、わけのわからんもんばっかり流れてんのな。なにが、『はじめしゃちょー』やねん。おれな、ペラペラしゃべってばっかりの男は大っ嫌い!しょーもない」

その1時間くらい前に、「僕はめったなことがなければ怒らん」と言っていたのに、もう怒っている。笑ってしまったけれど、彼は大真面目だ。

それから彼は、草刈機についてレクチャーをしてくれた。「田舎でこれが使えんかったらばかにされる」といって、まだ使ったことのない僕に、安全第一の指導をしてくれる。

意外にも重たくてびっくりした。やっているうちに右腕が棒になる。コツが掴めない。午後の後半にも草刈機を使ったけれど、「時間かかりすぎ。その4倍のスピードでやらんならん。金属チップが危ないからやと思うけんど、腰が引けてるわ」と彼は笑った。

こういう風に言われると燃えてくるので、挽回したい。

午後は、彼が事前に仕入れていた茶を業務用の大型冷蔵倉庫へ運ぶことになった。30kgある袋を次々にトラックとバンに積み、彼はトラック、僕はバンに乗り込んで倉庫へ移動した。

倉庫の中は気温5度くらい。はじめ涼しいと思うけれど、じっとしているとどんどん冷えてくる。そのなかで彼は自分の背丈より高いところへ30kg袋を積み上げる。すごい。

僕には難しい作業だ。

「慣れやねん。やってたらできるようになる。岡村くん今何歳?34?そんなん、バリバリに動く年やん」と50代の彼は言った。またまた燃えてくる。

そこは地域の集荷場も兼ねているところだ。ここに茶農家たちが荒茶を持ち込んで、ロットごとのばらつきを均すために全量を混ぜ合わせる。それが入札に出される。落札された茶を問屋たちが引き取りに来る。

少しずつ、お茶の流通が見えてくる。教科書でしか見たことのなかった繋がりが、そこで働く人々の汗と茶の粉塵とともに目に映るのはとても新鮮だ。

何もかもを、彼は見せようとしてくれる。生涯でもきっと忘れ得ない学びの時間になるのだろうと、今のうちから思う。

今日は身体を酷使する1日だった。腕がすでに棒のようでキーボードも打ちにくい。明日の朝起きたときの筋肉痛が怖い。

30代の若さなんて関係がない世界。日々身体を使って仕事をしているかどうかだ。腕力であまり役に立っていないことが歯痒くも、それでもなお彼が見せよう、感じさせようとしてくれているものを必死で頭に叩き込み、手指の感覚に馴染ませようとする。

満田家に戻ると、お母さんがおかずをパックに入れて用意してくれていた。それを持ち帰って、買い足した食材も使って夕食をつくる。満田家の人たちは、みなこざっぱりとした人で、話していて気持ちがいい。

風呂に入ってから島本の家族とビデオチャットをすると、娘が虹を描いてみせてくれた。

世界は、いまかつてないくらいに鮮やかに見える。

もっと見たい。もっと知りたい。

2020/06/28

7日目(休暇)6月28日 / おいしいお茶とはなにか

日曜日も休暇なので、終日、日野町の各所を散策した。

今日は少し趣を変えて、日野の話ではなく「おいしいお茶」のこと。個人のFacebookアカウントで午前に書いたことを少し膨らませてみる。

まずご一考いただきたいのだけれども、「おいしいお茶」ってどんなお茶だろう。誰かがそう言っているという価値基準ではなく、あなたが思っている「おいしいお茶」。

答えは何通りでもありそうだし、どれも間違いではないと思う。誰かの入れ知恵ではなく、あなた個人の感覚である限りは。

おいしいお茶って何だろうと改めて考えていると、スーパーにこんな商品が並んでいるのを見つけた。

まず最初に断っておきたいのは、僕はこういうものを頭ごなしに非難するつもりはない。「無添加 自然派」をアピールしたり、これを好んで飲む人を否定したりする意図もない。

ただ、僕の個人的な嗜好からすると、飲むと吐きそうになることがある。

それでも、ちょっと立ち止まって見つめてみよう。「添加物!!」と脊髄反射的に反応せず。

ふつう、お茶の原材料には「緑茶」などと書いてある。フレーバードティーでなければ、殆どの場合はそれだけだ。本当に、それしか入っていない。周辺の藪から飛んできた笹や杉の葉が混入することがあるけれど、完全に除去するのは難しい。

ときに「濁り」とか濃い目の味付けを意図するときには、「抹茶」が付け加わっている。抹茶入り玄米茶などがよく売られている。

しかし、この商品にはそれに加えて、「固形茶」というものが使われている。粉末緑茶+でんぷん+青海苔からなるもので、どうやら粉末茶と青海苔を固めて伸ばし、煎茶のような見た目にしたもののようだ。

さらには調味料(アミノ酸)として添加されているのが、恐らくグルタミン酸ナトリウムだと思う。

青海苔は何のため?

それはきっと、玉露やかぶせ茶といった茶種独特の栽培に由来する「ジメチルスルフィド」という化学成分のにおいを再現するためだ。磯のにおいを思わせる。そのためにわざわざ手間をかけて「固形茶」なるものが製造されし、必要な業者はこれを仕入れて混ぜる。

アミノ酸は何のため?

アミノ酸はどこにでもある旨味調味料で、加工食品の多くに添加されている。お茶は添加しなくてもアミノ酸を合成する植物で、玉露やかぶせ茶、それに一部の「高級煎茶」や茎の部分には特に多く含まれる。

それなのにどうして添加しているのかといえば、原料の緑茶にあまり含まれておらず、それが欠点として認識されているから。下級原料の欠点を補わんとするために、わざわざアミノ酸を仕入れて添加している。もっと言えば、本来は熱湯で淹れると他の成分とのバランスの中で感じにくくなるはずの旨味が、添加した茶なら感じられるという側面もある。

こうして海苔とアミノ酸により、一般に「高級」とされるお茶特有の香りと旨味を再現することができる。加えて抹茶が味に厚みを持たせ、視覚的にも緑の強いリッチな雰囲気の商品ができるということだ。

このような商品を通じてわかることがある。

ひとつ目。一般に何が高級だとされているのか。玉露などに特有のキャラクターは、高級品の証なのだ。それがなければ、ランクダウンする。

ふたつ目。高級とか下級とかは、あなたの嗜好とは一切関係ないところで決められているということ。

もちろん、このような茶を好む人もいる。だから販売している。

あるとき初対面の女性が、似たような商品の空袋を持って「これ、ありませんか」と訪ねてきたことがある。

僕はないと答えてから「失礼ですが、だいたい幾らで購入したのですか」と聞いた。するとその女性は、100gで5000円くらいしたと答えた。目を覆わんばかりの、申し分ないボッタクリだと思う。

その値段で売れるのだから何が悪い、と業者は言うだろう。でも、売れるならいくらで売ってもいいのか。これは人としての信条の問題だ。

一方、この商品を求めた女性を否定してはいけない。自説をぶつようなことはしなかった。それは、この人の好みだからだ。「そんなものを飲んでいるようでは…」だなんてもし思うことがあったとしたら、いつかしっぺ返しが飛んでくるし、それ以上の学びは望めないだろう。

しかし女性は残念そうに去っていった。今でも個人的に心残りのある出来事だ。

「素材がシンプルで、おいしい食品」に似せたものが売られているのは何もお茶だけではない。たとえば調味料の全般にみられる。市販の味噌や梅干しもそうだ。

日本は、そのようなものを開発するのに莫大な開発費をかけて工夫することに長けた、器用な国だと言ってもいいのかもしれない。1億人以上も人がいるのに、その人々がみな都市に住みながらも添加物の少ない食品にありつこうとするのには無理があるかもしれない。

だから大量生産を悪者扱いしてはいけない。農薬も、化成肥料も。

たいていの場合、生活は大量生産の恩恵にあずかる他ないのだと思う。そしてもちろん今のところ、他国の人が耕してくれる他国の土壌がなければ成り立たない。これを資本にものを言わせた「仮想の国土」と言ってよければ、日本は実際の国土よりもかなり広い面積を支配していることになる。

日本が帝国を名乗った時代と、結果的には似たようなことをしている場合はないだろうか?

と、話が逸れてしまったけれど、とにかく市場規模がものすごく大きい以上、昔ながらのものを当たり前に入手するのは簡単ではない時代。

自分で生産するか、お金をたくさん出すか、巨大なマーケットから足を洗って活動している業者から入手するかだ。

それに加えて、多くの人の嗜好からかけ離れつつあるものを、ときに「高級」と銘打って販売したり、それと偽って別物を売ったりする時代だ。

お茶だってそうだ。高級かどうかは口にする人が決めたらいいし、値段の高い安いはあまり関係ない。「目利き」の芸能人に高級品と下級品を鑑定させて遊んでいるテレビ番組があるけれど、そういうやり方には我慢ならない。

安い番茶をおいしいと思う。それならそれでいいじゃないか。でも一歩進んで、なぜそんなに安いのか、問題はないのかと考えてあげることも必要だ。

市場規模と、人の嗜好を左右しようと躍起になる業界を前にして、それでも自分のからだの感覚とこころを総動員し「おいしい」と思うものを探すのは大変に思われる。でもそれは舌が肥えていなければならないと考えるからだ。もちろん、そんな必要はない。

僕も同じようにもがいて、次から次へとお茶を試しながら気づくことがあった。それは結局商品そのものではなく、人なのだ。

誰がどんなことを考えてつくったのか。どんな人なのか。どこに住んでいて、どんな暮らしをしているのか。そしてあなたは、それらのどこに共鳴する思いを感じるか。

さもなければ人は、ただのグルメ評論家になってしまう。これでは人に感謝することがなくなるだろう。

「おいしいもの」は、人をみて決めるものだと、僕は今のところ考えている。

2020/06/27

6日目(休暇) 6月27日 / 図々しい観光

自宅にいると休みの日は出来るだけ寝ていたい。なのにきっちり6時に目が覚める。ぼんやりスマートフォンを眺め、やがて起き上がって朝ごはんを用意した。

近くのパン屋さんで買ったカンパーニュの余りと、久樹さんのお母さんからもらったポテトサラダ、それに平和堂で買ったトマトとヨーグルトをボソボソと食べた。

作業着も地下足袋も身につけず、普通の格好で出かけることにした。でも本当は地下足袋の履き心地が気に入っていたし、硬いところは苦手でもファッションとして有能だと思い始めている。

さて今日の行き先は、東近江市のNPO法人「愛のまちエコ倶楽部」だ。先日から菜種油の販売でお世話になっていて、もう今年の菜種収穫が終わっているということで遊びに行くことにした。

到着すると、5人くらいのスタッフの皆さんに囲まれた。みなさんスーパーカブに興味津々だ。流石は働く二輪車…田舎での注目度が異様に高い。元エンジニアだというおじさんからは専門的な質問まで飛び出して、僕が頭にハテナを浮かべるので「ごめんなさい」と謝らせてしまった。

山のように積み上がった袋には菜種が入っていて、今年は20tの収穫があったそうだ。これを搾り取ったのが菜種油「菜ばかり」で、残りを発酵処理したものが発酵油粕「菜ばかす」だ。

油粕は同じ東近江にある政所で良質な有機肥料として使用されているが、まだ需要を満たすほどの製造量がない。お茶も買ってほしいけれど、もしあなたが政所茶のファンだとしたら、ぜひこの菜種油にも関心を寄せてほしい。たくさんの菜種油が製造されたなら、比例して油粕を供給することが出来る。

スタッフの財満さんから、「今日はカレーをつくって皆で食べるのですが一緒にどうですか」と誘っていただけたので、「食べます!!」と喜んで参加。

図々しいくらいがちょうどいい。食べる?と聞かれたら食べる。残りものがあれば「食べていいですか?うまいうまい」と言って食べる。民泊ではおかわりを要求する。もちろん、それ以上は失礼だという線は見極めるようにしているけれど。

初めてお会いする職員・農家の方々とお会いした。田舎の人たちはみんな気持ちがいい。田舎の人間関係は独特の泥臭さを感じる面も多々あるけれど、それは互いに強く関心を持っていることの裏うつしでもある。

先日、地元の新築マンションで、「引っ越してきたけれど隣近所のお付き合いはまったく無い」と少し寂しそうにされている女性に出会ったことを思い出した。都市では互いに無関心でも生きていけるように生活が設計されていることが多いけれど、果たしてその仕組みは長く続くのだろうか。

さてお土産に満田さんの新茶を持参したので、食後に淹れることになった。けれど10人分も淹れなければならなかったので慣れない加減に失敗した。僕はお茶を淹れるのが上手じゃない。満田さんは「岡村さん上手に淹れはりますわ」と言ってくれるが、やっぱり下手だと思う。それでも応えてくれるお茶ばかり手元にあるから何とか形になっているけれど。

僕は、ここぞとばかりに目の前の人々に対して「東近江に政所があるように、日野には満田あり」と週末らしからぬアクセル加減で力説した。簡潔に、そして力強く。

ひとつ自負させてほしい。もしお茶のワールドカップというものがあって、「満田茶プレゼンテーション部門」があったとしたら、僕は永代に渡り破られない得点をあげ、金メダルを勝ち取る自信がある。なぜかといえば、僕は彼のお茶だけではなく、人を見ているからだ。そしてこのたびの1ヶ月の研修を経て「鬼に金棒」となる目標を掲げている。(この記事をいつか見返して赤面するかもしれない)

ただ、売ることにかけては下手くそだ。これこそ弁慶の泣き所というものだし、その才能が自分にはあるとは思えない。でもそれでいいと今のところは思っているが、こんなことを書いていると、妻から憤怒の便りを頂戴することになるかもしれない。

日野への帰路で、「滋賀県平和祈念館」を訪ねた。太平洋戦争に滋賀県民がどのように巻き込まれたかを、県民からの無数の資料提供をうけて展示している。

祖母の郷里である日野も被害を免れてはいなかった。

曽祖父(祖母の父)は日野から大阪の京橋に出てパン屋を営んでいたが、やがて徴兵され日野で訓練を受け、満洲に出征した。祖母はその間、大阪から疎開していたそうだ。終戦して曽祖父は満州から生きて戻った。南進するソ連軍から逃げたという話を聞いたことがある。

…館内に、ある陸軍兵士が満洲から家族に宛てた手紙があった。その兵士自身と彼の子どもたちは、僕、娘、息子とほとんど同い年だった。子どもたちを気遣いつつも、検閲郵便であるからか引き締まった文体のその手紙を、泣かないで読むことが出来なかった。

僕もいま家族と離れているが、それは僕の意思であって、いつ何時、何があってもおかしくないとは思っていない。僕はお茶を学んで家に帰り、もとのように愛する家族と合流するのだ。当たり前のことが、当たり前なのを、有り難く思う。

帰路、自分の子どもたちに、戦争についてどのように教えようかと頭を悩ませた。

さて日野に戻って訪ねたのは「近江日野商人館」だ。「日野大当番仲間」と呼ばれる異業種の商人組合を組織した人々の商いの歴史を辿ることができる。

ここに僕は満田製茶の商売の原泉を感じられるかどうか確かめてみようと思っていた。するとどうだろう。細かくは描かないが、久樹さんのやり方とまさしく同じだと思える訓示を多数見かけることができた。満田家には日野商人の気概があるのだ。そのことを彼が意識しているかどうかは分からない。

ところで僕が気に入ったのは、これらの訓示だ。

「確かなるよろしき代物を仕入れ、売りさばき申すべきこと」

「小さきお得意衆、かえって大切にいたすべきこと」

「伊達がましき商い、一切無用のこと」

それから僕は自家焙煎コーヒーの喫茶店「らっこや」さんでコーヒーをいただいた。

実はコーヒーが苦手なのだけれども、不思議とむかつきが起こらずおいしく飲めてとても嬉しかった。ガトーショコラはお利口さんな佇まいで舌にべとべとつかず、あくまでもコーヒーをおいしく飲ませようという気概があった。

同店で、廣川みのりさんと仰る日野在住陶器作家さんの箸置きを買った。

子どものときからお気に入りの映画「魔女の宅急便」でキキが修行をする街並みに似ている形だったし、日野と自分の関わり合いに新しいレイヤーを見つけたかった。

箸置きを日野に持ってきていなかったから、嬉しい。それひとつで食事がよくなるのだから不思議だ。

最後に、久樹さんに教えてもらった食品店「八百助」さんを訪ねた。前日には地元の酒屋さんも訪ねた。

それぞれとても小さな商店だったが、置いてある品物には光るものを感じる。要するに小さいのに魅力的だった。いや、小さいからこそだ。

これらはざっくり言って観光かもしれないが、「行って、お金を落として、消費する」だけの物見遊山はしたくない。

どうせなら、ちょっと図々しいくらいの関わり方をしたい。いけそうだと思ったら、ちょっとフランクな口のききかたをする。聞かれもしないのに自分と日野の関わりについて店の人に話をしてみる。相手にとって居心地の悪い距離感にならないよう気をつけながら、「なんだこの人?」と最初は思われるくらいのぶつかり方をわざとしてみると、案外すんなりと溶け込んで話が出来ることは多い。

ローカルの商業や文化を、単に金銭と引き換えに消費することで、いっときの気の慰みにすることをしたくはない。だから、わざと図々しく片足を突っ込んで話をしてみる。

日野での時間はまだまだある。図々しい滞在を続けてみたい。

要するに日野の人と仲良くなりたい。

2020/06/26

満田製茶 5日目 6月26日 / 青春

日野に来てから最初の金曜日となった。

今日も草とり。無農薬の現実はものすごく地味で淡々とした作業の連続だ。取って、トラックに積んで、藪に捨てる。その場に寝かしておかないのは、土に触れると再び根を生やして余計に殖えてしまうことがあるからだ。

久樹さんは、繰り返し言う。

「無農薬なんか、やるもんやない。こんなに往生こく(「大変」の意)ことは、人に勧められん。無農薬やからって高く売れるもんやないし。一緒にいて作業してたら、無農薬なんか生半可では無理なの分かるやろ。これが現実。今日草を取ったところに、最低でもあと3回は草とりのために来なあかん」

そのように言う本人は、30年ほど無農薬をやめていない。なぜそうしているのかを僕は知っている。(無農薬の農法を実践するにしても、様々な動機がある)

もちろん、農薬を使った農産物を避けることは個人の自由だ。そして、農薬や慣行農法に危険があるとすれば、それについて調べたり、発信することも自由だ。

でも、そこまで。せめて立ち止まって、農薬を使わないということが、現場でどのような状態を生んでいるかについて少しでも思いを巡らせてほしい。

農薬を使う農を揶揄することがあってはいけない。また、農薬を使う人が後ろめたさを感じるようなことがあってもならない。安全安心を求めようとする気持ちは、過剰になれば、誰かの安全安心を脅かす可能性がある。

有機肥料と化成肥料についても同じことが言えるかもしれない。

お茶は、おいしいから飲むものだ。無農薬だからおいしいとか、農薬を使っていると味が劣るとか、そのようなことは無い。

満田製茶は茶農家であると同時に、荒茶製造と仕上げ加工ができる工場を持つため、自園以外の原料を預かって委託加工を請け負う。それらをこなしつつ、体力と精神のすり減る問屋としての仕事もある。また地元では小売もする。すべてを、ひとつの屋号のもとに行っている。

最初から最後身体感覚で知っている茶業者が、全国にどれくらい居るのだろうか。酸いも甘いも知っていて、そして甘いことなどほとんどないと知っている業者が…。

そのような人が、時間と手間の非常にかかる無農薬栽培を行っている。端的に言って奇跡的だと思うし、そこで1ヶ月仕事をさせてもらえることは、生涯の宝物になるだろう。

それにしても、どのような農法であっても、志ある農業を実践する人々には感謝をするばかりだ。

午後は久樹さんの運転する4tトラックに同乗して、仕入れに同行することになった。どこの誰のもとにというのは内情に関わるので書かないが、それなりに遠いところだ。

まずはトラックに積んであった前日の仕入れを冷蔵庫に移す。満田製茶が借りている業務用の大型冷蔵庫だ。ひとつ30kgある袋をいくつも降ろして冷蔵庫へ。これひとつとっても、お茶のちょっと優雅なイメージが覆されるだろう。重い。

空になったトラックで軽快に走る。30年使っているそうだ。走行距離は18万kmを超えていた。

車内ではたいてい商売か食べ物の話。久樹さんと僕は食べ物の話になるととても話が合う。

僕が、インスタント麺が好きだという話をすると、久樹さんは「どれがおいしいと思うの」と聞いた。僕の答えは、「チキンラーメン」。

するとどうだろう!久樹さんは、僕がいくら彼の茶のよさを褒めちぎったとしてもやらないであろう晴れやかな笑みを浮かべた。「そうやんな。チキンラーメンうまいな!」そうして彼は満田流のレシピを教えてくれた。

そのまま自炊の話になる。

「岡村くん、料理すんの?」

「簡単なことなら。困らない程度には作ります。素材がいいと特に何もしなくてもうまいので大したことはしませんけど。そういえば、お茶を淹れるのってある種の料理やないですか。だから淹れるのがうまい人は、料理もうまいんとちゃうかって思うんですけど、どうでしょう」


「それは、ほんまにそう。ほんで、茶をブレンドするのも料理やね。茶を仕入れたら、僕はいつも『あれとこれを一緒にしたら、こんなふうになるやろな』とイメージしますねん。それをもとにブレンドする。だいたい思うように出来てる。昔、宇治の茶師からこの話を聞いたときは『何を言うてはるんやろう』て思ったけんど、今になってみればなるほど言うてはった通りやなと思うことがある。せやさかい、岡村くんもやったらええねん。オリジナルブレンド。」

「誰のお茶かわからんようになるやないですか。僕は、誰が何を考えて作ったのか話しをしたいんです。でもおもしろそうやし、遊びで個人的にやってみよかな」

「ふん」と久樹さんは小さく笑った。なんという頑固者だと思われたのなら、むしろ嬉しい。

仕入れ先に到着すると、集荷場でおっちゃんたちが待っていた。この人たちは一番茶期から休みなくぶっ通しで働き続けており、栽培、収穫、製茶工場の操業を共同でやっている。

みな年配の人たちだ。もうクタクタを通り越しているのが分かった。服は茶渋でボロボロだし、肌は真っ黒けに焼けているし、身体中が粉塵まみれだ。

それでもどこか達観したような爽やかさをたたえており、気持ちのよい人たちばかりだった。もっと話を聞きたかったけれど、もう工場をさっさと掃除して今日のところは帰って休みたいというのを久樹さんが感じ取って、早々に切り上げた。

「みんなええ人たちでしょ」と久樹さんは運転しながら言った。

労働者への底知れぬ尊敬と優しさがその言葉にはあった。自身もそれがよくわかる働き方をしているから、なおのことなのだ。

帰路の途中、「梅干マニア」を自認する久樹さんは農産物の直売所に立ち寄って梅干を買ってくれた。彼がおいしいと思うものなら大丈夫なのだ。僕たちは茶の好みも似ている。

「素朴で嫌味のない食べ物が、やっぱりええと思うねんけどな」というボソっと彼は言った。それこそ彼のつくるお茶の印象そのものでもある。

そして「岡村くんも素朴なものが好きというけれど、それはお母さんがちゃんとしたものを食べさせてくれたからなんやで。お母さんに感謝せなあかんよ」と付け加えた。僕が母を亡くしていることを彼は知っている。

油断すると泣きそうになった。


家に着いた。

久樹さんのお母さんが出迎えてくれて、「岡村さん、これ食べる?トンカツ揚げてんけど」といって袋を渡してくれた。そして「ペットボトルにヤカンのお茶足していき」といって、中身を捨てて自園の茶を注ぎ入れてくれる。

「家のご飯、恋しいでしょ」とお母さんが言う。「はい。家のご飯めっちゃおいしいんです。妻は料理がほんとに上手で。それにしても、今回の日野の滞在も許してくれて、妻に感謝しています」と答えた。

側で聞いていた久樹さん、「ほんまにええご家族や。感謝せなあかん」と言う。

ほんのちょっとずつ、満田家の日常に溶け込んでいくことに喜びを感じる。なんともいえない気持ちだ。ただただ嬉しい。

「じゃあ、また月曜日に。逃げずにちゃんと来ますからね」と言うと、「へへへ。」と久樹さんは返し、1週間が終わった。

カブはひたすらに軽快な走りをみせ、アパートへ向かう。ある交差点を左折したとき、空がぱっと晴れて真正面に燃えるような夕焼けが現れた。それは息を飲むような美しさで、同時にどこかもの哀しさも含んでいた。

すべてのものが有限だという思いが沸き起こって、哀しかった。満田製茶も僕の命も有限だ。限りのある時間のなかで、彼らの営みと重なり合うことができた運命の力を思う。

人の優しさにふれて胸がいっぱいになるのも、爽やかな労働の汗が風を受けて乾く気持ちよさも。僕が抱いているどんな気持ちも僕だけのもので、誰かにそのまま渡すことが出来ない。

でも変換して、誰かが自分の気持ちとして抱き直す手伝いをすることはできる。そうしなければと思うのは、やはり命に限りがあるからだ。

34歳の僕は、えも言われぬ美しさの夕焼けに向かって、真っ直ぐ言葉にならない気持ちをぶつけたくなった。かわりに、小さい声で「わぁ〜…」と言ってみた。

こういう気持ちは、初めてじゃあないと気がつく。それは10代のころ、嬉しいことがあったときと似ていた。好きな女の子と話をしたとか、その子が彼女になったとか、何かが切り拓かれていくときの感じだ。

もう終わったと思っていた青春が胸の底でずっとくすぶっていて、すくい上げて風通しをよくしてやれば、まだ瑞々しく輝いてくれることに気がついた。今日はその記念日だ。

また青春を生きている。

2020/06/25

日野 4日目 6月25日 / 狐草

満田製茶の期間限定社員として働くのも4日目。雨の予報だったけれど出勤時間は曇り。

8時きっかりに到着すると、久樹さんはすでに3種類の茶をテーブルの上に並べてそれを睨んでいる。

「おはようございます。岡村くん、こんなかで、ええ茶はどれやと思う」と抜き打ちテストが始まった。ちょっと待って。まだタイムカードを押して3分も経っていない。

10秒ほど考え、そのうちのひとつを指して「これです」と答えた。

久樹さんは「うん」と小さく言い、片方の口角だけちょっと上げる例の笑みを作る。正解だったようだ。

「ええ茶を見るのはほんまに難しいんです。10年かかる。10年かけて、たくさんのお茶を見続けるねん」

満田製茶は自園自製の茶をつくるのみならず、茶の問屋でもある。つまり生産者から入札で仕入れて小売店に販売している。僕はその会場に入ったことはないが、問屋と小売店がそこにやってくる。一番茶の入札は本当にピリピリしており、心の探り合いも多々あるそうだ。そのような状況のなかで、多数並ぶ見本を観察し、買いたいものに対して価格を提示する。最高額の提示者が落札する。

それは個人の嗜好を超えた価値判断だ。市場と世の中の複雑な動きを読み、なおかつ観察眼にもとづいた価格提示をする。僕がやっているお茶の選び方とは全く違う世界だ。

「茶をみる目がなかったら、騙される。狐が人を化かすことから、茶は狐草って言われるの。そういうもんやねん。茶は。」

そうして午前は草取りをすることになった。雨の降らないうちに外で出来る仕事をする。

黙々とやり続ける。ショートカットはない。久樹さんとお父さんの草の取り方を観察していると、少しやり方が違うことに気がついた。それを考えながら昼休憩に入るとき、久樹さんが言った。

「こういう根気のいる草取りみたいな仕事のやり方には、人間が出る。取ったあとを見たら、一発でわかるねん。ああ、こういう人やねんなって。草とりが1番分かりやすい」

そして彼は軽トラックのハンドルをさばきつつ、横目で僕を見た。震え上がった。今のは一般論か?それとも?

久樹さんは、仕事のやり方や、茶の出来具合をみて、その人物の内面を見抜く眼の落ち主だ。この人の前ではあらゆるごまかしが効かないと僕は心に命じた。

今日はお父さんとお茶を飲みながら2人で話をするチャンスがあり、そこで興味深い話を聞いた。

戦時中、日野出身の陸軍連隊長と連隊副長がいた。隊長はあるとき直撃弾で命を落としたが、副長は戦後も日野で商売を営み平和に暮らしたそうだ。

元副長がお父さんのもとを訪ね世間話をするなかで、お父さんは何気なく連隊長の名を出した。すると元副長は突然シャキッと居直って直立し、戦後数十年も経っていたにも関わらず、隊長の名を最敬礼のニュアンスを込めて呼んだそうだ。

戦争が彼の心に染みついているのだ。

午後、久樹さんと僕はトラックに乗って仕入れ先に向かった。

車中、彼は商売をすることについて自らの経験からあらゆるアドバイスを授けてくれた。しかし満田製茶と僕の事業は、物量がかけ離れており、気の遠くなるような数字がたびたび登場する。

そこで正直に言った。

「規模が違いすぎて、頭が付いていきません。でも、久樹さんのところのように一定の物量でお茶を動かせるところがあるからこそ、産業としてやっていけるんですね。僕のような小さな事業者にはそのような役割は果たせない。一度の仕入れで多くても10kgですよ」

久樹さんはこう応えた。

「でもね、岡村くんが出入りして、報われる人がおるねん。ウチもそう。ウチの無農薬の在来が好いって言って、買いに来てくれる。やり甲斐があります」

その言葉にどれだけ救われる気持ちがしたか。こんなに素直に言葉にしてくれる人と出会えて、本当によかったと思う。

何があってもこの人のお茶、というかこの人のことを、きちんと紹介し続けなければならないと誓う。何のために?それはうまく言葉にならない。でも、そうしなければならないという強烈な衝動を感じる。

重たいお茶の積み下ろしを終えて、久樹さんと僕は彼が落札した茶を並べて鑑定することになった。

5種類の煎茶が登場する。

やな予感がした直後に、また久樹さんが言った。

「どれがええ茶やと思う」

もう迷わずに直感で僕は答えた。

「特においしそうに思えるのはこれ。その次がこれ。佇まいに力があるし、光の照り返しも綺麗。それから、これだけはおいしそうに見えない。痩せてる。でも、これは直感ですよ。」

久樹さんは頷いて応えた。

「その感覚は大事にしたほうがええ。お茶屋さんでもな、他の人が『これがいい』って言うと、あとの人が釣られるようにして同じ茶を『いい』と言うことがよくあるから」

次に湯を注いで香りを確かめ、さらに実際に飲む。

「どう思う」とまた聞かれたので、思うことを遠慮なしに全部言った。たとえそれらすべてが、満田製茶が落札した茶であるとしても、遠慮せずに全て表現した。

そのあと久樹さんの空気が変わって、それらを売る問屋として茶を見、集中する時間が続いた。しかし長くは続かなかった。彼は、よし、と言うとマジックで何やら見本の袋に書き込んだ。それは見てはならないような気がしたので僕は目を逸らした。

次に彼が持ってきたのは、ある産地のお茶2種だった。そこの土地のお茶は、それとわかる風格に満ちている。いずれも旨味を主体としつつも、産地ならではの独特の香りを持つ。

聞かれる前に僕は言った。

「右のほうが、ええ茶」

「一般的には左のほうがええ茶。ちょっと両方飲んでみよか」

「(両方飲んで)どっちも好きではないです。ベロで感じる味は豊かですが、身体に入ってからがすごくしんどい。さっきの5種ではたくさん飲んでもそれを感じなかったのに、この2種はちょっと飲むだけで胸が締まります。でも右のほうがまだマシ」

「一般には左がええ茶なんやけんど、岡村くんの価値基準では右。だから、さっき右と答えたのはある意味間違いやし、ある意味正解」

「…市場の価値が、やっぱりよくわかりません」

そのあと僕たちは再製工場で作業をした。ある生産者から預けられた茶葉を「柳」と呼ばれる状態に加工するものだ。本当にここは、何でもやる場所なのだ。茶業の百科事典のようだ。

機器の使い方を教えてもらう。いつの間にか久樹さんは居なくなって、僕はほったらかしになった。それでも何とかなった。よかった。

5時にあがってアパートに帰って夕食を済ますと、久樹さんからもらった今年の新茶(在来種とやぶきた種)を忘れてきたことに気がついた。7時半、またバイクを飛ばして事務所へ向かうと寝巻きの久樹さんが出てきた。

アパートに戻って新茶を淹れて飲んでみた。

まだ4日目だが、その風味がどれほどの手間の結果出来上がっているかを改めてひとつひとつ体験していることもあり、感動するくらいにおいしかった。本当においしいときには心が震える。理屈は関係ない。

明日は金曜日。週末はフリーになるので予定を立てるのが楽しみだ。

2020/06/24

日野 3日目 6月24日

日野町での仕事は3日目になった。

炊き過ぎたご飯と作り過ぎた味噌汁の残りを温めたもの、生野菜、ぬか漬け、キウイを朝に食べた。昨夜買っておいたバナナを思い出してそれも頬張る。緑茶を3煎。いつもの倍ぐらいお腹に入れている。

8時前に家を出て、5分ほどで満田製茶に到着する。通勤ルートにも慣れた。道ゆく車はみな市街の方へ向かうが、僕だけ町の奥へと進む。地元の子どもたちが登校している。

乾いた空気が気持ちいい。今日は何をするのだろう。

作業はまず昨日の続きから。草とり。かがみ込んで、茶の樹の根本あたりから出ているのを引き抜く。半分くらいは芋の蔓だから、ときどき根の小さい芋ごと出てくる。

抜いた草をまとめて袋に入れ、満田家の裏にある藪に捨てる。黙々とした作業だ。

茶の畝の中はこんなふうになっている。ここに手を突っ込んで蔓を引く。

除草剤を使うのをやめてからおよそ30年、満田家はこの作業を続けてきたのだ。人知れず。「ヤブガラシが出現したのは近年になってからだけれど、芋の蔓は昔からずっとある」とお父さんが言う。

休憩どき、パートのKさんから「どうしてお茶屋になろうと思ったんですか?」と尋ねられた。僕は祖父の話をした。

久樹さんは「公務員やっとけばよかったのに。僕やったらそのまま公務員するわ」と訪ねるたびに僕に放つ言葉を今日も言った。彼は本当にそう思っている。でも、辞めるのを引き止めた茶の素人が、本当に辞めて自営業者になった。それならきちんと勉強しないといけないと思い、栽培・荒茶製造・仕上げ作業・問屋業をすべて行っている自らの職場に、こうして呼んでくれている。

昼食まで草とりは続いた。

昼、昨日より大きな茶碗でご飯を出してくれた。きちんと働いて、ただの穀潰しにならないようにしなくちゃ。食後は体力回復のために昼寝した。

昼からは、昨日久樹さんが仕入れてきた大量の番茶を加工場に積み上げる。ひとつ15kgある袋を4段くらいに積むのだが、積み方にもいろいろある。スーパーで青果担当のバイトをしていたとき、朝早くにトラックで運び込まれる野菜と果物をうず高く積んで搬入したことを思い出した。一度キュウリをひっくり返して怒られた。もう10年以上前のこと。

それからフォークリフトを使い、別のお茶の山を倉庫へ運ぶことになった。「やってみる?」と言われたので、間髪入れず「やります」と答えた。初めて運転するフォークリフトは、僕にはさながら、農業テーマパークのアトラクションのようだ。

運転中、近くの道を警察が通った。何も悪いことをしていないのに、あまりにも拙いフォークリフトの運転をするので、意味もなくびくびくした。

どうにかこうにか教官の指示のもと、「フォークリフト初任研修」は及第点をもらえたようだ。

次の作業は、お茶の火入れだ。久樹さんが入札で買ってきた荒茶を選別したものを、ガス火で熱した空気により乾燥を行い、保存性を高める。

この作業ひとつとっても、安全に工程をこなすための細かい手順がたくさんある。作業前の清掃、ガス栓の開閉、火入れ機各部の電源オン(7つもある!)など。そのうちいくつかは、忘れると火災を招く危険性もあるから気が抜けない。当たり前かもしれないけれど、それらひとつひとつをちゃきちゃき進める農家の姿は格好いい。

久樹さんは、単に職場見学をさせてくれているのではなくて、いつか本当にこの作業をさせるつもりで教えてくれているのだ。

合間に、久樹さんはお茶をみる目の話をした。「岡村くんが好んでいるお茶は、一般には特殊なもの。もっと一般的なものをたくさん見て、広い視点を身につけなあかん。そうすることで、自分が求めているものをはっきりと他と区別できるようになるんやから」

僕は尋ねた。「入札で仕入れるお茶をみるとき、個人的な嗜好はいったん脇においてるんですか」

彼はこんな風に答えた。「プロやから。でも、個人的にどことなく惹かれるものがときどきあるねんな。それは理屈でうまく言われへん。」

「自園のお茶はどう思いますか」

「家のお茶をずっと飲み続けとったら、正直、他のはなかなか飲まれんね。すっきりしてる。嫌みがないっちゅうか。なんでそういう味になるんやろかと思うけど。何が他と違うんやろうか。わからん」

「なんででしょうね。そういえば僕のお客さんのなかに、『緑茶を飲まへんウチの子どもが、これやったら飲む』といって満田さんのお茶、買ってくれる人がいますよ。満田さんとこのお子さん2人は、家のお茶についてどう言わはるんですか」

「淹れるときにいちいち『ウチの茶』とか言うてへん。でもたまに違うのを淹れて出すと、『これ何か違うけど』って言いよる。やっぱり、子どもっていうのは、分かるねんな」

再び午後の休憩になった。お父さんも一緒だ。

聞けば満田家の周辺では、3世代同じ家で暮らしているのはここが唯一なのだという。信じられへん、と久樹さん。お父さんが子どものころ、この家には9人が賑やかに暮らしたそうだ。「今では6人になってちょっと寂しいけど」とお父さん。都会の人間からしたら、3世代6人ってかなり多いですよと僕は言った。

「何で離れて暮らすんやろ。けんど(でも)、遠慮は多いよ。けんかやってせなあかんし」と言う久樹さんに、お父さんは「その遠慮というのが、ええねんやんか」と言った。

僕もそのような暮らしができないか父と話をしたことがある。しかし父にそのような気はないようだと僕が言うと、久樹さんは、「岡村くんのお父さんやもん。頑固なんやろ。岡村くん見てたらわかるわ」と言って笑った。

「岡村くん、なんでお父さんの電気工事を継がへんの」

「いや、僕は小さいうちから『継ぐな』と言われて育ったんです」

「えっ。そうなん。お父さん、偉いわ…」

「結局サラリーマンを経て、同じように自営業になりましたけど」

「…」

そこでお父さんも口を挟んだ。

「都会では勤めに出て、ストレスの多い人がたくさんいはるでしょう。以前、知人の付き添いで神経系の診療に行ったことがある。待ち合いで周りを見ていると、岡村さんより若いくらいの人たちが次から次へと診察室に吸い込まれてました。僕の若いころには、そんなことは無かったように思うけど」

久樹さんも言った。「僕のかかりつけの医者も言うてはる。『満田さん、世の中どうかしてるで』て」

お父さんは、「うちらはストレスてあんまり無いかな」と言うと、久樹さんは「ストレスしかないけど」と笑っている。

笑ってはいるが、それはたぶん本心だ。いいお茶をつくって、そして食っていくのは、それはそれは大変なことなのだ。

帰りがけに久樹さんは、「問屋もやって、自園があり製造もするなんて、そうそうない。うちに来るなら何でもやらなあかん。そのぶん勉強してもらえると思いますわ」と言った。

「茶は、ストレスしかない」と言ったのと同じ人物がそのように言うとき、確かな経験と技術と勘に裏打ちされている自信がちらりと垣間見える。

ちょっとだけ片方の口角が上がるのは、自信を見せるときの彼の癖だ。

そういうときの彼は、手の届かない高みにいるように見えるけれど、その手の内を何も隠さずに教えようとしてくれてもいる。

「素直な気持ちで何でも受け止めなあかんねん」と彼は言う。ここでの学びにおいて、僕がこれまでに頭に入れてきたことはいったん脇に置くべくだと今日は思った。

ふと彼の有り様が、数奇なことから出会うことになった、老茶を人知れず扱う台湾の老師に重なった。老師は鶯歌の店でこう言った。

「ここに来るのは、心に余白のある人。それがなければ人は自分の知識をひけらかすばかりで、何かを学びとる余裕が一切なく、成長できないのです」

やっぱり、そういうことなのだ。

夕食の素麺をツルツル食べながら思った。

今日も眠たい。

2020/06/23

2日目

いよいよ今日から満田久樹さんのところで仕事が始まった。

6時に目を覚ましてゆっくり朝食をとり、8時の始業にあわせてアパートから満田さんのところへ向かう。文句なしの晴天。通勤ルートは日野の昔ながらの商店街で、旧家がたくさん立ち並ぶ。

よろしくお願いします、と久樹さん。「じゃあ早速やけんど」と手袋と大きな紙袋を手渡され、家の前にある茶畑で草引きにとりかかる。

※改めて紹介すると、ここ満田製茶は久樹さんの祖父が開業し、その途中で無農薬に転換。およそ30年が経過している。また自園自製のお茶だけではなく、祖父の代まで続けていた陶器屋の稼業のノウハウを糧に、茶問屋としての業務も行っている。

除草剤を使わないので草がよく生える。やっかいなのは笹と蔓植物だ。笹は簡単に引き抜けない。蔓は茶の樹にからみつきながら伸びているのでとりづらい。

とりわけ満田製茶をここ数年悩ませているのは、ヤブガラシという名前も恐ろしげな蔓植物だ。これが茶の根本から伸び、畝の上に這い回っている。

まず表面の蔓をばりばりと剥がし、次にかがみ込んで地際から引き抜く。ヤブガラシは地下茎が地中に広がっているので引き抜くだけでは根絶できないが、範囲が広いのでひとつひとつ処理することはできない。地表面にあるものを取り続ける。

かがむと、背中に後ろの畝の枝が刺さる。

それを淡々とやり続ける。

ところで日野は町長選挙が近いため、候補者が街宣車で走っていて、中身のないこと(ごめんなさい)を大きな音で放送している。端的に言ってうるさいが、ばりばりと蔓を剥ぐだけの作業にとって気晴らしになる。

途中、久樹さんが「これ」といって冷えたお茶のペットボトルを持ってきてくれた。そのへんに売っているやつだ。すでに滝のように汗をかいて水分を失っていた僕は、どんな高価なお茶よりもそのペットボトルの茶がうまいと思った。

風が吹いて、通気性のいい長袖が吸った汗を冷やす。

10時に休憩となった。事務所で菓子とお茶を飲む。仕上げ加工の一部を省いた荒茶をやかんで煎じて井戸水で冷やしたものだ。夏に満田製茶を訪ねる人はこの1杯にありつけるかもしれない。僕はこのお茶に出会って、「日野荒茶」を販売させていただくようになった。いまでは看板商品だ。

久樹さんは入札のため出かけており、ご両親とパートのNさんと休憩する。お母さんは物腰のはっきりした女性で、お父さんは眼差しの深い老練な語り口の人物だ。ご家族と話ができるのは何ともうれしい。そこで交わされる話の多くは販売の際の売り文句のもとになるものではなく、あくまでも何でもない会話だ。僕と彼らの間柄のことだ。

お父さんが、ここの在来種のはじまりについて話してくれた。

「父親が滋賀の長浜や京都の宇治の種苗屋から種を仕入れてきてね。牛に畑を耕させて、そのあとからついて種を播いとった。僕が小学生のときやった。当時は在来種が当たり前やったよ。戦争のあと食料難ということで収穫量が多いやぶきた種が奨励されたけんど、僕は在来の方が好きやね。やぶきたもおいしいけども…」。

お父さんも久樹さんと同じくして在来が好きなのだ。

しかしお父さんは久樹さんに茶業の主導権を譲るときに「やぶきたに植え替えようか」と提案していたことを、飯田辰彦さんのリポートでかつて読んだ。様々な理由があって在来種は商業的に不利であることをお父さんはわかっていたからだ。(在来種の流通が現在では非常に少ないことがそれを物語っている)

久樹さんはその提案を拒否した。そして今もおじいさんが育てた在来種は健在なのだ。

お父さんは、ほっと安心するとともに、前途を心配したかもしれない。親子の心の機微を感じるような話だ。

休憩を終えると、お母さんは僕の持っていたペットボトルを指して「それ美味しくないでしょ。捨てて、やかんのお茶を移してあげる」と言ってくれた。

12時に仕出の弁当と味噌汁をいただき、少しだけあたりを散歩してからソファでうとうとした。事務所に入ってくる風が例えようもなく気持ちよく、家族はどうしているだろうと考えながらまどろんだ。

昼、草引きを続ける。どんどんと気温が上がり、ゴム手袋のなかに汗がたまっているのがわかった。脱ぐと汗がどばっと落ち、自分でもびっくりするくらいだった。生まれたばかりの赤ちゃんみたいに手がふやけている。

午後3時ごろ、日照のピークだ。こうなると何も考えることが無くなり、無言の草引きマシーンになった。草にしてみれば僕はターミネイターだった。

あれやこれやといつも小難しいことを考えたりするのは、結局のところ余裕があるからだ。こうして農作業をしていると、理屈などどうでもよくなってくる。そしてそのような精神状態に置かれることを僕は有り難いと思った。汗と手袋と草だけの世界に没入する。

再び休憩となり、ミニサイズのスーパーカップが配られた。無茶な動き方をすればたちまち熱中症になりそうな僕にとって、最早それはカロリーを補給できる食用保冷剤だった。

それから僕は久樹さんの運転するトラックに同乗して、茶の仕入れにご一緒することになった。とある製茶場まで運転すること1時間くらい。車中、久樹さんとあれやこれやと話をする。

彼は理屈も大切にする人だが、素直な感覚をもっと大事にする人だ。「理屈だけではあかんねん。素直な気持ちで向き合って、お茶を見られるようにならなあかんよ」と彼は言う。

到着すると、そこには数百キロの番茶が用意してあり、それを2人で積み込んだ4トントラックは満載になった。急に使った肩が悲鳴を上げた。

帰着したのは6時半。カブに乗ってアパートに帰り、塩分の多い食事を摂った。味噌汁、塩鯖、糠漬け。塩分控えめがもてはやされる時代だけれども、いまはそのときではないと身体が言っている。

食後、爪切りがないので平和堂に買いに行く。それから98円のバナナを朝食の足しにするために買った。ほとんど往来のない通りをトトトと走り、電池が切れかけの身体に鞭打って、この記事を書いている。

寝ろ、寝ろ、寝ろ、明日もあるから

とまぶたが言う。

ちょっと待って、この生活を記録しておきたいから。そしてお客さんたちにこの空気の1%でもいいから感じてほしいから。

どこまで伝わるかはわからない。お茶の好きな男が汗を書くだけの話に誰が共感するだろうか?でもそれをやめてはいけない。言い続けるのだ。言葉の先は空虚か、それとも誰かの聞き耳か。

窓の外ではカエルが命を尽くしての鳴き声をあげている。彼らには今しかないからだ。

それは僕とて同じだと思うと、カエルが同志のような気持ちになってきた。

2020/06/22

出稼ぎ始まる

今日から、滋賀県日野町で約1ヶ月の生活が始まった。

「6月くらいにですね、1ヶ月くらいこっちの仕事の手伝いを頼めませんか」と満田さんから電話があったときは、まだ春だった。満田さんは当店ではもうお馴染み。日野荒茶・日野焙じ茶・粉末緑茶の生産者だ。

家族に相談させてくださいと答えはしたものの、心の中ではすでに荷造りを思い描いた。まるで遠足前の子どもみたい。でも、これは仕事だ。それでもそんな気分になれる仕事って何て素晴らしいのだろうと思う。

仕事とそれ以外の境界が限りなく見えにくい。僕はそれでいい。いろいろ折り合いはつけながらだけど、心の向かおうとする方向になるべく素直に生きている。オンもオフもない。

さて今回の研修、というか出稼ぎは、「満田茶」のできるプロセスの一部を、そして生産者がどういう顔をして、何を考えながら働いているのかを間近で見続けることのできるまたとないチャンス。雇い入れていただけることになったので、金銭的にも安心できる。

妻に相談をした。彼女は「それなら行ってこい」と即答してくれた。このような機会がどれほど私の仕事に大切であるか、そしてリアルな言い方をすれば、生産への理解がいかに稼ぎに直結するかを理解してくれているからだ。

僕は、彼女がパートナーで居てくれることを誇りに思う。

月日の流れるのは早く、必要な荷物を事前に送り、そして出発の日、つまり今日を迎えた。幼稚園へ登園する娘を見送るまでに何度抱きしめたか分からない。彼女の誕生以来、こんなに離れるのは初めてなので寂しい。

「これを持っていっていいよ」と、今までに彼女の描いたものの中からお気に入りをいくつか選んでくれたので、鞄に忍ばせる。こちらの生活でのお守りだ。これは根っこのしっかりした茶の樹の絵。

息子はまだまだおしゃべりが始まった段階。しばらく僕が居なくなるということをたぶん分かっておらず、元気にいつもどおりはしゃぎ回っていた。娘には後ろ髪引かれるけれど、息子のあっけらかんとしたその有り様には、むしろ救われる思いがする。

滞在中は土日が休みなので周辺の気になる場所を訪ねてみたいこともあり、小回りのきく買ったばかりのスーパーカブで行ってみることにした。

同棲していたときからの習慣で、家を出るときに妻と小さいキスをする。言葉にならない信頼を交換する。

真新しいスーパーカブは「任せなさい!」と軽快に走る。京滋バイパス沿いにトトトと進み、たくさんの大型車両に抜かされ風圧に怯えつつ、あっという間に宇治市に入った。

茶どころとしての宇治が長年お茶を支えてきた。僕も日本茶にはまった当初、たくさんの宇治茶に接した。そして先人たちの営みが形作ったお茶の行く末のほんの小さな支流を、僕が担っている。そのことに感謝しつつ、どこにも停車せず宇治川沿いの山道を進む。

天ヶ瀬ダム。思わず停車し、無言で自然に抗っているダムを見やる。10年以上ぶりだった。ここは、実家で長く使っていたトヨタの「ルシーダ」という丸い車を買い換える日に、家族で最後のドライブをしたときの目的地だった。

その帰り道。地元のトヨタにルシーダを預けてさようならをする直前に、車内でMr.Childrenの楽曲を聴いた母親は泣いていた。あまりにも多くの家族の思い出を積んだ車だったからだ。楽しいことも、つらかったことも。

すべてのものに心が宿ると僕の親は信じていた。車にも心があった。

ルシーダばかりではなく、母親ももう居ない。居ない車、居ない人のことばかりが胸を埋め、旅の目的も忘れる。

僕のちょっとつらい気持ちを推し量って、カブの足取りが重くなった。50ccの原動機付自転車が山道の傾斜に苦戦しているだけだと言う人もあろう。それは違う。全てのものには心が宿るからだ。お母さん、そうだろう?

宇治田原を抜けた先に開けた景色は、朝宮の茶畑だ。

なんでもないような、とある道路脇のポケットのような停車スペースを通り過ぎた。ここはもう何年も前に、僕が車の中から北田耕平さんに電話をかけた場所だ。「もしもし、北田さんのことを本で読み、朝宮に来ました。いま実は近くにいます…」。その1本の電話が、茶農家との最初のコンタクトだった。

それから何年かして、僕は日野の茶農家のところでしばらく働くために朝宮を通り過ぎることになった。感慨が体を突き抜ける。

宇治、天ヶ瀬ダム、朝宮。過去を回想するようなドライブだ。

カブはそこから調子を取り戻し、軽快に走った。水口、そして日野町へと一気に山を駆け下りていく。カブにも心があるからだ。「もたもたすんな、目の前のことだけ見てろ!」

やがて日野の旧道の先に、満田製茶の看板が見えた。軒先には奥さんがいてしばらく話をする。やがて作業着の久樹さんが出てきた。「なんか痩せはった?」と聞かれたが、どちらかというと体重は少し増えている。

あらかじめ送っておいた荷物や、滞在中に貸してもらう炊飯器と掃除機を久樹さんのバンに積み込み、厄介になるアパートへ案内してもらった。

無機質な屋内と対照的な散らかり具合の我が家を思い出し、少し悲しくなる。そこで感傷を蹴散らかす、mumokutekiからの電話が鳴った。へたれの僕には最高のタイミングだ。Kさん有難う。

自炊するので近くの平和堂に買い出しに行く。地場野菜がいくつか並んでいるのを手に取り、最低限の調味料、肉、魚、卵を買った。馴染みのないスーパーは楽しい。

書店もあったので覗いたが、これと思うものを今日は見つけられなかった。買っても、疲れからきっと今日は読めないだろう。

シャワーを浴び、夕食を作って食べた。味噌汁もおかずも、ばかみたいな量をつくってしまった。米もばかみたいにたくさん炊いてしまった。

洗濯物を干した。4人分ないのでとてつもなく少なく感じる。子どもの小さいパンツを干すときに感じるチクリとした感傷もやってこない。

テレビがあるのでしばらく点けたが、どうにもつまらなくて消した。そしてこの記事を書いている。

僕は2008年にカナダのバンクーバーで留学生活を送っていた。行きたいと言ったのは自分なのに、フィリピンから来たというホストファミリーの家で一眠りして夕方に目覚めたとき、「なんでこんなところに来てしまったのだろう」と強い後悔を感じた。家族が恋しかった。当時すでに付き合っていた今の妻が恋しかった。

今夜眠りこけて明日の朝に目覚めたとき、またあのときのような気持ちが胸にやってこないか不安になる。満田さんに頼まれ、願ってもないことと歓喜してやってきたのは自分なのに。それにここはカナダではなく、大阪なんかすぐ近くの滋賀県だ。

自分はそういう人間なのだ。そこに居ない愛する人のことばかり考えてしまう。でもそんな気持ちは、日が登れば忙しさに霧散するに違いない。

...

お茶を売ったり、出稼ぎしたり、いったい君は何を目指しているのだという人もあろう。そんなこと知らないよ、というのが僕の答えだ。

大河に浮かんだ小さい葉っぱみたいに、どんぶらこと運ばれていくのを楽しんでいるんだ。