日曜日も休暇なので、終日、日野町の各所を散策した。
今日は少し趣を変えて、日野の話ではなく「おいしいお茶」のこと。個人のFacebookアカウントで午前に書いたことを少し膨らませてみる。
まずご一考いただきたいのだけれども、「おいしいお茶」ってどんなお茶だろう。誰かがそう言っているという価値基準ではなく、あなたが思っている「おいしいお茶」。
答えは何通りでもありそうだし、どれも間違いではないと思う。誰かの入れ知恵ではなく、あなた個人の感覚である限りは。
おいしいお茶って何だろうと改めて考えていると、スーパーにこんな商品が並んでいるのを見つけた。
まず最初に断っておきたいのは、僕はこういうものを頭ごなしに非難するつもりはない。「無添加 自然派」をアピールしたり、これを好んで飲む人を否定したりする意図もない。
ただ、僕の個人的な嗜好からすると、飲むと吐きそうになることがある。
それでも、ちょっと立ち止まって見つめてみよう。「添加物!!」と脊髄反射的に反応せず。
ふつう、お茶の原材料には「緑茶」などと書いてある。フレーバードティーでなければ、殆どの場合はそれだけだ。本当に、それしか入っていない。周辺の藪から飛んできた笹や杉の葉が混入することがあるけれど、完全に除去するのは難しい。
ときに「濁り」とか濃い目の味付けを意図するときには、「抹茶」が付け加わっている。抹茶入り玄米茶などがよく売られている。
しかし、この商品にはそれに加えて、「固形茶」というものが使われている。粉末緑茶+でんぷん+青海苔からなるもので、どうやら粉末茶と青海苔を固めて伸ばし、煎茶のような見た目にしたもののようだ。
さらには調味料(アミノ酸)として添加されているのが、恐らくグルタミン酸ナトリウムだと思う。
青海苔は何のため?
それはきっと、玉露やかぶせ茶といった茶種独特の栽培に由来する「ジメチルスルフィド」という化学成分のにおいを再現するためだ。磯のにおいを思わせる。そのためにわざわざ手間をかけて「固形茶」なるものが製造されし、必要な業者はこれを仕入れて混ぜる。
アミノ酸は何のため?
アミノ酸はどこにでもある旨味調味料で、加工食品の多くに添加されている。お茶は添加しなくてもアミノ酸を合成する植物で、玉露やかぶせ茶、それに一部の「高級煎茶」や茎の部分には特に多く含まれる。
それなのにどうして添加しているのかといえば、原料の緑茶にあまり含まれておらず、それが欠点として認識されているから。下級原料の欠点を補わんとするために、わざわざアミノ酸を仕入れて添加している。もっと言えば、本来は熱湯で淹れると他の成分とのバランスの中で感じにくくなるはずの旨味が、添加した茶なら感じられるという側面もある。
こうして海苔とアミノ酸により、一般に「高級」とされるお茶特有の香りと旨味を再現することができる。加えて抹茶が味に厚みを持たせ、視覚的にも緑の強いリッチな雰囲気の商品ができるということだ。
このような商品を通じてわかることがある。
ひとつ目。一般に何が高級だとされているのか。玉露などに特有のキャラクターは、高級品の証なのだ。それがなければ、ランクダウンする。
ふたつ目。高級とか下級とかは、あなたの嗜好とは一切関係ないところで決められているということ。
もちろん、このような茶を好む人もいる。だから販売している。
あるとき初対面の女性が、似たような商品の空袋を持って「これ、ありませんか」と訪ねてきたことがある。
僕はないと答えてから「失礼ですが、だいたい幾らで購入したのですか」と聞いた。するとその女性は、100gで5000円くらいしたと答えた。目を覆わんばかりの、申し分ないボッタクリだと思う。
その値段で売れるのだから何が悪い、と業者は言うだろう。でも、売れるならいくらで売ってもいいのか。これは人としての信条の問題だ。
一方、この商品を求めた女性を否定してはいけない。自説をぶつようなことはしなかった。それは、この人の好みだからだ。「そんなものを飲んでいるようでは…」だなんてもし思うことがあったとしたら、いつかしっぺ返しが飛んでくるし、それ以上の学びは望めないだろう。
しかし女性は残念そうに去っていった。今でも個人的に心残りのある出来事だ。
…
「素材がシンプルで、おいしい食品」に似せたものが売られているのは何もお茶だけではない。たとえば調味料の全般にみられる。市販の味噌や梅干しもそうだ。
日本は、そのようなものを開発するのに莫大な開発費をかけて工夫することに長けた、器用な国だと言ってもいいのかもしれない。1億人以上も人がいるのに、その人々がみな都市に住みながらも添加物の少ない食品にありつこうとするのには無理があるかもしれない。
だから大量生産を悪者扱いしてはいけない。農薬も、化成肥料も。
たいていの場合、生活は大量生産の恩恵にあずかる他ないのだと思う。そしてもちろん今のところ、他国の人が耕してくれる他国の土壌がなければ成り立たない。これを資本にものを言わせた「仮想の国土」と言ってよければ、日本は実際の国土よりもかなり広い面積を支配していることになる。
日本が帝国を名乗った時代と、結果的には似たようなことをしている場合はないだろうか?
と、話が逸れてしまったけれど、とにかく市場規模がものすごく大きい以上、昔ながらのものを当たり前に入手するのは簡単ではない時代。
自分で生産するか、お金をたくさん出すか、巨大なマーケットから足を洗って活動している業者から入手するかだ。
それに加えて、多くの人の嗜好からかけ離れつつあるものを、ときに「高級」と銘打って販売したり、それと偽って別物を売ったりする時代だ。
お茶だってそうだ。高級かどうかは口にする人が決めたらいいし、値段の高い安いはあまり関係ない。「目利き」の芸能人に高級品と下級品を鑑定させて遊んでいるテレビ番組があるけれど、そういうやり方には我慢ならない。
安い番茶をおいしいと思う。それならそれでいいじゃないか。でも一歩進んで、なぜそんなに安いのか、問題はないのかと考えてあげることも必要だ。
市場規模と、人の嗜好を左右しようと躍起になる業界を前にして、それでも自分のからだの感覚とこころを総動員し「おいしい」と思うものを探すのは大変に思われる。でもそれは舌が肥えていなければならないと考えるからだ。もちろん、そんな必要はない。
僕も同じようにもがいて、次から次へとお茶を試しながら気づくことがあった。それは結局商品そのものではなく、人なのだ。
誰がどんなことを考えてつくったのか。どんな人なのか。どこに住んでいて、どんな暮らしをしているのか。そしてあなたは、それらのどこに共鳴する思いを感じるか。
さもなければ人は、ただのグルメ評論家になってしまう。これでは人に感謝することがなくなるだろう。
「おいしいもの」は、人をみて決めるものだと、僕は今のところ考えている。
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