2022/05/22

新茶製造見学ツアー

 


2022/5/21

九州から帰るや否や、急いでサンプルを何度も試飲した。感情を抜きにして、自分のものさしだけを頼りにお茶を見るのは困難な作業だが、試される時間でもある。

感情と情景が何度も割って入ってこようとする。それは悪いことではないが、流されてはならないと心に決めてお茶をみる。直感を大切に、かつじっくりと。ひとまず納得のいく拝見ができたように思う。

そうして休む間もなく、今度は東へ向かう準備だ。

滋賀・日野の満田さんのところは在来種の摘み取りと新茶製造の最盛期をちょうど迎えている。きのう21日は11名のお客さまをお連れして茶畑と荒茶工場・再製工場の見学ツアーへ。

これだけたくさんの方をお連れするのは初めてのことだった。

「色々とお気遣いなく。邪魔にならないよう見学させていただきます」と言ったものの、そうは問屋が卸さないのが満田流で、案の定きっちりともてなしの用意がなされてあった。(実際、満田製茶は問屋でもある!)

久樹さん、「おおきに」といつものお出迎えをしてくれた。いつも綺麗な工場だが、この日はとりわけ念を入れて掃除をしてくれたのだなと分かる清らかさ。今を生きる日野商人である。

2年前、1ヶ月をここで過ごして一緒に働いたことが思い出される。

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さて応接室と工場を通り抜け、まずは茶畑へ。まだ摘んでいない一角へ皆さんをお連れした。初めてお茶畑を見たという方が多く、皆さん矢継ぎ早の勢いで質問を飛ばしてくださる。未知の世界を少しずつ押しやり、知っている領域が増えていく感じ。みずみずしく新鮮で、皆さんのわくわくが静電気みたいに伝わってくるのだった。



次いで一行は荒茶製造工場へ。蒸し・揉み込み・乾燥を経て、一定の水分が抜けてしばらくは保存ができる荒茶をつくる工程だ。お茶づくりというと優雅なイメージがありがちだが、現実は危険な大型機械がたくさん稼働する現場が主であることを見てもらえるだけでも価値がある。

小休止を挟んで、再製工場へ。ここでは選別と火入れによる仕上げ工程が行われ、ちょうど和歌山から助太刀に来ていた屈強青年N氏が懇切丁寧に、かつダイナミックに説明くださる。

その後は摘採機を実際に持ってみたり、荒茶製造の工程をじっくり見学したりと、好き好きにお茶の最前線を味わっていただいた。気がつけば4時間程度滞在しており、最盛期にも関わらず落ち着いて応対くださった満田家の皆さんには本当に頭が上がらない。

それぞれにきっと、お茶、そして携わる人に対する感慨を持ち帰り、育んでくれるにちがいない。

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いつものように満田さん達、心からの見送りをしてくださる。しかし今回、僕はお客さんと話すのに夢中になり、ずっと動かずこちらを見送ってくれている満田家に気が付かなかった。

同行したHさんが、あとから教えてくれた。「満田さん、ずっと見てくださっていましたよ」

あちゃー、しまったな。振り返るのすら忘れていたな。でも今回は、様々な世代の方を団体で連れて行くことができた。その団体を見つめる満田家の皆さんの胸に、いったいどのような気持ちが残っただろうか。

あなたのお茶のことが好きで、知りたくて、応援したい人がまだまだたくさんいるということ。その一端を感慨という置き土産にできたなら、今回のツアーは成功だったと言っていいと思う。

少なくとも僕は、いつもとは少し違う感情のままに帰路についた。いつもは、寂しくなる。でも今回、希望が、きっと大丈夫だという確信のようなものが、肺のあたりにさわやかに吹いた。

我々にとって現実世界というものは、実感をともなって認知できる限られた範囲だけのものだ。ならば、世界を変えることはきっとできる。お茶を、人を愛する気持ちがその源になると、僕は満田さんのところへ初めて人を連れていった何年か前からずっとそう信じている。

次回、盛夏の草取りツアーを企画している。今度は援農戦力として、大挙して満田製茶へ押し寄せようと思う。

お茶をめぐる旅に終わりはない。

2022/05/18

言葉にならないことのために

 


熊本に滞在するのも9日目、なかでも馬見原の岩永さんの世話になるのは7日目。明日は午前の飛行機だから、帰るばかりとなった。

今日は一番茶のお茶摘みが終わった樹を剪定して、そのあとは乗用型の摘採機を使ったお茶摘み。もちろん僕は操縦なんて出来ないから、サポートに入る。ごっそりと茶葉を共同工場に運びこんでからは、4日前に荒茶となった釜炒り茶の再製加工を見届けた。

今回は共同製茶工場での製茶から仕上げまでを確認するなかで、この共同工場で作られるお茶の特徴をいっそう確かに理解することができたのも大きな収穫だ。

再製加工を進めるなかで、等級別に茶葉を選別する工程がある。この一部が、2年前から「川鶴」としてお預かりしているお茶だ。在来種だけで仕上げるようリクエストしていて、最終的な色彩選別をする前だけれども、夕食どきに皆で試飲してみると「おいしいね〜!」と歓声があがる。岩永さんのお母さんも満足げ。僕も嬉しくて5煎目まで飲んだ。



とても幸せな瞬間だった。なにしろ今回、岩永さんとお茶摘みからずっとご一緒できた。霜にあたらなかったのは何年ぶりか…と岩永さんもしみじみ感じ入り、良質の芽が摘めたのだ。共同工場での加工も首尾よく進んだ。しばらくすれば風味に落ち着きが出て、さらに美味しく楽しめるお茶になるだろう。(出来立てホヤホヤより、少し落ち着かせたほうが美味しい)

仕上がるまでの様々な(本当に様々な!)苦労があるのを見届けたいま、今年からはいっそう「川鶴」のことが可愛くなりそう。さらに昨日摘んだ在来種の紅茶も美味しく仕上がっており、お疲れの岩永さんもこれにはニッコリ。岩永さんの紅茶は引き合いも増えてきているようで、本当によいことだ。



途中、今日も共同工場では「倉津和」の小﨑さんが製茶を進めていた。出荷用の煎茶づくりだ。合間に奥様が小﨑さんの茶畑のなかでも最も大きなところへ案内してくださる。そこは人里から少し離れた丘の上で、雄大な宮崎県の山脈を臨む場所にある。何の物音もしないその場所は、小﨑さんにとっては自分だけの世界に浸れる特別な場所だ。

今回の旅では息子さんとその奥様にお会いすることも叶い、若い世代とのお付き合いが出来ていくのはとても嬉しい。

トップの写真は、今朝いきなりカメラを向けて「はい、笑ってー!」と言ったときの小﨑さん。大阪での教員生活を経て帰郷、百姓をして生きてこられた。共同製茶工場で、なんとなく小﨑さんだけ他の人と違う雰囲気があって、僕はその感じが好きだ。真面目で、あまり口には出さないけれど、きっと心のなかでは人一倍いろいろなことを考えるタイプの人なのだ。

再開を約束して、しばらくのお別れをした。店ではまだ昨年の釜炒り茶が若干あるが、それがなくなり次第、今年の「倉津和」をご紹介できるようにしたい。「サンプル送ります!」と小﨑さんも言ってくださった。



行ってみる? 行く。

食べてみる? 食べる。

見てみる? 見る。

やってみる? やる。

今回の旅では、無遠慮になることを心がけた。遠慮しても何にもいいことはない。だから足かせになろうとも、そのことはひとまず気にせずに機会をとらえて色々とチャレンジしてみた。(失敗して機械を一部故障させ真っ青にもなったけれど…)

折角の機会に、挑戦しなければ足かせにさえなれない。身の程を知った上で、大して役に立てないという自覚のなか、それでもやってみるしかないのだ。僕は農家ではないから、その苦労全てを身をもって我が事のように体感することは出来ないけれど、その間をちょっとでもいいから埋めたい。

それは販売戦略などではなくて、僕がそうしたいから、そうするだけのことだ。「農家から直仕入れ」と店の看板にも書いてあるけれど、それはプロモーションのためではなく、それ以外のやり方を考えられないからだ。ブレンドも自家焙煎ももはや興味はなく、預かった品物の純度を損なわず、ちょっとだけ僕の言葉をのせてあなたに手渡したい。

そして、そのように行動するとき、農家の皆さんとちょっとだけ気持ちを重ね合わせることができるのが、僕はとても嬉しい。こうして誰かと喜びを共有して生きていくことができれば、きっと自分の一生は幸せだと振り返ることが出来るって、そう思える。

「夫は、岡村さんが釜炒り茶に関心をもって来てくれたことに、とても心を打たれた様子でした」と、茶畑案内の帰りに奥さんがぽつりと言ってくださった。

あるいは岩永さんは、夕食を食べて宿の近くまで送ってくれたとき、手を前で組んでぺこりとなさった。その視線、岩永さんの背負っているものの大きさと相まって、撃ち抜かれる。

岩永さんのお母さんは、「もう、あなたは孫のようなものね」と言ってくれる。

そういうときの、なんとも言えない気持ち。ああ、本当に来てよかったな、でもこの気持ち、どうやって伝えたらいいのだろうと思う。

言葉にならないもののために、来ている。言葉にならないこの何かは、僕が手渡すお茶には、きちんとのっかっているのだろうか。よくわからないけれど、これからも僕は一所懸命にしゃべりつつ、伝えきれないもどかしさを抱いて仕事をするだろう。

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最後に、今回の旅でお世話になった皆様をご紹介します。

馬見原の岩永智子さんとお母様の周子さん。旅のコーディネイトに道先案内、そして茶仕事の先生として多くを教えていただきました。そして水俣の松本和也さん。芦北の梶原敏弘さん、康弘さん、優美子さん。菅尾の小﨑孝一さんとご家族の皆さん。日之影の甲斐鉄矢さんと奥さん。延岡の亀長浩蔵さんとご家族の皆さん。五ヶ瀬の坂本健吾さん。そして菅尾共同製茶工場で働くおっちゃん達。みんな僕にとって釜炒り茶の先生です。

そして、智子さんのお父様である博さん。すでに鬼籍に入られていますが、智子さんと作業をする日々のなかで博さんの存在を感じないときはありませんでした。会っていないのに、知っている感じ。

飛行機のテイクオフが明日の朝に迫ります。寂しいです。

2022/05/16

欲のないお茶

 


昨日で九州も5日目の滞在になった。

日曜日早朝から共同製茶工場にて岩永さんの製茶を見学させていただき、ひととおり出来上がった荒茶をご自宅横にある再製工場へ運び込む。

そのあと、東へレンタカーを走らせた。馬見原を出るとすぐに五ヶ瀬川が流れており、これを渡るともう宮崎県だ。五ヶ瀬、高千穂、日之影といった山の町々を通り過ぎ、延岡市北方町にまで到着した。

この町は地域区分に十二支の名を使っており、今日の目的地は「辰」。ここで親子2代にわたり釜炒り茶の製造を続けておられる亀長家を訪問させていただいた。

応対くださったのは亀長浩蔵さん。Googlemapでの案内だと恐らくたどり着けないからと、最寄りの道の駅で待ち合わせることに。

亀長さんのお茶に興味を持ったのは、たまたまSNSのタイムラインに同氏の情報が現れたからだった。釜炒り茶を作っている方だということで、とりいそぎそのお茶を取り寄せて飲んでみた。

新茶が出来上がる直前の時期だったため「少し待ってもらえたら新茶をお届けできますが」とのご案内だったが、僕は一年経った状態のお茶を確かめてみたくて、去年のものでいいので送ってくださいますかとリクエストした。

このときのことを奥様が覚えていて、「お茶がすごく好きな年配の方なんだと思ってたら、めちゃくちゃ若い人でびっくりした!」と仰った。これと同じようなことはしょっちゅうあるけれど、いずれは僕もお茶が好きな年配の方になるのだ。

さてそのお茶は、いかにも釜炒り然とした香りがきちんと立ち昇り、風味は柔和で苦渋味が少なく、人懐っこいお茶だった。がぶ飲みのお茶だ。「これを昔から作っていて飲み慣れているので、今でも古い機械で作っています」と言わんばかり。熱湯歓迎&香り重視で、食事にもってこいのオールドスタイルだ。

風味からしてこのお茶は施肥をかなり絞っており、外観も市場価値とは一線どころか二線三線を画している。ある意味で欲のないお茶を淡々と作っておられるのだというのが、最初の印象だった。あえて似ているお茶を頭の中で探すなら、それはもう廃業された阿蘇の東さんの釜炒り茶だった。

亀長さんのお茶は、初代にあたるお父さんの代からもう40年あまり農薬を使わないで栽培されてきた。時代があとから追いついてきたという形だ。日野の満田さんのところより10年以上転換が早い。そして肥料にしても土を肥やす有機物のみ使用し、それも使用量をかなり限定的にしている。

植わっているお茶は「うんかい」といい、1970年に品種登録された古いものだ。昭和46年に発行された「九州農業研究第33号」によれば、うんかいは釜炒り茶用に宮崎県で開発されたもので、同じく県内で育成された「たかちほ」を母とする。山間部の雲海のようにしてあまねく普及することを祈って名付けられたという。葉は濃い緑色をしており、樹が幅広で勢いがあるように見えた。



亀長家の茶生産量は必ずしも多くない。それではどのようにして継続してきたかといえば、地域の方々が摘む茶葉を預かり、加工賃とひきかえに製茶する委託加工を重要な業務としてきた。しかしそれも近年は激しく落ち込んでいる。ここに限った話ではなく、滋賀でも、熊本でも、委託加工を受けているところではだいたい状況が似ている。さらには工場で加工にあたる茶師たちも高齢の方が本当に多く、日々の1杯が不安定な状況のもと支えられていることを痛感する。(しかしながらこういうところに居る高齢者の方々は、都会の若者より身体の芯に力がある。流線型のスポーツ体型ではなく、いかにも農業者という逞しい身体だ)

こうした状況のなか、お茶の単価を上げて高級志向としたり、栽培面積を増やしたり、あるいは他の作物を並行して育てて営農したり、または廃業したりと、農家の方々はそれぞれの家ならではの背景と地域の自然環境に応じたスタイルをとっている。

先に触れたとおり、亀長さんの作るお茶は明らかに市場では評価されにくいものだと僕は感じた。なぜなら、茶葉は鈍色に光る深緑ではなく、ちょっと白っぽい。形状もガサっとして細く締まっていない。風味に青さがなく、ほとんど評価基準の対極を地で行っているとしか思えないお茶だった。

見る人が見たらこのお茶は異端だし、香味と外観の欠点をいくつも挙げたくなるだろう。しかしまた別な人が見たら「これこそ昔ながらの釜炒り茶だよ」と言うに違いない。その評価で、その人がお茶をどんなふうに捉えているかがおおむね分かることになる。(ただ、「昔ながら」にもいろいろとある。これは個人のノスタルジーと価値観に関わるから、簡単に定義できない)

思わず満田さんの在来煎茶を思い出す。釜炒り茶も煎茶も、茶種は関係なく、昔スタイルを手放さない人のお茶には、その背景を覗いてみたくなる独特の魅力があるのだ。



「うちの決め手です」と亀長さんが指し示した機械。荒茶づくりの最終段階で締め炒りをする「ぐり茶仕上げ機」というもので、静岡県にて何と昭和28年に製造されたという。僕もこの機械は見たことがない。この機械を使って、お茶の芯まできっちりと火を通し水分を抜くのだ。

先ほど仕上がったばかりという、またホカホカの荒茶を見させていただく。いま出入りしている山都町の菅尾製茶工場で作られる釜炒り茶とはまったく違うキャラクターを持っていた。

宮崎は、県をあげて釜炒り茶のブランド化を推進していて、頼もしい。予算も積極的についている印象で、その後押しあって販売力も経営力もある組織を複数見てきた。勢いのあることは素晴らしいメリットで、釜炒り茶の認知に明らかに寄与していると思う。

反面、デメリットもある。僕は以前、税による予算をふんだんに受けた仕事をしていたから少しだけ分かるのだけれども、公的予算は「色」を無視できないのだ。ゴールがある程度定められた予算があるとき、そのなかで創造性を高めることは簡単ではなくなる。

亀長さんの場合、そのお茶づくりに関しては行政と同じ方向を向いているとは思えなかった。だから大規模な予算がついておらず、古い機械を使い続けるという制約があるのだが、制約のあることは何より独自性につながるものだ。

どちらも良し悪しがあるので、その両輪がある宮崎という土地はすごくおもしろいところ。

亀長さんは本当に柔和な方だったが、方法論に関してはそうとう頑固だ。そういうの、僕は好き。きっとこのような方と僕の仕事は相性がいいと、そう考えている。大阪に帰って落ち着いたら、亀長さんのお茶をご紹介する準備をしたい。

別れ際に、亀長さんはこんなことを仰った。

「25年やってきて、きょう初めて人に褒められたような気がしました」

それは僕もすごく励まされる言葉だった。自分の評価基準を受け入れてくれる人たちが居るのだということ、こちらもまた認めてもらえるのだということ、胸がいっぱいになる。

人はひとりでは生きていけない。自分にばかりフォーカスのあたる時代、お茶はどのようにして生きていくべきかを教えてくれる。

ご夫婦は車が見えなくなるところまでずっと見送ってくれて、バックミラーのなかで夫婦が揺れている。同じ光景を何回も見てきた。東近江の君ヶ畑で小椋さんが、政所で山形さんが、日野の満田さんが、いつもバックミラーのなかで小さくなるのを僕は見ていた。

預かったものは、温かくて大きい。

2022/05/14

馬見原 新茶製造のはじまり

 


熊本 4日目。岩永さんのところでは、今日からお茶摘みが始まった。

ここ馬見原は標高が600mほどあり寒冷なため、同県内のほかの地域と比べてもお茶摘みの開始が遅めになる。

たとえば同じ熊本の芦北や水俣、それに宮崎県の日之影といった地域を訪ねたところ、ほとんど1番茶の茶摘みは終了していた。

昨日までの雨が止む予報だったし、雨雲レーダーによれば今朝の時点で熊本県内で雨の降っている場所はなかった。しかし馬見原では霧雨が昼前まで続いた。山間ではよくあることなのだろうか。そのため、雨が止むとまずは濡れているお茶の露を払ってから、3人がかりで運ぶ摘採機を使って茶摘みが始まった。

摘採機は巨大なバリカンのようなもので、「摘む」とは言うものの実際には刈り取っている。刈った葉は風で後ろの袋に送られる仕組みだ。バリカンを畝の両側で持つ人がふたり、そして袋を持つ人がひとり必要な作業。息が合っていないと皆がシンドイ思いをする作業だから、いつやっても緊張する。

摘んでは袋を取り替えて、茶葉の重量を測ってからトラックに満載にして、同町内の菅尾共同製茶工場へ運び込む。すると、昨日の朝ご自宅でお話を伺った小﨑夫妻がお茶の積み下ろしをしており、これから煎茶の製茶をしようとしているところだった。(小﨑さんは釜炒り茶と煎茶の両方を作っている)

小﨑さん、御年70をゆうに過ぎているし、シンドイと口には出しているものの、高いコンテナからひょいと飛び降りたり、重たいものを平気で抱えていたりする。

さて運ばれた岩永さんのお茶は、共同製茶工場での仕事に携わる様々な方々の連携があって荒茶となる。これは滋賀の政所などで見られる製茶と同じような仕組みだ。

※荒茶は水分量をある程度まで抜き、しばらくの保存に耐えられる状態にしたもの。荒茶は再製加工(選別や再乾燥など)を経て仕上げられ、様々な商品となる。

在来種の荒茶は、とても好ましい感じに出来上がっていた。甘涼しく、本当に出来たばかりの荒茶のさわやかなにおいがする。その香りをここでお届けできないのは残念というか、ここに居るものだけの特権というか、いいだろ〜と自慢したくなるというか(ごめんなさい)。岩永さんも、さらなる仕上げに向けて期待を膨らませている様子で、僕も嬉しく思う。



午後にはヤブキタの茶摘みも行われた。この分の製茶は明日の早朝から工場で行われることになっているので、僕も朝早くからその模様を拝見しに向かうことになった。(基本的に手出しできる部分はなく、目で勉強するばかりだ)

一年の収入を大きく左右する作業が連続する。ややピリっとした雰囲気を全身に受け止めつつ、作業から開放されたあと岩永家の皆さんと囲んだ夕食はたいへん美味しかった。

これら全ての作業の、肌感覚、会話、音ににおい。僕にとっては、他には変えられない財産となる。

馬見原の夜は更けゆく。心地よい疲れとともに、作業はまた明日に続く。おやすみなさい。

2022/05/13

芦北

 


九州の旅、2日目の夜。

昨晩は八代市の日奈久(ひなぐ)温泉で疲れを取った。素泊まりだから朝ごはんをどこかで調達しなければと、宿の近くに売店があるのを発見。80歳くらいのオバちゃんがレジに居て、店内はメチャクチャに散らかっていた。その適当加減がたまらない。これでいいんだよね。

ちょっとだけ立ち話をすると、オバちゃん、数十年前に大阪市内に少しだけ住んでいたというので、奇遇だ。だがその話を掘り下げると確実に長くなりそうだったので、聞きたい気持ちを抑え、僕は話題をお茶に変えた。

「僕、お茶屋をしていまして。熊本の農家さんをまわってるんです」

「へえ…テレビなんかで、こだわってお茶仕入れてますとかいう人たち、たまに見ますけど。ホントにこうして来るんですねえ」

「そりゃそうですよ。来んとわからんことが多いですし、何よりおもろいですからね」

「うちに熊本のお茶あったかな…これは…八女…で、あれは…知覧…。熊本の無いね(笑) それで、本業は何ばしよっとですか?」

「え?これが本業ですよ」

「へええ……ほぉ…」

趣味でやっているのだと思われたようだ。おもしろい。と、オバちゃんと話したそうにしているお爺ちゃんが後ろで待っていたので、僕は店を後にした。

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小雨の道路を今日は再び水俣方面へ向かい、途中の芦北ICで降りる。すぐ西に海がほど近いインターチェンジだが、僕は東へどんどんと走り、山を超えて告(つげ)という集落へ入った。



ここで営農しているのは、釜炒り茶を中心としてお茶づくりを長く続けている梶原家だ。僕が起業した当初からお茶を預けてくださっている。訪問するのは今回で4回目。

園主の敏弘さんは3代目。昭和後期から平成にかけて全国的にリーフ茶の消費が下降線をたどる時代だったが、類まれな製茶センスで切り抜けてこられた凄腕だ。だが御本人はいたって謙虚で、「人様のおかげだよね。本当にそうだよ」と、しみじみと言う。どれほどの苦労が伴う日々を送ってこられたのかは、想像するほかない。

今回は、敏弘さんと奥様の優美子さんはもちろんのこと、もう1人お会いして話を伺いたい方がいた。お二人のご子息である康弘さん(33)だ。トップの写真でちょっとはにかんでいる人。

一度だけお会いしたことがある。2017年の5月、僕は梶原家に泊まって新茶製造の様子を見学した。このとき康弘さんも製茶の模様をじっと見つめ、古い炒り葉機の前で背筋を正して静かに座っておられたのが印象的だった。何より僕とほとんど年が変わらない同世代だ。でもこのときはあまり話すこともなかった。

彼が後継者としてこれから頑張ろうとしているのかなと、ずっとそれが気になっていた。なぜなら、その家の方が後継者となるべくして立ち働いているのはそう多いことではないからだ。そうしているうちに敏弘さんは数年前、古くなった製茶機械の多くを一気に入れ替えた。それは要するに、これから先もずっと長く、家業として釜炒り茶を続けていこうとする強い意志そのものだった。

そうした中、康弘さんはどのような気持ちにあるのかを、僕は知りたかった。

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康弘さんにとって、お茶は子どもの頃から当たり前にある、日常そのものだった。高校生になってからはお茶を摘む時期になると手伝うようになった。

その後は鹿児島大学の農学部に学び、社長が敏弘さんとご縁のあった農業法人に就職。そこで大小様々な規模の農業を目の当たりにした。このあとから康弘さんは実家の仕事をするようになったが、当初の担当はお茶ではなく、大葉や米。大葉は康弘さんが始めた取り組みだそうだ。それが近年、徐々にお茶に関わる割合も増え、今年は最初から最後までひとりで製茶の面倒をみるという場面もあった。

「製茶は想像しながらやっています。原料の状態によって、機械の使い方が本当に違う。たとえば雨が降ったあとのお茶というのは水をよく吸っていて、すごく重たいんです。摘んでるときからそれがわかる。反面、摘むのが遅くなった硬めのお茶は乾きやすい。これらを、各工程で乾きすぎないように、徐々に芯の水を抜いていくのが大切なことです。うちは自園のものだけじゃなくて、委託加工のお茶もあるから、色々な原料が見られて勉強になります」

芯水を抜く重要性は、敏弘さんが出会った当初から何度も口にされていることだった。梶原家のお茶は、昔ながらの釜炒り茶のように強い炒り具合からくる香ばしさではなく、原料の瑞々しさがふくよかな味となって感じられる綺麗な味のすることが特徴的だ。

「お父さんと一緒に働くというのは、どんな気持ちがするものなのですか」と僕は尋ねた。自分も実家が自営業だが、父の仕事(電気工事)をちょっとだけ手伝ったことはあっても本格的に関わったことが一度もないから、康弘さんのような立場の方の気持ちに興味があった。

康弘さんは、かなりゆっくりと考えてから、こう答えた。「仕事で父に甘えてしまっているところがあるから、自分自身のモチベーションを保たないといけないなと思います。もちろん、全く頼らないというわけにはいかないんですけど」



康弘さんは、長くここで農業を続けていくための方法を自分なりに描き始めているようだった。「中堅の規模のところと比べても、うちは小さいほうです。きちんと稼ぎをあげて続けていくために、参考になる茶農家もいます。例えば、大量に作って売る商品と、きっちり目配りして品質にこだわった少量生産のものと組み合わせるとか。あとは、工場の稼働率です。こんなに立派な工場があっても、特に緑茶だとうちは一番茶しか作らないから、年に1回しか稼働しないのが本当に勿体ないなと思います」

そうは言いつつも、康弘さんは傾斜のきつい山間部での農業という制約のあるなか、何でもやれる訳ではないということをよくよく承知しておられた。逆に言えば、昔ながらの製茶方法をずっと継承してきたこと、そして地理的な制約があるなか大量生産ではないものづくりをしていることが、今となっては梶原家の独自性を形作っているのだ。

梶原家は、市場価値を高めることだけにこだわらず、自分たちがよいと思うものを手掛けてきた。敏弘さんたち自身のセンスがあってこそだ。あのお人柄があってこそ様々な人たちを惹きつけ、そのなかで技術を磨いたり、一般のお客さんからのフィードバックを得る機会がたくさんあったのだろうと思う。これについては、彼らに一度でも会ったことのある人なら、うん、絶対そうだよねと言ってもらえるに違いない。

環境や技術のさらに上に、人がある。



まだ康弘さんが仕上げた製品はほとんどなさそうだった。しかしこれから彼とも伴走し、その仕事を自分の店で紹介するのは本当に光栄なことだ。貴重な商品。本当に本当に、心して扱わせていただかなくてはならない。

何気なく商品棚にトンと置いてある梶原家の、たった80g入っているだけの袋。秤で測定することなどとてもできない重さと豊かさをあなたに伝えてくれる。

僕にはその用意ができているから、あとはあなたが、着地の手はずさえ整えてくれたなら。


2022/05/12

伊丹 - 熊本空港 - 水俣

 


今から6年前の2016年4月1日。一年間の育児休業がスタートすると同時に、九州の釜炒り茶を知るための旅に出た。妻とまだ0歳だった娘も一緒に。娘にとっては初めての飛行機。僕たちは天草エアラインで熊本空港に降り立って、レンタカーを借りた。熊本では水俣、八代、芦北。宮崎では五ヶ瀬、高千穂、椎葉をまわった。写真はそのときのもので、娘はまだ急須を触ったことがないし、息子はまだこの世に生まれていないし、妻は包子を作っていないころだ。

その旅で僕は圧倒的な「知らないこと」の大洪水に身を任せるほかなくて、自分は本当に何にも知らないのだと思い知った。知らなくても心から好きなら助けてくれる人もたくさんいることも。

それから6年。娘は小学生になったし、まだ熊本を知らない息子は幼稚園に通う。妻は包子を一所懸命つくって今日も店の営業に励む。熊本は合間に何度も訪ねたけれど、今回はまとまった日数で九州を旅する機会に恵まれた。

お茶の旅は、言葉を探す旅。出会うものごとが自分のなかで何を起こして、どんな言葉が首をもたげるのかを探る時間だ。外の世界に向けた冒険をして、自分の内側から何が出てくるかを探求する。



飛行機のジェットエンジンが激しく回転して、背中が座席に押し付けられ、伊丹空港のターミナルビルが後ろへ飛び去っていく。何度経験してもドラマチックで胸に迫る何かがある。旅だぞ、ついにまた始まったぞ。

鈍色をした大阪の都市風景を眼下に見やり、高度を上げた飛行機は雲の上を飛びもう何も見えない。ここ数日は睡眠時間があまりとれなかったから、あっという間に意識を無くして眠ってしまった。

居眠りから覚め、首の筋が痛い。狭いながらも身体を伸ばしていると、再び雲の下に降りた飛行機から見えるのは、大阪のそれとは対象的な若草色と深緑の田園風景だ。畑の間を縫うようにして走る車は蟻のようだから、人や、急須や、茶さじ1杯の茶葉などはいっそうちっぽけな存在として思い出される。絶対的な尺度でものを見ることは難しくて、相対的にしか感じられないのだ。そういう小さなことに情熱を注ぐことができるのもまた、いい感じがする。

身体も疲れているし、宿で休むだけの予定だった。けれどちょっと時間が工面できるぞと思い、せっかくの機会なのだからと水俣の茶農家である松本和也さんに連絡をしてみた。するとぜひおいでと言ってくださり、僕は熊本空港を出ると九州自動車道から一気に水俣まで南下することにした。



松本さんは、農薬と肥料を使わないお茶を生産する茶農家だ。慣行農法から有機を経て、無施肥のお茶へとシフト。一部に、昭和初期に植えられた在来種の茶畑も所有。煎茶も釜炒り茶も紅茶も幅広く作っている。今は店にはないけれど、彼の萎凋をきかした釜炒り茶を以前たくさん預かっていたことがある。

6年前に松本さんのお宅にお邪魔したとき、ご自宅の敷地内にある段差にレンタカーの片側後輪を落っことした。それで松本さんは笑いながらジャッキやら何やらをあたりから集めてきて、あれよあれよと車の位置を元に戻してくれた。このとき僕は、農家ってすげえ、と感嘆した。

松本さんは頼もしい農家だ。彼の目線はお茶そのものというよりも、食をめぐるあれこれに広く配られている。良いものがきちんと評価されるよう、北海道のように遠いところへでも出かけていって、商品開発や流通に積極的に関わっているのだ。彼の話にはあまりにも登場人物が多く、僕は覚えることをあきらめた。かわりに、彼がたったのひとつも悲観的なことを言わないポジティビティを楽しむことにしている。話している間に、何度も電話が鳴ってあれこれ明るく話しておられた。

今年のお茶をご自宅の裏で急ごしらえしたテーブルでいただき、これまた縦横無尽に行ったり来たりする話を楽しみながら、そのままの勢いで水俣市中心部にある海産物中心の和食屋さんで一緒にごはんを食べた。安いのに、ものすごい量の、それもおいしい料理が出てくる店だった。

ごちゃごちゃ言うて細かいことを気にせず、とりあえずやってみいと、そんな気分になる。旅のはじまりは松本さんの行ったり来たり話から。雨模様の熊本だが、幸先よくスタートした。

松本さんは、夜遅くまでカヌーの自主練習をしているという高校生の息子さんを迎えるため、これまた忙しそうに夜の市街へと消えていった。

お土産に、今年の釜炒り茶をお裾分けしてくださった。店に帰ったとき、この記事を読んだよという方がもし居たら、一緒に飲んで松本さんの話をしようと思う。