2020/12/23

継ぐのが定めでした / 梶原敏弘さん / 熊本県 芦北町

 


梶原敏弘さん / 熊本県 芦北町 告(つげ)

2020年12月に何度目かの再会を果たし、そのときにご自宅でゆっくりと伺ったお話をここに残します。ぜひ、このお茶とともにお楽しみください。(この記事の内容は2020年12月現在の情報にもとづきます)

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「芦北釜炒り茶」の生産者である梶原敏弘さんは昭和35年生まれで、ちょうど私の父親世代。今ではご子息も加わって茶業に勤しんでいます。茶業を始めたのはおじいさんなので、敏弘さんが3代目です。

※釜炒り茶は緑茶の1種です。日本国内に流通する緑茶のほとんどが煎茶で、これは葉を蒸してから揉みながら乾燥させます。一方で釜炒り茶は、蒸す代わりに生葉を鉄釜で炒り、茶葉の酸化酵素のはたらきを止めてから揉みこみと乾燥を行います。大量生産に向かないので担い手は非常に少なく流通量もごくわずか。ざっくり、蒸すか炒るかで分かれるとお考えください。

もともと梶原家が住まう告は芦北町ではお茶の産地で、今でも数軒だけ釜炒り茶を作る家があるのだとか。このあたりでは自家用の茶の樹があり、摘んだ生の葉を梶原さんのところへ運び加工賃を支払って製造してもらう家もたくさんありました。この仕事で工場はてんやわんやの大忙しで、敏弘さんも学生時代から実家の仕事を手伝いました。工場から家の縁側あたりまでは50mほど、ずらりと委託加工のお茶が並んでいました。それはそれは凄まじい加工量です。敏弘さんが20代前半のころは、一番茶期にもなれば地域の人々と協力して3交代を組み、工場はなんと24時間操業!

中学と高校を出た敏弘さんは、すぐに熊本県立農業大学校へと進学。ここの2期生として、茶業課程に所属し、栽培・製造・経営を学びました。ご自身を含む8名の同級生とは今も同窓会をする仲なのだとか。8名の実家は、3名が釜炒りで、5名が煎茶農家でした。敏弘さんを含む4人が現在でもお茶に携わっています。

農業大学の卒業は昭和55年だから、今年で40年が経ったことになります。「そんなになるのかぁ」と敏弘さんも感慨深げ。

家業を継ぐことについて、思い切って質問してみました。「他のことをしてみたかった、という思いは当時なかったのですか」

敏弘さんの答えは、こうでした。「うちは、継ぐのが定めでした。他のことをするなんて、そんな選択肢は思いつきもしないような環境で育ちました」

今でこそ敏弘さんは笑って語ってくれますが、このことは、彼のお茶を愛する人ほどに頭の片隅に置いておきたい言葉だと私は感じました。個人の職業選択は基本的に自由なのが当たり前の時代とはいえ、その自由をある人が謳歌しようとするとき、それが当然ではなかった人もごく一般にいることを踏まえておくべきですし、またこの瞬間にも、その「定め」に従って家業に従事し、ひと一倍の輝きを放ってやまない人がいることは忘れないようにしたいものです。

敏弘さんは今年、年季の入った製茶機械の多くを一新し、昭和最後の年に誕生したご子息へのバトンタッチをすでに視野に入れています。費用も相当に必要なことですし、いかほどの勇気と決断を必要とすることなのか、製茶工場を見たことがある方なら推測ができるかもしれません。



ここからは、敏弘さんの釜炒り茶について見てみましょう。その特徴として最たるものが、とても瑞々しく、釜炒りならではの凛とした香りを大切に、火を入れすぎない清涼感ある仕上げです。

ひと口に釜炒り茶と言っても、まず大量生産に向いていないから、生産者によっていろいろな作り方があります。たとえば、同県の八代市泉町にいる船本繁男さんのお茶は、強度の炒りから来る燻香がとても特徴的です。このようなお茶を熊本弁で「かばしか茶(香ばしい茶)」と言い表し、敏弘さんのおじいさん、そしてお父さんも同じように「香ばしくないと釜炒りではない」との教えを崩さない方々でした。ときにそれは煙たいほどで、京都の炒り番茶にも微かに通ずるものがあります。

敏弘さんが大学を出るころには、釜炒りの流行が変わります。昔ながらの釜炒りとは違って、旨味ののったタイプが好まれるようになり、ここでも一時はそのようなお茶を作っていたといいます。

これは、同県 山都町の小崎孝一さん(倉津和釜炒り茶の生産者)から伺った話にも通じます。生産者のなかには、「旨味と外観重視」の流れと、本来の釜炒り茶らしい姿とのギャップに悩みながらお茶を作り続ける方が少なからずいることが、これまでの聞き取りからもはっきりしています。

一度だけ、私はある年の全国茶品評会の釜炒り茶部門において一等一席、つまり頂点を極めたものを、その生産者のご厚意で飲ませていただいたことがあります。そのお茶についてここでは細かく書きたくはありませんが、そもそも生産者は私がそれを気に入ることは絶対にないだろうと分かった上で、勉強のために飲ませてくれたのです。その取引価格は、はっきり言って常軌を逸していました。

だから、ここで強調しておきたいことがあります。品評会で上位の茶になったり、価格が高かったりしても、あなたはそれを必ずしも美味しいと感じるとは限らない。「ん?」と思ったとしても、ご自身の感覚に素直に従ってもいい。どんな「権威」のあるお茶屋があなたを説き伏せようとしても、最後にそのお茶を口にするのはあなたなのであって、あなた自身の経験の蓄積と感性から、おいしいかどうかを決めればいい。

反面、気をつけたいこともあります。あなたの感性に反するお茶であったとしても、それを生産する人がどのような気持ちでいるかについて、想像を巡らせるべきです。つまり多くの茶農家は、趣味でお茶を作っているのではなく、生業としてお茶と向き合っている。あなたと生産者の間には、往々にして市場という、個人嗜好に合うようカスタムメイドされてはいないフィルターがあります。そして、その市場があるからこそ、あなたの嗜好に合うものがやってきてくれる場合もある。

だから、市場を通したものについて、個人の好き嫌いとは必ずしも合致していなくとも、「嫌い」なんて安易には言うべきではないのです。個人が嫌い(あるいは好き)だと思うものが、なぜ市場にあるのかを考えてみたときに、世の中は多少は優しくなれるのではないかと私は思っています。


話が少し脱線しました(いつものことです)が、梶原家のものを含めてこのあたりのお茶が問屋さんなどを通さずお客さんに直接販売されてきたことは、もちろん苦労は伴いながらもある意味で賢明な判断だったかもしれません。

買い手の感想を直に受け止めるやり方でずっと続けてきた結果、様々な助言者との出会いもあるなかで梶原さんの釜炒り茶が向かった先は、中国緑茶の作り方を基本とした手法でした。炒り葉の段階で釜香(かまか)がつき香ばしく仕上がった従来のものとは違い、釜香がつかないように水分を保ちながらじっくりと火を通して内側の水(芯水 しんみず)を抜いていく。

「今の機械は『いかに効率よく作るか』を考えて設計されています。でも、無理して水を抜こうとすれば上乾き(うわがわき)して表面だけが乾いてしまいます。大切なのは芯水を抜くこと。時間はかかるし、自分が習ってきたのとは真逆のやり方ですが、こうして出来上がるお茶はおいしかったです。それに水がきちんと抜けていると劣化しません」と敏弘さんは言います。

だから、敏弘さんは製茶機械の更新にあたって、炒り葉機や、最後の仕上げを行う丸釜(上の写真で手前に移っている鍋のようなもの)は大切に残しました。古いものを使うことが、梶原さんのお茶の品質に大きく関わっています。

こうして梶原さんの釜炒り茶は、昔ながらのやり方でもなく、市場で売れるお茶でもなく、飲む人の多くがおいしいと言ってくれるお茶に辿り着きました。このことは、国内で釜炒り茶が残っていくためのひとつの道筋を示唆していますが、誰にでも真似できることでもないのだろうと感じます。何しろ、自分で作って、自分で売らなくてはなりません。あるいは、市場がその価値基準を大きく転換してゆけば、光は見えるかもしれませんね。私は小さく「手から手へ」販売していますから、スケールメリットはありません。むしろ、小ささを生かして丁寧に伝えていこうと思っています。

地元では相変わらず火の強めに入った香ばしいお茶が好まれるので、地元の方々と、外の方々の声それぞれを細やかに聞き分けて敏弘さんはお茶づくりをしています。だから、香ばしいお茶だって、やっぱりおいしいのです。それは風土と密接に結びついています。

今年は豪雨で、ご自宅も大切な在来茶園も、被害に遭いました。それでもこうして笑ってくれる敏弘さんの心意気に、誰よりも私自身が勇気づけられた一日です。

「5年分くらい、いろいろ経験した一年でしたね。でも僕はお茶を作っているだけで、あとは何にもしてない。本当に、助けてくれる方々のお陰様だね」と敏弘さんは愛車のトラックをがたごと運転しながらぽつりと言いました。

別れ際は、ずっとこちらに夫婦で手を振ってくださっていました。こういうときは胸が痛みます。


2020/10/31

無為の人 / 栢下裕規さん(奈良県 山添村)

こんにちは。

10月26日。気持ちのよい秋晴れに誘われて、奈良県の山添村を訪ねました。お邪魔したのは、この村で就農し釜炒り茶を中心に作っておられる栢下(かやした)家です。

彼らに出会ったのは、5年か6年前。京都の吉田山で毎年開催されている、「吉田山大茶会」でのことでした。この催しには全国から腕じまんの茶農家や茶商がつどいます。栢下さんたちも出店しておられ、まだ作り始めたばかりだった「天日干し釜炒り茶」を並べていました。

そのお茶のおいしかったこと。何度か注文させていただき、しまいにはそれに飽き足らず現場を見てみたくなり、ご自宅を訪ねたのがご縁のはじまりです。

当店でも栢下さんのお茶を、早い段階から「太陽の釜炒り茶」という名前で販売させていただいてきましたが、先だってその名称を製法にならい「天日干し釜炒り茶」に変更しています。

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まずはそのお茶をご紹介しましょう。

当店でも釜炒り茶はいくつかラインナップがありますが、栢下さんのはユニークです。このお茶は、摘んだお茶の芽を釜で炒り、次いで「揉みこんでから天日干し」を繰り返し、乾燥と焙煎を経ることで作られるものです。和歌山県の熊野地方で伝統的に作られてきた「熊野番茶」の製法を学ばれ、これにならっておられます。

その味わいは、さながら台湾烏龍茶の重焙煎をかけたもののよう。それでいて上品すぎることなく、日常の気兼ねない飲み物として生活に根を下ろす親しみやすさ。深みある香ばしさは単に焙煎だけから生まれるものではなく、それ以前のあらゆる工程が織り成す豊かな滋味に満ちています。台湾のお茶が好きという方にもきっとお気に召していただけますし、日々の食卓にもぴったり。

さて今回の訪問では、改めて一家のこれまでの歩みについてお話を伺う機会を得ましたので、それを皆さんと共有したいと思います。茶農家の表情の一端を知っていただくきっかけになれば幸いです。

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お話を伺ったのは、栢下裕規さん・江里さん。お二方とも奈良出身ではなく、裕規さんは大阪の枚方で、江里さんも同じく大阪の和泉のご出身。

話を裕規さんの大学時代まで遡って、彼らの足跡を追ってみましょう。

裕規さんはもともと農業を志していたわけではなく、大学では建築を学んでいました。3年生のころからは庭園に関心を持ち、国内では飽き足らず中国にも鑑賞しに行くほど。その興味関心から卒業後は造園会社での仕事を体験するも、すぐに身を引きます。「思い描いていた仕事と違っていました」と彼は言います。

「お寺の庭園管理のようなことをやると思ってたんですけど、違ってました。行政から委託を受けて、公道脇の雑草や公園の芝を刈るとか、そういうものでした。もちろん寺院の仕事もある会社でしたけど、今思ってみれば新人にそんなとこ、いきなり任せる訳ないですよね。それで草刈りがあまりにもしんどくて、辞めました。今のほうが体力的にはきついので、なんてことないはずやったんですけど」

退職後、彼はもともと興味があった昔ながらの里山での暮らしを考えはじめます。「里山って、作為のないデザインでできているんです」と彼は言います。「里山で生活しようっていうことなら、やるべきは農業かなって、漠然と思いました」

彼と会ったことのある人なら、彼が里山という言葉のニュアンスをそっくりそのまま体現しているといっても、頷いてくれるのではないかと思います。

2009年、彼は1年間の有機農業研修を伊賀で受けることに。直感から「有機しかない」と思っていたそうです。しかしこの研修生活を経て、彼は体力と精神のいずれをも鍛えられたと言います。つらい局面もあったそうですがどうにかやり抜き、「この経験からタフになれました」と現在彼は笑います。

続けて彼が半年間の研修先に選んだのは、奈良県内の農園でした。ここも有機農法に特化していましたが、経営規模が大きく、したがって有機物の使用量も多い。有機農法について思索を巡らせた彼は、やがて肥料をも使わない農業か可能であるのかどうかを思い巡らせます。そこで彼の目に魅力的に映ったのが、農薬と肥料を使わない、いわゆる自然農法という手法でした。

そこで裕規さんは、同じ奈良県内で自然農法を実践し、野菜とお茶を生産していた農園で2年間を過ごすことに。ここで得た見識から、お茶ならば土壌さえ肥沃ならば自然農法でもやっていけるのではないかと可能性を感じたそうです。ここに至って彼とお茶にようやく接点ができたわけですね。

そしてお客さんとして吉田山大茶会を訪ねた彼は、そこではじめて釜炒り茶の存在を知ります。その魅力を突き詰めるため、彼は四国や九州の生産者を訪ね歩きました。心の赴くまま自由に物事を選択してゆく裕規さんの足取りは軽やかで、気鋭のクリエイターというよりは、どこか牧歌的なのどかさを感じさせます。

江里さんが彼と知り合ったのもそんなころ。彼女は同じ農園で働いていたのです。

やがて2013年に奈良県の山添村にある茶畑を紹介され、この地での農業がスタート。3月にたまたま近くを通りかかった住人から今の住まいである古民家を紹介してもらうことができ、お茶づくりで力強い協力を得ていた江里さんとの生活も始まったのです。「お茶作りはひとりではできないし、本当に心強かったです」と裕規さん。

そうはいっても、彼らはお茶づくりの専門的な修行をしていませんでした。そこで県内の懇意にしていたお茶屋から紹介を受け、和歌山県のある農家を訪問。この農家こそ、現在栢下家の看板ともなっている天日干し釜炒り茶(熊野番茶)を今も生産し続けている古老だったのです。今でも毎年師匠を訪ね、学んでいます。

2014年には自宅横に小さな茶工場を新設。新品の台湾製製茶機などを思い切って購入し、必要最小限の設備で栢下家のお茶づくりは本格的にスタート。この年には、二人の間にかわいい愛娘も誕生しました。

天日干し釜炒り茶のクオリティが落ち着いてきたこともあり、近年はラインナップの拡充にも余念がありません。とりわけ、ウンカという虫が茶を吸うことで「蜜香」と呼ばれる香りの生まれる紅茶は、新たな看板商品として活躍しています。プーアル生茶の製法にヒントを得た長期熟成茶も仲間に加わっています。

早くから多様な品種の育成にも取り組み、現在では在来種のほか8品目を管理。「お茶を植える段階が、一番好きです。話が最初に戻ってしまいますけど、やっぱり庭づくりのようなものに通ずるのです。管理のし易さとか景観とか、自分で考えるのがおもしろいんです」

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裕規さんは、初めてお会いしたときから、口数の少ない人でした。しかしそれだからといってきまりの悪い空気になることはないのが不思議で、こちらも気負いすることがありません。黙々と立ち働いておられる姿は朴とつとしていて、里山を形容して「作為のないデザイン」と言った彼のその言葉そのものの印象を帯びている人です。でも、よいお茶をつくろうとしておられることは、ひしひしと伝わってくるのです。

江里さんは、とっても器用。ちょっとしたことなら割となんでもできるんですよ、と語る彼女は、農園のデザインや広報面を全面的に担っています。もちろんお茶の時期になれば、お茶の摘み取りや製茶作業など裕規さんと一緒にやっておられます。

このお二人には、押し付けがましい商売っ気のようなものがまるでなくて、一方素朴で香りのよいお茶を黙々と作り続けておられます。だから何だか気になってしまうし、毎年どんなお茶を作られるのか楽しみなのです。

初めてお会いしたときだってそうでした。吉田山大茶会の賑やかなテントの並びのなかで、ただテントとテーブルを広げ、そのうえにお茶を並べていたご夫妻。飾り気もないし、ただ静かにそこに居て、作ってきたお茶の話をとつとつとしている。そういうブースはここだけでした。その時に私の胸を打った彼らの実直な立ち姿が忘れられなくて、今でもお会いするとそのときの気持ちを思い起こすのです。こんな人たちがお茶を静かに作っておられるのならば、なんとかして知ってもらえないかなと、素直に思いました。

「作為がない」ものに惹かれる裕規さんの感性は、そのまま彼ら自身の人となりにも。彼らのお茶を一口飲んでいただければ、きっとそのことを感じていただけるはず。物静かな裕規さんは、お茶を通じてこそ実は人一倍に雄弁なのです。

同世代である彼らのこれからを、ずっと追い続けて皆さんにお伝えしたいと思います。

2020/08/30

孤高の煎茶が生まれる場所へ / 小椋武さんと君ヶ畑

ほんの少ししかないけれど、新しいお茶をご紹介します。

煎茶「君ヶ畑」。キミガハタと読みます。

はじめにお伝えしたいことがあります。この煎茶、ここ数年で私が縁あって口にできた緑茶のうち、ほかの追随を許さない圧倒的な品質を誇っています。手元にはたったの1kg。

凄まじい香気は、かつて多くの日本茶が持っていたという胸がすくような香り高さを今に伝えているようにおもえてなりません。

今回は「君ヶ畑」の生産者のこと、そしてこのお茶が生まれた理由を追ってみましょう。

生産者は、滋賀県東近江市の君ヶ畑に代々お住まいである小椋武(おぐら たけし)さん。山の材木と茶を代々の稼業とし生活してこられました。

今年、数えで80歳になられると仰いますが、屈強な体格と背筋の伸びには何ら衰えというものを感じさせません。

小椋さんのいらっしゃる君ヶ畑は、政所茶ブランドを支える奥永源寺地域の七集落のなかでも、最奥にあります。木地師の祖と敬われる惟喬親王(これたかしんのう)が都を離れ、各地を転々としたのちに住まわれたとされる由緒ある土地。君ヶ畑の「君」とはこの親王に他ならず、親王を祀る荘厳な神社も集落に残っています。

小椋さんとお会いすることが叶ったのは、7月に山形さんのもとを訪ねて今年の政所茶をひととおり試させていただけたことがきっかけです。

このときほんとうにたくさんの、それぞれに素晴らしいお茶を試しました。

すでに販売している川嶋さんの煎茶は、政所らしさをしっかりと持ちつつ、どこか肩の力を抜いて楽しめる素朴な魅力に満ちています。

そのあと小椋さんのお茶を飲みますと、川嶋さんのものとは正反対に、鬼気迫る執念をさえ感じるようなおもいがしました。その香りは他が並ぶことを許さず、形容する言葉を無くしてしまったほど。

その後ほどなくして、小椋さんに会わないかと山形さんからうれしい提案。そうして叶ったのがこのたびの訪問でした。

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到着するとご夫婦で温かく出迎えてくださり、さっそく家の中へ。築100年以上経つという家屋は古びた様子をまったく見せず、磨き上げられた木の美しさを家中にきらめかせていました。

小椋さんはさっそく、君ヶ畑集落のお茶のことから自らのお茶作りまでを丁寧に、そして情熱的に語ってくださいました。上の写真に写っているのは、過去数年の茶畑の農作業を細かく記録したアルバムです。

この家の初代であるお爺様が開墾したという茶畑に植わっているのは、やはりこの地域らしく在来種。薬品を使用せず、落ち葉やススキ、牛糞など有機肥料だけを使用して栽培管理しています。

小椋さんのお茶づくりの転機となったのは、ライターである飯田辰彦さんとの出会いでした。静岡県出身の飯田さんは、昔ながらの日本茶の香りを支えた「萎凋(いちょう)」という工程の重要性を著書で伝えています。これは、摘んだ葉を時間をかけて萎れさせることで、茶葉のわずかな発酵を促し香りを高めるプロセスです。現代、日本の煎茶づくりにおいては萎凋を意図的に行うことはほぼありません。

しかし政所では代々、自然に萎凋を行なってきたそうです。小椋さんの家でもそれは変わらず、しかしその作業を「萎凋」と呼ぶとは知らなかったと奥さんはいいます。摘んだ葉を家の板間に薄く広げて風通しをよくしておき、ときどき撹拌しつつ一晩を過ごすのです。

もともとやっていた作業でしたが、より意識して香りを高め品質のよいお茶とするために、5年前から小椋さんは試行錯誤して萎凋に取り組んでこられました。

「最初の年、ほんまにええのができた。やから『こんなん、簡単なもんや』と思ったんやけんど、そうはいかんかった」

温度管理や風通しの具合など様々に試行を重ねました。うまくいくと、その部屋だけではなく、家中のいたるところにその香りが届くのだといいます。「ハーブのような香り」と奥さん。

そうして香りの高まった茶葉は共同製茶工場に運ばれて、地域のみなさんの手で、家ごとに茶が混らないよう分けて製茶されます。

武さんによれば、「香りのええとき、粗揉機から出たお茶の香りが、精揉機のあるところまで届く」そうです。この2つの機械はかなり離れたところにあるので、びっくりするような話。

このお茶がまさに製茶されているそのとき、山形さんもまた工場にいました。小椋さんのお茶が担当箇所に流れてきたとき、先輩からこう言われたそうです。

「ええ茶や。よう見とけよ」

武さんも茶工場で製茶の仕事を受け持っておられました。しかし後身に譲るとして、今シーズンで工場からは引退なさったのです。

最後のロットを加工し終えたとき、武さんが脱帽して製茶機械に向かって深く一礼するところを山形さんは目の当たりにしました。彼女の胸には、そのときどんな気持ちが湧いたのだろうかと想像します。

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今年はとてもうまく仕上がったと武さんも自信たっぷり。「ものをつくるというのは、ほんまにおもろいで」。

「畑は、預かりもの。次に渡すために欠かさず手入れしておきます。自分の代でこの茶畑を小さくするということはしません」と語る武さん。彼は自分の畑という感覚ではなく、手渡され、預かり、そして次に繋げるものであるという考えで茶と向き合っています。

その考え方は、並行して営んできた林業でも垣間見えます。「樹は、自分が植えたら、子が育て、そして孫が切る。そういうものです」といって、50年前に植えたという立派な杉の写真を見せてくださいました。

ご自宅も、同じです。いつご子息が戻ってきてもよいように、よく手入れされているのです。「いまはみんな街へ出ていくような時代やけど、いずれ、山のよいときが必ず来ます」。

そんな武さんは、茶畑の様子を見にいくのが日々の楽しみ。「用事がなくても、『今日も元気か』って、お茶のご機嫌伺いに行くんです。山も茶も、親方の足音が最大の肥料なんですよ」

そんな話をしつつ、武さんは君ヶ畑集落の案内をしてくださいました。その足取りはどっしりと重厚で、集落を守ろうとする気概に満ち満ちているのでした。

「君ヶ畑のお茶こそが政所茶の質を支えてきた。そういう気持ちでつくっています。昔はこの集落だけでも3軒の製茶工場がありました。他の集落の茶も集まる政所茶の共同販売会では、農協に売りに行ったお茶を箱に残したまま君ヶ畑に帰ってくることは恥だとされていたんですよ」

※現在、政所茶の製茶工場はJAが操業する1箇所だけになっていて、ここに全集落のお茶が集まる。

少量だけ作られた今年の煎茶を、当店にも預けてくださいました。

これこそ煎茶の勘所だと膝を叩くおいしさ。もはや冗長な説明を必要としないその力を、ぜひご堪能いただきたいとおもいます。

この地のお茶は、正月のころに熟成が進みおいしくなるとも伝えられています。少しだけ取り分けて寝かせておき、新春をともにするのもよいかもしれませんね。

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手摘み煎茶「君ヶ畑」

滋賀県 東近江市 君ヶ畑町

小椋 武 作

在来種 無農薬 無化学肥料

2,980円 40g入

2020/08/25

発酵番茶 / お百姓さんの健やかな茶

こんにちは。

奈良県都祁(つげ)の羽間さんから、在庫がわずかだった発酵番茶を追加でお届けいただきました。このお茶は、「わざと大きな葉で作った紅茶」です。

摘んだ葉を、人気のない山道に敷き詰めます。数日かけて何度かかく拌し、空気を通します(ほかの農作業もあるので夜中にするときも!)。葉は萎れますがこのときによい香りが生まれるので、欠くことのできない大切な作業です。そして工場に持ち帰り、しっかりと揉み込んでから発酵を促し、乾燥させて完成。

ただいま販売しているのは、昨年の夏に作られた在来種。製造から一年が経ち、湯を注いだ際の香りは深みある蜜のような甘い芳香に変わっていました。びっくりするほどの変化です。

立ち上る濃厚な香気とは違って味わいはどこまでもさわやか。一番茶のような明るい華やかさはありませんが、一方で番茶の素朴な味わいが自然な化粧をしたような、健やかな味わいにうれしくなってしまうお茶です。

暑い夏には、ぜひ熱湯で淹れて楽しんでみてほしいと思います。お腹から優しく温まり、そして汗を少しかいたあとにはわずかなそよ風でさえも冷たく感じるほどの涼感がやってくるでしょう。熱い茶と涼しさは相反するものだとおもわれるかもしれませんが、お試しを。

そもそもこのお茶の出会いは、まだお茶屋になる前のこと。あることがきっかけで購入した彼の発酵番茶が家にちょうど届いたその日、私は風邪で高熱を出しており飲み食いがままならない状態でした。ちょうど家族が外出しており家でひとりで伏せっていましたら、配達員の方がお茶を持ってきました。

そんなときでも初めてのお茶となればふらふらの状態でも飲んでみたく、湯を沸かして何気なく飲んでみたら、不思議なことに私の体は「もっと飲め」と言わんばかりに欲しがったのです。何も食べられず、飲み物もあまり飲めなかったのに、このお茶だけはすとんと体に入りました。理屈は置いといて、ともかくこのお茶だけはいくらでも体に入りました。

その体験がきっかけで羽間さんとのご縁もできたのです。そんな食べ物や飲み物が、みなさんにとってはあるでしょうか?あるよという方はまた話を聞かせてくださいね。

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さてこのお茶は、羽間さんだからこそ作ることができるお茶だといえるでしょう。米と野菜とキノコ等もつくるお百姓さんである羽間さんは大忙し。彼の家にはガスが通っておらず、自給自足の暮らし。多様な農作物のスケジュールと変わりゆく天候の合間を縫うようにして、そのときそのときにできる仕事に取り組んでおられます。

だから、お茶をつくるにしても羽間さんは決して無理をしません。農薬と肥料をまったく使わない羽間さんのお茶ですから、まずお茶の体力を第一に考えて毎年作るということをせず、2019年はたしか3年ぶりの製造でした。

そして作るにしても、決まったときにできるわけではありません。できるときに、お茶の状況をみながら作るのが羽間さんのスタイル。見てくれも味わいも業界的な市場価値にはとらわれず、それとは距離をおいたところで光を放っています。わたしは、類まれな価値が彼のお茶にはあるとおもっています。

番茶でつくる紅茶というもの自体が、まずそこらでお目にかかるものではありません。どうして緑茶ではなく「番茶の紅茶」にするのかといえば、羽間さんの農業のスタイルに合うのがこのやり方だからなのでしょう。商業的に緑茶をつくるなら、一般的にはそれなりの規模の加工場が必要です。ところがこのお茶なら、製造量にもよりますが巨大な設備がなくても作ることができます。だから羽間さんは、森の中にある山道をも利用しつつ、経済的にも無理なくできるやり方でお茶と関わろうとしておられるのです。

自然の摂理に対して慎しみ深い理解があり、そして既存のやり方にとらわれず遠慮しながらお茶と接することのできる羽間さんだからこその仕事だと私はおもいます。

いつも目を細めて笑っておられる朗らかな羽間さんは、そのようなことをわざわざ口にすることもなくただ優しく田畑や森と関わっておられます。ありのままの放任した自然にこだわるのでもなく、また逆に必要以上の負荷をかけることもなく、あるべき調和というものを長い時間をかけて探っておられるように感じられます。

だから、このお茶には羽間さんの哲学がぎっしりと詰まっているようにおもわれてなりません。

お茶は人をあらわす鏡だとおもいます。そのことを羽間さんもしっかりと伝えてくれているのでした。

2020/07/19

丘の先の山

【帰宅】

昨日、満田製茶での1ヶ月を終えて、7月18日に地元である大阪の島本町へ戻った。満田製茶での記録をたくさん書き続けたけれど、ひとまずこれを一区切りにしたい。

住まわせていただいていたマンスリーアパートをきれいに掃除して、思わず一礼をして部屋を出る。ひとりで1ヶ月も寝起きするのははじめてのことだった。久樹さんのお母さんが分けてくれる夕食のおかずに何度も助けられた。

部屋を出ると、どこからか毎日漂ってくる柔軟剤のにおいは、これが最後と言わんばかりに鼻をついた。いつもなら柔軟剤のにおいで頭痛がしてしまうのに、このときばかりは哀愁さえ感じてしまうのだった。人の感覚はいい加減なもので、こんなにも気分次第で感じ方が変わってしまうのだ。

まずは日野町立図書館へ行き、借りていた本を返す。ここでIDカードを作ってもいいですよと言ってもらえたとき、なんとなく町の一員になれたような気がしてぽっと嬉しくなった。郷土に関する史料を多数揃えているこの図書館には、本当にたくさんの人が週末になると訪れていた。本のある場所が愛されている。

毎日通った旧道を走り、満田製茶へと向かう。東に向かってまっすぐ伸びる街道が小さなS字カーブを描き、小さな竹林が繁るその元に、1ヶ月を過ごした満田製茶がある。

満田製茶に向かって走るのは、当面の間はこれが最後なのだと思うと、どうしてもさみしい気持ちになってくる。長く見ていたいからカブの速度はいつもよりゆっくりだ。

週末になるとカーテンの降りている事務所も、今日は僕が最後に来ることがわかっているからか、上がっている。鍵も開いていたので中に入ると、コンビニで鳴るのと同じような電子音が鳴り響いて来訪者を家の人々に知らせる。

久樹さんが出てきた。いつもなら朝の挨拶にはじまり「今日は何しますか?」「雨やでなあ。中の仕事やな」とぼちぼち話をするところだが、もう仕事の日ではない。何の気まぐれか、雨ばかりで草取りのあまりできなかった日野もこの日は青空の広く見える夏空だ。「休みやのに、こんなに晴れてしもたら畑に出んならん!」と久樹さんは苦々しく笑っている。

家の人たちがぞろぞろ出てきて話をしてくれる。「ほんまにバイクで帰んの?」「送ってこか?」「荷物、落ちるんとちゃうの」「奥さん、待ってるやろ」...

お父さんもその中にいた。満田武久さんこそ、久樹さんに茶業のバトンを渡した張本人。初代の興した事業を受け継ぎ、地道な営業活動と農作業を続け、今日に至る満田製茶の仕事の広がりを支えた人だ。もう80歳を超えておられるが、まだまだ現役で畑にも工場にも出てこられる。休憩のときに聞かせてくれる昔気質なお話の数々はとてもおもしろかった。そのときばかりはお父さんは少し遠い目をしていたが、次の瞬間にはもう鋭い目線で世のあれこれをずばずばと斬る評論に切り替わる。

ぼくもこんな風に年をとりたいと思わせる人だった。その佇まいというか気力は、政所の古老たちにも通ずるものが大いにある。ずっと立ち働いていて、人として大切な価値観を失わない。

息子さんに、久樹さんとのツーショットを撮ってもらった。5年のお付き合いになるけれど、一緒に写真を撮るのは初めてのことだ。この間、山形蓮さんと写真を撮ったときを思い出してみると、なんとも肩肘の張った一枚になった。僕の久樹さんに対する気持ちの構えが、そのまんま正直に出た。本当に尊敬していて、言葉では親しく話をずっとしているけれど、迂闊になれなれしい態度は取れないのだ。

12時の時報が鳴った。「あ、昼休憩ですね。お弁当食べて帰ろかな」と言うと皆が笑う。そんな軽い冗談を言えば言うほどに、帰らなければならないという現実が近づくだけだった。

「岡村くん来てくれて、助かりましたわ。こんなとこでよかったら、またお願いします」と久樹さんは言ってくれた。「いや、助かったなんて...ともかく、本当にたくさん勉強させていただきました。ありがとうございました」と、何とも気の利かない言葉しか出てこなくて、不甲斐ない気持ちになった。

彼が1ヶ月かけて見せようとしてくれた細やかな仕事の数々は、通常ならば小売店の経営者に見せることなど決して有り得ないものの連続だった。ひとつとして華々しい作業はなかった。掃除とか、汗と粉にまみれる加工作業とか、倉庫とトラックを往復してお茶の積み降ろしとか、ブレンドに使用する茶の割合を決める鑑定とか。

※自園自製の茶は当然ブレンドしていない。

昭和23年からの仕事の積み重ねの先端にいる人がどんなことを考えているのかを間近で見て、そして見るだけでなく一緒に働くという宝物のような時間。合間にぽつりと出てくる久樹さんの胸を打つような本音が、時間をかけて染み渡る。それを感じながら現実と向き合う日々なのだ。

いつまでも立ち話をしていても仕方がない。「じゃあ...」といって僕はカブにまたがって、どこかよそよそしい感じでエンジンを始動した。すべてのものに心がある。それは僕の両親の信条だが、そのときのカブもまた、心を持っていた。

「あんたの居場所はここやないの。早う行くで」

胸がざわついて、ギアチェンジのうまくいかない妙な運転でへろへろと走り出した。「下手やなあ。しゃあないなあ」とカブが言っている。目線を横にやるとミラーに映る夫婦の姿がいつまでも見えていた。振り返るのが怖くて、戻ってしまいそうで、振り返らなかった。

澄んだ空と、前日までの雨ゆえの蒸せ返るような湿気だ。澄んでいるのに重たさもある。爽やかだけれどもさみしさのある別れは、日本の言葉でなんといっていいのかわからない。

でも、言葉にできることが感情のすべてではないのだろうと思う。だからこそ僕たち人間は、もどかしくて、わかってほしくて、こうして文章を書こうとするのかも。乾物屋スモールのまどかさんは、さみしさと爽やかさの同居をさす言葉として「充実」を教えてくれた。充ちて実る、かあ。

ついにミラーから夫婦が消え、満田製茶の看板が消えた。ギアを4速に入れ、スピードを上げる...はずだった。

僕は未練が振り払えなくて日野で少し時間を過ごすことにした。

満田製茶の近くにある「向町カフェ」で昼を食べて帰ろうと思い立ち、カブを停める。ここは3週間ほど前に一度来て感激する味だった。

おにぎりの軽食と、プリン、そして満田製茶のお茶を使ったというラテを頼んだ。どこまでも未練を払うのが下手な自分が、ここまでくると可愛く思えてくる。

やはりおいしく、すっかりお腹は満たされた。満腹になるというのは、本当に大切なことだ。

店の方は僕のことを覚えていて、「いつまで日野にいるんですか?」と聞いてくれた。

「実は今から帰るんですよ」

「えっ!そうなんですか。また来てくださいね」

「もちろん。ちゃんとしたご飯の食べられる場所があって助かりました」

「ありがとうございます!」

「ところでこの音楽、何ですか」

「ああ、これ、えーっと大橋トリオですよ」

「名前だけ知ってましたけど、いいですね。覚えておきます」

「あはは。ありがとうございます」

「じゃあ、また来ますね。ごちそうさま」

日野の人に「また来てね」と言ってもらえるのが嬉しかった。

いよいよ帰路に...と思った僕は、土地の神様に挨拶をしていないことにはじめて気がついた。近くの馬見岡綿向神社(うまみおかわたむきじんじゃ)に入る。完璧に掃き清められた気持ちのいい境内を通って本殿へ向かい、手を合わせた。

いつからか覚えていないけれど、僕は神社で願い事をしない。その瞬間まで生きてこられたことを感謝するのだ。必ず頭の中に浮かぶのは、祖父母の幼少期から今に至るまでの走馬灯のような光景だ。

それでやっと区切りがついた。帰ろう。

来たときとは反対のルート。水口、信楽、朝宮、宇治田原、宇治。途中いくつかの場所で休憩を挟む。どんどんと日野から離れていく。その感じは「千と千尋の神隠し」のエンディングととてもよく似ている肌感覚だった。

京滋バイパス沿いの幹線道路に出る。宇治川と桂川を渡るあたりまで至ったとき、眼前に見知った街並みの風景が突然飛び込んできた。三川合流の向こうの天王山。その頭上には、まだ夕日と言うには少し早い、ぎらついた太陽だ。

山も、川も、街も、空気も、あらゆるものが金色に光っていた。ひとつとして知らないものがなく、そのなかで育った光景だ。何も変わらずにそのままに、あった。帰ってきたのだとその瞬間に深い感慨が沸き起こって、理由のわからない涙がぼろぼろと出ては、真向かいからの風を受けて後ろに飛ぶ。目尻にまっすぐな涙の跡ができた。

「おかえり。どうだった?」と、故郷が優しくささやくのが分かった。

「泣いてばっかり。男らしさのかけらもない!」とカブは言うようだ。

そのまま島本町の懐に飛び込み、いつもなら何も感じないひとつひとつの風景が宝物のように思えた。

団地の駐車場でとうとうカブのエンジンを切り、「お疲れさま。ありがとう」と声をかける。世界で一番多くの台数が走っているという原動機付自転車は、無言になった。

自宅のドアを開けると娘がニヤニヤして立っていて、息子は昼寝をしていた。その横で妻は「ようやく帰ってきたな。さあ私に休暇を」という顔をして笑っている。

ただいま。

...

【お茶屋として】

4年目途中のお茶屋として今回の滞在で感じたことを残しておきたいと思う。

最初僕は、「出稼ぎ」というタイトルで記事を書いたが、とんでもない思い違いであることがすぐにわかった。段取りもわからなければ手際も悪い。そりゃそうだ。一緒に仕事をしたのは、もう30年ほどこの仕事に従事している人なのだから。

それでも久樹さんが僕に声をかけてくれたのは、ひとえに心配してくれたからだ。彼にとって僕のやろうとしていることは、「方向性はよいけれど危なっかしくて心配になる」とのこと。「岡村くんのお母さん、さぞ心配したやろうな。公務員やめて創業するなんて、むちゃくちゃなことを。そやし、僕な、お母さんに頼まれてるような気がしてるんや。『息子のこと、よろしくお願いします』って言われてるような気が...僕が勝手にそう思ってるだけかもしれんけど」

だから彼は、期間中あらゆる手の内を僕に見せてくれた。人には見せられない重要な書類や、記録、ひとつひとつの作業。もちろんやましいものは何一つない。商売上、守秘しておくべきことばかりだ。

でも、彼は終始楽しそうにしてくれていた。あの表情にはきっと嘘がない。なぜかといえば、満田製茶の人知れない苦労の数々を間近でしばらく見る人などそう多くはないからだ。無農薬を30年続けて、草と戦いながら、そして市場価値のさほどないものとして扱われながら、それでも満田家は頑固にそれを続けてきた。そして問屋業を営み、ときに苦しい場面もありながらも、日野の商人として気概溢れる仕事を骨太に継続してきた。

「最初は、再製加工の仕事も、なんでそうするのかとか、よくわからんかった。30年やってて、ここ数年になってやっとやねん。おもしろいなあって思えるようになってきたのは。無農薬もそうやで。やっぱり無農薬のやないとな、おいしくないねん。飲みたいって思えんねん。無農薬の真髄みたいなものが、ようやく感覚としてわかってきた。そういうときに岡村くんみたいな人が来てくれて、嬉しいわ」と彼は包み隠さずに気持ちを言葉にしてくれる。

ある日には、彼は僕の甘さを指摘し、厳しく叱ってくれた。その言葉は今までにお茶屋として人からかけられたどんな言葉よりもまっすぐに心を撃ち抜いて、強いショックを受けながらも、目の覚めるような思いがして、その日からいっそう日々の時間が充実するような思いがした。

「ひとつひとつのことに意味があんねん。無駄なことなんかなにひとつない。それを見てほしいから、来てもらってんねん」

きわめて小さくても僕は満田製茶の客でもあるのだけれども、そんな存在をまっすぐに叱ってくれた。彼はそのとき僕にかけた一連の言葉がきつすぎたといって、ずっと尾を引いているようだった。ごめんなとまで後日彼は僕に言った。僕の気の弱さが彼に伝わり、むやみに心配させてしまったのだ。

久樹さんは、僕のことを、商売の相手であったり、また商売としての茶を教えるべき生徒であったり、それから食べ物の話で盛り上がる友達のような存在であったりと、いろいろな側面から捉えてくれている。そして、ちょうど父親と息子くらいの年の差があるので、ひょっとしたらそんな感覚もまた持ってくれているのかもしれない。

初めてお会いしたときを思うと、ずっと踏み込んだ関係をつくることができた。彼の広い心のおかげだ。

...

日野での1ヶ月が始まったとき、僕は壮大な何かを期待していた。今までよりもお茶を知り、詳しい説明をお客さんにできるようになり、お茶屋として飛躍できると。

でも実際はその逆だった。見れば見るほど、知れば知るほど、わからないことが生まれていく。ようやく丘に登ったぞと思った矢先、その頂上から連峰が向こうにさらにあることに気がつく。きっとこのことに終わりはないと直感した。知っていると思った途端、無知を自覚できなくなるのだ。

連峰は、丘に登らなければその存在を知ることもなかった。あるいは知ったかぶりをしていたか。

「農家の代わりにお客さんに話をしたい」と常々思ってはいるものの、それはとても責任のある仕事であることを改めて思う。彼らの現実を聞こえのいい売り文句にして、切り売りすることがあってはいけない。それでも実際に見聞きしたことを、間違いのないようにできるだけきちんと伝える。簡単なことではない。

僕は彼らと完全に心を重ね合せることはできない。違う人間だからだ。でも、共感をすることができる。重なりそうで重ならない、もがきを繰り返すしかない。その繰り返しのなかに、できるだけ近づき合おうとする人の温かみのようなものを感じられる瞬間がたくさんある。

そうして終盤で日々感じたのは、無理に伝えようと力まなくてもいいかもしれないということだ。全てを伝えようと躍起にならなくても、農家たちとの間で少しずつ育むことのできた気持ちを、心の中で宝物のようにして大事にしておくだけでもいいかもしれない。

僕は、見て、聴いた。

久樹さんやお父さんがどんなふうに草取りをしているか。再製機械の前でどんなふうに動いて、どんな顔をしているか。そのとき鳴っている、それぞれの機械がたてる大きな音。鉄製の機械の強固な冷たさ。木製の機械の古びた温かみ。粉塵の肌感覚。におい。ガスバーナーの熱気。トラックの「まだまだやれるよ」というエンジン音。30kgのお茶の袋の重さ。冷蔵倉庫の寒さ。休憩中の力の抜けた雑談。濡れた茶の樹に手を突っ込んで蔓を引き抜く感覚。土を踏む感覚。虫たちの生きているさま。休憩に入り顔を洗う水の冷たさの気持ち良さ。合間にぽつりと出てくる久樹さんの本音。

どれもこれも、遠く離れたところで起きていることだけれども、心のなかでいつでも呼び起こせる。いまこの瞬間にも、きっとあの人はあんなことをしているだろうなと、今までよりも具体的に想像することができるようになった。

そのことは何にも変えがたい大事な宝物だ。信頼関係と言ってもいいのかもしれない。

これからやることに何も変わりはない。今までと同じことを同じようにきっとやるだろうと思う。どうにか知っていることをできるだけ丁寧にお話する。壮大なことなど何もない。小さな人間関係のなかで、支え合いながら、温め合いながら生きていく。

2020/07/12

7月12日 政所へ

早いもので1ヶ月の日野滞在も、あと1週間を残すところとなった。明日から、最後の5日間が始まろうとしているのだけれど、その前に大切な予定がある。

政所へ行くことだ。

日野町から北へ。東近江市に入り東へ向かう。奥永源寺とも呼ばれるその一帯では600年もの昔からお茶作りが絶えることなく続いており、その品質は古くから知られ、今では生産量も非常に小さく孤高の存在だ。

ここで政所茶の振興に尽力している山形蓮さんと待ち合わせ、今年の新茶を中心にテイスティングをさせていただけることになった。

昼から始め、15種類くらいのお茶を飲ませていただく。気がつけば18時だ。ああでもないこうでもないと言いながらたくさん飲む。まず、どれもおいしい。

肥のよく効いて丁寧な手入れを感じさせるもの。萎凋させてふくよかな香りを発揚させたもの。それらが組み合わさった印象のもの。どこか夏の草刈りのあとを思わせるような、爽やかに青く香るもの。

政所茶と一口に言えども、生産者の栽培のやり方、土壌、そして製造状態などが複雑に絡み合ってそれぞれに独特の個性を持っている。しかし一方で「政所らしいよね」と口を揃える、「らしさ」がある。

それは、鬼気迫るような茶にこめた気迫であったり、先祖代々の営みを絶やすまいとする気丈な心であったりする。

どれがいちばんおいしい、と容易には決められない魅力をそれぞれに持っている。もっともそのことを難しくしているのは、他ならない山形さんの語り口だ。

彼女がひとつひとつのお茶を紹介してくれる様子は、さながら小さな短編集を丁寧に紐解く語り部のよう。

「これは、◯◯さんの…」と言って彼女は、地域の孫であるかのように受け入れられている存在ならではの視点で、語りを始める。それらの多くはどこまでもプライベートな物語であるだけに、聞くものはいつしか彼女の心情を追体験するような気持ちを抱くことになる。

そのひとつを紹介したい。

80歳になろうかというある男性の生産者は、お茶の栽培は続けながらも、茶工場での作業を今年をもって引退することになった。引き際をきっちりとして後進に継承せんとする勇ましい考えあってのことだ。

彼は、工場で自らの担当する生涯最後のロットを無事に加工し終わったあと、脱帽して古い製茶機械に深く一礼したのだという。

自然と熱いものがこみあげてしまう話だ。ほんのりと山形さんの目の赤らむ様子は、否応なくここの人々の信頼関係を垣間見せてくれる。

そのようなお茶が次々と登場するのだ。

そのなかで果たしてあなたなら、「これがいちばんいい」と容易に決めることができるだろうか。僕にはできない。

でも、もちろん商売をするためには決めなければならない。

どうやって?

そんなときは直感しか頼りにするものがない。あらゆる先入観をできるだけ感覚から切り離して、自然と「これだよ」という身体の言葉に従うこと。その選択に後悔の生まれないことを僕は知っている。

今日もまたいくつかの素晴らしいものに出会うことができた。それらは例外なく人柄を反映させているように思われてならない。

日本茶の流通で、生産から買う人までの間に入る人の数が余りにも多すぎると日頃感じている。需要と供給という関係性に、売り手の欲が織り込まれた市場経済において、生産の段階では豊かに備わっていた何かがすっかりと抜け落ちてしまう。何か、というのは、たぶん、こころだと思う。

それを、僕は最後まで消えないようにしたかった。

だがここ政所では、山形さんという存在が生産者たちと僕の間に入ってくれることで、彼女は風土の翻訳者となる。僕にもよくわかる形で政所茶を表現してくれる。

要は、間に入る人の数が問題ではないのだ。間に入るのがその人である必然性は、どれほどあるか、ということなのだ。

彼女のおかげで知ることのできた政所の魅力は、枚挙に暇がない。それらはテキストに書いてあることではなく、彼女と政所の人々の豊かな関係性のなかでしか見えないものだ。

僕たちはそれを主体的に体験することができない。でも、人間は、共感することのできる生き物だ。「わかるよ」と思わず口を突いて出る、その感じだ。

今日も改めてそのことを心に刻み、日野へと帰ることになった。

山形蓮さんは僕と同い年。そんな存在が、きょうもあの山里で奮闘してくれているのだと思いその方角を見遣るとき、どれほどに心強く励まされることか。

帰りのスーパーカブは軽やかに走り、思ったより早く日野へ帰着した。「やるぞ」という衝動が、エンジンにうつったかのようだ。日野で最後の5日間が始まる前に、再び僕は初心を呼び起こすことができた。

梅雨空でも山形さんの表情は湿潤を知らない太陽のようだ。日野へと至る広域農道で、どこからともなく微かににおってきたのは、真夏の夕暮れの気配。梅雨の明けていない山でそんなにおいのするはずがないのに、その気配は確かにあった。

彼女の気力がもたらす衝動を感じ取り、あたかも自らの周囲だけが季節を早く進めていたかのようだ。それとも単に、内なる衝動がはやる気持ちを抑えられず、記憶のなかの夏を呼んでしまっただけなのだろうか。

今年の政所茶を、楽しみにしていてほしい。

2020/07/10

満田製茶 16日目 7月10日 / 母

きのうはうまく文章にならなくて記事をお休みした。

今日は16日目の仕事だった。まずは煎茶の再製加工の仕上げを続ける。細かい茶葉を唐箕にかけて粉を抜く。さらに色彩選別機にかけてカリガネ(茎のお茶)を分別する。などなど。

それらを途中で切り上げて、冷蔵倉庫での作業をすることになった。お客さんから注文があったからだ。トラックとライトバンに分乗して倉庫へ向かい、たくさんのお茶を積む。それをお客さんのところへ運んだ。

2週間そこそこで筋力がつくわけでもないが、ちょっとだけ慣れてきた。どれくらい疲れる作業なのかという感覚が分かりはじめた。

ここまで記事を何度か読んでくださった方はお気づきかもしれないが、華々しい作業というものはひとつとしてない。茶摘みもしていない。なぜなら満田製茶は無農薬であるために、温暖な時期の2番茶の芽は虫たちに献上することになるからだ。

汗とか茶の粉とか製茶機械の轟音にまみれた作業の連続だ。

そのことを「感謝して」と無理に言うつもりはない。ただ強調させてほしいのは、いかなる茶の文化的な営みも、日々の何気ない1杯も、いけてる小売りのプロモーションも、インスタ映えも、日々の地味な労働を礎にしていることだ。ほんの少しでもいいから心に留めておいてもらえたら僕は嬉しい。

「案外地味やろ。こんなもんやねん。僕らみたいにてきぱきやれんでもええから、岡村くんにはこういう世界を知っておいてほしいねん。分かってくれたやろう」と久樹さんは言う。

彼は、自分たちのしんどさを売り文句にしてほしいと思っているわけではない。そういうことは望んでいない。でも、知っておいてほしいと望んでいる。

「無農薬とか、有機とか、やれるもんならやってみいと思うな。昔からずっとやってきたけど、うち、よう考えたら最先端やで…」と、時々彼は絞り出すように言葉をもらす。

無農薬有機(しかも殆どが在来種)の農家であり、問屋業と製造業も営む。礎は開業したおじいさんが作ったそうだ。多様な業務を一挙に抱え込むのは想像を超える大変さがつきまとうのかもしれないが、ある意味でリスク分散ともいえるし、何よりお茶のあらゆる側面を見ることが出来るという強さがある。

だから久樹さんの言葉は常に経験と勘で裏打ちされている。テキストの受け売りではない。そういう人の姿を、1ヶ月めいっぱい使って、見てほしいと言ってくれているのだ。

終業後、加工場を丁寧に掃除する。あす土曜日、僕は満田製茶で取材を受けることになっているからだ。インタビュアーは、島本町から来てくれる。久樹さんも掃除に熱が入る。そして、写してはならないイロイロについて指示をもらう。

「じゃあ明日また10時に来ますね。ありがとうございました」

「おおきに。ありがとう」

まだ時刻は夕方5時過ぎだ。真っ直ぐ家に帰るのが勿体なく感じて、図書館へ寄ることにした。しかしなんとなく思い立ち、図書館の向こうにある森の方へバイクを走らせてみることにした。

すると、正明寺という禅寺があった。聖徳太子が創建したと伝えられるものの焼失し、江戸期に再建。本堂は京都御所の一部を移築したものだという。

虫取りの子どもと、おじいさんが参道の向こうに見えた。虫取り網とカゴ。見かける頻度がちょっと少なくなったかもしれない。

禅寺であるという案内の看板を見ると、何となく心がざわついた。昨秋に台湾に居たとき、禅と老茶を教える老師の前で、僕は不意に泣き崩れてしまった経験があるからだ。

入り口から100メートルほど真っ直ぐに続く参道を抜け、山門をくぐると誰もいない。しかし丁寧に掃き清められた空気にはある種独特の緊張感と、しかし僕のように不意にさすらってくる者を拒まない包容力を感じる。

ようやく抱えることができるほどの大きさの鉢から蓮の葉が伸びて、溜まっている玉のような雨露は赤子の頬っぺたを思わせる。

本堂の扉は閉められていたので重要文化財であるというご本尊の像にまみえることはできなかったが、手を合わせてざわつく気持ちの中を覗いてみることにした。

きっとそうなるだろうと、わかっていた。

4年前に亡くした母親の姿で意識はいっぱいになった。

這いつくばってトイレを隅々まで掃き清めているところ。台所で漢方薬を煮出すところ。中学生のころ口ごたえして頭をパチンと打たれたときのこと。玄関の外で鉢に水やりをしているところ。ベランダで洗濯物を干すところ。辞職したいと申し出た僕を制止しようとした焦り顔。突然の病の宣告を受けてからの痩せ細った顔。「好きなことを、やってみたら…」と突然言った、死の2日前のこと。

それから、もとのとおりの朗らかな顔で僕を見ている、今の母の顔だ。

脇目もふらずに涙がやっぱり出てきてしまった。

お母さん、あなたにもう一度会いたい。どこを探せばあなたにまた会えるのか。宇宙の歴史のなかで、もう僕とあなたが会えることは、もうないのか。互いに違う姿でもいいから、虫でも魚でもいいから、あなたをあなたと認識できるその日が来ることは、もうないのか。いつまでこんなに寂しい思いをすればいいのか。

母の居なくなったその日から、もう何百回、何千回と繰り返し問うてはただ宙に消えていく想いが、また同じように湧き出てくるばかりだった。

母がそれに答えたことはない。ただ、こちらに微笑みかけているばかりだ。

久樹さんは言う。

「亡くなった人な、いつも見てはるで。なんかわかるねん」

そして僕の娘も、とっくにそのことを知っているようだ。「お父さんな、バーバに会いたいねん。バーバ、どこに行ってしもたんやろうな」と僕が言うと、いつも僕の胸をバンバンと叩いてこう返す。

「ここにいるでしょ」

お茶にはなんの関係もなさそうなこういうことが、僕の日々の力にもなっている。

2020/07/08

満田製茶 14日目 7月8日 / コアなもの

今日は満田製茶のお客さんである県内の小売屋さんのところへ、委託加工を受け付けて仕上がったものを届けるところから始まった。

「岡村くん、滋賀にもお茶を売りに来てるということやけど、こういうお店もあるのやから、ある程度わきまえてふるまうように」

「あはは、そんな…」

お店の方が笑う。

お茶を淹れてくださった。楽しい話に華が咲いたので、ついついその方は急須に湯を入れたまま、長いことそのままにされた。

僕はそういうお茶が理屈抜きに好きだ。なんだか思い出になるから。

「ああいうお茶は、なんだかいいですよね」と帰りの車で久樹さんに言う。

「ウム」といった顔をして彼は頷いた。

どういうお茶が本当にいいもので、どういうお茶がいいものではないのかという話を車内でする。比較するために、家電製品、調味料、靴、鞄などたくさんの品物が引き合いに出てくる。

「岡村くんの扱うお茶は、ちょっとコアなものなんよ」

確かにそうかもしれない。作っている人のそんなにいない在来種、煎茶になる直前の加工で止めた柳仕立ての緑茶、煎茶に押されてほとんど残っていない釜炒り茶、地方番茶、超小ロット生産の紅茶…

それらを作っている人、もちろん久樹さんも含めてみんなの顔を思い出す。

「流通量からすればコアかもしれませんよね。物珍しいと思います。でも僕、今は『コア』に見えているかもしれないものが、ほんとうのいいお茶なんだと思って、そういうお茶がきちんと残ってほしくて、扱っています。『コア』なものの中に、ほんものがあると思います」

こういうところが、久樹さんをして「危なっかしいし、ちゃんと一般的な茶を勉強して目を養うべき」と思わせるところなのだ。

一方で久樹さんは、僕のそういう考え方を決して否定はしない。なぜなら彼が自園で作っているものこそ、ある意味でかなりコアなものだからだ。問屋として市場を鋭く見渡す目を持っている人。その人が自園で作っているものこそ、市場価値を意識しないもの。彼はそういうものを飲みたいのだ。

飲んでくれた人たちがどんな反応をこれまでにしてくれたか、僕は少なからず見てきた。だから、市場的にはコアなものでも、ほんものだと信じている。

「子どもが緑茶は飲まなかったのに、これはガブガブ飲むんです」

これ以上の評価はないのではないだろうか。

しかし、ここに滞在している間は、その考えに固執していては何の意味もない。そのことは昨日の記事で書いたとおりだ。

「岡村くんがいい感性をもってお茶をみているのは分かっている。でも、扱っているものの特性を、その周辺のお茶をよく知ることで、もっと見極められるようになるべき」

帰ってからは全身粉まみれになりながらお茶の再製加工だ。

網を通して大きさ別に選り分けた茶葉を唐箕にかけたり、色彩選別機にかけたりして仕上げていく。

唐箕といっても昔ながらの風で飛ばすやつではない。満田製茶にあるのは、上方から空気を吸い上げることで軽いものを選別する唐箕だ。

それを色彩選別機にかける。少量ずつ自動的に投入される茶葉のうち、茎などを選り分ける。

そして火入れ乾燥機にかける。高温に熱した空気を通過させることで水分率を減少させ、香味を向上させる。

合間に機械を掃除する。このときに粉がたくさん飛ぶので、粉まみれになる。

細かいことがたくさんある。

「ひとつひとつのことに意味がある」

昨日、久樹さんはそう言った。

なんでそうするのか?どうして?いちいち考えていると頭が疲れてくるけれど、その負荷が必要なときなのだと思う。

考えてもわからんものは全部聞く。全部、ちゃんと答えてもらえる。働きながら勉強ができる。こんな環境があるだろうか…

休憩を挟んで久樹さんは焙じ茶の加工に取りかかった。お客さんからのオーダーに応えるのだ。

「お客さんによって好みが違うねん。いろいろオーダーがある」

「今回のお客さん、炒り具合について何と言うてるんですか」

「普通にって」

「普通?それ、いちばん難しくないですか?何が普通かって、人によって違うやないですか」

「そやねん」

少しだけ一緒に作業させてもらいつつ、焙煎機についてわからないところを質問しまくる。楽しい。理屈と感覚の融合した彼の作業の仕方は独創的だ。

「あれ、煙が青いやろ」

「青い?」

「そう。あれが白くなってきたらそろそろやねん」

「青から白?…温度計やタイマーはどう使うんですか」

「目安。だってこんな機械は、日によってコンディションが違うから。葉の色、煙、においとか、それぞれで考えるねん。で、これ(直火式焙煎機)も難しいけんど、あっち(砂炒り焙煎機)はもっと難しい。焙じ茶はタイミングなんよ。ほんで、失敗したら原料がパーになる。高価な原料を使うときは気ぃ遣うから大変やねん。炒り方やって、うちはちょっと独特やと思うよ」

以前にも砂炒り焙煎を見学したとき、彼は「焙じ茶の製造技術は、ちょっと自信もってやってる」と言っていた。迷いのない作業の連続に舌を巻く。後からついて回って、彼が「まだ」とか「もうええか」とか言っているときの茶葉を確認する。

焙じ茶は比較的安価であることが多い。しかし一度でいいから満田製茶の製造風景を見てほしい。たいへんなリスクを伴う難しいお茶であることがわかるのではないかと思う。

「やっと調子が出てきよった」といって、彼は残りの焙煎にとりかかった。見た目に何も変わらない焙煎機のどのへんが「調子いい」のか、僕には皆目わからない。

息子さんが出てきた。なんでも通販で買ったものに、出品者から昔の雑誌がおまけでついてきたのだといって父に見せに来た。平成3年に出版された車の雑誌で、それを一緒に眺める様子はどっからどう見ても親子だった。当たり前だけど。

粉まみれの日のシャワーはこの上なく気持ちがいい。今日は日野の地酒を少しだけ飲んで、本を読みながら眠気を待とう。

2020/07/07

満田製茶 13日目 7月7日 / 素人

目覚めがとても悪く、知らず知らずのうちに疲れの溜まっていることに思い当たる。いつもより食べられる量もちょっと少ない。

シャケを焼いて、ご飯、梅干し、バナナ、ヨーグルト。温かいお茶を何杯も飲む。家の梅干しはお守り。

食べると体温が上がって、少しずつ気力が湧いてくる。食べられるということは、とても大事だ。

13日目の仕事

・お茶の再製加工

・お客さんのところへトラックでお茶を納品

今日は大切な一日になった。

満田製茶は、何度か書いているとおりお茶の問屋であり、荒茶製造と再製加工のできる業者であり、無農薬の生産農家である。やることがとても多い。ひまを見つけて草取りをするが、しばらくは悪天候が続くために中での作業が多くなりそうだ。

覚えることがとても多い。使う機械もたくさんあるし、やり方を間違えると商品をダメにしてしまう。そしてどの機械も、とても危ない。

だんだんと「◯◯やっといてね」と言ってもらえる作業も出てきた。それだけに、

ひとつひとつの作業をこなすことで手も頭も一杯になってくる。キャパシティの小さな僕は、すぐいっぱいいっぱいになる。

ある作業を久樹さんとしていたときのこと。彼の作業のあとに出る「ごみ」を彼はなぜか捨てず、そのままにしてあった。僕は手順に従って作業を急ぐため、それらを捨てようとした。

その「ごみ」とは、満田製茶の仕入れた30kgいり茶袋のひとつひとつに貼られているラベルだ。そこには、どんな茶種で、いつ製造され、いくらで落札されたものなのか等が書き込まれている。外部に漏らしてはならない「資料」だ。

久樹さんは僕の手を止めて言った。

「ちょっと待って。それ、わざと捨てずに貼ってあるんやで。中のお茶と見比べてほしいから置いてあるねんよ。これかぶせ茶やし、岡村くんが、かぶせ茶は好きとちゃうのは分かってる。そやからといって、ちゃんと見ずに作業するのはあかん」

このとき僕の前には、3種類のかぶせ茶があった。いずれも製造時期と価格が違う。そのひとつひとつの違いを、価格を、見て判断できる目を養うために彼はそうしてくれているのだった。

「好きやないお茶やからといってちゃんと見ないのは、ただのお茶好き。素人と一緒。商売でお茶屋をするんやったら、茶をみて、いくらぐらいのものなのか判別できなあかんの。この作業は、ほんまは僕ひとりでしたほうが3倍早く出来るねんで。それでも岡村くんに来てもらってんの。好みに関わらず、広くお茶を見渡せるようにして欲しいから来てもらってんのよ。ひとつひとつのことに意味があんねん。なにひとつ無駄なことは頼んでへん」

無意識に、作業が「ただの作業」になってしまったその瞬間、久樹さんはそれを見抜いて指摘してくれたのだった。

そうならないようにと気をつけていたつもりなのに気を抜いたのだ。ガーンと撃ち抜かれるような思いがして、しばらく呆然としてしまった。

それと同時に、久樹さんの情にふれる思いがして、たまらなかった。本当に、たまらなかった。

手の内をすべて見せ、僕がお茶屋として戦えるようはからってくれている彼の気持ちを、無駄にすることがあってはならない。

「好きなものだけ見るのは素人と一緒」

昼を食べながら、彼の言葉を何度も何度も反芻した。

言葉は深く打ち込まれる釘のようで、そしてざっくりと斬る刀のようだと思った。

言葉に悪意があるとき、それは生涯に渡って抜けない釘であり、癒えない傷を残す刃だ。

でも情から出る言葉を受け取ったとき、言葉はこころを頑丈にしてくれる釘であり、偏狭な視野を切り拓いてくれる刀の一振りだ。

今日の彼の目を忘れないようにしよう。日野に来て2週間。やっと基本的なことに思いが至ったのかなと感じた。

午後はお客さんのところへトラックでたくさんのお茶を届ける。車中の会話は宝物だ。

「僕が満田製茶を主担当でやっていくことになってから『いつかは、僕のやってることを分かってくれる人が来てくれるやろうか』と思いながら地味に続けてきたんよ。そしたら岡村くんがこうして来てくれた。僕の思うお茶の姿を分かってくれる人が、ちゃんとおるんやと思ったな。感謝してるんよ。心の豊かな人には伝わるんやと思った」

「いろんな人のおかげで、久樹さんとこのお茶に出会えました。なにひとつ自分でやり遂げたということはなくて、ぜんぶ誰かのおかげです。ありがたいことですね」

「僕は3代目で親の真似をしてるだけ。岡村くん、創業者やんか。僕にはその度胸はない。もし僕がサラリーマンやったら、そういう行動はとってへん」

「僕は、前職から逃げたんです。逃げの起業ですよ。実家の稼業にしっかりついている人は、同じ自営だとしても本質的に違うと思う。尊敬する」

今日久樹さんと話したことをいくつか繋げていくうちに、思い当たったことがある。

思い上がるなということだ。

公務員を辞めてノウハウもないままに起業し、店を持たず、農家から仕入れた日本茶を誰のものか隠さずに販売しているという、たぶん珍しいことを生業にしている。

こういうことをする人がそんなにいないので、とてもちやほやしてもらえる。だから、つい気を抜くと思い上がってしまう。まだ3年くらいしかやっていないし、知らないこともとても多いのに、だ。

もちろん関心をもってもらえることは嬉しい。地道に頑張ってきた農家を知ってもらえるチャンスだからだ。

でも、そのせいで見えなくなることがたくさんあることを思い知った。

久樹さんにそのことを伝えると、彼はこう言った。

「それもええねん。年代ごとの気持ちとか勢いっていうのがあるやろ。ちょっと思い上がるくらいでもええと思うけど。そういう勢いは必要よ。ちっちゃい子ならちっちゃい子らしさってあるやん。小さいのにあまりにも丁寧やったりしたら心配になるもん。それと一緒で、30代、40代、50代と、ありようが変わっていくんやと思うな。30代のころの僕なんか、もうめちゃくちゃやったもん。もし今の僕がそのときの僕を見たら、『おまえ、もうちょっとしっかりせえ』って怒ってるやろな。でも、若いときってそういうもんやねんな。あはは」

先生。

2020/07/06

満田製茶 12日目7月6日 / 危なっかしい

また1週間がはじまった。

朝ごはんは、ご飯、みそ汁、梅干し、日野菜の漬物、トマト、バナナ、ヨーグルト、お茶。

僕の家には3年くらい前からテレビがない。でも1人で出張するときなどは、何となく点けてみる。話す相手がいないのでラジオがわりだ。ごちゃごちゃ言う番組ではなく、当たり障りないものを点けておく。

九州の豪雨被害の報せが聞こえる。取引先も被害を受けている。心配だが、日野にいる僕にできることは、茶と向き合うことだ。それが最善のことだと信じている。

出勤すると、久樹さんがもう動ける格好になっていた。いつもの、ほんのちょっとだけ前のめりの歩き方でいそいそと何やら準備している。

「今日はまず、冷蔵庫からトラックに50本ほど茶ぁを積みます」

週明けからいきなり体をしっかり使う作業だ。ひとつ30kgほどある茶の袋を、フォークリフトを活用しつつ、トラックの荷台にどんどん動かしていく。これらは明日、満田製茶のお客さんのところへ届けられるのだ。

腰と膝を意識して、疲れにくい作業方法を探る。久樹さんの動き方も横目で見る。盗む。

久樹さんの仕事ぶりを通じ、問屋が生産者と小売業者の間に入ることの積極的な意味を学んでいる。まず問屋があることで、相場が闇雲に変動することを防ぎ、流通価格の安定に貢献している。(生産者が小売事業者と直接取引をすることには、リスクもあるのだ)

それから問屋は目利きだ。彼等が出そろう入札会場で、問屋同士のせめぎ合いを経て、品質に応じた価格が提示される。一度の購入量は小売店の比にならない場合も多いと思われるため、このことは生産者が安心して茶をつくるモチベーションにもなり、またプロの集団の目に晒されるというストレスがあることで、馴れ合いではなく品質本位の取引を自然と促す役割があるだろう。

僕は「生産者から直接、少量を買う」という真逆の手法をとっている。というか、そうせざるを得ないから、その良さを磨き上げようと苦心している。

そうは言っても、満田製茶の茶の取り扱い量には舌を巻くばかりだ。注目すべきは、満田製茶はまだ新しい会社であるということだ。久樹さんのおじいさんが、戦後になってから始めた商売であって、滋賀県内の業者が掲げている古い看板はここには無い。

新参としての度重なる営業努力を感じざるを得ない。

昼休み、電話が鳴った。東近江警察署からだった。思い当たることはひとつしかない。木曜日に紛失したアパートのカードキーだ。

果たしてそのとおり、鍵はどなたかが日野町内で拾って、交番に届けてくれたのだ!久樹さんにそのことを伝え、急遽予定を変更して、昼からは東近江警察署を訪ねることになった。

近江鉄道の日野駅から八日市駅へ。乗客の数は本当に少ない。八日市駅からしばらく歩いて、警察署に入る。遺失物の担当窓口で免許証を提示して、もう決して戻らぬと思い込んでいた鍵と再会した。

「きみがどこかに行ってしまったことで、塩むすび運転士や、祖母の同級生に出会うことができたよ」と心の中で語りかける。(前記事参照)

いずれにしても、鍵を拾ってくれた方には本当に心からお礼を言いたい。

「えっ、もう帰ってきたん。早いな!」と、煎茶の選別作業を進める久樹さんが笑う。この人と仕事をしていると楽しい。

煎茶の選別作業をしばらく一緒に進めたのち、今日は僕と久樹さんを訪ねてお客さまがあった。2年くらい前に出店先で出会った、日野に暮らすEさんだ。彼女は日野に移住して、密接に農業とかかわる暮らしをしている。

日野ならではの田舎事情や、選挙のこと、有機農業のことなど話が次から次へと移り、気がついたら18時半くらいになっていた。日野を舞台に活躍するふたりの会話はすこし羨ましくもあった。人間くさい話、すごくいい。

「岡村さんは、どうして満田さんのところで滞在することになったのですか」とEさんが尋ねてくれた。僕は彼のことを知り、最初に連絡した5年前のある日のことから話をした。

「…という訳で、ここでしばらく世話になることになりました。ここのお茶はおいしいんです。30年も無農薬やってるのに、言うほどアピールもせず地味にやってる。そういうところに惹かれて。無農薬有機栽培で在来種といっても必ずおいしい訳ではない。こういう生産者のことをもっと都会の人に知ってほしくて」

久樹さんが言った。

「岡村くんが来るんで、除草剤、まけへんようになってしもたわ。あはは。僕は、自分の茶がいちばんうまいとは思ってません。もっとええ茶をつくる人はいくらでもいてる。そやけどウチの茶はやっぱり飲み慣れてるし、飲みやすいから好き。それにしても岡村くん、危なっかしいでね。仕事辞めてお茶屋になるっていうんで、それはやめとけといって止めたけんど、ほんまに辞めやった。ちょっと頑固なところがあるから、危なっかしくて、お茶のことをいろいろ見てほしかったのと、それから何かと人手も足りんから、来てもらってます。」

もはやお父さんが息子に言いそうなセリフだ。

「岡村くんね、いい感性で茶をみるねん。それに、一緒に仕事してると楽しいです。頑固やから」

照れる。嬉しい。来てよかった。そんなことを言ってくれるなんて。Eさんが引き出してくれたのだ。

Eさんが帰った後、久樹さんはそそくさと工場に戻って片付けを始めた。

「なんかやり残したことありませんか」

「ああ今日はもうええよ。あがってあがって」

久樹さんは照れ隠しをしているように見えたが、それはたぶん僕がそう思っているだけだ。

帰り道、地元の小さな商店である「八百助」さんで魚を買う。近くの大型スーパーとは違って、とても新鮮で味の良い魚を置いている。

今日はしめ鯖を買って帰った。大雨でびしょびしょになりながらも帰宅して、雨で冷えた体をあつあつの風呂で温めた。

一歩ずつ日野の町の人たちと距離を縮めていく。

食後、八日市で買い求めたあるお茶屋に並ぶ新茶を淹れた。おいしい。

油断すると茶のことばっかり考えている。

2020/07/05

満田製茶 中休み / ほしがきれいになりますように

木曜日昼に仕事を切り上げて、いったん地元である大阪の島本町へ戻った。

しかし改札を出て荷物を整理していると、顔の青ざめる事態に気がつく。日野のアパートの鍵がない。

どこをどう探してもない。青を通り越して白い顔になり、近江鉄道バス、近江鉄道、夕食を食べたラーメン屋、JR、滋賀県警とあらゆるところに問い合わせるも努力虚しく、ない。

家に帰着したのは午後9時。万が一にもアパートに差しっぱなしということがあればいけないと思い、そして満田さんに「見に行ってほしい」とも言えず、(アパートからバス停への歩いた路上も確認したかった)僕は車に乗って夕方に出たばかりの日野へ舞い戻ることになった。なんということだ。本当に、なんということだ。

「シャワーだけ浴びていくわ…」と言い、呆れ返る妻と、状況の飲み込めない子どもたちを尻目にする。だらしのない父親であることをとくと見せつけ、車に乗る。こういうところのツメの甘さがいつまで経っても直らない。

京滋バイパスと名神高速道路を通って、蒲生スマートICで降りて日野のアパートへ向かった。やけっぱちになり、中村佳穂さんのCDを大きな音量で流したが、このときばかりは彼女の歌声も気持ちの焦りを止めることができなかった。

鍵は無かった。アパートからバス停への道にも落ちていなかった。念のため日野駅へも行ってみると、終電を送り出した駅員さんが駅舎を出て一服している。彼は終業後にもかかわらず、丁寧に探して社内での問い合わせをしてくれたが、だめだった。

「申し訳ありません」といってペコペコされるたびに、むしろこちらがズキズキとしてくる。

塩むすびが人間になったかのような純朴なたたずまいの駅員さん。一瞬だけ癒された。昭和のハートフルな人間ドラマから平成を飛び越してきたような、信じられないくらいの塩むすび感だった。

交通費がもったいなく、帰りはトボトボと下道を行くことにした。眠気がしんぼうたまらなくなり、信楽のコンビニで仮眠をとる。午前1時。こんな時間に、おっちゃん2人が何やら大きな声で話している。コーヒーで眠気が飛ぶどころか胸がむかむかした。

最初に日野に来たときカブで通った道を帰る。深夜だけに車はほとんどない。信楽の陶器屋の店頭にあるばかでかい狸の置物や、朝宮の闇に沈む茶畑が、恐ろしかった。天ヶ瀬ダムは青いLEDライトで照らされていた。

午前2時すぎ。家に帰るとそのままふらふらと布団に潜り込む。妻の首筋に顔を押しつけて心の安息を求めたり、子どもの寝顔をしげしげと眺める余裕もなく、眠りに落ちた。なんという一日だと思い返す暇もなかった。とにかく疲れた。

翌日、気を取り直して娘の幼稚園の参観に行く。コロナのあおりで、保護者は1名だけ参加を許された。参加者のうち父親は僕ともう1人だけ。どうしてそんなに少ないのだろうと残念な気持ちになる。

七夕の短冊づくりをする。願いごとを書いてくださいと言われ、娘に聞いた。

「どうする?お願いごとでもいいし、ありがとうと思っていることでもいいんやで」

娘の答えはこうだった。

「ほしがきれいになりますように」

雷に打たれるような思いがする。感動に打ち震えている間に娘はどうにか平仮名でそれを短冊に書き、続けて星と月、そして太陽をも短冊に描き込んだ。

「なんで夜空にお日様があるの?」

「あのねえ、いつもわたしのこと見てくれてるから描いた」

2度目の落雷が体を貫き、僕は「君には教えることなど何もない」と思った。ただ、衣食住の安心だけを保証してやるだけだ。

やはり帰ってきてよかった。

交通機関各所への問い合わせを再びするも、だめだ。鍵がないことを伝えるために満田さんに連絡をするとお母さんが出た。詫びに詫びを重ねた。スペアキーを用意してもらうことになった。

意気消沈しつつ、家で借りている山手の畑の草刈りをする。体を動かしているほうが楽だった。

そのまま金曜と土曜を家族と過ごし、ゆっくりとした時間を味わう。ところが、ちょっと休めばたちどころに疲労がじわじわと体の内から出てきてたまらなかった。よほど疲れていたのだと思う。気がつかないうちに精神の疲労を溜めていたのだと気づく。

少し畳の上に腰掛けると、重力に勝てない。お尻から根っこが生え、畳の謎の引力に吸い寄せられて何度も居眠りをした。

それでも、再び日野に行くのはやはり楽しみだった。

そして今日日曜の午後、家で昼食を摂ってから日野へ出発。妻が、畑で貰ったというゴーヤを使ったチャンプルーを持たせてくれた。妻のことはいつかきちんと書こうと思うけれど、この人以上に僕のことを大目にみてくれる人はいないだろうと思う。

近江八幡駅で降り、鍵があたりに落ちていないか、先日通ったところを隈なく探す。やはりないので、その場で滋賀県警に紛失の届け出を出した。望みは薄いがやれることをやっておく。

近江鉄道に乗り換えて、八日市を経由して日野駅へ降り立った。もう見知らぬ土地ではなく、ぼくの故郷のひとつだ。

ところで、降りるとき、車内アナウンスにどこか聞き覚えがあった。ふと運転席を見遣りながら降りると、なんとそれは塩むすび氏ではないか!同氏は運転士だったのだ。

あのときの鍵なくし男が横を通っているとも知らず、彼は今日も働いていた。なんだかとても嬉しく、僕はうきうきした気分になった。

氏の操るガタガタの列車は、次の駅へと進んでいった。

さてスペアキーを貰うために、アパートではなく満田製茶へ行かなければならない。このあたりはバスの本数が少ないので、駅にあった観光案内所を物色する。すると、バスの時刻や停留所のことを詳しく案内してくれるおっちゃんがいた。ガイドのチョッキを着ているが、その下はヨレヨレの普段着なのが好きだ。

何となくおじさんと話を続ける。

「ぼくのおばあちゃんが、日野の人なんですよ」

「へえ、そうですか」

「川原っていう集落があるでしょ。そこの」

「桜のとこやね」

「はい。◯島っていう家なんですけどね」

「え、◯島??」

「はい。昔は大所帯でしたけど、今は◯◯さんと◯◯さんのご夫妻がいるだけです」

「あんた、◯島って、さっちゃんとこか??」

「えっ、知ってはんのですか???」

「同級生や。さっちゃん、前の同級会にも来てくれたんや」

「まじか…まじか…あの、おっちゃんのお名前は??」

するとおっちゃんは名刺を渡してくれた。ときどき観光協会に来ている地元のボランティアガイドだった。

「あんた、さっちゃんの息子か?」

「ちゃいます。孫ですよ」

「そうかいな…さっちゃんな、若いときべっぴんやったんやで」

「昔の写真見たら、確かにかわいい」

こんな出会いがあるものなのだ。鍵を無くしたおかげだ。

おっちゃん、記念に握手して!と手を出すと、おっちゃん快く応じて、たいへん力強く握り返してくれた。きっとこの人は農業をしてきたのだろうと思う手だった。

「不幸中の幸いとよく言うが、これは不幸中の幸いが不幸よりも大きくなる極めてまれなケースや。これは幸いなことや…」としみじみ感じ入りつつ満田家へ向かった。

ジーンズ姿の久樹さん、「岡村くんでもこんなことあるんやな」といってスペアを渡してくれた。「いえ、こんなことばっかりです。僕は。妻がようく知ってます」

久樹さんはアパートまで送ってくれた。そうして別れ、ぼくはすぐさま起こったことを説明するために祖母に電話をかけた。

「もしもし。どや日野は。しんどいやろ」祖母は言った。僕が日野にいることはあらかじめ話していたのだ。

「しんどいけど楽しいよ。なあおばあちゃん、◯◯さんっておっちゃん知ってるか」

「そりゃ知ってるよ」

「その人に会うてん。日野駅で」

そしていきさつを話すと、祖母はぼくの思ったほど驚きもないといった様子で「ふうん…」と話をした。だがよく聞いてみれば、僕とおっちゃんには血の繋がりこそないものの、遠戚であることがわかった。狭い田舎だからそんなことは珍しくもないのだろうか。

「おっちゃんが『若いときべっぴんやったと言うてたで』」と言ってみれば、祖母は「へへへ…そんな…」と言い、なんとなく赤ら顔になっているのが電話越しにわかった。おいおい、あんたら若いときになんかあったんか?と一瞬思ったが、何も聞かなかった。

こうして日野の夕焼けも暮れる。鍵をなくしたおかげで、胸のぽっとするような出会いがあった。

妻のゴーヤチャンプルーを食べた。ものすごく寂しい気持ちがした。

明日から、日野での生活は後半となる。2週間のうちに、どこまで多くを吸収できるだろうか。


2020/07/01

満田製茶 10日目 7月1日 / 盗み

早いもので、日野での生活は10日目になった。

仕事からあがってアパートへ向かうときの風が爽やかだ。単に汗が乾くからではなく、茶の世界のうち今まで見えていなかった部分を無数に目撃しているからだと思う。二足歩行を覚えた子どもの目線のように、住んでいる世界は同じでも見渡せる広さがずいぶんと違って感じられる。

今日の仕事

・委託加工 緑茶柳仕立て

・自社販売 煎茶の再製加工

・仕入れた茶の冷蔵倉庫移送

・滋賀県茶業試験場を訪問

柳仕立ての「柳」とは、煎茶製造のうちいくつかの工程をわざと省いたもの。茶葉サイズ別の選別や切断加工を最小限にし、火入れ乾燥をする。比較的安価で販売されていることが多いものの、決して侮れない。値段と、味の良し悪しは必ずしも連動していない。

実は僕が販売させてもらっている「日野荒茶」も、柳仕立てのお茶だ。彼が自園で育てている在来種を、必要最低限の加工だけして送ってもらっている。どうして手数の多い煎茶にしてもらわないのかというと、柳のほうがおいしいと僕は思っているからだ。市場価値としては柳だと低く見積もられてしまうが、内質は必ずしもそうとは限らない。さんざん試して達した結論だから、満田さんの茶に関しては、自負がある。

それから煎茶の再製加工。再製とは、荒茶まで製造の終わっている茶を、仕上げていく様々な工程のことをいう。形状選別、切断、火入れ、唐箕、色彩選別、合組…。いろいろある。

僕はこれらについてテキストでは習った。そしてそれをもとに日本茶インストラクターの資格も取得した。だけれども、ここ満田製茶で久樹さんの指示のもと一緒に進めていく各工程は、完全に真新しい体験だ。工程を彩る技術を目の当たりにすることが出来るし、茶師としての彼の経験則や感性を、真横で話を聞きながら教えてもらえるのだから。これ以上の学校が、今の僕にとってあるだろうか。

「工場での仕事の半分は、掃除やで」と彼は言って、ブロワー、掃除機、ほうき、ちりとりで何度も床を掃き清める。テキストに載っていないことに費やす時間がものすごく多い。

頭も使うけれど、体で覚えていく。その感覚は、ふだん頭でっかちなことばかり考える自分にとって有難い。

「やっぱり体は動かして、しっかり働かなあかんねん。働かざるもの食うべからずやねん」と彼が言えば、やけに説得力があり反論の余地もない。(もちろん彼は、どんな嫌なことであっても食いしばって盲目的に頑張れと言っているのではない)

それから冷蔵倉庫にたくさんのお茶を移送して体を動かす。細身の自分ではあっても、体のどこをどう使えば少しでも楽にできるかを、久樹さんの動き方を見ながらひたすらに盗もうとするばかりだ。少しずつ分業のできる場面も出てきて、うれしい。

あまりにもやることが多いので、彼もすべてを細かく教えてくれるわけではない。だからそこは見て勝手に真似ている。

盗むのは楽しい。それで彼が何も言わなければ、まあそれでええよ、と言ってくれているのと同じだからだ。

今日は滋賀県の茶業試験場を途中で訪ねることもできた。試験場というのは栽培と製造についてトライアンドエラーを繰り返し、実地に反映させることのできる技術を開発している公的機関だ。品種改良や農薬の効力検査などもこうした場所で行っている。

久樹さんは、「民」で働く存在として、「官」の相手に対して思うところを言葉を選びつつしっかり伝えていた。

「昔はな、僕は言われっぱなしやってん。そやけどあるときから気にならんようになってきて、だんだんものを言うようになった。やましいことなんかないんやもん。それやったら、どう思われたってええやろ?」

今日も加工場で何度も「どれがええ茶やと思う」と聞かれた。最初びびって答えていたが、だんだんと楽しくなってくる。

そして分かってきたのだけれど、久樹さんはとても優しい茶の見方をしている。甘く鑑定しているのではなくて、その茶のいいところを見極めて、どうすれば活用できるかを考えている。

ある茶の火入れと選別が終わって仕上がったものを見て、彼はそれを見せに来た。「これ、◯◯さんの。最初どうかなと思ったけんど、こうして見てみると、なかなか男らしい茶やと思わん?」

それからも「乙なもんや。なかなか男らしい」とぶつぶつ言っている。「乙な、男らしい茶」って、どんなだと思いますか?おもしろいでしょう。

明日もひと働きしたら、いったん地元に帰る。娘の幼稚園の参観があるからだ。

しばらくぶりに家族に会える。全員抱きしめる。

2020/06/30

満田製茶 9日目 6月30日 / 優しすぎる

今日の仕事

・ひみつ

・委託加工 荒茶 柳仕立て

・委託加工 煎茶 仕上げ

・落札した茶の受け取り

今日の一日は、言わないほうがいいことからスタートした。それは特別な計らいでもあるので、詳しいことは書かないでおきたい。

そこで僕は、初対面となる茶の事業者とたくさん出会った。頭を下げっぱなしだ。後ろから声が聞こえてくる。ひそひそ声でも分かる。僕は、人が自分のことを言っているとき、異常なくらいそちらに神経をもっていかれる。

「満田さんとこの、あの細い人、誰や」

久樹さんは僕の正体をきちんと説明してくれていた。僕はしゃしゃり出るのも良くないと思い、黙って引き下がっていた。

ここでは体格でまず人を判断されるきらいがある。僕は細い。中学は剣道、高校はテニスをしていたけれど、以降は運動嫌いだし、筋肉がそんなに無くてもどうにかなる都会暮らしだ。

頭でっかちに考え気味の日々を後悔する。ここでは力のない人間はどうも見くびられてしまうのだ。

優雅にみえるお茶という世界も、はじめはこのような空気のなかを通り抜けている。ガソリンと茶埃と汗にまみれ、むさ苦しくも爽やかな、農業のリアルな現場だ。そしてその世界は、相場と駆け引きのなかで商品価値が決定していく非常にシビアなものでもある。

産業として茶が存続しているのは、そのような現場で問屋さんたちが生産者と一般のお客さんの間に入ってくれているからだ。彼らの感性と商魂が、生産者たちの渾身の作の市場価値を決める。ときにそれは、その茶の味や香りとは別なところで決定されることがあることをも今日は知りえた。

動くお茶の量が違う。そのスケールのなかで、「にほんちゃギャラリーおかむら」などは、数字のうえではミジンコみたいなものだ。

「岡村くんがやろうとしていることをハッキリさせていくためにも、市場や相場という世界が主流であることを知ってもらい、どのようなものが市場価値を持つのかを判断できる目を持ってほしいねん」と久樹さんは何度も言う。

「岡村くんはええ意味で頑固やしそれはええねんけど、もうちょっとシビアなものの見方をして、商売としてきちっとやっていくことも必要なのよ。岡村くんが直でお茶を買ってる農家はみんな優しいんよ。もうちょっと広く見なあかん。それに、直ではない買い方というのも知っといたほうがいい。実際にやらんにしても」。

外出先から2人で戻ると、さっそくいくつかの茶葉を並べる久樹さん。

「どれがええ茶やと思う」

日に一回はこのテストを受ける。

「ええ茶っていうのは、僕の好みのことですか。それとも市場価値のことですか」

「市場」

「それやったら、これ」

「骨太で色味にも深さがあるし。においにも力がある。で、こっちは水くさい感じがする。乾燥が甘いんと違いますか」

「正解やね」

今日は雨も強まって、外の草取りができない。雨ということは、草がぼうぼうに伸びてくるということだ。次の晴れの日は大変なことになるだろう。

外で仕事ができないので、加工場で作業をする。まずは、緑茶の「柳仕立て」という委託加工をする。使う機械はみな大型で、掃除にはじまり掃除に終わる。違うロットのものが混入しないように気をつけないといけない。

生産者から預かった荒茶を大きさによって選別し、大きすぎるものは切断機を通すことでサイズを均す。

サイズ別に選別された茶葉を乾燥機(上写真手前)に通す。ここで茶葉の水分量を減らすことで長期保存のできる状態にして、なおかつ香味の発揚を促すことができる。

火の入った茶葉は静電気を利用した選別機を通る。茎が静電気で吸着され、分けられる。

最後に全体を均一にするため合組機を使って混ぜ合わせる。

さらに、煎茶の仕上げ加工にもとりかかる。柳仕立てよりもより工程の多い選別を経て、切断、火入れ、茎選別、合組。これも細かい掃除やちょっとした機械の調整があり、手数が多い。

選別に使う篩い(ふるい)も、原料の状態によって久樹さんはかなり時間をかけて悩んでいた。そのやり方を誤ると、原料に対する歩留りが非常に悪くなってしまう。預かったものをいちばんよい方法で仕上げてお客さんに返す、責任の大きな仕事だ。

僕は細かい調整なんてまだできないから、その周辺の細々としたことで久樹さんのアシスタントにまわる。でも、テキストで学ぶ製茶方法のリアルをみ続けられるのは楽しい。

ときどき後ろから久樹さんの動き方をみて、主体的に判断して動けることが無いかを探す。

ほんの少しずつ、工場での動き方を体で覚えていく。子どもの成長と自信にも似た感覚だ。寝返りがうてる。ハイハイができる。つかまり立ち。歩行。

お父さんも作業に入っていたので、その作業もフォローする。お父さんはもう80歳を超えているが、とてもそうは見えない。

かつてはおじいさんも居り、さらには雇い入れたスタッフもいたから、賑やかだったそうだ。その当時は市場も非常に活気があり、お茶の市場価格は今よりもずっとずっと高かった。

乾燥機のガス火ゆえ、加工場の気温がどんどん上がって汗が止まらない。

… 

今日の仕上げに、満田製茶が落札した茶葉を集荷場まで取りにいく。トラックで向かい、久樹さんがひょいひょいと運び上げてくる30キロ入りの袋を荷台に並べていく。

体を一気に使う瞬間だ。腕力よりも、腰や脚の使い方のほうがひょっとすると大事かもしれないと思いながら作業する。

17時となり、終業。久樹さんもどこか一息ついた雰囲気になり、スーパーカブを見にくる。久樹さんはカブが気になるのだ。

「ええな。何速あんの」

「4速。以前のカブと違ってセルでスタートするんで、蹴らんでもええんです。どうです1台。20万円と少し」

「僕は900ccくらいのが気になるんよな」

「そんなん乗って、久樹さん事故しはらへんか怖いなあ。死なんといてくださいよ。ぜったいに困ります」

「へへへ。言うてるだけで、買わへんよ」

「ちょっと乗ります?」

「ええわ。新車こかして傷つけたら、えらいことやん」

「わはは。そしたらお疲れ様でした。また明日です。ありがとうございました」

「おおきに。明日もよろしく」

雨が激しく降る中をスーパーへ向かい、足らない食材を買って帰る。かんたんな自炊はけっこう楽しい。

本を一冊買ったけれど、今日も疲れた。読めるかな。


2020/06/29

満田製茶 8日目 6月29日 / 無農薬の真髄?

日野に来てから2回目の月曜日を迎えた。

今日やったこと

・草とり(手作業)

・仕入れた茶を冷蔵倉庫へ移送

・草刈り(草刈機)

日差しのきつくない時間を利用して茶園の草とりをする。久樹さんと話をしながら、ぶちぶちと草を抜いていく。やぶがらし、自然薯、朝顔、ウリの蔓、笹…コツや段取りも少しずつ分かってきた。どの草がどんなふうに生えていて、どう攻めれば効率的に取れるか。どうすれば疲れにくいか。

草とりは満田製茶の仕事の核なのかもしれない。

「こういう淡々とした作業も悪くないやろ。余計なこと考えへんし。大切な時間やで」と久樹さん。いつもはどんどん先にいく彼だけれども、今日は話が弾んで僕と同じペースで進めてくれた。

「無農薬をするようになって30年くらい経つけんども、ここ数年でやっと分かるようになってきた。無農薬の茶の真髄が。やっぱりな、茶は無農薬で作らなあかんねん。無農薬の茶ぁは、何かちゃう。うまいねん。でも、お茶屋さんたちがいう旨味のことやないよ」

彼は何を感じているのだろうか。

彼は問屋として、市場の価値観に基づいたお茶の鑑定ができる人だ。茶を見たら人がわかるねん、と彼は言ってはばからない。

彼が仕入れてきた茶をみて「めっちゃええ茶やんか」と惚れ惚れしている場面をすでに何度か見ているが、そのときの「ええ」は、彼が自園の茶について言っている「ええ」とはまったく別物のニュアンスを帯びている。

「こうして岡村くんも来てくれるから何とか続けられるものの、いつまで出来るかわからへん。そのうちに1度だけ除草剤使わなあかんときもあるかもわからへん」と彼は大真面目にいう。

僕は、彼が例え農薬を使う農家になっても、彼のことを追いかけ続ける。

「岡村くんは頑固や。ええ意味での頑固やけどな。頑固。お母さん大変やったと思うわ。感謝せなあかんで」と彼は草をとりながら話し始めた。

「前職を辞めたいと言ったとき、母親は参ってしまっていました。本当にどうしたものかと悩んで、親戚に相談までしてたくらいです。辞職も起業も、きつく反対された。でも、病気で亡くなる2日ほど前に、突然言うたんです。『やってみたら。あなたの人生やから』って」

それを聞いた久樹さんは、神妙な顔をした。「ええ…そうなんか…。実を言うとな、僕が岡村くんに頼んでこうして来てもらっているのは、お母さんを感じるからってのもあんねん。お母さんがな、僕に言うてる感じがしてたんや。『息子がちゃんとやっていけるように、茶を教えてやってください。頼みます』ってな、なんかわからんけど、お母さんに言われているような気がしてたんや。そういうこともあって、来てもらってんの。せやからここにいる間は、先入観を捨てて、素直な気持ちでお茶をみてや。あと、仏壇は毎日参るんやで」

「はい」としか言えなかった。生前の母親なら、そういう頼み事をきっとやっていただろうと思うからだ。

それからもいろいろの話をした。

子どもの教育とデジタル機器の話になったとき、話題はYouTubeのことに移った。珍しく彼は言葉を荒げ、こう言った。

「YouTubeって、わけのわからんもんばっかり流れてんのな。なにが、『はじめしゃちょー』やねん。おれな、ペラペラしゃべってばっかりの男は大っ嫌い!しょーもない」

その1時間くらい前に、「僕はめったなことがなければ怒らん」と言っていたのに、もう怒っている。笑ってしまったけれど、彼は大真面目だ。

それから彼は、草刈機についてレクチャーをしてくれた。「田舎でこれが使えんかったらばかにされる」といって、まだ使ったことのない僕に、安全第一の指導をしてくれる。

意外にも重たくてびっくりした。やっているうちに右腕が棒になる。コツが掴めない。午後の後半にも草刈機を使ったけれど、「時間かかりすぎ。その4倍のスピードでやらんならん。金属チップが危ないからやと思うけんど、腰が引けてるわ」と彼は笑った。

こういう風に言われると燃えてくるので、挽回したい。

午後は、彼が事前に仕入れていた茶を業務用の大型冷蔵倉庫へ運ぶことになった。30kgある袋を次々にトラックとバンに積み、彼はトラック、僕はバンに乗り込んで倉庫へ移動した。

倉庫の中は気温5度くらい。はじめ涼しいと思うけれど、じっとしているとどんどん冷えてくる。そのなかで彼は自分の背丈より高いところへ30kg袋を積み上げる。すごい。

僕には難しい作業だ。

「慣れやねん。やってたらできるようになる。岡村くん今何歳?34?そんなん、バリバリに動く年やん」と50代の彼は言った。またまた燃えてくる。

そこは地域の集荷場も兼ねているところだ。ここに茶農家たちが荒茶を持ち込んで、ロットごとのばらつきを均すために全量を混ぜ合わせる。それが入札に出される。落札された茶を問屋たちが引き取りに来る。

少しずつ、お茶の流通が見えてくる。教科書でしか見たことのなかった繋がりが、そこで働く人々の汗と茶の粉塵とともに目に映るのはとても新鮮だ。

何もかもを、彼は見せようとしてくれる。生涯でもきっと忘れ得ない学びの時間になるのだろうと、今のうちから思う。

今日は身体を酷使する1日だった。腕がすでに棒のようでキーボードも打ちにくい。明日の朝起きたときの筋肉痛が怖い。

30代の若さなんて関係がない世界。日々身体を使って仕事をしているかどうかだ。腕力であまり役に立っていないことが歯痒くも、それでもなお彼が見せよう、感じさせようとしてくれているものを必死で頭に叩き込み、手指の感覚に馴染ませようとする。

満田家に戻ると、お母さんがおかずをパックに入れて用意してくれていた。それを持ち帰って、買い足した食材も使って夕食をつくる。満田家の人たちは、みなこざっぱりとした人で、話していて気持ちがいい。

風呂に入ってから島本の家族とビデオチャットをすると、娘が虹を描いてみせてくれた。

世界は、いまかつてないくらいに鮮やかに見える。

もっと見たい。もっと知りたい。

2020/06/28

7日目(休暇)6月28日 / おいしいお茶とはなにか

日曜日も休暇なので、終日、日野町の各所を散策した。

今日は少し趣を変えて、日野の話ではなく「おいしいお茶」のこと。個人のFacebookアカウントで午前に書いたことを少し膨らませてみる。

まずご一考いただきたいのだけれども、「おいしいお茶」ってどんなお茶だろう。誰かがそう言っているという価値基準ではなく、あなたが思っている「おいしいお茶」。

答えは何通りでもありそうだし、どれも間違いではないと思う。誰かの入れ知恵ではなく、あなた個人の感覚である限りは。

おいしいお茶って何だろうと改めて考えていると、スーパーにこんな商品が並んでいるのを見つけた。

まず最初に断っておきたいのは、僕はこういうものを頭ごなしに非難するつもりはない。「無添加 自然派」をアピールしたり、これを好んで飲む人を否定したりする意図もない。

ただ、僕の個人的な嗜好からすると、飲むと吐きそうになることがある。

それでも、ちょっと立ち止まって見つめてみよう。「添加物!!」と脊髄反射的に反応せず。

ふつう、お茶の原材料には「緑茶」などと書いてある。フレーバードティーでなければ、殆どの場合はそれだけだ。本当に、それしか入っていない。周辺の藪から飛んできた笹や杉の葉が混入することがあるけれど、完全に除去するのは難しい。

ときに「濁り」とか濃い目の味付けを意図するときには、「抹茶」が付け加わっている。抹茶入り玄米茶などがよく売られている。

しかし、この商品にはそれに加えて、「固形茶」というものが使われている。粉末緑茶+でんぷん+青海苔からなるもので、どうやら粉末茶と青海苔を固めて伸ばし、煎茶のような見た目にしたもののようだ。

さらには調味料(アミノ酸)として添加されているのが、恐らくグルタミン酸ナトリウムだと思う。

青海苔は何のため?

それはきっと、玉露やかぶせ茶といった茶種独特の栽培に由来する「ジメチルスルフィド」という化学成分のにおいを再現するためだ。磯のにおいを思わせる。そのためにわざわざ手間をかけて「固形茶」なるものが製造されし、必要な業者はこれを仕入れて混ぜる。

アミノ酸は何のため?

アミノ酸はどこにでもある旨味調味料で、加工食品の多くに添加されている。お茶は添加しなくてもアミノ酸を合成する植物で、玉露やかぶせ茶、それに一部の「高級煎茶」や茎の部分には特に多く含まれる。

それなのにどうして添加しているのかといえば、原料の緑茶にあまり含まれておらず、それが欠点として認識されているから。下級原料の欠点を補わんとするために、わざわざアミノ酸を仕入れて添加している。もっと言えば、本来は熱湯で淹れると他の成分とのバランスの中で感じにくくなるはずの旨味が、添加した茶なら感じられるという側面もある。

こうして海苔とアミノ酸により、一般に「高級」とされるお茶特有の香りと旨味を再現することができる。加えて抹茶が味に厚みを持たせ、視覚的にも緑の強いリッチな雰囲気の商品ができるということだ。

このような商品を通じてわかることがある。

ひとつ目。一般に何が高級だとされているのか。玉露などに特有のキャラクターは、高級品の証なのだ。それがなければ、ランクダウンする。

ふたつ目。高級とか下級とかは、あなたの嗜好とは一切関係ないところで決められているということ。

もちろん、このような茶を好む人もいる。だから販売している。

あるとき初対面の女性が、似たような商品の空袋を持って「これ、ありませんか」と訪ねてきたことがある。

僕はないと答えてから「失礼ですが、だいたい幾らで購入したのですか」と聞いた。するとその女性は、100gで5000円くらいしたと答えた。目を覆わんばかりの、申し分ないボッタクリだと思う。

その値段で売れるのだから何が悪い、と業者は言うだろう。でも、売れるならいくらで売ってもいいのか。これは人としての信条の問題だ。

一方、この商品を求めた女性を否定してはいけない。自説をぶつようなことはしなかった。それは、この人の好みだからだ。「そんなものを飲んでいるようでは…」だなんてもし思うことがあったとしたら、いつかしっぺ返しが飛んでくるし、それ以上の学びは望めないだろう。

しかし女性は残念そうに去っていった。今でも個人的に心残りのある出来事だ。

「素材がシンプルで、おいしい食品」に似せたものが売られているのは何もお茶だけではない。たとえば調味料の全般にみられる。市販の味噌や梅干しもそうだ。

日本は、そのようなものを開発するのに莫大な開発費をかけて工夫することに長けた、器用な国だと言ってもいいのかもしれない。1億人以上も人がいるのに、その人々がみな都市に住みながらも添加物の少ない食品にありつこうとするのには無理があるかもしれない。

だから大量生産を悪者扱いしてはいけない。農薬も、化成肥料も。

たいていの場合、生活は大量生産の恩恵にあずかる他ないのだと思う。そしてもちろん今のところ、他国の人が耕してくれる他国の土壌がなければ成り立たない。これを資本にものを言わせた「仮想の国土」と言ってよければ、日本は実際の国土よりもかなり広い面積を支配していることになる。

日本が帝国を名乗った時代と、結果的には似たようなことをしている場合はないだろうか?

と、話が逸れてしまったけれど、とにかく市場規模がものすごく大きい以上、昔ながらのものを当たり前に入手するのは簡単ではない時代。

自分で生産するか、お金をたくさん出すか、巨大なマーケットから足を洗って活動している業者から入手するかだ。

それに加えて、多くの人の嗜好からかけ離れつつあるものを、ときに「高級」と銘打って販売したり、それと偽って別物を売ったりする時代だ。

お茶だってそうだ。高級かどうかは口にする人が決めたらいいし、値段の高い安いはあまり関係ない。「目利き」の芸能人に高級品と下級品を鑑定させて遊んでいるテレビ番組があるけれど、そういうやり方には我慢ならない。

安い番茶をおいしいと思う。それならそれでいいじゃないか。でも一歩進んで、なぜそんなに安いのか、問題はないのかと考えてあげることも必要だ。

市場規模と、人の嗜好を左右しようと躍起になる業界を前にして、それでも自分のからだの感覚とこころを総動員し「おいしい」と思うものを探すのは大変に思われる。でもそれは舌が肥えていなければならないと考えるからだ。もちろん、そんな必要はない。

僕も同じようにもがいて、次から次へとお茶を試しながら気づくことがあった。それは結局商品そのものではなく、人なのだ。

誰がどんなことを考えてつくったのか。どんな人なのか。どこに住んでいて、どんな暮らしをしているのか。そしてあなたは、それらのどこに共鳴する思いを感じるか。

さもなければ人は、ただのグルメ評論家になってしまう。これでは人に感謝することがなくなるだろう。

「おいしいもの」は、人をみて決めるものだと、僕は今のところ考えている。

2020/06/27

6日目(休暇) 6月27日 / 図々しい観光

自宅にいると休みの日は出来るだけ寝ていたい。なのにきっちり6時に目が覚める。ぼんやりスマートフォンを眺め、やがて起き上がって朝ごはんを用意した。

近くのパン屋さんで買ったカンパーニュの余りと、久樹さんのお母さんからもらったポテトサラダ、それに平和堂で買ったトマトとヨーグルトをボソボソと食べた。

作業着も地下足袋も身につけず、普通の格好で出かけることにした。でも本当は地下足袋の履き心地が気に入っていたし、硬いところは苦手でもファッションとして有能だと思い始めている。

さて今日の行き先は、東近江市のNPO法人「愛のまちエコ倶楽部」だ。先日から菜種油の販売でお世話になっていて、もう今年の菜種収穫が終わっているということで遊びに行くことにした。

到着すると、5人くらいのスタッフの皆さんに囲まれた。みなさんスーパーカブに興味津々だ。流石は働く二輪車…田舎での注目度が異様に高い。元エンジニアだというおじさんからは専門的な質問まで飛び出して、僕が頭にハテナを浮かべるので「ごめんなさい」と謝らせてしまった。

山のように積み上がった袋には菜種が入っていて、今年は20tの収穫があったそうだ。これを搾り取ったのが菜種油「菜ばかり」で、残りを発酵処理したものが発酵油粕「菜ばかす」だ。

油粕は同じ東近江にある政所で良質な有機肥料として使用されているが、まだ需要を満たすほどの製造量がない。お茶も買ってほしいけれど、もしあなたが政所茶のファンだとしたら、ぜひこの菜種油にも関心を寄せてほしい。たくさんの菜種油が製造されたなら、比例して油粕を供給することが出来る。

スタッフの財満さんから、「今日はカレーをつくって皆で食べるのですが一緒にどうですか」と誘っていただけたので、「食べます!!」と喜んで参加。

図々しいくらいがちょうどいい。食べる?と聞かれたら食べる。残りものがあれば「食べていいですか?うまいうまい」と言って食べる。民泊ではおかわりを要求する。もちろん、それ以上は失礼だという線は見極めるようにしているけれど。

初めてお会いする職員・農家の方々とお会いした。田舎の人たちはみんな気持ちがいい。田舎の人間関係は独特の泥臭さを感じる面も多々あるけれど、それは互いに強く関心を持っていることの裏うつしでもある。

先日、地元の新築マンションで、「引っ越してきたけれど隣近所のお付き合いはまったく無い」と少し寂しそうにされている女性に出会ったことを思い出した。都市では互いに無関心でも生きていけるように生活が設計されていることが多いけれど、果たしてその仕組みは長く続くのだろうか。

さてお土産に満田さんの新茶を持参したので、食後に淹れることになった。けれど10人分も淹れなければならなかったので慣れない加減に失敗した。僕はお茶を淹れるのが上手じゃない。満田さんは「岡村さん上手に淹れはりますわ」と言ってくれるが、やっぱり下手だと思う。それでも応えてくれるお茶ばかり手元にあるから何とか形になっているけれど。

僕は、ここぞとばかりに目の前の人々に対して「東近江に政所があるように、日野には満田あり」と週末らしからぬアクセル加減で力説した。簡潔に、そして力強く。

ひとつ自負させてほしい。もしお茶のワールドカップというものがあって、「満田茶プレゼンテーション部門」があったとしたら、僕は永代に渡り破られない得点をあげ、金メダルを勝ち取る自信がある。なぜかといえば、僕は彼のお茶だけではなく、人を見ているからだ。そしてこのたびの1ヶ月の研修を経て「鬼に金棒」となる目標を掲げている。(この記事をいつか見返して赤面するかもしれない)

ただ、売ることにかけては下手くそだ。これこそ弁慶の泣き所というものだし、その才能が自分にはあるとは思えない。でもそれでいいと今のところは思っているが、こんなことを書いていると、妻から憤怒の便りを頂戴することになるかもしれない。

日野への帰路で、「滋賀県平和祈念館」を訪ねた。太平洋戦争に滋賀県民がどのように巻き込まれたかを、県民からの無数の資料提供をうけて展示している。

祖母の郷里である日野も被害を免れてはいなかった。

曽祖父(祖母の父)は日野から大阪の京橋に出てパン屋を営んでいたが、やがて徴兵され日野で訓練を受け、満洲に出征した。祖母はその間、大阪から疎開していたそうだ。終戦して曽祖父は満州から生きて戻った。南進するソ連軍から逃げたという話を聞いたことがある。

…館内に、ある陸軍兵士が満洲から家族に宛てた手紙があった。その兵士自身と彼の子どもたちは、僕、娘、息子とほとんど同い年だった。子どもたちを気遣いつつも、検閲郵便であるからか引き締まった文体のその手紙を、泣かないで読むことが出来なかった。

僕もいま家族と離れているが、それは僕の意思であって、いつ何時、何があってもおかしくないとは思っていない。僕はお茶を学んで家に帰り、もとのように愛する家族と合流するのだ。当たり前のことが、当たり前なのを、有り難く思う。

帰路、自分の子どもたちに、戦争についてどのように教えようかと頭を悩ませた。

さて日野に戻って訪ねたのは「近江日野商人館」だ。「日野大当番仲間」と呼ばれる異業種の商人組合を組織した人々の商いの歴史を辿ることができる。

ここに僕は満田製茶の商売の原泉を感じられるかどうか確かめてみようと思っていた。するとどうだろう。細かくは描かないが、久樹さんのやり方とまさしく同じだと思える訓示を多数見かけることができた。満田家には日野商人の気概があるのだ。そのことを彼が意識しているかどうかは分からない。

ところで僕が気に入ったのは、これらの訓示だ。

「確かなるよろしき代物を仕入れ、売りさばき申すべきこと」

「小さきお得意衆、かえって大切にいたすべきこと」

「伊達がましき商い、一切無用のこと」

それから僕は自家焙煎コーヒーの喫茶店「らっこや」さんでコーヒーをいただいた。

実はコーヒーが苦手なのだけれども、不思議とむかつきが起こらずおいしく飲めてとても嬉しかった。ガトーショコラはお利口さんな佇まいで舌にべとべとつかず、あくまでもコーヒーをおいしく飲ませようという気概があった。

同店で、廣川みのりさんと仰る日野在住陶器作家さんの箸置きを買った。

子どものときからお気に入りの映画「魔女の宅急便」でキキが修行をする街並みに似ている形だったし、日野と自分の関わり合いに新しいレイヤーを見つけたかった。

箸置きを日野に持ってきていなかったから、嬉しい。それひとつで食事がよくなるのだから不思議だ。

最後に、久樹さんに教えてもらった食品店「八百助」さんを訪ねた。前日には地元の酒屋さんも訪ねた。

それぞれとても小さな商店だったが、置いてある品物には光るものを感じる。要するに小さいのに魅力的だった。いや、小さいからこそだ。

これらはざっくり言って観光かもしれないが、「行って、お金を落として、消費する」だけの物見遊山はしたくない。

どうせなら、ちょっと図々しいくらいの関わり方をしたい。いけそうだと思ったら、ちょっとフランクな口のききかたをする。聞かれもしないのに自分と日野の関わりについて店の人に話をしてみる。相手にとって居心地の悪い距離感にならないよう気をつけながら、「なんだこの人?」と最初は思われるくらいのぶつかり方をわざとしてみると、案外すんなりと溶け込んで話が出来ることは多い。

ローカルの商業や文化を、単に金銭と引き換えに消費することで、いっときの気の慰みにすることをしたくはない。だから、わざと図々しく片足を突っ込んで話をしてみる。

日野での時間はまだまだある。図々しい滞在を続けてみたい。

要するに日野の人と仲良くなりたい。

2020/06/26

満田製茶 5日目 6月26日 / 青春

日野に来てから最初の金曜日となった。

今日も草とり。無農薬の現実はものすごく地味で淡々とした作業の連続だ。取って、トラックに積んで、藪に捨てる。その場に寝かしておかないのは、土に触れると再び根を生やして余計に殖えてしまうことがあるからだ。

久樹さんは、繰り返し言う。

「無農薬なんか、やるもんやない。こんなに往生こく(「大変」の意)ことは、人に勧められん。無農薬やからって高く売れるもんやないし。一緒にいて作業してたら、無農薬なんか生半可では無理なの分かるやろ。これが現実。今日草を取ったところに、最低でもあと3回は草とりのために来なあかん」

そのように言う本人は、30年ほど無農薬をやめていない。なぜそうしているのかを僕は知っている。(無農薬の農法を実践するにしても、様々な動機がある)

もちろん、農薬を使った農産物を避けることは個人の自由だ。そして、農薬や慣行農法に危険があるとすれば、それについて調べたり、発信することも自由だ。

でも、そこまで。せめて立ち止まって、農薬を使わないということが、現場でどのような状態を生んでいるかについて少しでも思いを巡らせてほしい。

農薬を使う農を揶揄することがあってはいけない。また、農薬を使う人が後ろめたさを感じるようなことがあってもならない。安全安心を求めようとする気持ちは、過剰になれば、誰かの安全安心を脅かす可能性がある。

有機肥料と化成肥料についても同じことが言えるかもしれない。

お茶は、おいしいから飲むものだ。無農薬だからおいしいとか、農薬を使っていると味が劣るとか、そのようなことは無い。

満田製茶は茶農家であると同時に、荒茶製造と仕上げ加工ができる工場を持つため、自園以外の原料を預かって委託加工を請け負う。それらをこなしつつ、体力と精神のすり減る問屋としての仕事もある。また地元では小売もする。すべてを、ひとつの屋号のもとに行っている。

最初から最後身体感覚で知っている茶業者が、全国にどれくらい居るのだろうか。酸いも甘いも知っていて、そして甘いことなどほとんどないと知っている業者が…。

そのような人が、時間と手間の非常にかかる無農薬栽培を行っている。端的に言って奇跡的だと思うし、そこで1ヶ月仕事をさせてもらえることは、生涯の宝物になるだろう。

それにしても、どのような農法であっても、志ある農業を実践する人々には感謝をするばかりだ。

午後は久樹さんの運転する4tトラックに同乗して、仕入れに同行することになった。どこの誰のもとにというのは内情に関わるので書かないが、それなりに遠いところだ。

まずはトラックに積んであった前日の仕入れを冷蔵庫に移す。満田製茶が借りている業務用の大型冷蔵庫だ。ひとつ30kgある袋をいくつも降ろして冷蔵庫へ。これひとつとっても、お茶のちょっと優雅なイメージが覆されるだろう。重い。

空になったトラックで軽快に走る。30年使っているそうだ。走行距離は18万kmを超えていた。

車内ではたいてい商売か食べ物の話。久樹さんと僕は食べ物の話になるととても話が合う。

僕が、インスタント麺が好きだという話をすると、久樹さんは「どれがおいしいと思うの」と聞いた。僕の答えは、「チキンラーメン」。

するとどうだろう!久樹さんは、僕がいくら彼の茶のよさを褒めちぎったとしてもやらないであろう晴れやかな笑みを浮かべた。「そうやんな。チキンラーメンうまいな!」そうして彼は満田流のレシピを教えてくれた。

そのまま自炊の話になる。

「岡村くん、料理すんの?」

「簡単なことなら。困らない程度には作ります。素材がいいと特に何もしなくてもうまいので大したことはしませんけど。そういえば、お茶を淹れるのってある種の料理やないですか。だから淹れるのがうまい人は、料理もうまいんとちゃうかって思うんですけど、どうでしょう」


「それは、ほんまにそう。ほんで、茶をブレンドするのも料理やね。茶を仕入れたら、僕はいつも『あれとこれを一緒にしたら、こんなふうになるやろな』とイメージしますねん。それをもとにブレンドする。だいたい思うように出来てる。昔、宇治の茶師からこの話を聞いたときは『何を言うてはるんやろう』て思ったけんど、今になってみればなるほど言うてはった通りやなと思うことがある。せやさかい、岡村くんもやったらええねん。オリジナルブレンド。」

「誰のお茶かわからんようになるやないですか。僕は、誰が何を考えて作ったのか話しをしたいんです。でもおもしろそうやし、遊びで個人的にやってみよかな」

「ふん」と久樹さんは小さく笑った。なんという頑固者だと思われたのなら、むしろ嬉しい。

仕入れ先に到着すると、集荷場でおっちゃんたちが待っていた。この人たちは一番茶期から休みなくぶっ通しで働き続けており、栽培、収穫、製茶工場の操業を共同でやっている。

みな年配の人たちだ。もうクタクタを通り越しているのが分かった。服は茶渋でボロボロだし、肌は真っ黒けに焼けているし、身体中が粉塵まみれだ。

それでもどこか達観したような爽やかさをたたえており、気持ちのよい人たちばかりだった。もっと話を聞きたかったけれど、もう工場をさっさと掃除して今日のところは帰って休みたいというのを久樹さんが感じ取って、早々に切り上げた。

「みんなええ人たちでしょ」と久樹さんは運転しながら言った。

労働者への底知れぬ尊敬と優しさがその言葉にはあった。自身もそれがよくわかる働き方をしているから、なおのことなのだ。

帰路の途中、「梅干マニア」を自認する久樹さんは農産物の直売所に立ち寄って梅干を買ってくれた。彼がおいしいと思うものなら大丈夫なのだ。僕たちは茶の好みも似ている。

「素朴で嫌味のない食べ物が、やっぱりええと思うねんけどな」というボソっと彼は言った。それこそ彼のつくるお茶の印象そのものでもある。

そして「岡村くんも素朴なものが好きというけれど、それはお母さんがちゃんとしたものを食べさせてくれたからなんやで。お母さんに感謝せなあかんよ」と付け加えた。僕が母を亡くしていることを彼は知っている。

油断すると泣きそうになった。


家に着いた。

久樹さんのお母さんが出迎えてくれて、「岡村さん、これ食べる?トンカツ揚げてんけど」といって袋を渡してくれた。そして「ペットボトルにヤカンのお茶足していき」といって、中身を捨てて自園の茶を注ぎ入れてくれる。

「家のご飯、恋しいでしょ」とお母さんが言う。「はい。家のご飯めっちゃおいしいんです。妻は料理がほんとに上手で。それにしても、今回の日野の滞在も許してくれて、妻に感謝しています」と答えた。

側で聞いていた久樹さん、「ほんまにええご家族や。感謝せなあかん」と言う。

ほんのちょっとずつ、満田家の日常に溶け込んでいくことに喜びを感じる。なんともいえない気持ちだ。ただただ嬉しい。

「じゃあ、また月曜日に。逃げずにちゃんと来ますからね」と言うと、「へへへ。」と久樹さんは返し、1週間が終わった。

カブはひたすらに軽快な走りをみせ、アパートへ向かう。ある交差点を左折したとき、空がぱっと晴れて真正面に燃えるような夕焼けが現れた。それは息を飲むような美しさで、同時にどこかもの哀しさも含んでいた。

すべてのものが有限だという思いが沸き起こって、哀しかった。満田製茶も僕の命も有限だ。限りのある時間のなかで、彼らの営みと重なり合うことができた運命の力を思う。

人の優しさにふれて胸がいっぱいになるのも、爽やかな労働の汗が風を受けて乾く気持ちよさも。僕が抱いているどんな気持ちも僕だけのもので、誰かにそのまま渡すことが出来ない。

でも変換して、誰かが自分の気持ちとして抱き直す手伝いをすることはできる。そうしなければと思うのは、やはり命に限りがあるからだ。

34歳の僕は、えも言われぬ美しさの夕焼けに向かって、真っ直ぐ言葉にならない気持ちをぶつけたくなった。かわりに、小さい声で「わぁ〜…」と言ってみた。

こういう気持ちは、初めてじゃあないと気がつく。それは10代のころ、嬉しいことがあったときと似ていた。好きな女の子と話をしたとか、その子が彼女になったとか、何かが切り拓かれていくときの感じだ。

もう終わったと思っていた青春が胸の底でずっとくすぶっていて、すくい上げて風通しをよくしてやれば、まだ瑞々しく輝いてくれることに気がついた。今日はその記念日だ。

また青春を生きている。

2020/06/25

日野 4日目 6月25日 / 狐草

満田製茶の期間限定社員として働くのも4日目。雨の予報だったけれど出勤時間は曇り。

8時きっかりに到着すると、久樹さんはすでに3種類の茶をテーブルの上に並べてそれを睨んでいる。

「おはようございます。岡村くん、こんなかで、ええ茶はどれやと思う」と抜き打ちテストが始まった。ちょっと待って。まだタイムカードを押して3分も経っていない。

10秒ほど考え、そのうちのひとつを指して「これです」と答えた。

久樹さんは「うん」と小さく言い、片方の口角だけちょっと上げる例の笑みを作る。正解だったようだ。

「ええ茶を見るのはほんまに難しいんです。10年かかる。10年かけて、たくさんのお茶を見続けるねん」

満田製茶は自園自製の茶をつくるのみならず、茶の問屋でもある。つまり生産者から入札で仕入れて小売店に販売している。僕はその会場に入ったことはないが、問屋と小売店がそこにやってくる。一番茶の入札は本当にピリピリしており、心の探り合いも多々あるそうだ。そのような状況のなかで、多数並ぶ見本を観察し、買いたいものに対して価格を提示する。最高額の提示者が落札する。

それは個人の嗜好を超えた価値判断だ。市場と世の中の複雑な動きを読み、なおかつ観察眼にもとづいた価格提示をする。僕がやっているお茶の選び方とは全く違う世界だ。

「茶をみる目がなかったら、騙される。狐が人を化かすことから、茶は狐草って言われるの。そういうもんやねん。茶は。」

そうして午前は草取りをすることになった。雨の降らないうちに外で出来る仕事をする。

黙々とやり続ける。ショートカットはない。久樹さんとお父さんの草の取り方を観察していると、少しやり方が違うことに気がついた。それを考えながら昼休憩に入るとき、久樹さんが言った。

「こういう根気のいる草取りみたいな仕事のやり方には、人間が出る。取ったあとを見たら、一発でわかるねん。ああ、こういう人やねんなって。草とりが1番分かりやすい」

そして彼は軽トラックのハンドルをさばきつつ、横目で僕を見た。震え上がった。今のは一般論か?それとも?

久樹さんは、仕事のやり方や、茶の出来具合をみて、その人物の内面を見抜く眼の落ち主だ。この人の前ではあらゆるごまかしが効かないと僕は心に命じた。

今日はお父さんとお茶を飲みながら2人で話をするチャンスがあり、そこで興味深い話を聞いた。

戦時中、日野出身の陸軍連隊長と連隊副長がいた。隊長はあるとき直撃弾で命を落としたが、副長は戦後も日野で商売を営み平和に暮らしたそうだ。

元副長がお父さんのもとを訪ね世間話をするなかで、お父さんは何気なく連隊長の名を出した。すると元副長は突然シャキッと居直って直立し、戦後数十年も経っていたにも関わらず、隊長の名を最敬礼のニュアンスを込めて呼んだそうだ。

戦争が彼の心に染みついているのだ。

午後、久樹さんと僕はトラックに乗って仕入れ先に向かった。

車中、彼は商売をすることについて自らの経験からあらゆるアドバイスを授けてくれた。しかし満田製茶と僕の事業は、物量がかけ離れており、気の遠くなるような数字がたびたび登場する。

そこで正直に言った。

「規模が違いすぎて、頭が付いていきません。でも、久樹さんのところのように一定の物量でお茶を動かせるところがあるからこそ、産業としてやっていけるんですね。僕のような小さな事業者にはそのような役割は果たせない。一度の仕入れで多くても10kgですよ」

久樹さんはこう応えた。

「でもね、岡村くんが出入りして、報われる人がおるねん。ウチもそう。ウチの無農薬の在来が好いって言って、買いに来てくれる。やり甲斐があります」

その言葉にどれだけ救われる気持ちがしたか。こんなに素直に言葉にしてくれる人と出会えて、本当によかったと思う。

何があってもこの人のお茶、というかこの人のことを、きちんと紹介し続けなければならないと誓う。何のために?それはうまく言葉にならない。でも、そうしなければならないという強烈な衝動を感じる。

重たいお茶の積み下ろしを終えて、久樹さんと僕は彼が落札した茶を並べて鑑定することになった。

5種類の煎茶が登場する。

やな予感がした直後に、また久樹さんが言った。

「どれがええ茶やと思う」

もう迷わずに直感で僕は答えた。

「特においしそうに思えるのはこれ。その次がこれ。佇まいに力があるし、光の照り返しも綺麗。それから、これだけはおいしそうに見えない。痩せてる。でも、これは直感ですよ。」

久樹さんは頷いて応えた。

「その感覚は大事にしたほうがええ。お茶屋さんでもな、他の人が『これがいい』って言うと、あとの人が釣られるようにして同じ茶を『いい』と言うことがよくあるから」

次に湯を注いで香りを確かめ、さらに実際に飲む。

「どう思う」とまた聞かれたので、思うことを遠慮なしに全部言った。たとえそれらすべてが、満田製茶が落札した茶であるとしても、遠慮せずに全て表現した。

そのあと久樹さんの空気が変わって、それらを売る問屋として茶を見、集中する時間が続いた。しかし長くは続かなかった。彼は、よし、と言うとマジックで何やら見本の袋に書き込んだ。それは見てはならないような気がしたので僕は目を逸らした。

次に彼が持ってきたのは、ある産地のお茶2種だった。そこの土地のお茶は、それとわかる風格に満ちている。いずれも旨味を主体としつつも、産地ならではの独特の香りを持つ。

聞かれる前に僕は言った。

「右のほうが、ええ茶」

「一般的には左のほうがええ茶。ちょっと両方飲んでみよか」

「(両方飲んで)どっちも好きではないです。ベロで感じる味は豊かですが、身体に入ってからがすごくしんどい。さっきの5種ではたくさん飲んでもそれを感じなかったのに、この2種はちょっと飲むだけで胸が締まります。でも右のほうがまだマシ」

「一般には左がええ茶なんやけんど、岡村くんの価値基準では右。だから、さっき右と答えたのはある意味間違いやし、ある意味正解」

「…市場の価値が、やっぱりよくわかりません」

そのあと僕たちは再製工場で作業をした。ある生産者から預けられた茶葉を「柳」と呼ばれる状態に加工するものだ。本当にここは、何でもやる場所なのだ。茶業の百科事典のようだ。

機器の使い方を教えてもらう。いつの間にか久樹さんは居なくなって、僕はほったらかしになった。それでも何とかなった。よかった。

5時にあがってアパートに帰って夕食を済ますと、久樹さんからもらった今年の新茶(在来種とやぶきた種)を忘れてきたことに気がついた。7時半、またバイクを飛ばして事務所へ向かうと寝巻きの久樹さんが出てきた。

アパートに戻って新茶を淹れて飲んでみた。

まだ4日目だが、その風味がどれほどの手間の結果出来上がっているかを改めてひとつひとつ体験していることもあり、感動するくらいにおいしかった。本当においしいときには心が震える。理屈は関係ない。

明日は金曜日。週末はフリーになるので予定を立てるのが楽しみだ。

2020/06/24

日野 3日目 6月24日

日野町での仕事は3日目になった。

炊き過ぎたご飯と作り過ぎた味噌汁の残りを温めたもの、生野菜、ぬか漬け、キウイを朝に食べた。昨夜買っておいたバナナを思い出してそれも頬張る。緑茶を3煎。いつもの倍ぐらいお腹に入れている。

8時前に家を出て、5分ほどで満田製茶に到着する。通勤ルートにも慣れた。道ゆく車はみな市街の方へ向かうが、僕だけ町の奥へと進む。地元の子どもたちが登校している。

乾いた空気が気持ちいい。今日は何をするのだろう。

作業はまず昨日の続きから。草とり。かがみ込んで、茶の樹の根本あたりから出ているのを引き抜く。半分くらいは芋の蔓だから、ときどき根の小さい芋ごと出てくる。

抜いた草をまとめて袋に入れ、満田家の裏にある藪に捨てる。黙々とした作業だ。

茶の畝の中はこんなふうになっている。ここに手を突っ込んで蔓を引く。

除草剤を使うのをやめてからおよそ30年、満田家はこの作業を続けてきたのだ。人知れず。「ヤブガラシが出現したのは近年になってからだけれど、芋の蔓は昔からずっとある」とお父さんが言う。

休憩どき、パートのKさんから「どうしてお茶屋になろうと思ったんですか?」と尋ねられた。僕は祖父の話をした。

久樹さんは「公務員やっとけばよかったのに。僕やったらそのまま公務員するわ」と訪ねるたびに僕に放つ言葉を今日も言った。彼は本当にそう思っている。でも、辞めるのを引き止めた茶の素人が、本当に辞めて自営業者になった。それならきちんと勉強しないといけないと思い、栽培・荒茶製造・仕上げ作業・問屋業をすべて行っている自らの職場に、こうして呼んでくれている。

昼食まで草とりは続いた。

昼、昨日より大きな茶碗でご飯を出してくれた。きちんと働いて、ただの穀潰しにならないようにしなくちゃ。食後は体力回復のために昼寝した。

昼からは、昨日久樹さんが仕入れてきた大量の番茶を加工場に積み上げる。ひとつ15kgある袋を4段くらいに積むのだが、積み方にもいろいろある。スーパーで青果担当のバイトをしていたとき、朝早くにトラックで運び込まれる野菜と果物をうず高く積んで搬入したことを思い出した。一度キュウリをひっくり返して怒られた。もう10年以上前のこと。

それからフォークリフトを使い、別のお茶の山を倉庫へ運ぶことになった。「やってみる?」と言われたので、間髪入れず「やります」と答えた。初めて運転するフォークリフトは、僕にはさながら、農業テーマパークのアトラクションのようだ。

運転中、近くの道を警察が通った。何も悪いことをしていないのに、あまりにも拙いフォークリフトの運転をするので、意味もなくびくびくした。

どうにかこうにか教官の指示のもと、「フォークリフト初任研修」は及第点をもらえたようだ。

次の作業は、お茶の火入れだ。久樹さんが入札で買ってきた荒茶を選別したものを、ガス火で熱した空気により乾燥を行い、保存性を高める。

この作業ひとつとっても、安全に工程をこなすための細かい手順がたくさんある。作業前の清掃、ガス栓の開閉、火入れ機各部の電源オン(7つもある!)など。そのうちいくつかは、忘れると火災を招く危険性もあるから気が抜けない。当たり前かもしれないけれど、それらひとつひとつをちゃきちゃき進める農家の姿は格好いい。

久樹さんは、単に職場見学をさせてくれているのではなくて、いつか本当にこの作業をさせるつもりで教えてくれているのだ。

合間に、久樹さんはお茶をみる目の話をした。「岡村くんが好んでいるお茶は、一般には特殊なもの。もっと一般的なものをたくさん見て、広い視点を身につけなあかん。そうすることで、自分が求めているものをはっきりと他と区別できるようになるんやから」

僕は尋ねた。「入札で仕入れるお茶をみるとき、個人的な嗜好はいったん脇においてるんですか」

彼はこんな風に答えた。「プロやから。でも、個人的にどことなく惹かれるものがときどきあるねんな。それは理屈でうまく言われへん。」

「自園のお茶はどう思いますか」

「家のお茶をずっと飲み続けとったら、正直、他のはなかなか飲まれんね。すっきりしてる。嫌みがないっちゅうか。なんでそういう味になるんやろかと思うけど。何が他と違うんやろうか。わからん」

「なんででしょうね。そういえば僕のお客さんのなかに、『緑茶を飲まへんウチの子どもが、これやったら飲む』といって満田さんのお茶、買ってくれる人がいますよ。満田さんとこのお子さん2人は、家のお茶についてどう言わはるんですか」

「淹れるときにいちいち『ウチの茶』とか言うてへん。でもたまに違うのを淹れて出すと、『これ何か違うけど』って言いよる。やっぱり、子どもっていうのは、分かるねんな」

再び午後の休憩になった。お父さんも一緒だ。

聞けば満田家の周辺では、3世代同じ家で暮らしているのはここが唯一なのだという。信じられへん、と久樹さん。お父さんが子どものころ、この家には9人が賑やかに暮らしたそうだ。「今では6人になってちょっと寂しいけど」とお父さん。都会の人間からしたら、3世代6人ってかなり多いですよと僕は言った。

「何で離れて暮らすんやろ。けんど(でも)、遠慮は多いよ。けんかやってせなあかんし」と言う久樹さんに、お父さんは「その遠慮というのが、ええねんやんか」と言った。

僕もそのような暮らしができないか父と話をしたことがある。しかし父にそのような気はないようだと僕が言うと、久樹さんは、「岡村くんのお父さんやもん。頑固なんやろ。岡村くん見てたらわかるわ」と言って笑った。

「岡村くん、なんでお父さんの電気工事を継がへんの」

「いや、僕は小さいうちから『継ぐな』と言われて育ったんです」

「えっ。そうなん。お父さん、偉いわ…」

「結局サラリーマンを経て、同じように自営業になりましたけど」

「…」

そこでお父さんも口を挟んだ。

「都会では勤めに出て、ストレスの多い人がたくさんいはるでしょう。以前、知人の付き添いで神経系の診療に行ったことがある。待ち合いで周りを見ていると、岡村さんより若いくらいの人たちが次から次へと診察室に吸い込まれてました。僕の若いころには、そんなことは無かったように思うけど」

久樹さんも言った。「僕のかかりつけの医者も言うてはる。『満田さん、世の中どうかしてるで』て」

お父さんは、「うちらはストレスてあんまり無いかな」と言うと、久樹さんは「ストレスしかないけど」と笑っている。

笑ってはいるが、それはたぶん本心だ。いいお茶をつくって、そして食っていくのは、それはそれは大変なことなのだ。

帰りがけに久樹さんは、「問屋もやって、自園があり製造もするなんて、そうそうない。うちに来るなら何でもやらなあかん。そのぶん勉強してもらえると思いますわ」と言った。

「茶は、ストレスしかない」と言ったのと同じ人物がそのように言うとき、確かな経験と技術と勘に裏打ちされている自信がちらりと垣間見える。

ちょっとだけ片方の口角が上がるのは、自信を見せるときの彼の癖だ。

そういうときの彼は、手の届かない高みにいるように見えるけれど、その手の内を何も隠さずに教えようとしてくれてもいる。

「素直な気持ちで何でも受け止めなあかんねん」と彼は言う。ここでの学びにおいて、僕がこれまでに頭に入れてきたことはいったん脇に置くべくだと今日は思った。

ふと彼の有り様が、数奇なことから出会うことになった、老茶を人知れず扱う台湾の老師に重なった。老師は鶯歌の店でこう言った。

「ここに来るのは、心に余白のある人。それがなければ人は自分の知識をひけらかすばかりで、何かを学びとる余裕が一切なく、成長できないのです」

やっぱり、そういうことなのだ。

夕食の素麺をツルツル食べながら思った。

今日も眠たい。

2020/06/23

2日目

いよいよ今日から満田久樹さんのところで仕事が始まった。

6時に目を覚ましてゆっくり朝食をとり、8時の始業にあわせてアパートから満田さんのところへ向かう。文句なしの晴天。通勤ルートは日野の昔ながらの商店街で、旧家がたくさん立ち並ぶ。

よろしくお願いします、と久樹さん。「じゃあ早速やけんど」と手袋と大きな紙袋を手渡され、家の前にある茶畑で草引きにとりかかる。

※改めて紹介すると、ここ満田製茶は久樹さんの祖父が開業し、その途中で無農薬に転換。およそ30年が経過している。また自園自製のお茶だけではなく、祖父の代まで続けていた陶器屋の稼業のノウハウを糧に、茶問屋としての業務も行っている。

除草剤を使わないので草がよく生える。やっかいなのは笹と蔓植物だ。笹は簡単に引き抜けない。蔓は茶の樹にからみつきながら伸びているのでとりづらい。

とりわけ満田製茶をここ数年悩ませているのは、ヤブガラシという名前も恐ろしげな蔓植物だ。これが茶の根本から伸び、畝の上に這い回っている。

まず表面の蔓をばりばりと剥がし、次にかがみ込んで地際から引き抜く。ヤブガラシは地下茎が地中に広がっているので引き抜くだけでは根絶できないが、範囲が広いのでひとつひとつ処理することはできない。地表面にあるものを取り続ける。

かがむと、背中に後ろの畝の枝が刺さる。

それを淡々とやり続ける。

ところで日野は町長選挙が近いため、候補者が街宣車で走っていて、中身のないこと(ごめんなさい)を大きな音で放送している。端的に言ってうるさいが、ばりばりと蔓を剥ぐだけの作業にとって気晴らしになる。

途中、久樹さんが「これ」といって冷えたお茶のペットボトルを持ってきてくれた。そのへんに売っているやつだ。すでに滝のように汗をかいて水分を失っていた僕は、どんな高価なお茶よりもそのペットボトルの茶がうまいと思った。

風が吹いて、通気性のいい長袖が吸った汗を冷やす。

10時に休憩となった。事務所で菓子とお茶を飲む。仕上げ加工の一部を省いた荒茶をやかんで煎じて井戸水で冷やしたものだ。夏に満田製茶を訪ねる人はこの1杯にありつけるかもしれない。僕はこのお茶に出会って、「日野荒茶」を販売させていただくようになった。いまでは看板商品だ。

久樹さんは入札のため出かけており、ご両親とパートのNさんと休憩する。お母さんは物腰のはっきりした女性で、お父さんは眼差しの深い老練な語り口の人物だ。ご家族と話ができるのは何ともうれしい。そこで交わされる話の多くは販売の際の売り文句のもとになるものではなく、あくまでも何でもない会話だ。僕と彼らの間柄のことだ。

お父さんが、ここの在来種のはじまりについて話してくれた。

「父親が滋賀の長浜や京都の宇治の種苗屋から種を仕入れてきてね。牛に畑を耕させて、そのあとからついて種を播いとった。僕が小学生のときやった。当時は在来種が当たり前やったよ。戦争のあと食料難ということで収穫量が多いやぶきた種が奨励されたけんど、僕は在来の方が好きやね。やぶきたもおいしいけども…」。

お父さんも久樹さんと同じくして在来が好きなのだ。

しかしお父さんは久樹さんに茶業の主導権を譲るときに「やぶきたに植え替えようか」と提案していたことを、飯田辰彦さんのリポートでかつて読んだ。様々な理由があって在来種は商業的に不利であることをお父さんはわかっていたからだ。(在来種の流通が現在では非常に少ないことがそれを物語っている)

久樹さんはその提案を拒否した。そして今もおじいさんが育てた在来種は健在なのだ。

お父さんは、ほっと安心するとともに、前途を心配したかもしれない。親子の心の機微を感じるような話だ。

休憩を終えると、お母さんは僕の持っていたペットボトルを指して「それ美味しくないでしょ。捨てて、やかんのお茶を移してあげる」と言ってくれた。

12時に仕出の弁当と味噌汁をいただき、少しだけあたりを散歩してからソファでうとうとした。事務所に入ってくる風が例えようもなく気持ちよく、家族はどうしているだろうと考えながらまどろんだ。

昼、草引きを続ける。どんどんと気温が上がり、ゴム手袋のなかに汗がたまっているのがわかった。脱ぐと汗がどばっと落ち、自分でもびっくりするくらいだった。生まれたばかりの赤ちゃんみたいに手がふやけている。

午後3時ごろ、日照のピークだ。こうなると何も考えることが無くなり、無言の草引きマシーンになった。草にしてみれば僕はターミネイターだった。

あれやこれやといつも小難しいことを考えたりするのは、結局のところ余裕があるからだ。こうして農作業をしていると、理屈などどうでもよくなってくる。そしてそのような精神状態に置かれることを僕は有り難いと思った。汗と手袋と草だけの世界に没入する。

再び休憩となり、ミニサイズのスーパーカップが配られた。無茶な動き方をすればたちまち熱中症になりそうな僕にとって、最早それはカロリーを補給できる食用保冷剤だった。

それから僕は久樹さんの運転するトラックに同乗して、茶の仕入れにご一緒することになった。とある製茶場まで運転すること1時間くらい。車中、久樹さんとあれやこれやと話をする。

彼は理屈も大切にする人だが、素直な感覚をもっと大事にする人だ。「理屈だけではあかんねん。素直な気持ちで向き合って、お茶を見られるようにならなあかんよ」と彼は言う。

到着すると、そこには数百キロの番茶が用意してあり、それを2人で積み込んだ4トントラックは満載になった。急に使った肩が悲鳴を上げた。

帰着したのは6時半。カブに乗ってアパートに帰り、塩分の多い食事を摂った。味噌汁、塩鯖、糠漬け。塩分控えめがもてはやされる時代だけれども、いまはそのときではないと身体が言っている。

食後、爪切りがないので平和堂に買いに行く。それから98円のバナナを朝食の足しにするために買った。ほとんど往来のない通りをトトトと走り、電池が切れかけの身体に鞭打って、この記事を書いている。

寝ろ、寝ろ、寝ろ、明日もあるから

とまぶたが言う。

ちょっと待って、この生活を記録しておきたいから。そしてお客さんたちにこの空気の1%でもいいから感じてほしいから。

どこまで伝わるかはわからない。お茶の好きな男が汗を書くだけの話に誰が共感するだろうか?でもそれをやめてはいけない。言い続けるのだ。言葉の先は空虚か、それとも誰かの聞き耳か。

窓の外ではカエルが命を尽くしての鳴き声をあげている。彼らには今しかないからだ。

それは僕とて同じだと思うと、カエルが同志のような気持ちになってきた。

2020/06/22

出稼ぎ始まる

今日から、滋賀県日野町で約1ヶ月の生活が始まった。

「6月くらいにですね、1ヶ月くらいこっちの仕事の手伝いを頼めませんか」と満田さんから電話があったときは、まだ春だった。満田さんは当店ではもうお馴染み。日野荒茶・日野焙じ茶・粉末緑茶の生産者だ。

家族に相談させてくださいと答えはしたものの、心の中ではすでに荷造りを思い描いた。まるで遠足前の子どもみたい。でも、これは仕事だ。それでもそんな気分になれる仕事って何て素晴らしいのだろうと思う。

仕事とそれ以外の境界が限りなく見えにくい。僕はそれでいい。いろいろ折り合いはつけながらだけど、心の向かおうとする方向になるべく素直に生きている。オンもオフもない。

さて今回の研修、というか出稼ぎは、「満田茶」のできるプロセスの一部を、そして生産者がどういう顔をして、何を考えながら働いているのかを間近で見続けることのできるまたとないチャンス。雇い入れていただけることになったので、金銭的にも安心できる。

妻に相談をした。彼女は「それなら行ってこい」と即答してくれた。このような機会がどれほど私の仕事に大切であるか、そしてリアルな言い方をすれば、生産への理解がいかに稼ぎに直結するかを理解してくれているからだ。

僕は、彼女がパートナーで居てくれることを誇りに思う。

月日の流れるのは早く、必要な荷物を事前に送り、そして出発の日、つまり今日を迎えた。幼稚園へ登園する娘を見送るまでに何度抱きしめたか分からない。彼女の誕生以来、こんなに離れるのは初めてなので寂しい。

「これを持っていっていいよ」と、今までに彼女の描いたものの中からお気に入りをいくつか選んでくれたので、鞄に忍ばせる。こちらの生活でのお守りだ。これは根っこのしっかりした茶の樹の絵。

息子はまだまだおしゃべりが始まった段階。しばらく僕が居なくなるということをたぶん分かっておらず、元気にいつもどおりはしゃぎ回っていた。娘には後ろ髪引かれるけれど、息子のあっけらかんとしたその有り様には、むしろ救われる思いがする。

滞在中は土日が休みなので周辺の気になる場所を訪ねてみたいこともあり、小回りのきく買ったばかりのスーパーカブで行ってみることにした。

同棲していたときからの習慣で、家を出るときに妻と小さいキスをする。言葉にならない信頼を交換する。

真新しいスーパーカブは「任せなさい!」と軽快に走る。京滋バイパス沿いにトトトと進み、たくさんの大型車両に抜かされ風圧に怯えつつ、あっという間に宇治市に入った。

茶どころとしての宇治が長年お茶を支えてきた。僕も日本茶にはまった当初、たくさんの宇治茶に接した。そして先人たちの営みが形作ったお茶の行く末のほんの小さな支流を、僕が担っている。そのことに感謝しつつ、どこにも停車せず宇治川沿いの山道を進む。

天ヶ瀬ダム。思わず停車し、無言で自然に抗っているダムを見やる。10年以上ぶりだった。ここは、実家で長く使っていたトヨタの「ルシーダ」という丸い車を買い換える日に、家族で最後のドライブをしたときの目的地だった。

その帰り道。地元のトヨタにルシーダを預けてさようならをする直前に、車内でMr.Childrenの楽曲を聴いた母親は泣いていた。あまりにも多くの家族の思い出を積んだ車だったからだ。楽しいことも、つらかったことも。

すべてのものに心が宿ると僕の親は信じていた。車にも心があった。

ルシーダばかりではなく、母親ももう居ない。居ない車、居ない人のことばかりが胸を埋め、旅の目的も忘れる。

僕のちょっとつらい気持ちを推し量って、カブの足取りが重くなった。50ccの原動機付自転車が山道の傾斜に苦戦しているだけだと言う人もあろう。それは違う。全てのものには心が宿るからだ。お母さん、そうだろう?

宇治田原を抜けた先に開けた景色は、朝宮の茶畑だ。

なんでもないような、とある道路脇のポケットのような停車スペースを通り過ぎた。ここはもう何年も前に、僕が車の中から北田耕平さんに電話をかけた場所だ。「もしもし、北田さんのことを本で読み、朝宮に来ました。いま実は近くにいます…」。その1本の電話が、茶農家との最初のコンタクトだった。

それから何年かして、僕は日野の茶農家のところでしばらく働くために朝宮を通り過ぎることになった。感慨が体を突き抜ける。

宇治、天ヶ瀬ダム、朝宮。過去を回想するようなドライブだ。

カブはそこから調子を取り戻し、軽快に走った。水口、そして日野町へと一気に山を駆け下りていく。カブにも心があるからだ。「もたもたすんな、目の前のことだけ見てろ!」

やがて日野の旧道の先に、満田製茶の看板が見えた。軒先には奥さんがいてしばらく話をする。やがて作業着の久樹さんが出てきた。「なんか痩せはった?」と聞かれたが、どちらかというと体重は少し増えている。

あらかじめ送っておいた荷物や、滞在中に貸してもらう炊飯器と掃除機を久樹さんのバンに積み込み、厄介になるアパートへ案内してもらった。

無機質な屋内と対照的な散らかり具合の我が家を思い出し、少し悲しくなる。そこで感傷を蹴散らかす、mumokutekiからの電話が鳴った。へたれの僕には最高のタイミングだ。Kさん有難う。

自炊するので近くの平和堂に買い出しに行く。地場野菜がいくつか並んでいるのを手に取り、最低限の調味料、肉、魚、卵を買った。馴染みのないスーパーは楽しい。

書店もあったので覗いたが、これと思うものを今日は見つけられなかった。買っても、疲れからきっと今日は読めないだろう。

シャワーを浴び、夕食を作って食べた。味噌汁もおかずも、ばかみたいな量をつくってしまった。米もばかみたいにたくさん炊いてしまった。

洗濯物を干した。4人分ないのでとてつもなく少なく感じる。子どもの小さいパンツを干すときに感じるチクリとした感傷もやってこない。

テレビがあるのでしばらく点けたが、どうにもつまらなくて消した。そしてこの記事を書いている。

僕は2008年にカナダのバンクーバーで留学生活を送っていた。行きたいと言ったのは自分なのに、フィリピンから来たというホストファミリーの家で一眠りして夕方に目覚めたとき、「なんでこんなところに来てしまったのだろう」と強い後悔を感じた。家族が恋しかった。当時すでに付き合っていた今の妻が恋しかった。

今夜眠りこけて明日の朝に目覚めたとき、またあのときのような気持ちが胸にやってこないか不安になる。満田さんに頼まれ、願ってもないことと歓喜してやってきたのは自分なのに。それにここはカナダではなく、大阪なんかすぐ近くの滋賀県だ。

自分はそういう人間なのだ。そこに居ない愛する人のことばかり考えてしまう。でもそんな気持ちは、日が登れば忙しさに霧散するに違いない。

...

お茶を売ったり、出稼ぎしたり、いったい君は何を目指しているのだという人もあろう。そんなこと知らないよ、というのが僕の答えだ。

大河に浮かんだ小さい葉っぱみたいに、どんぶらこと運ばれていくのを楽しんでいるんだ。

2020/05/26

油売ってお茶おいしい

 


こんにちは。当店では、近日中に滋賀県 東近江産の菜種油の販売を開始します。

それにしても、なんでお茶屋が油を?もちろん、思い付きで始めるわけではありません。今日は油の話をしましょう。


お茶と肥料

まず肥料の話からはじめましょう。お茶の栽培では、多くの場合に肥料が使われています。生育を促して収穫量を大きくしたり、収穫後の「お礼肥」といって樹勢回復を促したり、味わいをのせるために使ったり、農家の思い描くお茶によって使い方は様々です。


大別して有機肥料と化成肥料の2種類があります。片方だけを使う人、組み合わせて使う人、あるいは肥料そのものを使わない人など様々におられます。なお「有機」と言えば聞こえはよいものの、一概にどちらが優れていると言い切れるものではありません。


ホームセンターの軒先に、油かすの大きな袋が積んであるのを見たことはありますか。油かすは植物の油を搾ったあとの残りかすを処理したもので、菜種を搾った菜種油の副産物が菜種の油かすです。


政所のお茶

当店でもおなじみの政所茶は、東近江市の山奥にある奥永源寺地区で600年ほどの歴史をもつお茶です。2020年春現在、山形蓮さん・川嶋いささんのお茶を扱っています。


政所は伝統的に無農薬有機栽培を貫いており、土地の山野草を積極的に使うお茶づくりがひとつの特徴です。政所のお茶を飲んだことのある方ならば、孤高の存在とも言われるそのおいしさを、理屈ぬきに感じたかもしれません。


その理由は、政所の人々が土を大事にしてきたからです。草引きをするときでも、草の根についた土を無駄にすることなく必ず畑に戻るよう振り落とします。そうして現在まで続いている土づくりは一朝一夕で完成するものではなく、ご先祖の代から続いています。


その政所で現在積極的に使われている有機肥料が油かすです。それも、地元の東近江で栽培された菜の花を原料として製油する菜種油の、搾りかす。土地で作られた肥料を農業に生かすのは、原料の調達、物量の確保、いずれの理由からも簡単なことではありません。


政所の需要のある程度を地元の油かすでまかなえるのは、政所の年間生産量は1トン程度というきわめて小さな規模であり、大量生産とはあらゆる面において対極にある営農が幸いしているといえるでしょう。


次に、政所で使われている油かすの生産にまつわるお話をしましょう。


菜の花循環サイクル

政所に油かすを供給しているのは、地元のNPO法人「愛のまちエコ倶楽部」です。このNPOが東近江市内の7軒の農家と契約し、初夏に菜種を買い取って油を製造。このときに副産物として出る油かすを発酵させ、扱いやすい状態にしてから出荷しています。


次の図は、同NPOが看板商品としている菜種油「菜ばかり」のパンフレットで紹介している、菜の花の循環サイクル図。


地元で栽培された菜の花の種は菜種油「菜ばかり」、そして油かすとなり、前者は食用の油として利用され、後者は肥料として畑に還ります。


油は捨てるかわりに回収され粉せっけんとして生まれ変わります。そのほか再処理されてグリセリンや燃料として再生され、地元のイベント、公共交通機関、農作業用車のための燃料として使われるのです。農作業は、次の菜の花栽培へと繋がり、こうして菜の花を中心とした地元コミュニティ内の循環が生まれているのです。


この取り組みはすでに長い歴史があり、ことの発端は70年代に琵琶湖の水質が悪化して赤潮が発生したことでした。このとき県民の環境意識が高まり、廃油が湖に与える影響をなくすため地元のお母さんたちが「せっけん運動」を開始。廃油を回収しせっけんとして再生しました。この取り組みが、「愛のまちエコ倶楽部」が拠点としている旧 愛東町(現 東近江市愛東地区)でのごみリサイクル活動につながりました。


96年には、愛東町が全国の自治体としてはじめてバイオディーゼル燃料の製造に漕ぎつけ、菜の花を利用した循環サイクルの取り組みが全国に普及するきっかけになりました。やがてその拠点である「菜の花館」がオープンし、その運営者としてNPOの歩みがはじまり現在に至ります。


「愛のまちエコ倶楽部」の多様な活動は、ぜひ同団体のウェブサイトをご覧ください。

http://ai-eco.com/


このように、さかのぼれば70年代の環境問題に対する市民単位の動きが、現在の広範な活動の源泉につながっています。のどかな田園広がる愛東町の人々には脱帽ですし、そのおかげで政所に良質の肥料供給がなされているわけです。


そしていま私が「菜ばかり」を販売したいと思うのにはいくつかの理由があります。あなたに、循環の一部になってほしいからです。


お金を払えばいいものが買える。それだけの関係からひとつ歩を進め、おいしいお茶のもとになる有機肥料の供給を、おいしい油を買うという形で支えてほしいのです。


同じ思いから、昨年の秋に、滋賀県日野町の満田さんのところにお客様と赴いて「援農」の活動をはじめました。(コロナウイルスに対する警戒もあってしばらく停滞していますが)


作る者と口にする者の隔たりを埋め、両者の重なり合いを少しでも厚くする。そのための新しいチャンネルを、菜種油が開いてくれることになります。


現在、政所の需要のすべてを満たしている訳ではないようですが、昨年は菜の花が豊作であったこともあり原料は潤沢にあります。菜種油の販売が軌道にのれば、そのぶんだけ油かすも出ますので、菜種はおいしいお茶の生みの親である土に還ります。


「菜ばかり」のこと


契約農家7軒で栽培する菜の花は、国産の3品種が主軸になっています。在来種や、自然に交配させたものは「先祖返り」が進み、多量摂取すれば人体に悪影響があるとされる成分を合成するようになってしまうために、主原料として使うことはできないのだそうです。


収穫された原料は乾燥のあと「湯焙煎」という方法で加熱し、よい香りを引き出します。これを物理的に圧力を加えて油を搾り出し、不純物を取り除く工程を経てから瓶詰めして完成です。収穫から製品の完成までの間に、薬品や添加物は使用されていません。


日本で流通する菜種油は99.9%以上を輸入原料に頼っており、製油の効率を高めるために薬品を使用して油を抽出する手法が一般的です。そのため国産原料だけを使用し、化学的な製造プロセスを経ない油は非常に希少なものになっているのです。


もちろん私は、大手メーカーが取り扱う商品の是非をここで考え、あるいは貶めるような意図はありません。その恩恵に私は日々あずかっているからであり、否定からはじめる差別化はしたくありません。


一方で、日々の食卓を支えているものがどんなものなのか把握することは大切だと考えています。「把握しやすい」ものの割合を食卓に増やすべきです。誰が、何を考え、いつ、どのようにして作ったかがわかる食品ということです。


このようなものはごく当たり前に大量生産のサイクルからは外れており、そのため市販品より価格が高く感じられるかもしれません。しかし市販品の価格が「ふつう」で、そうではないものが「高い」というのは、果たして常に正しい指標でしょうか。


「菜ばかり」を搾る様子をご覧ください。これだけで全生産量をまかなっているのです。


なんだかんだと書き連ねましたが、私が菜種油を販売してみたいと思うようになった最大の動機は、とても個人的なものです。


この油をお客さんが買ってくれたら、政所にはそれだけ多く地元の肥料が行き渡ることになる。そうしたら、蓮ちゃんやいささんは喜んでくれるかな?それを見て、NPOの園田さんや財満さんのような現場の人たちはますますがんばろうって思ってくれるかな?そんな循環に関わることができるなら、お客さんも嬉しく思ってくれるかな?


ひとりひとりの顔が思い浮かびます。その人たちが元気でいてくれることだけが私の願いであって、それが叶えば私も元気になれます。


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最後に、「菜ばかり」の味わいを。(ふつう、最初に書きますよね!)


この油はきれいな黄金色をしており、とってもサラリとした口当たりです。菜の花由来の豊かな香りとコクがあり、どのような料理にも使いやすく、かつその表情を豊かにしてくれるように感じます。きょう唐揚げを作りました。ニッコリな仕上がりです。


炒め物、揚げ物、和え物、焼き菓子に。パンにつけてもおいしく、用途はとても幅広いですよ。おいしい油って、こういうことなのかと納得。




2020/03/20

木の人と風の茶 続 / 鶯歌・ドイツ

3月19日、政所を訪ねて今年の平番茶の加工の様子を確認してきました。

この日の同行者の中に、私とさほど変わらない世代の方がひとり。彼女は禅で修養を積むドイツ人の女性(Nさん)で、毎月の日本茶講座を受け持っている京都・河原町のGenki日本語学校でたった2日前に出会ったばかりでした。

昨秋にも私は、台北からさほど離れていない鶯歌の老街で、同じく禅を学びその体系を実践する老師、そして彼に学ぶ人々と交流したのです。「木の人と風の茶」というタイトルで書いたそのときの記事で、私は1970年代の烏龍茶を飲んだときに涙が止まらなくなり、老師の前で崩れるという出来事についても触れています。

Nさんと出会ったその日、きっとこれは重要な出会いだという確信がありました。自分にとって特別な、そして何かを共有している人と今日出会ったと、心から思ったのです。彼女はお茶に対して天井知らずの興味関心を抱いており、そして現在流通している日本茶の多くに欠けている要素を直感的に見抜いているセンスの持ち主でした。そして彼女は、禅をすでに20年以上も学び続けている人でした。

また、禅だ…どうして禅をしている人と出会ったときには、こんなにも心が動かされるのだろうか。そのように私は動揺していました。台湾での経験は一生の糧になる、そう思いながらもまだあの経験を消化しきれていないなか、またしても禅というキーワードを備えた人物が前に現れ、そして強烈に惹かれる何かを感じさせるのですから。

その日の日本茶講座で彼女は多数の、そして核心を突いた質問を繰り出しました。別れ際、思わず私は、I'm visiting tea farmers the day after tomorrow.  Do you want to come with me? と尋ねました。もっとこの人と話したい、そして彼女なら言葉にならない私のお茶に対する気持ちを、きっと現場で汲み取ってくれると、そう感じたからです。

彼女は、Yes と即答。言語の違いを超えた共感を、既に感じていました。

講座のなかで彼女は、ドイツでの禅の学びのなかで触れたいくつかの日本茶のうち、ある緑茶に接したとき涙が止まらなかったというエピソードを話してくれました。お茶に泣いた…この人は自分と同じ経験をしている…私は驚いていない顔をして、話を聴きました。お茶に泣くという体験は、自身にも起こったので、誰しもに有り得るものだと思っていたからです。

いよいよ当日、車中で彼女と話した話題はあまりにも多様で、ここでひとつひとつに触れることはできません。日本とドイツの社会制度の違い。歴史が人々に影響し精神構造を少しずつ動かしていくこと。政治的無関心。ポピュリズム。資本主義。子どもたちの教育。学びのあり方。ドイツ人の彼女にはかなり奇異に映る、日本人のある側面について…。

お茶に対する価値観とこれらの話題を通じて、私は彼女と根底のところでかなり共通する社会の見方をしていることがわかりました。

I'm sure you are feeling what I want to say.  You know that.  We are sharing it.

このような感じで、そうそう、わかるよ、と頷き合う場面がいくつもありました。彼女も私も英語は母語ではありませんが、英語を介して話をしました。私は彼女ほどに流暢な英語を操る訳ではありませんが、普段ならば出てこないような言葉たちがするするといくつも口をついて出ました。外国語を操るのに必要なのはスキルではなくて、その言葉を使って伝えたいことを内に抱いているか否かだと、今更ながら気が付いたのです。

We met for the first time only two days ago, but don't you think we have been friends for a long time?

私たちは出会ったばかりなのに、ずっと前から知っているような気がする。途中からお互いにそう思っていました。このようなことを対人関係の中で感じたのは、生まれてから全くといっていいほどに、ありません。そしてこんな出来事が、生まれ故郷や母語というバックグラウンドの全く異なる人物との間に起きたことに私は驚いていませんでした。

彼女と私は、一個の命を生きている人間であり社会にむけてアンテナを大きく広げ、善く生きようとしている点で、何も変わりませんでした。文化と言語を超えた交流だったのです。

私たちは政所で平番茶の製造を見、集落内を散策し、川嶋いささんと再会し、そして日野の満田さんの茶畑までも一緒に訪ねて長い一日を過ごしました。気が付けばあっという間に地元の駅まで帰り着き、駅舎で彼女といったんのさようならをすることに。

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帰りの車中、彼女はこう言いました。

「お茶で涙を流したというエピソードを、あなたの講座を受けた日に話したよね。実は普段ならあの話はあまりしない。だって、ちょっと変に聞こえてしまうかもしれないでしょ?お茶に泣くって、そんなに一般的な出来事ではないと思うから。あの日、あなたの講座に私は少し遅刻して到着した。教室に入ってすぐ、あなたと話をまだ何もしないのに、突然感じたの。あの話を、この人には伝えなければならないって」

なんということだと、私はハンドルを握りながら打ちのめされそうな気持ちがしました。そして自身の話もしました。

「台湾で僕もお茶を飲み涙が流れた。そのとき心に起こったことがいまだによく整理できないけれど、禅の老師は僕にこう言った。『あなたは老松のような木の性の人で、老松が風を受けて姿勢を傾けるように周囲の環境から強く影響を受けるのと同じく、感受性がとても強い。あなたはお茶と会話ができるのだ。私から学ぶことは何もない』って。僕はこの人から学んでみたいと思ったばかりなのに、それを察してか学ぶ必要がないと言われてしまった」

これを聞き17歳から禅に身を捧げた彼女は、小さく笑って言いました。

「それが禅なの」

こんな話が出来る人と巡り合えたことが嬉しくて、私はまたしても禅という世界の淵に立って涙を流すことになりました。

「僕、また泣いてる。なんということだ。Nさん、あなたが運転してよ。僕は泣けて運転できないから。国際免許持ってる?代わってちょうだい!じゃないと危ないよ」

彼女は「私、国際免許は持ってないし、持ってたとしてもドイツと逆の左側運転なんかできないわよ。私が運転するほうが危ない」とけらけら笑っていました。

「Nさん、あなたから学びたい。どうしたらいい?」

そう言うと彼女は「西洋人が禅を学ぼうとするときに必ずといっていいくらい目を通す本があるから、まずはそれを送る。私は日本に毎年来て、ドイツで禅を学ぶ人たちを率いてツアーをしている。そのときに必ずあなたには会うようにしたいし、できたら彼らが本当にいいお茶をつくる現場を見て、そしてあなたがお茶について思っていることを聴ける場を設けさせてくれない?」と言ってくれました。

山崎駅で、別れ際に握手。

乾物屋スモールのまどかさんとも先日握手をしました。まどかさんは小柄な女性だけど、ぎゅっと強く握りしめてくれる気持ちのいい握手をする人。

Nさんはまどかさんよりもずっと大柄だけど、彼女の手はまるで裏起毛の羽毛布団に頭から入っているときのように軽くて温かく、誠実な感じをまとっていました。

改札の向こうでNさんはすっと立ち、見たこともないくらいに自然で美しい礼をしてくれました。ぶしつけな私は、ただ笑って手を振るしかできませんでした。

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そうして満たされた幸せな気持ちでひとりトヨタを走らせ自宅前の駐車場に到着。たくさんの荷物を抱えて車から歩み去ろうとしたとき、一陣の暖かい風が、さあっと横から吹きました。

その風のなかに、確かにお茶の花の香りを感じました。

え、なんで?とびっくりして、ふと横に咲いていた椿の白い花かなと思って鼻を近づけましたが、その椿からは何も香りがしませんでした。もちろんお茶なんか生えていない団地だし、そもそもお茶の花のシーズンはとっくに終わっています。

それなのに、その風は茶花の香り。

でももう、次に吹いた風は何もまとっていませんでした。

「あなたは木の人。風の茶があなたを解放する」

鶯歌の老師は、心中で再び私に向かってそう言い、「そういうこともあるのかな」とちょっとだけ納得した気持ちになりました。

玄関を開くと、私がどんな気持ちでいるか知りもしない小さな娘と小さな息子が、駆け寄ってきました。

2020/03/15

乾物屋スモール 思い出とこれから

起業する前から交流のあった「乾物屋スモール」の店主、まどかさんのところへ行ってきました。

お店のできる前から、彼女の発行していたフリーペーパー「スロウダウン」の読者です。一度、同誌で日本茶をインタビュー記事にしてくださったこともありました。スロウダウンではどんな立場のどんな考え方の人もフラットに紙面に登場し、人々の小さくささやかな生活のなかに、豊かで広大な世界があることを、まどかさんが伝えてくれました。

まどかさんの視線が紙面にあふれていて、励みになったり、何かを変えていくきっかけになったり、支えに感じてきた方はきっとたくさんいると思います。少なくとも私はそのひとり。

少し前にまどかさんから、乾物屋スモールをいったん閉めることになるよという話を伺いました。3月末をもって、およそ3年半の高槻市塚脇での店舗営業を終えられます。ゆっくりお休みを取られたのちに、茨木市を拠点として再び歩み出される予定。

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まどかさんと出会ったのはたぶん5年前。当時私が妻と一緒になって発行した「しまもとノート」というフリーペーパーを知ってくださった大山崎町のオオバチエさんが、「こんな女性がいるんだよ」といってあるイベントの際に引き合わせてくださったのが始まり。

それから途切れず交流が続くようになり、それぞれにお茶屋・乾物屋としてスタートを切りました。

先に店舗を持つに至ったまどかさんの様子はまぶしくて、でも肩で風を切るようにして歩く実業家という感じではないのです。スロウダウンの視線と温かさそのままの、優しい人。いつだって芯のしなやかさを感じる仕事ぶり。ゆったりした佇まいの中に、きりっとした空気を帯びて、そういうのがちょっとカッコイイなと私は密やかに感じていました。

私が起業した当初は、お茶を誰かに卸すなんて予期していませんでした。でもまどかさんから「お店にお茶を置きたい」と話をいただいたとき、どんなにかうれしかったか。

なるべく介在する人の数を減らし、農家のメッセージを直に伝えることを目標としてきた私でしたが、まどかさんなら別。彼女が間に入ってくれることで、私には作ることのできない道筋がたくさん生まれるだろうなと心から思えたのです。安心してお茶を託すことができたのは、彼女がお茶に詳しい人かどうかは関係なく、彼女のお人柄と、そして彼女がどんなにか生産者のことを気にかけて日ごろ過ごしているかを知っていたからでした。

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いまも記憶に新しい出来事がありました。

2016年初夏のことです。当時51歳だった私の母の身体のなかに、進行の非常に早い癌が広く散らばっていることがわかりました。長く生きられる見込みはないことを主治医から告げられ、味わったことのない絶望のなか、父と妹と私は話し合いを幾度も重ねました。母の気持ちを最も尊重できる過ごし方を考えるため。

しばらくして在宅ケアに切り替わって以降、母はほとんど動けず、食べられるものもほとんどありませんでした。

ほんの少しでもいいからおいしいものを口にしてほしい。そしてあわよくば理屈を超えた奇跡が母の身に起きてくれはしないか。そんな風に考えながら、少しだけでも口にするよい食材を、つてを頼りに集めました。

当時母の隣の家に住んでいた私は、母の食事を担当することになったのです。この頃は気が動転していて、細かいことを覚えていません。それでも唯一記憶に強く残っているのが、まどかさんから買った豆でした。

豆の茹で汁がよい出汁になって、おいしい味噌汁ができたのです。とびきり素敵な民芸品の器を水無瀬で新調して、味噌汁の上澄みと玄米の重湯をよそって、母のもとへ。

スプーンでほんの少しだけすくって口元に運びます。母は「おいしいね」と言って、じっと目を閉じて、一口をずっと味わっていました。二口ばかりか時間をかけて食べて、それだけで食事はおしまいでした。

「ごめんね、いろいろしてもらって」と言う母に、「ええねん。今までいろいろしてもらったやんか」と返して、泣かないようにするのが精一杯。当時、母のいないところで毎日ずっとずっと泣いていました。

在宅が始まってまだ4日目に体調が急変。その翌日、母は逝きました。

その後、お礼のメールをまどかさんに送って、しばらくして返ってきたお手紙は今でも大事にとってあります。4年前のそのお手紙を読み返しながら、この記事を書いています。

この頃は彼女の前で話しているだけで泣けてしまったり…とにかくたくさんの支えになってくれる人がいるなかで、居てくれてありがたい存在でした。

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あれからもう4年。乾物屋スモールを訪ねて、芯のぶれない店主と話をすることは、私にとってずっと大事な時間でした。初心を思い出させてくれたり、「あ、いけないいけない!」と気づきがあったり、それからなんでもない笑い話をしたり。ぶれない店主の時折やらかすミスが、私は大好きでした。

ひょっとして今日が今のお店に行く最後の日かもしれない。そう思って「まどかさん、写真一緒に撮って!」とお願い。自分からこんなことをお願いするのはちょっと珍しいこと。

思いのたけを言葉にして面と向かって言うのは得意ではないけれど、今日はがんばって感謝の気持ちを、一部だけでも絞り出しました。いや、一部というのは本当は偽りで、もじもじしながら言うその有り様が、たぶん私にできる全てなのだったと思います。

別れ際には握手。まどかさんは私より背丈が小柄な女性ですが、握手のときはものすごく大きな手に感じるのです。強く握り返してくれるその手に私は少し安心して、一方で彼女が抱いているであろう新しい暮らしへの不安もまた、どこか伝わってくるようでした。

だからそれは、気持ちが晴れたり憂いたりを繰り返す、素朴なひとりの人間の命そのものでした。

写真のまどかさんが持っているのは、茨木市の三島独活(みしまうど)。独りで活きると書いてウドと読み、しかしこの三島独活の場合、人が手間暇をかけて丁寧に栽培することが必須。

だから、独りでは活きられない。そんな気持ちが込められた野菜なんだそうです。

たしかに、独りで活きてこられたためしなんて、ない。

これまでたくさんの支えになってくれたまどかさんと、彼女の心で満たされた素敵なお店に、精一杯のお礼を。ありがとう。

そしてもちろんこれからも、よろしくお願いします。

僕たちは独りでは活きていけないのだから。

2020/02/03

一日よろこび / 政所の在りし姿と今日の生活の先に

今日は、秋のブログ記事「木の人と風の茶」以来の長い記事です。この文章には、ありったけの気持ちを詰め込んでお届けします。

はたらくことの意味を思い、そして現代の暮らしを問い直すきっかけになることを切に願います。

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令和2年2月1日。新年以来、この地域にしては異常に遅い雪がはじめて降った翌日のことです。誉れ高い「政所茶」の産地である奥永源寺地域(滋賀県東近江市)にお住まいの、川嶋いささんのご自宅で、これまでの長い長い暮らしのお話を伺いました。

ここは臨済宗永源寺派大本山である永源寺よりも山奥へ入ったところにあるため「奥永源寺」と呼ばれ、東近江市の東端です。鈴鹿山脈から流れ出る愛知川(えちがわ)の源流域。

政所は集落全体で農薬と化学肥料を使わず、在来種を多数残している地域です。圧倒的な香りを放つお茶がいまも残ってはいますが、今回はまず、この記事にもつながる長い当地の歴史を簡単に振り返ります。

その先に、今も元気に暮らしておられる、いささんの生活へと話を進めましょう。

ゆっくりでいいから、ついてきてください。

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惟喬親王と木地師

政所の歴史を簡単に紐解きましょう。これを読んでくださっているあなたの「いま」も、これからお話する歴史の先っぽなのですから。

歴史についての内容は、飯田辰彦さんの著書「日本茶の『発生』」(鉱脈社 2015年)をもとにしています。

ここ政所は、お茶だけでなく木地師(きじし)の故郷としても知られ、今も作家が住まうところでもあります。木地師の祖とされているのが、惟喬親王(これたかしんのう。844年生 897年没)です。

藤原氏全盛の当時。親王は55代文徳天皇の第一子でしたが、母は紀氏の静子。天皇は親王を皇太子にしようとしましたが、皇后である藤原明子に惟仁親王が生まれると、権力の力で惟喬親王が皇太子になることは破談となりました。

親王は一流文化人の世評をとりましたが、権力争いに明け暮れる都が嫌になって出家することを決意。今でいう京都市北区に住まっていたところ藤原一族の追求にあい、水無瀬(大阪府島本町)や奈良の渚院などと転々とします。私は島本町に住んでいるので、このことはとても感慨深いお話です。

親王のやがて辿り着いたのが、小椋庄(おぐらのしょう)でした。今でいう政所です。

 政所という地名は、平安時代中期以降、各所におかれた親王家や公卿の所領荘園を管理する機関「政所」に由来します。役所の名前がそのまま残っているのですね。

親王はこの地域に落ちのび、この地の人々と生活をともにしました。そして生業のため、地元に豊富にある木材を使った木地づくりを指導したのです。ロクロで木を挽き、日用食器をつくる技術が伝えられました。ロクロ製品はやがて需要が大きくなり、技術習得のため全国から志願者が尋ねてくるまでに。今も木地師たちの住居群がおびただしく残っているといいます。

しかし、やがて用材が枯渇し木地業も衰退。木地師たちは朝廷から諸国の樹木を自由に切る権利を得て、散り散りになりました。

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茶栽培のおこり

こうした木地業の衰退にあわせるようにして、政所で本格的に茶の栽培がはじまっていることがわかっています。

室町時代のこと。永源寺開祖の弟子のひとりで、5代目の住職 越渓秀格禅師という人がいました。越渓さんが政所の谷に薬用として茶を植えたことが、政所茶の起源だとされています。

むやみに植えた訳ではなく、越渓さんはお茶に精通していたと言われるのには理由があります。この地域には川から上がる朝霧が立ち込めることで霜の被害から守られ、また高品質の茶ができる地質があります。さらには急斜面ばかりである政所は排水もよいため、茶栽培には適している土地なのです。

さて、やがて応仁の乱がおこると、京都から寺々の僧が数多く永源寺に身を寄せました。ここで彼らは茶会を開いて政所茶を楽しみ、戦火が収束すると学僧たちは都へ戻りました。こうして京都に政所茶の名声が届けられることになったのです。

また全国の木地師たちが数年に一度、政所の山を訪ねてきます。彼らもまた政所で茶を飲み、それぞれの地方で評判を高めることにもなったのではないかと飯田さんは推察しています。そればかりではなく、彼らが茶の実を政所から地元へ持参することで伝播に関係した可能性までも指摘されています。

その後の戦国時代での政所についてはあまり記録がないらしく、表舞台に登場するのは江戸時代。彦根藩が政所地域を所領に加えていました。

彦根藩は「茶の運上」(雑税)を課そうとします。政所の人々は、かねてより山畑の年貢を納めてきたのだから二重課税は不服として反発します。これを受けて彦根藩は、「今後増殖する茶園には、面積にかかわらず課税しない」ことを約束しました。

これが励みになり、政所では茶の植栽が一気に勢いづいたのです。課税による騒動は、政所茶の名声がさらに高まる時代の幕開けでもありました。

幕末にはお茶が輸出品目の花形となり、やがて絹糸にその座を奪われましたが、第二位の地位を得ます。明治から大正期にかけて政所でも増産が続き、当時を知る人は「山の高いところまで、どこも茶の樹で埋まっていた」と語っています。最盛期には1,000人もの助っ人が三重からやってきて各家に分散し滞在。茶摘みが縁で政所の男性と三重の女性が結ばれることを「茶縁」と呼んだそうです。

山の上まで茶畑…それは、現在の生産量が荒茶で1トン程度の政所からは、とても想像もつかない景色です。

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今日の政所

木地師。永源寺がはじめた茶栽培。江戸末期からの増産。長い長い歴史のその先端に今日も暮らしている川嶋いささんは、どんなことを考えて山での生活を営んでいるのでしょうか。

今回も、この地で政所茶の復興に力を注ぐ山形蓮さんのご縁をたよって、政所茶のファンの方々もご一緒にお話を伺うことになりました。総勢8人の団体で、いささんのお宅にあがらせていただくと…なんと、この日のためにと政所づくしのおかずやぜんざいを、たくさんこしらえておいてくださっていました。

あまりのおいしさに、みなさんいいコメントが出ません。「おいしい…」と、ひたすらに箸を動かします。ストーブを2台も出して、家をぬくぬくと温めておいてくださったのも感激。数え年で90歳になる古老のあざやかなおもてなしに、ただただ喜ぶみなさん。

もちろん、いささんはご自身の茶畑もしっかり管理されています。その煎茶をいただき、塩っ辛いのやら甘いのやら、至福の時を過ごしながら、いささんの語りがはじまりました。


いささんの今昔ばなしです…

生まれたのは昭和6年。黄和田(きわだ)という集落の、百姓の家。お父さんは炭焼きも仕事にしていました。

子どものころ、まず家の片づけから仕事が始まりました。朝、起きるとすでにご両親は畑に出ていたので、まず自分も食事をとり、親の残した食器などもすべて片付け、家を整えてから畑仕事を手伝いました。それから牛を飼っていたので、朝に草を刈って餌をやりました。家では、素直に親のいうことを聞いておけばよかったといいます。

茶摘みの時期には学校も1週間ほど休み。他のところだと田植えで休みになることが多いけど、ここではお茶摘みのため学校が休みになったのです。学校では「開拓の歌」というのを習いました。

戦争の前から、茶畑は芋畑に作り直されることがありました。食糧の確保が大変でした。茶の間に芋を挿して育てたこともあって、雨だとよく根付きよく育つ。蕎麦もつくっていました。黄和田の実家には、戦争のとき大阪や京都から10人くらいが疎開しに来ました。

昔は砂糖もなかった。干し柿を使って甘みをとっていました。塩はあったけれど黒い塩。鯨の缶詰というのがあって、おもしろかった。 

やがて、いささんはここ箕川(みのかわ)集落へ嫁いできました。ここでも百姓です。子どもは畑で遊ばせていました 。

お茶摘みは忙しくて、朝の6時から夕方6時まで続きました。草むしりが大変ですが、ずっとお茶は消毒せずにやってきたのです。そうやって続けてこられたのは、気候のおかげ(寒いから虫も少ない)だといいます。

ここのお茶は押しがききます(何煎も淹れられるという意味)。おいしいのは土がいいから。箕川の土は黒い。政所茶といっても、集落によって味が違います。それは、土が違うからです。箕川では、ススキが大きくなったカヤを敷き詰めていました。黄和田のほうでは落ち葉も入れています。

箕川は番茶に定評があって、「箕番」と呼ばれていました。

作り方は今の「平番茶」と少し違っています。2~3日摘みためた茶葉を「お荒神さん」(おくど)で蒸して、あつあつの茶葉を「ネコザ」(写真)という道具の上で揉みます。そしてホイロに柿渋で貼った和紙の上で、お茶を乾かしました。50年前くらいまで、こういうやり方。

 ※50年前から使っていないネコザを保管していたいささん。ススを取り払って見せてくださいました。博物館級の道具です。

こうして作った箕番は、彦根のお茶屋が現金で買いに来ました。その売り上げで蚕を飼うのです。

飲むのはいつでも番茶ばっかり。夏でも熱中症知らず。煎茶はお客さん用だそうです。

お茶をお金にするのは大変でした…ほったらかすと荒れるのもとても早いのです。地域に茶工場がないから家で作っていました。

いささんは、お茶ほど正直に匂いの出るものはないといいます。昔は鶏糞を使っていたのだそうです。土は増えるし、お茶もよく採れたけれど、匂いがつく。それで、鶏糞はやめて植物性のものだけ使うようになりました。鶏糞を使っていたころのお茶を、いささんは「肥満だった」と表現しています。

数え年で90のいささん。腰は曲がっていても、話しているとき以外はあまり止まっていません。テレビをじっと見ているのも性に合わないようで、一人暮らしの今でも働きっぱなし。元気の長生きについて伺うと、「子どものときから、育ちながら土をなぶって(触って)きた。そのかわり賢くはならん」と少し謙遜して仰います。いささんのようにお百姓として何でもやる人をさしおいて「賢い」とは、いったいどういう人のことを言うのか、私は頭を抱えてしまいます。

なんといささん、毎日地域内を巡回しているバスにのって、実家の黄和田の畑に通っているのです。

「世の中、変やな」と仰る、いささん。こんなに雪のない年は初めてだといいます。本来ならば高い山に雪が降って根雪になり、少しずつ溶けることで水を供給します。雨だと留まることなく流れていくので、今年は水不足が心配。

こうしてお話を続ける間にも、食卓の様子をみながら立ったり座ったりしているいささん。

大勢ですみませんね~…と山形さんが言うと、「座ってテレビを見ているよりずっとええから!こうして若い人らが来てくれると、体は動かせるし健康にいい。動かしてもろてます」という答え。

カメラを構えると、茶目っ気たっぷりにピースサイン!それにつられてみんなピース。

「昔は、『一年よろこび』やった。いまは老い先も短いから『一日よろこび』。一日一日をありがたく、生かしてもろうてます」

いささんは、「動かしてもらっている」「生かしてもらっている」と何度も口にしていました。ずいぶんと長居をしてお話を楽しみ、お土産のおかずもたくさんもらって、私たちはいささんのお宅をあとにしました。

別れ際に握手をして、その手の温かかったこと。

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いささんのような人々の生き方に接していると、色々と思い悩みながら「生きるとは」とか「働くとは」と考えてしまう自分が、なんだか滑稽にすら思えてきます。そんな暇など一日もなかったかのように、いささんを見ていると感じるからです。

でもむしろ、こうした人々の生き様に接して、私は「生きる」「働く」ということを、いちばんはっきりとした形で目の当たりにして、ストンとそれが腑に落ちるのです。ただただ、体と頭を使って山に生きてきた人たち。

一方、都市に暮らす私の暮らしには何でもあるかのように思えますが、政所の視点でいえば何もない(土がない)。人は無数にいるのにも関わらず、政所の人々のように少ない人口で濃密に関わり合っていることも、あまりない。

だけど、それだけではただの田舎礼賛になってしまいます。

今は2020年で、嘆いたところで何にもならない。政所はかつてのような勢いをすでに失っているし、かたや都市の生活にも暗雲はしっかりと見えています。私たちが生きていく環境は、もうずいぶんと変わってしまっているのです。

そして、すべての人が政所の人のように生きればよいかといえば、そうではないと私は思います。政所は政所。だけど、ここには忘れ去られようとしている営みが、今も残っていて、山形さんをはじめとしてそれを残そうと奮闘する人たちがいます。

都市に生きる人間として大切なのは、それを認知することだけではなく、関わろうとすることです。できる形でいいから、例えばSNSで政所のことを書くとか、人に話してくださるとか、お茶を買って一緒に誰かと飲むとか、何でもいいのです。

時代の利器を余すところなく使いましょう。高齢化率50%に迫り、かつてのような勢いはなくなったという政所ですが、いま歴史上いちばんあなたに近いところでリアルに姿を見せてくれる、とってもいい時代に生きています。かつて、そんなことは出来なかったのですから。

飯田さんの著書に「心の過疎」という言葉が登場します。どこかへ出ていてもいつか帰ってくる場所として政所が記憶され、暮らしが営まれ続けることの大切さを説き、地元の方が「心配なのはいわゆる過疎化ではなくて、心の過疎」と言っています。

 政所に、心を寄せてください。この地の行く末の、一部になってください。

何はともあれ、ここのお茶を飲んでみませんか。その1杯があなたの前にあることが、どれほどに奇跡的な営みの結果であるのかを、お伝えさせてください。

これからは山形さんのだけではなく、4月以降はいささんの平番茶も取り扱いをさせていただく予定。これまでと形態を変え、小 100g / 大 500gの2種で展開します。パッケージには、古樹番茶のときと同じく北岡七夏さんの木版画が再登場。私もとっても楽しみにしています。

急須で淹れても、水出しでも、やかんでわかしてもいい。お茶漬けにしてもおいしい平番茶。完全無農薬・在来種でカフェインもとっても少ないのでいつでも誰でも美味しく楽しめます。小さな子どものいるご家庭の常備茶に、ぜひ。

売りながら、政所のお話をたくさんの人にしようと思っています。たくさん売れたら、山形さんやいささんに報告をして、それで毎日の励みにしてもらえたらいいなと考えています。

どこへでも売りに行きます。だけど私には店がありません。もし「ぜひ来て話をしてほしい」と仰ってくださる方があれば、お声がけくださったら嬉しいです。売るだけじゃなくて、私に話をする時間をぜひください。

政所のお茶と人の精神の支えに、なりたいのです。